紅蓮の獣

仁蕾

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翡翠の章

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 精霊王、ヒガディアル・イシュリヴィア・ドリアラスが統治する世界『クレアート』。そこに導かれた高校生の更紗龍馬さらさりょうまは、過去の記憶や他の花嫁候補との確執で精神をすり減らしながらも、ヒガディアルと見事恋仲となり、正式な『精霊王の花嫁』となったのである。
 それから数ヶ月後のある晴れた日。
「こら!お待ちなさい!」
「いーやーです!」
 怒号と共に廊下を駆け抜ける二つの人影。件の龍馬と彼の教育係であり火神族帝王直属近衛隊〈バルキュリア〉副隊長、イシュバイル・ティーン・アイル・シュウ。火神族帝王直属近衛隊隊長であるトラスティル・アイル・シュウの実弟だ。
「嫌じゃありません!どこの子供ですか!いい加減諦めなさい!」
「イルこそ諦めろっての!しつけー奴は嫌われるぞ!」
 中指を突き立て、赤い舌を長く出す。明らかに挑発している龍馬の態度に、普段は気の長いイシュバイルの堪忍袋の緒が切れた。
「貴き立場である『花嫁』が何たる態度っ!その性根、叩き直してやる!」
 明らかな殺意をその目に乗せ、イュバイルは声を張り上げた。
「イドール!」
 名を叫べば右の肩甲骨にある精霊との契約の紋章が淡く輝き、拳大の炎の塊が飛び出した。火の花を散らして翼を広げたのは、オウムの姿をしたイシュバイルの契約精霊だ。
 ばさりと翼を動かし、龍馬に並んで翔ける。しかし。
「よう!いっちゃん!」
《サラ様ー!》
 イドールは龍馬を捕獲するどころか、伸ばされた手に嬉しそうに頭を摺り寄せた。
同時にイシュバイルは己の失態に気が付く。
 例え相手がどれだけやんちゃで、言葉遣いも悪く、自由気ままな人間であろうとも、彼は世界に選ばれた『精霊王の花嫁』。全土に存在する精霊たちの母親だ。主であるイシュバイルよりも、母親である龍馬の言う事を優先するに決まっている。
 結局、自分の失態に絶望している内に龍馬が逃げ切ってしまい、その事実に気付いて更に打ちひしがれるのであった。
 逃げ切った龍馬はある部屋を目指して歩いていた。
「ヒガ様、今いいですか?」
 ひょこりと顔を覗かせたのは、帝王が執務を行い、謁見を行う為の大部屋だった。
 龍馬の視線の先に居るのは、玉座に腰掛けて執務をこなす美丈夫。色の違う双眸が龍馬を捉えれば、見る間に蕩けるような笑みを浮かべて小さく頷いて見せた。
 見る角度によって、ゆらりと揺らめく焔のように色を変える髪に、金と銀の双眸をした彼こそが、火神族帝王であり、精霊王の地位に坐するヒガディアル・イシュリヴィア・ドリアラスである。
 その隣に立ち、入室して来た龍馬に対して苦笑を浮かべる麗人は、ヒガディアルの側近であり火神族宰相に就くマツバ・エイド・セレスティナだ。
「サラ…貴方はまたイルから逃げて来たんですか?」
「うん、もうすぐお昼だし」
 マツバの問いに対して悪びれもなく龍馬が頷けば、ヒガディアルは「ふふ…」と吐息を漏らした。
「その割に、朝早くからはしゃいでいたようだな」
 図星を突く指摘に、龍馬の視線が明後日の方向へと飛ぶ。
 マツバは仕方がないと息を吐き出した。
「帝王、少々早いですがお昼にいたしましょうか」
「そうだな」
 マツバが右手を胸の位置まで持ち上げ、手の甲に浮かび上がる紋章に視線を落とした。
「カリタ、望たちを呼んでおいで」
 声を掛ければ紋章が淡い光を放ち、そこから紅い蝶がふわりと姿を現した。マツバの契約精霊、カリタだ。蝶はひらりひらりとマツバの周りを一周すると、とこかへと飛び去って行った。
 五分もすれば全員が大広間へと集合し、静かな昼食会が始まる。
「ふーん…んで?また追いかけっこしてたわけ?」
 呆れた表情で龍馬に吐き出したのは、かつて『花嫁候補』として城で暮らしていた麻生望だ。現在は花嫁であり、無神族帝王である龍馬の近衛隊、無神族帝王直属近衛隊〈バハムート〉の隊長として訓練中である。
 パンを咀嚼しながら頷いた龍馬は、ふと違和感を覚えた。
「そう言えば康平さんは?」
 望の相棒的存在であり、無神族帝王直属近衛隊〈バハムート〉の副隊長として訓練中の立花康平が居ない。
「んー、あいつならジークに誘拐されてたよ」
 望の口角がにやりと持ちあがる。
 ジークとは風神族シルフ帝王直属近衛隊〈イシュタル〉の隊長であり、康平を追い掛け回す男、ジーク・セイランである。
「とにかく、勉強はちゃんとしなさい」
 溜息交じりに望が戒めれば、龍馬の眉間に皺が寄って下唇を突き出した。
「だってさー…いつも同じ事の繰り返しなんだもん」
「同じ事を繰り返す事も出来ない子が何を言うかねー、まったく…」
 拗ねたように唇を尖らせた龍馬の姿に、望は呆れ返った様子で千切ったパンを口に放り込んだ。
 兄弟のような、親子のような二人のやり取りに、ヒガディアルとマツバは苦笑を洩らす。
「ドゥーラ、あまりイシュバイルを苛めてやるな。あれは責任感の強い男ゆえ、色々と必死なのだよ。花嫁の教育なぞ、誰もした事がないからな」
「…はーい」
 ヒガディアルの諌める言葉に、龍馬は渋々と言った表情で返事をした。返事だけはいいものだ、とその場にいた全員が心の内で思ったのは言うまでもない。
「そういえばトラ隊長も居ないねー」
 豆のスープに手を付け始めた龍馬はふと思い至る。
きょろりと辺りを見渡しても、トラ隊長こと、トラスティルの姿はどこにもない。それに答えたのは、柔らかな笑みを浮かべているマツバだった。
「あの人なら、午後からお客様を連れて来ると言って出かけてます。サラに挨拶を、とかなんとか…」
「うえ、挨拶とかいらないしー…」
「客?…帝王、何か聞かれていますか?」
 苦い顔をする龍馬を置いて、望がヒガディアルに問い掛ければ、珍しく眉間に皺を寄せたヒガディアルが深い溜息を吐き出した。
「聞いてはおらぬが…あまりいい予感はせんな」
 苦笑を浮かべて呟いたその言葉は、やけに現実味を帯びて大広間に溶けていった。

 特に大きな騒動はなくとも一部の人間が騒がしく、慌ただしい時間を過ごした午前中と打って変わり、穏やかな午後を満喫していた火神族サラマンダー王城『フィアンマ』を、突如大きな精霊力が包み込んだ。誰もが反応を示したが、敵意あるものではないと分かると、何事もなかったかのように中断していた作業を再開した。
 城を包む力と溶け合うように広がった他者の精霊力を感じ、ヒガディアルはゆるりと顔を上げ、口角を吊り上げるとふっと息を吐き出した。
「来たか…」
 小さく呟くと、呆れにも似た笑みを浮かべながら玉座から立ち上がった。

 龍馬は望と共に稽古と銘打った手加減なしの組み手をしていた。
 不意に望の動きが止まり、嫌そうに表情を歪めたのを見て、龍馬は何事だと自身の背後を振り返った。その瞬間。
 ―ガシッ
「ぬあ!?」
 何者かに頭を鷲掴みにされてしまう。ふわりと花に似た甘い香りが微かに鼻腔を擽る。
「へー、コイツが『花嫁』か。思ったよりデカイな」
 知らない声が鼓膜を震わせた。
「でしょ?でも、遊び甲斐はありますよ」
「あー、言えてる」
 知った声が笑いを含んで、男の声に答えた。
 鷲掴みにしていた手が離れ、笑みを浮かべる男の顔を漸く見る事が出来た。
 目に飛び込んできたのは、薄黄緑の髪をした翡翠の目の美丈夫。名を風神族帝王の座に就くニディオラ・サフナーダ・インガディアナと言い、『ニア様』の愛称で風神族の民衆から慕われる気さくな男である。
「誰、あんた」
 敵意丸出しの眼差しで龍馬が睨み上げれば、ニディオラは怯む事無くにやりと口角を上げた。
「口は悪いが、いい目をしている」
「リョーマ、この方はうちのボスのニディオラ様。ニア様って呼んだげて」
 ジークの紹介により、男の正体が判明したのだが龍馬の表情は渋いままだ。何か面倒臭い男だな、と思っていると。
「そろそろ解放してやってくれないか」
 遠くから笑みを含んだヒガディアルの声が響いた。
「ヒガ様っ」
 龍馬が声を上げれば、ヒガディアルが穏やかな笑みを浮かべながら歩んで来るのが見えた。小さく手招きされ、龍馬は素直に歩み寄った。
「望と組み手か?怪我は?」
「ありません。望さんが上手く加減してくれてるから」
 ヒガディアルの手が頬に触れれば、龍馬は嬉しそうにその目を細めた。
「おいおい、何イチャイチャしてんのよ」
「ふふ、そう僻むな。久方振りだな、ニディオラ」
「おーう、お前さんがずーっと寝こけてたからな、ヒガディアル」
 表情を緩めた二人が、再会の抱擁をかわす。が、龍馬はヒガディアルの半歩後ろから、ニディオラに向かって訝しげな視線を投げ続けている。
「…ものすんごい視線を感じる…」
 抱擁を解いたニディオラが、ヒガディアルの肩越しにひょいと龍馬を覗き込んだ。が、しかし。龍馬はニディオラからふいと視線を逸らすと、ヒガディアルの背後に隠れてしまった。
「おや、嫌われてしまったかな?」
 くすくすとニディオラが笑えば、望が呆れたように溜息を吐きだした。
「そりゃそうでしょうよ。初対面でアレはあまりにも失礼です」
 もっともな指摘に、ニディオラは声を上げて笑ったのだった。
 ふと望がある事に気が付き、ジークに目を向けた。
「そう言えば…ジーク、康平はどうしたのさ」
「ん?ああ、うちのメイドさんたちに遊ばれてる。いつでも嫁に引き取ってやるから安心しろ」
「安心できるか!康平さんを返せ!」
 からからと笑うジークに噛み付いたのは、ヒガディアルの背中から顔を覗かせた龍馬だった。そんな漫才じみた光景を眺めている休憩中の兵士たちから、微笑ましげに笑いが漏れている。
 ヒガディアルも笑みを浮かべながら、隣に立つトラスティルに目を向けた。
「やはりお前が呼んだのはこいつだったか」
「ええ、ジークから救援の呼び出しがありまして」
 苦笑を浮かべたトラスティルがジークを横目で見やれば、ジークが話を切り上げてヒガディアルに迷惑かけますと軽く頭を下げた。
「『花嫁』に合わせないと仕事はやらん、とかワガママ言い出し始めちゃいまして。もー、大人としてどうなのよという…」
 そのままヒガディアル、トラスティル、望、ニディオラ、ジークの五人が久方振りの談笑を始めてしまった。
 ニディオラとは初対面でもある龍馬は、話の輪に入る気にもなれず、手持無沙汰になってしまった。どうしたものかと首を傾げていると、不意に視線を感じて顔を上げた。
 視線の先はニディオラの背後。ふわりとその場に浮かび、こちらを見て微笑むのは美しい人。男性とも女性ともとれる中性的な顔立ちをした人物が、嬉しそうに龍馬に近寄って来るとふわりと地面に膝をついて頭を垂れた。
《お初にお目にかかります、レジーナ様》
 桜色の唇から紡がれた声は、やや低い印象を持つ。
《わたくしは迦陵頻伽かりょうびんがと申します。ニディオラ殿の契約精霊に御座います。迦陵、とお呼び下さいませ》
 浮かべられた柔和な笑みは女性のものに見える。
「ど、どーも…」
 首を傾げていると、隣に強い火の気配を感じた。目を向ければヒガディアルの契約精霊、フェニーチェが微笑みながらそこに佇んでいた。
「フェニーチェさん」
《レジーナ、迦陵は男で御座いますよ》
 考えを見透かされていた事に龍馬は、かりっと頬を掻く。照れる龍馬を見上げ、迦陵頻伽は笑みを深めながら立ち上がった。龍馬は少しばかり気まずそうな、恥ずかしそうな表情で若干俯いた。
「えと、あの…女性の方かと…ゴメンナサイ…」
《ふふ、謝られないで下さいませ》
 微笑む二人の精霊長に、龍馬はそれでもと再び頬を掻く。すると、徐々に他の小さな精霊たちも集まり出した。
《レジーナ様は悪くありませんわ》
《そうですわ、王后様の反応は正しい反応ですの》
 クスクスと笑う少女たちに、迦陵頻伽は微笑みを苦笑へと変えた。
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