紅蓮の獣

仁蕾

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翡翠の章

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   ***

 『スカルラット』のベッドの上で龍馬は寝息を立てていた。望はその寝顔を覗き込み、深い溜息を吐き出した。
 食器類の片付けを終え、龍馬の教育係であるイシュバイルと雑談をしていたら、真っ青な顔で帰って来た龍馬に心底驚いたのはつい先程。穏やかな眠りの中でも、龍馬の顔色は一向に良くならない。
「…何があったんだよ」
 呟いても答えは返って来ない。望はただ意識が回復する事を祈るしか出来ない自分が歯痒かった。

   ***

 龍馬はいつぞや来た真っ白な空間に立っていた。白い空間に、艶やかな深紅。
「あ…」
 この部屋の主が、困ったような表情で微笑んでいた。
「ケテル…」
《…また、訪れたのか…》
 〈ケテル〉は仕方がないな、とでも言う様に小さく息を吐き出した。その様子を見つめながら、龍馬はやはり自分はこの人を知っていると確信していた。そう思っているのは何故なのか。自分自身、不思議でならない。
「貴方は…俺と何処かで会いましたか?」
 龍馬が無意識の内に言葉にしてしまった質問に、ケテルの目の奥が戸惑いに揺れる。しかし、それは一瞬の事で瞬きの刹那に、そこに浮かびかけていた感情は綺麗に消え去っていた。
《…いや、以前、この部屋で会ったのが初めてだ》
「そ…ですか…」
 項垂れる龍馬。ケテルの唇が何か言いた気に開かれたが、結局は何も言葉を発する事無く閉ざされた。
《…今回は『繋魂』の悪影響で、体調不良か》
 聞きなれない単語に首を傾げれば、ケテルがそれについて簡単な説明をし、終わる頃には龍馬の頬がほんのりと赤く染まっていた。その様子を、ケテルは僅かに微笑みながら眺めている。
 ケテルははにかむ龍馬を見つめながら、かつて己が愛した人を思い出していた。とても気が強くて、涙脆くて、よく笑う照れ屋な人。ほんの少しの睦言で、真っ赤に染まる異世界の人。
《…早く戻るがいい》
 大きな掌が、龍馬の目を覆い隠す。すると、急速に眠気が襲ってきた。
《例え…いかような結果であっても、お前のせいではないよ…―私の…愛しい子…》

 ――いとし……―?

 確認する間も無く、龍馬の意識はふつりと途切れた。

   ***

 はっ、と目が覚めた。辺りは、夕陽により茜色に染められている。
(…昼飯、食いそびれた…)
 思いつつ、深く息を吐き出しながら龍馬は体を起こした。眠り込む前よりは、体が軽く感じる。思い切り伸びをし、先程のケテルの言葉を思い出す。
 ――私の愛しい子…
「子…って、子供…だよなー…」
 ぐるぐる、グルグル。終わりの見えない、堂々巡りの思考。
 それを掻き消したのは、控えめなノック。開いた扉を覗き込んだのは見知った顔。
「トラ隊長…」
「おぅ…起きたか」
 龍馬が起きているのを目にすると、トラスティルの表情が僅かに綻んだ。
「かなり長い事寝てたな」
「みたいだね。午前中に寝たはずなんだけどね」
 苦笑して見せれば、トラスティルの表情が曇った。どうしたのかと思えば、前髪をかき上げられる。途端、トラスティルの眉間に皺が深く刻まれた。
「隊長?」
「…まだ、少し顔色がよくねーな。もうちょい寝とけ。後でまた起こしに来る」
「あ…うん…」
 首を傾げながらも頷いた龍馬の頭を、ぽんぽんと撫でるとさっさと部屋を出て行った。龍馬は前髪を直しながら、何度も首を傾げていた。
 部屋を出たトラスティルは、何時になく厳しい表情で廊下を歩き大広間に辿り着いた。そこにはマツバとジーク、それに水色の髪をした女性が居た。
「如何でしたかぁ?」
 柔らかな口調で、女性がトラスティルに声を掛けた。
 彼女の名は、ティアナ。ティアナ・クライ・シース。水神族ウンディーネ女帝近衛隊〈アルテミス〉の隊長である。しかし当の本人は常にニコニコとした笑顔で、例えるならば花を撒き散らしているかの様に穏やかな女性である。
 だが、今の彼女の薄らと細められた青い目が笑っている様子はない。
「どうしたもこうしたも…大問題だな」
 不機嫌極まりないトラスティルの低い声。ドサッと絨毯の上に座り込み、椅子に座るマツバの膝に額を寄せた。
「何かあったんですか?」
「あった。大有り」
 マツバの労わるように頭を撫でる手付きに息を洩らしながら、トラスティルはじっとジークを見つめた。
「…お前んトコの大将…暫くうちの城、出入禁止な」
「あらあら…ニア様が今回の悪者かしらぁ?」
「悪者て…」
 ティアナもジークもほんの少しだけふざけた口調で言ってみるが、トラスティルの表情が崩れる事はない。マツバも心配そうに見つめている。
「まだ…はっきりとじゃないんだ。サラの…左側の額…この辺り」
 そう言ってトラスティルは自分の髪を掻き上げ、髪の生え際辺りを指し示す。
「鎖の痣が浮き出してきてる…」
 それは、囁くような小さな声だった。それでも、他の三人を愕然とさせる威力はあった。
「鎖の痣…『傀儡ブラッティーノ』の特徴…ですよねぇ?」
「今は使える者が少ないが…あー……残念な事にうちの王様は使えるな…」
 トラスティルは顎に手を添え、思案する。先程確認した龍馬の額の痣は、術者が意図的に掛けたにしては、己が知るそれより進行が遅かったように見受けた。
「…恐らく、術者はニア様にベタ惚れの…あの契約精霊か…」
 精霊は忠誠心が厚い。ほとんどの契約精霊は、主の為に出来る事は全てしようとする。しかし、過剰なまでのそれは、時折暴走してしまう事もある。トラスティルは今回もその類だろうと読んだ。
「…対処法を探してみます。確か、いくつかあった筈です」
 マツバのその言葉を最後に、室内は沈黙に支配された。 

   ***

 宵の口。大小の三日月が浮かぶ闇夜。
 望は自室のテラスからその月を眺めていた。先程、師であるトラスティルから衝撃的な報告を受けた。
「『傀儡』…」
 溜息と共に小さく呟く。
 龍馬に掛けられた術『傀儡』は、名の通り、相手の自我を封じ込めて自在に操る事が出来る。過去、その術の対処法を教えてもらった事がある。
 一、術者の精霊力を枯渇させる事。
 二、術者自身の記憶を封じる事。
 三、術者自身を傀儡にする事。
 四、術者若しくは標的者を抹殺する事。
 皮肉にも、全てを教えたのはニディオラだ。そして、自分ではどうしようもない。
『…の四つ。そして、最後に…―――…』
 ふと過ぎった過去の記憶。彼は、ニディオラは、あの後何と言った?それに対し、自分はなんと答えた?
「っ、クソ…」
 組んだ手を、額に押し付ける。懸命に探る記憶の波。
『こうすれば…ほら、花が出来た』
 遠い記憶の中、母親の声が響く。
 ――違う…
『お前…迷子かなんかか?』
 クレアートで拾われた時のジークの言葉。
 ――違う……
『なるべく、人は殺さないに限る。無抵抗のヤツを…』
 これは、かつて想いを寄せた人の声。
 ――違う………
『あの…俺の事…気持ち悪くないんですか?』
 龍馬の不安げな声が過ぎる。
 ――コレも違う…。
 気だけが逸り、過去の様々な場面が浮かんでは消えて行く。
『結局、逃げられないってこと?』
 自身の声が響いた。
 ――もう少し…!
『まぁ、近場の術者にはさっきの四つ。そして、最後に遠隔術から…』
 次いでニディオラの声が響く。
 ――コレだ…!
『遠隔術から逃れる術は一つ。それは…―』
 そうだ。自分はこの答えに鼻で笑ったんだ。そんな事、そう簡単に出来る筈が無いと。
 それは…――。
 思い出した瞬間、望は深夜と言うのにも構わず、トラスティルの部屋に向かって全力で駆けた。

 ――バンッ!
「隊長!」
「あ?」
 けたたましく開いた扉。そして、望の大声。しかし、トラスティルは杯に口をつけた状態で振り返っただけで、対して驚いている様子はない。
 望は扉を押し開いたまま、トラスティルは杯を傾けたまま微動だにしないまま数十秒。
「寝酒…ですか?」
「…おう、ちぃっと眠れんくてな…」
 気まずい沈黙が二人の間に流れる。兎に角、とトラスティルが望を室内に招き入れ、望は促されるままトラスティルの正面にある椅子に腰掛けた。 
「で?どうした。珍しく慌てて」
「そう!隊長、いい方法見つけたんです!」
「っ…あーもう、落ち着けって。今、夜だぞ」
 冷静な指摘に「あ…」と言った顔になり、一つ咳払いをして落ち着く。
「いい方法って…『傀儡』の?」
「ええ。…教えてくれたのは、ニア様ですけど…」
「…そうか」
 トラスティルは杯をテーブルに置き、望の双眸を真っ直ぐに見つめた。
「『傀儡』には近接術と遠隔術があるのは知ってますよね」
「ああ」
「術の解除は、遠近によって違います。今回は遠隔術なので、そちらの場合だけお伝えします」
「おう」
 望もトラスティルを見つめ返し、口を開いた。
「術者より…強い精霊と契約する事、です」
「術者より…か?だが…」
「龍馬の『魄霊はくれい』は、術者であるニア様のもう一人の精霊…セイレーンより、強い可能性があります」
「だが…『魄霊』は、既に契約済みの精霊だろう?」
「それは、認識していればの話でしょう?龍馬は自分の中に眠る精霊の存在を、完璧に把握していない筈」
「…なるほど…ある種の賭け…だな」
 ――カラン…
 杯の中の氷が、形を崩して小さく鳴いた。

   ***

 『スカルラット』には、龍馬の寝息だけが響いていた。クリオスの気配も無い。
 不意に紅い炎の花弁が龍馬の枕元に舞い散り、その中から現れたのはヒガディアルだった。ヒガディアルは枕元にそっと腰掛けると、龍馬の黒髪を優しく梳いた。さらりと落ちて行く柔らかな髪。
「…龍馬…愛しい子。私は、お前を守る事すら…させて貰えぬらしい…」
 自嘲気味な笑みを浮かべ、滑らかな肌に指を滑らせる。
「本当は、私自身が傍で護りたかった…しかし、それは叶わぬ事。故に、私の精霊を護衛にと思うたが…それすらさせて貰えなんだ…」
 語り掛けてはいるものの、目の前の人は眠りに就いている。
「せめて…お前を護れたら…」
 自責の念で押し潰されてしまう。いけないとは解っていても、それでは自分が許せない。
「ん…?ヒガ…さま?」
 呟きと共に閉ざされていた瞼が押し上げられる。ゆっくりと現れた潤んだ金色に、ヒガディアルは自然と笑みが零れるのを感じた。同時に、それが不格好なものであるとわかった。龍馬の表情が心配の色を濃くしたからだ。
「…起こしてしまったな」
「構いません…どうかされたんですか?」
 まだ少し眠っているらしく、舌足らずな話し方にくすりと吐息が漏れた。
「…いいや、どうもせぬよ」
 龍馬の頬を包み込む。寝起きの為に、ほんのりと温かい。
「…嘘だ…何かあったんですよね…?」
 断定的な物言いだが、ヒガディアルは頷く事はない。金の瞳とオッドアイが交錯する。
「何も心配するな…」
「ヒガ様…お一人で抱え込まないで下さいね…?」
 龍馬の言葉にふっと笑みを零し、そっと額に唇を寄せた。
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