紅蓮の獣

仁蕾

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翡翠の章

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 龍馬が恐る恐る手を離せば、そこは完全に血を止めていた。それを認めた瞬間、光の洪水、精霊の歌声が即座に消えた。
「何…今の…」
「すげ…」
 感心しているのも束の間。龍馬の体が傾いだが、咄嗟に手を付いてニディオラの上に倒れ込むのを堪えた。望が駆け寄れば「大丈夫」と言って龍馬は体を起こす。
「ん」
 不意にトラスティルが声を上げた。
「掴んだ。サラ、お前に情報飛ばすぞ」
「うん」
 即座に脳内に情報が流れ込み、瞼の裏に映像が浮かび始めた。
 男女混在の五人組。何かを楽しそうに話している。一人の男が、苦々しく言い放った。
 ――もう少しで殺れたのに…風神族の王様め、邪魔しやがって。早く死んでしまえばいいんだ…――
 その瞬間、龍馬の怒りは頂点に達した。
「琥珀、行くぞ」
 低く呟くとテラスへと向かい、手摺に立てば、琥珀が元の大きさに戻る。同時に望たちは慌てた。
「ちょ、龍馬、何処行くの!?」
 背に投げかければ、その顔だけが僅かに振り返った。双眸の色に言葉を失う。美しい太陽の瞳は、無慈悲な月の輝きを纏っていた。
「何処って、馬鹿な奴等の所さ。愚か者には…制裁を…」
 そう言って、体が前方に傾ぐ。三人が止める間も無く、その体は視界から消え去る。刹那の間に黒い影が下方から昇った。陽光を受け止め輝く黒真珠の鱗。凄まじい速さでその輝きは彼方へと翔けて行ってしまう。
「トラ隊長、場所分かるんですよね。行きましょう」
「おう。ジークはどうする?」
「俺はここで王様見とく……頼んだ」
「…ああ」
 トラスティルとジークが話す隣では、望と康平が視線を重ねていた。
「康平は帝王様の隣に」
「分かってるよ。ちゃんとあの馬鹿、止めろよ?」
「誰に言ってんだよ」
 にやりと笑った望は契約龍を呼び出し、トラスティルを乗せて龍馬の後を追った。

   ***

 『旅団』と言うものがある。主に無神族が結成する事が多い、所謂『何でも屋』だ。商売、曲芸に始まり、果ては傭兵に暗殺まで。
 数多ある旅団の最高峰――〈アラクニデ〉。
 現時点で旅団としては小数にも関わらず、全ての分野で他の追随を許さぬ一団の名である。一人一人が高いスキルを持つ優秀かつ残忍な彼等。
 求める金額に応じれば、王に手を出す事さえ厭わない。
 彼ら、アラクニデの面々は岩場にテントを張り、のんびりと過ごしていた。
 旅団の中心になっているのが、旅団のリーダーであるアイリーン・アザゼル・リーチェと紅一点のソニア・リーチェ。二人は、傭兵の両親を持つ兄妹である。両親の死後、住んでいた地神族の町を離れ、生活の為に旅団を作ったのだ。
「兄さん、不機嫌ね」
「…当たり前だ。この俺がしくじったんだぞ?」
 不機嫌に語るアイリーンの紫紺の髪が、柔らかな風に攫われる。
「ああ、無神族帝王の抹殺?いい報酬だったよね」
「もう少しで殺れたのに…風神族の王め、邪魔しやがって。早く死んでしまえばいいんだ…――」
「はは、それでも結構イイ額じゃないか。機会はまだあるんだから機嫌直しなよ」
 ソニアが呆れた口調で言えば、アイリーンは深い溜息をついた。どうやら傷心のようである。その時、強い精霊力を感じた。かなり殺気立っているその気配。冷たい汗が流れ落ちる。
 不意に、青と濃灰色の炎が前方に灯った。瞬きの間に現れたのは、青い狼と濃灰の豹。その二頭が低く唸りながら身を屈める。獲物を狙うその体勢、獣の殺気に他の三人が悲鳴を上げて逃げ出した。彼らもまた、文武に優れる傭兵ではあったが、本能的な恐怖には抗えなかったのだろう。
 アイリーンが小さく「腰抜けが」と呟いたが、目は二頭を睨み付けている。恐怖が無い訳ではない。相手は猛獣。こちらの思い通りになる相手ではない。
「ケセド、コクマー」
 意図せぬ第三者の声が介入して来た。同時に頭上から影が入り込む。
 ハッと顔を上げれば、キラキラと輝く鱗。見下ろしてくる金の目。
「竜…」
 ソニアの声が震えている。
  その竜に跨る人物もまた、黒の毛色を持つ者。しかし、その双眸は白銀。だが、その顔には見覚えがあった。
「サラサ、リョウマ…!」
 己が抹殺しようと試みて失敗した人物。
 龍馬が冷たい気を放ちながら、アイリーンを見下ろしていた。
 痩躯が竜の背から飛び降り、つかつかとアイリーンに近寄った。長身のアイリーンを見上げる龍馬。
「あんたか。ニア様を傷付けたのは…」
「…ふん、今代の『花嫁』様はだいぶ淫乱な奴なんだな」
「あ?」
 投げ付けられた言葉に対し、龍馬の眉間に深い皺が刻み込まれた。
「火神族帝王だけじゃなく、風神族の王まで誑かしてよ」
 その瞬間、アイリーンの左頬に激しい痛みが襲い掛かり、耐え切れなかった体が大地に倒れ込む。ソニアが、咄嗟に駆け寄った。
「何すんだ!」
 そう言って、今にも殺さんばかりの表情で龍馬を睨み付けるが、かち合った銀の目にソニアの体が硬直する。
「それは、お前がその目で見て判断したものか?俺の事は好きに言えばいい。だが、そこにあの人たちを巻き込むのは許さねー」
 冷め切った声はアイリーンの心臓を鷲掴み、震え上がらせるには十分な威力を持っていた。何か余計な事を口走った先には、死が手招いているように思える。狼と豹が喉を鳴らしながら、龍馬に擦り寄ると炎となって消えた。
「…悪い…俺にどうこう言う権利はなかった」
 アイリーンが素直に言えば、圧し掛かる力が和らいだ。龍馬が一つ瞬くと、銀の目が元の金の目に変わる。
「とりあえずさ、煮られるのと焼かれるの…どっちがいい?ああ、それとも串刺しにしてみる?」
 名案だとでも言うように笑う龍馬。その目が笑っていない事に恐怖する。アイリーンは心の内で話が違うと歯噛みしていた。
 龍馬暗殺の依頼主は、彼の事を『火神族帝王を誑かし、果てには風神族帝王でさえ誑かし。二人を操り、世界を支配しようとしている悪魔。守られる事しか出来ない無能な『花嫁』だ』と言っていた。しかし、実際はそうではなかった。
 気の強そうな目は、真っ直ぐに自分を射抜いている。己よりも帝王等を侮辱された事に怒りを表し、自分を殴りつけた行動派。しかも、喧嘩慣れしているのか、未だ膝が笑っている。感情を見せない金色の眼光が恐ろしい。
「無神族だろうがなんだろうが…他の帝王を傷付ける権利はない」
「……ああ」
「依頼されたんだろ?」
「…ああ」
「誰」
「それは、言えねー…契約違反になる」
 アイリーンの言葉に龍馬は胸倉を掴み、再度腕を振り上げた。その時。
「龍馬!」
 大きな羽音と共に望の声が響いた。ピタリと動きを止め、頭上を仰ぎ見た龍馬につられるように、アイリーンもソニアも頭上に顔を向けた。
 赤い竜が大きな眼を瞬かせている。その背から飛び降りてきたのは、紫黒の髪をした青年と緋色の髪の男。
「望さん…」
「まったく…勝手に暴走するんじゃないよ」
 望は人間らしい表情へと戻った龍馬に歩み寄り、小さな音を立ててその両頬を優しく叩いた。
「お、アラクニデじゃん。あーあ、ほっぺた真っ赤」
 トラスティルの楽しげな声に反応し、望が倒れ込むアイリーンに歩み寄った。目の前に片膝を付くと、その赤く僅かに腫れた頬を見て首を傾けた。
「大丈夫?」
「望さん、そんな奴の心配なんてしなくていいよ」
 先程までの殺気は消え去ったものの、まだ怒り心頭と言った声音で龍馬が言い捨てた。しかし、アイリーンの耳には龍馬の言葉が届いてないらしく、目の前の望にときめいている様子である。妹のソニアは、「この兄貴…」と心底呆れている。
 それに気付いたのか、望はひょいと眉を跳ね上げると氷のような眼差しと微笑みを浮かべた。
「悪いけど、興味ない」
 一刀両断の許に伏されてしまった。
 轟沈したアイリーンをよそに、龍馬たちは顔を合わせて話し合いを始めていた。
「どうするの?俺、その人許さないよ?」
「つっても…お前の民だしなー…俺らじゃどうしようもねーし」
 むっと表情を歪めている龍馬に対し、どうしたものかとトラスティルは頭を掻く。しかし、と声を上げたのは望だ。
「こいつ等、自分の王に出さえ手を出す奴ですよ?王の命に従う筈もない」
 相談している中、遮ったのは当事者のアイリーンだった。
「あの龍をみせられちゃー『花嫁』だと信じねー訳にもいかねーだろ…アンタは、俺らの帝王だ」
 そう言って、ソニアと共に龍馬の前に膝を付いた。
「ニディオラ帝王の呪いも解かせて貰う」
「当たり前だ、ボケ」
 龍馬の冷たいツッコミに、全員が苦笑を浮かべた。
「とにかく城に戻ろう」
 そう言って、望とトラスティルはクプレオの背に飛び乗る。
「あんた等は?」
「無神族っても、精霊力が少ない訳じゃない」
 アイリーンとソニアの背に複雑な魔法陣が現れる。
 大きな羽音と共に、アイリーンとソニアの背に現れたのは、真っ白で大きな翼。群れから離れた羽根が、龍馬の目の前に落ちてきた。反射的に手を出すが、羽根の柔らかな感触がした瞬間、それはフワリと光の粒子に変化した。
「精霊と契約できない無神族だけの飛翔術だ…って言っても、秘術に近いもんだし、誰もが出来る訳じゃねー。相当奇特な精霊じゃない限り、無神族なんかと契約しねーからな」
 龍馬は一瞬何かを言いたそうに口を開きかけたが、僅かな逡巡のあと、何も言わずに口を閉ざした。『花嫁』である龍馬には見えていた。小さな精霊たちが、楽しそうにアイリーンやソニアの周りを飛び回っている姿が。
 無神族だからと言って、精霊に嫌われているわけではないのだ。同じ無神族である望や康平はそれに気が付いているから、無神族である事を誇りにすら思っている。 
 契約をしなくても、これだけ沢山の精霊に好かれているのだ。悪い奴ではないのだろう、と自己完結をし、龍馬はふっと怒りを解いた。勿論、ニディオラを傷付けた事は許さないが。
「見せてあげれないのが至極残念だ」
 憐憫の眼差しを向ければ、アイリーンは「は?」と首を傾げた。
「見せる?何を?」
 何と無く腹立たしくなり、龍馬は子供のように舌を出す。
「秘密!おら、さっさと行け」
 龍馬が琥珀に飛び乗りながら促せば、アイリーンは文句を言いながらも背の翼をはためかせた。
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