紅蓮の獣

仁蕾

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黒檀の章

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   ***

「マジありえねーしー」
「いや、マジだってば!」
 女子高校生の甲高い声が龍馬の耳に届くが、意味のないその会話は、右から左へと流れていく。
 龍馬は駅の構内に立っていた。ポケットに手を突っ込み、ボンヤリと流れ行く雲を見つめている。
 平日の昼間にも関わらず、龍馬は私服だった。
 仲のいい友達。
 気のいいクラスメート。
 顔を合わせる度に、心の中の違和感は大きく育って行た。
 深く息を吐き出し、線路に目を落とす。
 その時、ポケットの中で握り締めていた携帯が震えた。取り出し、サブ画面に流れる【メール受信 望さん】の文字。
 何か約束をしていただろうかと首を傾げながら、受信したメールを開いた。
《一丁前に現実逃避か?》
 予想外の内容に何度もまばたきを繰り返し、ふと気付く。まだ、続きがあるらしく、下にスクロールしてみた。
《一丁前に現実逃避か?テメーのお陰でこちとら迷惑被ってんだよ。いい加減、夢から目を覚ませ。お前が居るべき所は、そんなちんけな仮想世界じゃねーだろ。お前が前を向かなきゃ、全てが終わる。いつまでも後ろばっか見てっとぶん殴るぞ?》
 物騒な内容が、そこには書き綴られていた。
 龍馬の知る望は、厳しくもどこかしら龍馬に甘い部分がある腹黒くも優しい先輩である。彼の幼馴染でもある康平にならばまだしも、龍馬に対して今回のようなメールを送って来た事は一度たりとて無い。
 混乱だけが増して行く。
「の、ノン様ったら相変わらず…」
 ハッと口を塞いだ。
 ―今、自分は何を言おうとしていた…?
 困惑に意識を奪われていると、突如激しい頭痛に見舞われた。同時に酷い耳鳴りも襲い掛かってくる。
 視界が揺れ、立っていられなくなり近くのベンチに乱雑に腰を下ろす。
「や、っば…」
 呟いたのも束の間。
 意識は闇の中へと飛び立った。 

 ハッと覚醒する。がばりと身を起こせば、そこは見知らぬ室内だった。辺りを見渡し、愕然とする。
 美しい調度品が幾つも飾られ、毛の長い豪奢な絨毯が床一面に敷かれ、柔らかそうな大きなソファーが並び、部屋の奥には、大人が数人寝ても問題が無いような大きなベッドが鎮座している。
 横たわっていた絨毯から身を起こし、窓際に近寄って外を眺めて更に驚愕する。窓から見下ろす風景は、全くの異世界だった。龍馬の知らない、異なる世界。
「なに…これ…」
 零した声は震えていた。
 そのとき。
 ―がちゃ
 誰かが室内に入って来る。龍馬は「まずいっ」と身構えたが、入って来た青年は龍馬を一瞥する事も無くソファーに腰を下ろした。
 自分の手を見てみれば、半透明。姿見のところまで行けば、そこに自分が映らない。
(これは…夢…?)
 ソファーに座る青年に目を向けて、ほんの一瞬、思考が止まった。憂いを帯びた目で床を見つめる青年は、龍馬にそっくりだったのだ。瓜二つと言っても過言ではないその姿。違うのは目の色と髪の色だけだった。黒髪黒目の龍馬に対し、青年は茶色の髪に榛色の目をしている。
「もうすぐ…か…」
 青年は、呟くのとほぼ同時に瞼を伏せた。
 何がもうすぐなのか。聞ける筈もない。
 ただ、何故か、胸の奥がざわついて仕方がない。
 そっと青年の正面のソファーに腰掛けた。人の重みで沈む事も、ギシリと軋む事もない。
 瞼を伏せた青年の顔をじっと見据える。
「はー…」
 青年は長息を漏らす。
 ―ちゃり…
 俯いた青年が両手で顔を覆い隠した時、小さな煌きと共に何かが存在を示した。
 シルバーの細いバングルが二本。中央にトライバル模様が施されている。
 不意に何かが脳裏を掠め、バングルを食い入るように見つめてしばらく。
(あ…あれ…父さんが着けていたのと同じ…?)
 大好きだった父が常に身に着けていたのを思い出す。
 父は一本だけ身に着け、時折、愛しそうな、哀しそうな、様々な感情を滲ませた複雑な表情でバングルをそっと撫でていたのを思い出す。
(なんで…この人が…)
 父はバングルの模様は世界でひとつだけと言っていた。
 心臓が嫌に強く脈打つ。
『お前の母さんから預かっているんだ…』
 父の声が甦る。何かを懐かしむような顔で、笑っていた。
(俺の…母さん…)
 あの時は何とも思わなかったが、今なら違和感を覚える。父は、母の事を「ママ」と呼んでいた。決して「母さん」とは言わなかった。
 頭の奥が鈍い痛みを訴え出す。
(預かってる…?)
 戸惑いは大きくなる一方だ。
「失礼致します」
 控え目なノックと女性の声に、青年が顔を上げて返事をすれば、そっと扉が開かれた。
 白い肌、赤い髪に赤い瞳。纏う空気は人のものではない。
 ふと、龍馬はその女性に懐かしさを感じた。
「サラティアさん…どうかしたの?」
 サラティアと呼ばれた女性は眉間に皺を寄せ、今にも泣いてしまいそうな表情で早足に青年の下へと歩み寄った。
『…王を…我が主をどうかお助け下さい…!このままでは、あの方が壊れてしまうっ…!』
 床に膝を付き、青年の左手をぎゅっと握った。 
 青年は驚いた様子もなく、少しだけ困ったように微笑んだ。
「サラティアさん…俺に助けを求められても、俺は何もしてやれない。相手を間違えてるよ」
『いいえっ、いいえ!間違えてなどおりませぬ!あなた様でなければ、王をお救いになれないのです!』
 サラティアの頬を、堪え切れなかった涙が濡らす。
『あなたでなければ、無意味なのです!どうか…どうか、我が主を…』
「無理なんだってばっ!」
 サラティアの言葉を遮り、青年が叫んだ。その表情は、傷付いているようにも見える。
「俺じゃ…ダメなんだよ…」
 右手は固く拳を握り締め、微かに震えている。
「どんなにあの人を想っても…どんなに、あの人に愛されても…俺は『世界』に選ばれなかったんだから!本当は、この城に居るのすらおこがましいのに…!」
 青年から涙が溢れ出た。
 龍馬はその涙を素直に綺麗だと思った。誰かを想って流す涙が、これ程までに綺麗だなんて。
「折角、あの人の結婚を祝福しようって…覚悟を決めたのに…っ…俺の決意を、鈍らせないで…頼むから…」
 龍馬の胸に去来したのは、焔色の髪の後姿。
 誰かだなんて解らない。だが、何故か無性に会いたくて堪らない。
「…愛してんなら、逃げんなよ…」
 小さな、小さな呟き。視線は、こちらに気付く事の無い青年に注ぎ続けられている。その双眸は苛烈に燃えていた。
「愛してんなら逃げんなよ!男だろ!?真正面からぶつかれよ!結婚を祝福!?ふざけんな!互いに好き合ってんだろ?好きな奴に祝福されて、相手は嬉しいのかよ!違うだろ!?あんたのは、覚悟でも決意でもなんでもない…只、尻尾巻いて逃げてるだけじゃねーかっ!」
 叫んで、叫んで。胸に訪れた背中を想う。
 一気に捲くし立て、肩で息をする。何故、こんなにも叫んでしまったのか解らない。只、目の前の青年が許せなかった。そして、何故か自分自身も許せなかったのだ。
「だったら、お前も何時まで逃げるんだい…?龍馬」
 青年の声が、龍馬の名を呼んだ。

   ***

 時空を越えて尚、お前の事を憂いていた…

 虐められてないか
 病気に掛かってないか
 ひとりきりで泣いてはないか

 心配し出せばキリがない…

 生き長らえさせた事自体、間違いだったのでは…?
 そう疑う日も少なくなかった…

 だけど
 お前は見つけたんだね…?

 心の底から
 魂から愛せる人を…

 同じように
 愛してくれる人を…―

   ***

 周りの景色が勢いよく流れ、周囲には白い空間が広がった。同時に、どこかに旅立っていた記憶が戻って来る。
 己の「帰りたい」と望んだ声がやけに耳に残っている。
「お帰り、あんぽんたん」
 不機嫌な声が背後から聞こえた。振り返れば、不機嫌な顔の望。そして。
「あ…」
 見つめたその顔は、先ほど涙を流していた青年だった。しかし、髪と目の色が違う。まるっきり自分と同じ、黒髪と金色の双眸だ。違いと言えば、青年の方の髪が長いという一点だけだろうか。
 視線をずらせば、青年の隣に寄り添う紅い髪の美貌の人。穏やかな笑みを浮かべている。
 そして。
「とう…さん…?」
 龍馬の先には琥珀が、優しく微笑んでいた。
《かつてはあなたにそう呼ばれていた。だが、今はあなたの父ではない。…あなたを護る為に存在する龍だ》
 龍馬の思考が追い付かない。
 戸惑いを隠せない表情で視線を泳がせていると、望がため息を吐き出しながら龍馬に近付き、その頭を掴んで琥珀の方を向かせて固定した。
 首がごきりと鳴った気がしなくも無いが、望は気にする事無く口を開いた。
「だから、お前が元の世界で父親だと思っていたのは、琥珀くんだったって事」
「え、琥珀…?え?」
 困惑が増した龍馬を見つめながら、望は更に言葉を紡いだ。
「帝王から、話は聞いたんでしょ?どの程度聞いたのかは知らないけど。この世界は、滅多に生まれない双子を凶兆の証としていた。生まれてすぐ、下の子は殺される。でも、お前の本当のご両親は、殺されるはずの下の子…お前を愛しく思うが故に、当時の精霊長のサラティア様と契約龍の倶梨伽羅様を供に、お前を日本に飛ばしたの。で、お二方はお前の親として、生まれたばかりのお前を此処まで立派に育てられた。でも、火事でお二方のお命が儚くなられて、倶梨伽羅様は最期の力を振り絞って新たな竜に転生されたの。それが琥珀くんだって事」
「いだっ!」
 バチン!と手加減なしに額を指先で弾かれ、呆然としていた龍馬は驚きと痛みに肩を跳ね上げる。
 望は表情を緩めると、息を吐き出した。
「それで、あの方々が…」
《望くん》
 静かな声が望の言葉を遮った。僅かに不機嫌さを滲ませた山吹色の双眸が、声を上げたダアトに向けられる。言い募ろうとする望に向かい、ダアトはゆっくりと首を振り、その先は言うなと意志表示した。
《約束、だから》
 諦めが滲む儚い笑みは、見る者の胸を締め付ける。
 反論をしようと、望が口を開こうとしたその時。
《お人好しを通り越して馬鹿だな》
 低い男の声が、その空間に響き渡った。声を聞く限り、火神族守護神のククルカンなのだが、その姿は確認出来ない。
《諸事情で思念波を飛ばしてる。…さて、麻生望》
「え、俺?」
 突然の指名に、望は自身を指差して驚く。
《そこの親不孝者に全て話してしまえ》
《ククルカン!》
 思いも寄らぬククルカンの言葉に、ダアトが声を上げた。が、ククルカンはうるさいと煩わしげに一蹴した。
《間怠っこしいんだ、お前達は。それに、私は正体を明かすなとは言っとらん》
 どこか呆れている声。 
《はぁ!?名乗るなって言ったじゃん!》
《名乗らなければいい話。他人の紹介は名乗る事にならん》
《なっ!屁理屈だっ!》
 ダアトとククルカンが口論する中、望は構う事なく紹介を続けた。
「龍馬、今、めっちゃ叫んでる方が『桂木弥兎』様。その隣にいらっしゃる方が『アザゼル』様」
 龍馬の心臓は嫌に大きく脈を打つ。
 歓喜に沸くような、不愉快に揺れるような、龍馬自身、理解不能な感情に支配される。
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