紅蓮の獣

仁蕾

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紫雲の章

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   ***

 龍馬は真新しい柔らかな感触のベッドの上に膝を抱え込んで、顔を埋めていた。
 ぐるぐると脳裏を廻るクリオスと、その主の事。他人の契約や約束事には、どうこう言える立場では無い。
 だが、それはあまりにも。
「辛過ぎる…」
 契約が成り立った瞬間に、人と精霊は互いが互いの半身となる。離れ離れになるのが、どれほど辛い事か。
「どうすればいいのかな…」
 肺の中の空気を全て吐き出すようなため息。不意に左肩が淡い光を発した。
《おや?泣き虫さんかい?》
 温かな手に頭を撫でられる。
「弥兎様…」
 のそりとした動作で顔を上げ、龍馬はくしゃりと顔を歪めた。
 現れたのは、己の『魄霊』であり母親でもあるダアト、もとい、桂木弥兎だった。
《元気が無いね。いつもの威勢はどうしたの》
 いい子いい子、と子供のように頭を優しく撫でられる。
「うん…」
 どこか上の空な我が子に、弥兎はその金色の瞳で息子の目を覗き込んだ。
《龍馬、酷な事を言うかもしれないけど…お前がどうこう言って変わるほど、精霊と契約者の絆は脆いものではないよ》
 諭すような声音に、龍馬は小さく頷いた。
「あの、さ…思ったんだけど…」
 ふと思い至った龍馬は、弥兎の目を見つめながら口を開いた。
「弥兎様の侍女…って事は、弥兎様達と同じ時代に生きたって事、だよね?何でクリオスの『呪』はまだ解けてないの…?」
 抱いた疑問。クリオスと侍女が契約をし、『呪』を施したのは、弥兎が治めていた時代。ならばその侍女は、本来なら既にこの世に存在しないはずの人物だ。
 クリオスの話を思い出す。彼女は、侍女の命が消える瞬間に呪が解けると言った。侍女が亡くなると言う事は、クリオスも存在しないという事。
 だが、実際は。
「クリオスは、この時代に生きてる。呪も解けてない。…って事は、その侍女って…」
 瞬間、弥兎の表情は辛そうに歪んだ。
《今でも俺とアゼルさんはその事を悔いてる。クリオスに言った言葉も…あの子に言った言葉も…》
 龍馬にはさっぱり分からない。しかし、自分の両親が言った言葉が、侍女とクリオスに何らかの作用を齎したのだけは理解できた。
「弥兎様…?」
 弥兎は力のない笑みを浮かべ、そっと龍馬に目隠しをした。
《もう夜も遅い…眠りなさい…》
 優しい言葉は、強力な言霊。龍馬の意思に反して、急速に意識が遠退いた。
《さて…どうしたものか…》
 龍馬の額に掛かる髪を優しく払い除け、弥兎はその場から姿を消した。

   ***

「うーん…?」
 康平は、窓の外を見ながら唸っている。
「どうかしたの?」
 右手に葡萄酒の瓶を握り、左手に薄くスライスした肉を乗せた平皿を持って、望がソファーに腰掛けた。問うてもまともな返事はなく、深く唸ったまま。
 ―…ッキュポン!
「イダッ!」
 押し抜いたコルクが、康平の後頭部に見事直撃する。康平が後頭部を抑えながら恨みがましそうな目で、望を見れば、彼は満面の笑み。
「どうしたの?」
 再度投げ掛けられた同じ質問に、康平は「お、おう…」と焦りながらも望の向かい側に腰掛けた。望が差し出したグラスを受け取り、一口含むとほのかな甘みが口内を満たす。
「うまー」
「ん、いい味。で?」
「うーん、なんかちょっと血の臭いが…」
 眉間に皺を刻む康平は薄肉を食みながら、再度窓の外に視線を滑らせた。それに倣うように視線を外へ流した望は、眉間に皺を寄せながらも鼻を鳴らして空気を吸い込む。しかし、当たり前ではあるが血の臭いなど欠片ほども感じない。
 だが、康平が警戒を緩めないのが気になり、契約竜のクプレオを掌サイズで召喚し、何か臭いがするか問うてみる。大きな双眸を瞬かせたクプレオは、すんすんと鼻を鳴らしつつ、顔を左右に動かし始めた。
 ギャオ、と小さく鳴いて主人の琥珀色の目を見上げた。
《血の臭い。かなり遠い場所、外れの市場…若くない…お年寄り?それと、ちょっとだけ、蕾茶と琳茶の匂い…》
 それを聞いた瞬間、康平が窓から飛び出した。地上三階からのダイブにさすがの望も青褪めた。
「ちょっ、康平!?」
 急いで窓の下を覗き見れば、当の康平は音もなく静かに着地すると、すぐさま駆け出した。
「…あいつ、やっぱ人間じゃねーな…」
 親友のあまりに人間離れした身体能力に呆れつつ、契約竜をその身に戻し、唯一の精霊であるようらく榮烙を召喚した。白い毛並みの大きな雌獅子が望の足に擦り寄り、紅い瞳を輝かせながら指令を待つ。
 望が獅子の背に飛び乗り、康平の背を追うように命じれば、榮烙はしなやかな動きで窓から飛び降り、地面に着地するのとほぼ同時に駆け出した。先を行く康平の背を追う。
 徐々に縮まる差。
「康平!」
 隣に並び、望が手を差し出せば、康平がその手を掴み、望の後ろに飛び乗った。
「榮烙」
 一つ名を呼べば、速度が上がり、風を切った。

   ***

 精霊達が慌てふためき、龍馬を叩き起こす。
《レジーナ様!》
《レジーナ様!》
《大変デス!》
《ウィンディリア様ノゴ様子ガ!》
《起キテ下サイマシ!》
「う、んー…いったい何さー…」
 夢の中に潜り込んでいた龍馬は、何体もの精霊に揺り起こされ、モゾモゾと起き上がると、しっかりと開かない目を擦りながら耳慣れない名前に首を傾げる。
《レジーナ様ッ、早ク!》
「ちょ、みんな待って…てか、ウィンディリアって誰?」
 精霊達は痺れを切らしたのか一斉に声を上げた。
《ウィンディリア・クリオス様デスッ!》
 耳を劈く叫び。しかし、龍馬はそれ所ではなかったりする。
「え、クリオスはクリオスじゃないの?え?え?」
 寝起きの為、いつも以上に状況が飲み込めず混乱は増すばかりだ。いまだ現状を把握しきれていない龍馬に対し、精霊達は痺れを切らし、「イイカラ早ク!」と龍馬を急かした。

「クリオス!」
 ―バンッ!
 かつての自室であった『スカルラット』の扉を勢い良く開け放てば、サイドテーブルの上の燭台が淡く光を放ち、呼吸するかのようにゆっくりと点滅していた。燭台の下には、複雑な魔方陣が輝いている。呼び掛けても、クリオスは姿を現さない。声もしない。気配すらない。
 そこに居ないのは、一目瞭然だった。
「居ない…?一体…何処に…」
 愕然と燭台に近寄ると。
《レジーナ様》
 緊張感漂う女性の声が響くと、フェニーチェが龍馬の背後に膝を付いていた。
「フェニーチェさん…」
《ご報告申し上げます。クリオスの『呪』が解放の危機に陥り、彼女は主の元へと翔けました》
 解放の危機。つまりは、クリオスの契約主である侍女の命の危機。
 龍馬の頭は様々な情報が入り乱れ、ぐるぐると脳内を廻っている。
「何、なんなの?クリオスの主とか、何歳?弥兎様の時代からでしょ?精霊じゃないんだからさ。可笑しいじゃん。それに、クリオスは…クリオスじゃないの?ウィンディリアって何」
 聞きたい事は次々と口から溢れ出す。今はそれ所ではないと分かっているのに、止める事が出来ない。
 フェニーチェはその心情を察するかのように、一度瞼を閉じ、まっすぐに龍馬を見上げた。
《彼女は我ら王の精霊に次ぐ実力の持ち主であり、彼女の主は無神族守護神の加護を受けた稀有な存在》
「無神族…守護神?」
《時は一刻を争う状況。説明は後々致しましょう。兎に角、今はクリオスの元へと向かわれて下さい》
 そう言われても、何処に居るのか皆目見当も付かない。しかし、フェニーチェの白い手が、窓の外を示す。
《街外れにある『ウトピスタ市場』。その市場を統括する者の自宅。そこに彼女は向かっております。フィナ》
 フェニーチェが名を呼べば、赤い小鳥が火の尾を引きながら現れ、フェニーチェの指に降り立った。
《フィナ、レジーナ様を市場までご案内して》
『ピィ!』
 甲高い鳴き声を上げ、パタパタと羽ばたくと、龍馬の周りを一周して窓の桟に降り立ち、龍馬の金の目を見つめた。
「…コクマー」
 龍馬は全ての言葉を飲み込み、自身の魄霊の名を紡ぐ。左腕から黒い炎が飛び出し、窓の外で黒豹と変じた。
 龍馬はフェニーチェに頭を下げると、コクマーの背に飛び乗り、先を飛ぶ小鳥の後を駆ける。フェニーチェはその後姿を、深く頭を下げて見送ったのだった。
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