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紫雲の章
10
しおりを挟むラーナの言う通りだと、龍馬は無感情に考えた。砂埃の中に混じる濃い血の臭い。呻き声もほとんど聞こえない。
「罪なき者を殺すのも、罪負いし者を殺すのも、所詮同じ人殺し、でしょ?」
「…そうだな」
だからこそ。
「贖い、生きる」
龍馬の強い意志に呼応するように、荒れ狂う風が視界を防いだ。ラーナは咄嗟に腕で顔を隠す。
「精霊が、二体っ?」
先ほど消えた精霊は炎を纏っていた。しかし、今纏うのは風。
一際強い風が過ぎ去れば、ぴたりと止む。ラーナが目を開けば、金の髪を結い上げた女がひとり。
「ティファレト、頼んだ」
《あい、頼まれた》
艶然と笑む女こそ、二尾の狐、ティファレトである。豊満な肉体の線をなぞるように、薄手の布地が体を隠す。
《そこな輩、我が主殿をこれ程までに怒らせるとは…ある種の才能え?》
クスクスと背筋に嫌な汗を流させる笑みは、美しいとしか言えない。
「いやだわ…精霊を相手にしたくないのが本音なのに…」
そう言いながらも、その口元には笑み。
二人同時に身構えた瞬間、その場から二人が消える。
―パンッ!
上空で破裂するような音が響き、ようやっとの思いで外界へと辿り着いたヴェルジネとジェメリがハッと見上げれば、光と衝撃波が上空で弾ける。人影は目で捉えられない。連続して光るその光景は、人の動きを遙かに凌駕している。
「…人の気配は希薄…人としての道を外れたか」
龍馬が弥兎の名を呟けば、頭の中で弥兎の声が答えた。
「ねえ、あの人…」
《…魔に魂を売り渡し、人以上の力を持ってしまった。…魂は殆ど食い尽くされている。捕らえた所で助かる事はない》
「そう…」
それを最後に、声は聞こえなくなった。
加減は要らないと判断した龍馬は目を閉じ、ゆっくりと精霊力を高め、現在自分の代わりに闘っているティファレトへと注ぎ込んでいく。身の内より溢れ出た高密度の精霊力は淡い光となって龍馬を包み、衣服も髪もフワリと揺らいだ。
「黒い、髪…?」
ヴェルジネは、淡く光を放つ龍馬の背を見つめ、息を呑んだ。
揺らめく髪は、闇の如き漆黒。その色を有するのは、世界の唯一。誰もが傷付けてはならない存在。
「無神族(オレら)の…帝王…っ」
肌が粟立った。魂をも震わせる、歓喜に。
居るかも分からぬ帝王なぞ罵って、罵って、罵り続けてその名を踏み躙ってきた。でも、心の底では、求めていた。王を。救いを。
そして、目の前の男が。
はらはらと涙が零れた。涙を流したのは幾年振りか。
衝撃に体から力が抜け、ふらつき、後ろに立っていた兄にあたる。ハッと振り返ってその顔を見上げた。兄の頬にもまた、涙が頬を伝っていた。
ティファレトは、我が身に注がれる精霊力に驚愕していた。
(まだ、高まるか…底の知れぬ主殿じゃ…)
注がれた分だけ彼女の力へと変換され、動きは次第に早くなり、一撃一撃が重くなる。防がれていた拳が徐々に当たり出す。そして、相手の攻撃をはっきりと捉える事が出来る。疲労の為ではない汗が一筋、頬を伝い落ちた。
それに気が付いたのか、ラーナの顔が悔しそうに歪み始める。
「これだから、精霊の相手は嫌なのよっ」
繰り出した拳が大きく弾かれ、体勢を崩す。
《悪魔に魂を売り、満足したかえ?坊や》
好機を逃すはずもなく、ティファレトはラーナの背後へ瞬時に回り込み、がら空きの脇腹に強烈な回し蹴りをめり込ませた。
「ぐっ、がっ!」
骨の折れる感触が伝わるも、意に介する素振りも見せず容赦なくその足を振り抜けば、ラーナの体が勢い良く吹っ飛ぶ。
《まだまだじゃ》
愉快気に呟き、飛ばされたラーナの体に追い付くと、両手を組んで握りその頭に振り落とす。直撃した刹那、ゴキンと鈍い音が響き、ラーナの体は遙か下方の地上へと叩き付けられ土煙が高く舞い上がる。
龍馬の隣に降り立ったティファレトは、その美しい顔を歪ませながら強く拳を握り締めた。
《手応えはあるんじゃが…やはり、人ではないの》
「そっか…」
ため息交じりにこぼし、懐からピンポン玉大の緑の宝玉を取り出した。それは月の光を浴びる事無く、それ自身が煌々と輝いていた。 只ならぬ強い力を感じ、ティファレトは小さく喉を上下させた。
《それは…風神族の…?》
「うん、秘宝ってヤツですね」
各種族には秘されしほうもつ宝物が存在する。
その正体を知るのは各帝王以外、誰も知らず、王が『花嫁』を認めたときにその証として献上するのだ。
今、龍馬が手にするのは風神族の宝物。美しい宝玉に精霊力を込めれば、手の平からフワリと浮き上がる。
龍馬が頭上に掲げると、宝玉がゆっくりと回転を始め、風を纏う。風は徐々に勢いを増し、髪や裾を乱した。
風が渦巻きながら、形を作り出す。
―ガシャン…
風が止み、重厚な音を立て現れた姿は、ランス騎槍。二十mはあるだろう雄大で雄々しい巨大な姿に息を呑む。その鋭利な切先は、ラーナが沈んだ場所を指している。
「うん、いい力」
風神族の宝物の名は、神槍『グングニル』。持ち主が敵と定めた獲物を、必ず貫くと言われているものの、その真相定かでなし。実際に振るわれたところを、誰も見た事がない為だ。
龍馬が大きく腕を引けば、神槍は重い音を立ててわずかに後退する。
「っ、そい!」
掛け声と共に、思い切り腕を振り下ろせば、神槍は重さを微塵も感じさせる事無く、光の速さで今だ晴れぬ土煙の中へと突き刺さった。音も無く、衝撃波も無く。静かに。
「すごい…」
無意識にジェメリが呟く。あまりに人を逸した戦い。そして、桁違いの精霊力。只々、圧倒された。
「うーん…ちょっと、俺には扱いにくい子かな…?」
龍馬の額から、一筋の汗が流れ落ちる。パンッと手を打てば、風が吹き、土煙を掻き消し、神槍は緑の宝玉となって龍馬の手に戻って来た。
龍馬とティファレトが、ラーナの元へと足を向ける。生きている気配はない。
「うーわ…」
龍馬は眉間にしわを寄せ、案の定かと息を吐く。
《…惜しい事を。逃がしてしもうたようじゃ…》
夥しい量の血が、不自然に魔方陣を描いていた。それはラーナの魂を喰らい尽くした悪魔が施した空間転移の魔方陣。それを使い、ラーナの体から逃げ出したようだ。
光の無い虚ろなラーナの双眸が、厚い雲から顔を出した月を映し出していた。
龍馬はティファレトを戻し、ヴェルジネ達の元へと戻った。
「大丈夫?」
呆然としたオッドアイが見上げて来る。瞬きひとつしない幼子の前にしゃがみ込んで視線を合わせると、その小さな頭に手をのせた。
「お兄ちゃん…ジェメロさんの事、ゴメンね…?」
その言葉に、ヴェルジネはほんの一瞬だけ息を詰め、ブンブンと首を振り、両膝を付いて頭を下げた。平伏するヴェルジネの後ろで、ジェメリもそっと膝をつく。
「…勿体なきお言葉…っ!え、えと…あ、あなた様が謝られる事など何も御座いません」
自身の言葉を噛み締めながら、ヴェルジネは兄の最後を思い出し、目に涙を浮かべた。兄の最期に何も言えなかった。何も言って貰えなかった。妹のヴェルジネでさえ、ショックなのだから、片割れを失った兄のジェメリのショックは計り知れないだろう。
「ジェメリさんも…ごめんなさい…」
龍馬がジェメリへと体を向け、頭を下げれば、ジェメリは口元に微かな笑みを浮かべ、緩慢な動きで首を横に振った。
「本当に、あなたが責任を感じる必要など欠片もないのです」
きっぱりと言い切ったジェメリに、龍馬は首を傾げた。
「弟の死は、既に覚悟しておりました。…あなたと対峙した瞬間から。…私と弟は、二人で『夢』を見ます。その夢は、必ず訪れる未来。三日ほど前、夢でこの時を見ておりました。未来を知れば、一つだった選択肢が複数に増え、その道筋を変える事が出来ます。…ですが、私も弟も、己の運命を変えるつもりは毛頭御座いませんでした。それが、頭領…いえ、妹のヴェルジネを救う手立てだったからです」
真っ直ぐに見上げる目は、最初に会ったときの冷たさなど、微塵も感じなかった。あるのは、妹に対する温かな思いだけ。
「兄ちゃん…」
「ヴェルジネ…私は幼いお前に苦行を強いた畜生だ。…今更、お前の兄と名乗る資格など無いのだが…兄としての願いを聞いてくれるか…?」
「兄ちゃん……っ、当たり前じゃねーか!兄ちゃんはオレの大切な兄ちゃんなんだ!」
ヴェルジネの剣幕に、兄は優しく微笑んだ。大きな手が、小さな頭をゆっくりと撫でる。
「お前は、我らの帝王と共に行くがいい」
「え…?」
少女は、自分が何を言われたのか、一瞬訳が分からなくなる。それに構う事無く、ジェメリは龍馬へと視線を投げた。その目の奥に、確固たる決意が垣間見える。
「帝王…龍馬様、誠に勝手で申し訳ないのですが…妹をお願いしても…?」
瞳に滲む決意を汲み取り、龍馬は小さく頷いた。
「もちろん…まだ小さい子を、こんなトコには置いて行けないから。ヴェルジネ…行こう…」
兄の言葉を理解したヴェルジネは、見る間にその両目から涙を溢れ出させた。
「っ、嫌だ!にっ、兄ちゃんも一緒だろ!?何で、オレだけっ!」
小さい体で兄の胸に掴み掛り、絶望に彩られた双眸で追い縋る。その悲痛な表情に、ジェメリの胸中が大きく揺れ動く。
だが、しかし。それを断ち切るように一度目を伏せたジェメリは、ヴェルジネの首筋を強かに打った。その瞬間、ヴェルジネの意識が朦朧となる。傾いだ体は、龍馬の腕の中に納まった。
命よりも大事にしてきたたった一人の妹の頬を撫で、ジェメリは再び龍馬へと平伏する。
「我らの配下があなた様の大切な方々を傷付けた事、誠に申し訳御座いませんでした。私なぞの謝罪で、どうこうなるような物事ではないのですが…」
「他の事に対しての謝罪は、ないんだね…」
僅かばかり責めるような口調となってしまった事を苦く思いながら、龍馬が問えば、ジェメリは「ええ」とひとつ頷いた。
「それが我らの正義、生きる術でしたから。新たなる無神族の帝王へ愚かな民から忠告いたしましょう。人の正義はその者にしかわかりません。ともすれば、本人にさえ分からない。そして、同じ正義を説いていても、その根本までもが同じとは限らない。己が正義の押し付けは、破滅を齎します。我らのように」
その言葉は、龍馬の胸に重く沈み込んだ。
「…肝に銘じておくよ。じゃあ、もう行くね…」
「…ヴェルジネに伝えて下さい。我らの魂は、お前と共に…と」
「…必ず」
龍馬の返事にジェメリは満足そうに微笑み、腰を上げると一度頭を下げて踵を返した。向かう先は、死んだ弟の元。
龍馬はヴェルジネを抱え直すと、コクマーを喚び出し、背に跨がった。ゆっくりと歩き出し、徐々に速度を上げていく。
しばらくすると。
―ズズン…
鈍い音と共に地面が揺れた。背後で建物が崩れていく音が響き渡る。それでも、龍馬は振り返らない。
「に、ちゃ……」
肩が濡れていくのが分かる。意識の無いヴェルジネの頭を優しく撫で、落とさぬようぬ抱え直して更に速度を上げていく。
涙が流れる。沢山の命を絶った。沢山の血に濡れた。何よりも腕の中の幼子の涙が、龍馬の胸に重くのしかかった。
―愛しい妹…―私達の護るべき唯一の妹…
罪を差し出されたヴェルジネ
罪を受け入れたヴェルジネ
私達の我が儘に付き合わせて済まなかった
だから、私達のせいで泣かないでおくれ…―
私達の為に泣かないでおくれ…―
私達は、もうその涙を拭う事が出来ないから…
私達は、もう慰める事が出来ないから…
どうか、泣かないでおくれ…
―私達は、常にお前と共に、在るのだから…
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