紅蓮の獣

仁蕾

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紫雲の章

15

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 空気が淀んでいた。結界に守られていても、息苦しさを感じる程だ。
 広大な稽古場内は不可解な白い靄に包まれ視界も悪く、気配も掴めない。康平とヴェルジネの安否が気になる。しかし、他人の心配をしている暇など無いように、周りの空気が重く冷たく圧し掛かる。
「これは…想像以上だな…」
《うむ…やはり、地の宝玉が無いのが痛いか…》
 苦々しい顔のヒガディアルとアグニの表情。
 龍馬は周囲を警戒しながら、呟いたアグニへと問い返す。
「地の宝玉が無いと、なんなの?」
《…地の宝玉は、火、水、風、地の中で、唯一『封じる力』『守護の力』に秀でている。今、お前が所持している宝玉は、その姿を見ても分かるように、『解放の力』『破壊の力』に特化している。荒ぶる龍の力と相まって、火と水と風の破壊の力が増長され、この有様になったのだ》
 今一掴めない。そもそも、この有様が一体何なのか。
 それを汲み取ったのか、ヒガディアルが口を開いた。
「…各種族の中で、不安定ながらも最大の力を有し、数多の顔を持つ存在…『パールヴァティー』…」
 そこまで言い、ヒガディアルは躊躇い、アグニがその後を呟いた。
《…パールヴァティーは私の妻、そして、無神族の守護神だ》
 その言葉は、龍馬にも望にも衝撃を与えた。守護神が、この様に禍々しい気を放つのかと。
 そして。
「あんた、妻帯者!?」
「あなた、妻帯者だったんですか!?」
《そこじゃないっ!》
 何よりも衝撃的だったのだろう。妻帯者だと言う事が。ヒガディアルは苦笑を滲ませている。
《まったく…それで、だ。彼女は悪にも成り易く、正義にも成り易い。事象に影響され易い性質なのだ。あまりに『破壊の力』が増え過ぎれば、此度の様になる。…つまり、地の宝玉が無ければ、彼女のこの悪の力を封じ込める事が出来ぬ、と言う事だ》
 半ば自棄気味に吐き出せば、不意に人の気配を感じ、三人と一匹が歩みを止めた。ほぼ同時に、アグニは小さく舌打ちをする。
《カーリーか》
 僅かに見えた人影に声を掛ければ、女の笑い声が高らかに響いた。
《この声、この気配…久しき事よ、ククルカン》
 女の声が響けば、淀んでいた空気が裂け、漂っていた靄が晴れ始める。
 正面に水晶の玉座。優雅に腰掛ける金の目の女。その斜め前には、ヴェルジネが不安そうにこちらを振り返っている。そして、女と龍馬達の間に、紫龍槍を握り締め俯く康平。
「…ベルと康平さんを返せ」
 龍馬がカーリーを睨みながら言えば、女の笑みは深まった。
《汝が今代の『花嫁』か…。弥兎の后にまことそっくりじゃ…》
「弥兎は、俺の親だよ」
 龍馬が呟けば、カーリーの表情は驚愕に変わり、次の瞬間には弾けた様に笑い出した。
《良き哉、良き哉。なんとまぁ、面白き事。ククルカン、お前のしもべ僕は『真血』を選んだか》
 夫君を見下した、嫌な笑み。龍馬と望の眉間に皺が寄る。
《良いであろう。そこな二人、汝らに返し給おう》
 イュタムがパチンと指を鳴らせば、ヴェルジネを縛っていた不可視の鎖が砕け、ヴェルジネは龍馬の下へ駆け出した。
「龍ママっ」
「ベル!」
 龍馬は掛けて来た少女の小さな体を、腕を広げて抱き止めた。
 奇妙な静寂が生まれる中、康平は微動だにしない。不思議に思い、望が近寄る。
 ヴェルジネが「ダメっ!」と叫んだと同時に、康平の顔が持ち上がり、消えた。
 ―ギィイィィィンッ!
 耳を劈く金属音。
 瞬時に望の背後に駆け、その首を刎ねる為に振るわれた紫龍槍。渾身の一振りを、僅か苦心しながらも防いだ赤華扇。
 一秒にも満たない刹那的な攻防は、強烈な衝撃波を生み出し、周りの者達の体に豪風を叩き付けた。
 龍馬の首に巻き付いていた琥珀が、瞬時に体躯を戻し、防いだ為それだけで済んだが、何の防護も無い壁などには深い亀裂が走る。
「こうへい、さん?」
 呆然とした龍馬の呟き。それに被さる様に、アグニが叫んだ。
《カーリー!お前は…生身の人間に『呪印』を付けたのかっ》
《くくく…あーっはっはっは!いかにも、いかにもじゃ!ククルカン!そこな男、人並み外れた精神力の持ち主じゃった!それ故に、魂深く『呪印』が刻まれたわっ!》
 笑うカーリーの表情は禍々しい。
《何と…愚かな…!》
 低い声が響く。炎を纏った褐色の肌の男、ククルカンが憎憎しげにカーリーを睨み付けていた。
《それは人間に対してしてはならぬと、言うておったのに!》
 ヒガディアルも唖然としている。
「ヒガ様…『呪印』って…?」
「…催眠術の一種だ。だが、似て非なるもの。『呪印』は魂に刻まれ、術者の為に命を削り働く。故に人間に刻まれれば、いずれ魂が消滅する。…禁術の一つだ」
「え…?」
「解く為には、掛けた者もしくは掛けられた者を…」
 言えないのか、敢えて言わないのか。だが、先に続く言葉は容易に想像が出来た。
 龍馬の視線が、ぎこちなくヒガディアルから康平へと移動する。
 何処からか風が吹く。
 隠れていた康平の表情が露になる。左の額から鎖骨にかけて浮かび上がる茨模様。張り付いた狂気の笑み。
 そして、山吹の目から流れる涙。
 笑うまま、康平は望へと襲い掛かる。
「くっそが!」
 望は吼える。しかし、一瞬一瞬の迷いで防戦一方の動きしかとれない。
 龍馬は、ただ、愕然としていた。無意識に胸の上の衣服を強く握り締める。
「龍ママ…」
 呆然とした龍馬の表情を見上げ、ヴェルジネが呟いた。少女は下唇を噛み、決意する。
 ―ブチッ
 小さな手が、渾身の力で琥珀の封印を引き千切る。
「ベル…?」
 龍馬が視線を下げれば、琥珀のペンダントを手渡される。ほぼ同時にヴェルジネを包んだのは、康平と同等であろう『破壊の力』。
「コウ兄の相手は、ノン兄じゃ無理だ。『破壊の力』の大きさが全然違う」
 それだけを告げ、ヴェルジネは龍馬から離れて望と康平のもとへ歩み寄る。
 小さな体が強い光に包まれ、光が止んだ次の瞬間には、長身の女が居た。
 右手には、赤の錘。左手には、緑の錘。錘の重量は、片方だけでも成人男性二人でやっと持ち上げられるほど。
「お前…ベル…?」
 服装からやっと判別が出来る。女は振り返る。美しくも愛らしい笑みを浮かべ、薄く紅を刷いた唇を開いた。
「コウ兄の相手は…オレだ」
 女、ヴェルジネは地を蹴って駆け出し、康平に向かって緑の錘を振り下ろした。が、それは標的がヴェルジネを上回る速度で避けた為、地面に減り込み砕く。
「ノン兄、退いて。オレがやる」
「ベル…?っ、了解!」
 自分が居ては足手まといだと悟ると、望はすぐさまその場から離れた。
 減り込んだ錘を持ち上げ、頭上に視線を走らせれば、上空で体勢を立て直し、紫龍槍を構え突進してくる康平。その痩躯が重力に引かれ加速する。ヴェルジネは大地を蹴り、康平の下へと舞った。
 交錯する槍と錘。
 激しい火花が飛び散り、辺りを衝撃波が貫く。
 ヴェルジネは押し上げる勢いのまま、体を捻り、康平の体へと踵落しを見舞う。背中にまともに食らった康平は、更に落下速度を上げ、地面に激突した。土煙をもうもうと舞い上げ、激突の衝撃が大地を揺らす。突如、土煙が旋回し、視界が晴れた。
 ―タン…
 土煙の中から現れた康平は、地面に槍の柄を立て、何食わぬ顔でその場に立っていた。槍を振るう回転の風圧に精霊力を練り込み、土煙を吹き飛ばしたのである。
 ヴェルジネの手から放たれた赤の錘が、凄まじい速度で上空から襲い来る。が、見えない壁がそれを阻んだ。
 その時、笑う康平の口の端から少量の血が溢れ出たのをヴェルジネは見逃さなかった。
「チッ…ヤベーな…」
 ヴェルジネは小さく舌打ちをし、錘を構える。
「コウ兄…」
 そう呟き、ヴェルジネが康平に向かう。しかし、康平は防戦一方。攻撃しようとする槍を持つ手を、無理やり防御に向かわせているようにも見える。その度に、吐き出す血液の量は明らかに増えていた。
 抗えば抗うほど、命を削る。だからと言って、従っても命を削られる。
 どちらを選んでも康平の命が削られて行く。しかし、抗わずに従う事を許さぬ強固な意志が、更に命を消耗する。
 俊敏なヴェルジネの足技。それを苦も無く捌く康平。
「やっぱ…強いな…」
 崩せない壁に、苦戦する。ふと、背中に温かな気配を感じた。
『ベル…』
「この声…コウ兄…?」
 しかし、康平は目の前に居る。口から血を、双眸から涙を流しながら。
『ベル…聞こえてるよな…?』
「コウ兄…なんで…っ!」
『ベル…俺の心臓を狙え…』
 告げられた言葉に息を呑み、ほんの一瞬動きが鈍くなったその瞬間、康平の紫龍槍がヴェルジネの赤の錘を弾き飛ばす。
 垣間見えた康平の山吹の双眸が、ゆっくりと闇色に染まり始めていた。
『見ての通り、俺の意識も蝕まれ始めている。もうアレは、魂の抜けた只の器』
 指で示した先に、完全に漆黒に成り変った山吹の瞳。
 魂の抜けた器。
 ハッとした。ならば、今、此処に居るのは。
『ベル、アレはもう俺じゃねー。殺る事でしか解放されないのならば、迷う事はない。息の根を、止めろ』
 力強い魂の脈動。後押しされるように、体の奥底から力が溢れ出して来る。
『躊躇うな』
 康平の魂がヴェルジネの体に溶け込む。背中から全身に広がる温もり。
 今、対峙するのは魂が無い只の傀儡なのだと悟った。それでも、今からする事の相手は、紛れも無い康平で。
 色違いの双眸から、涙が溢れた。
「コウ兄…っ!」
 渾身の蹴りで槍を跳ね上げ、腰に携えていた短刀を抜き放ち、無防備になった体に向かって飛び込んだ。
 ―ドス…
 細腕に、肉を刺し貫く感触が生々しく響いた。
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