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第7章
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しおりを挟む―こぽん…こぽん…
薄っすらと開いた視界の中に、空気の泡が浮上する。
馴染む魔力に満たされた水の中で、人魚族のリンザは目を覚ました。緩慢な動作で首を動かせば、そこは知らぬ室内。柔らかな蝋燭の明かりが揺れる。
ちゃぷりと水面を揺らしながら身を起こし、再び視線を巡らせる。誰も居ない。共に海中を逃げていた妹も、居ない。
なぜ、逃げていたのだろう。何から逃げていたのだろう。
靄掛かる意識は輪郭を結ばず、双眸に確かな光は皆無。
ふと、脳裏に滲んだのは黄泉の気配。それにつられるようにして思い出したのは、かつて目撃してしまった黒衣纏いし女。そして、男へと様変わる姿。明確な性を持たぬ美しい人。
美しい『死』の権化。
「ああ…嗚呼…」
感嘆の息が漏れる同時、どろりとした黒が双眸から零れ落ちた。染められるように錫色の瞳が黒に侵食され始める。
頬を流れ、顎先から滴り落ちた黒が水槽の水に触れた瞬間、その水がバキンと音を立てて氷へと姿を変え、室内すらも凍らせんと水槽を喰らい、床へ、壁へと広がり始めた。
リンザの肌もパキンパキンと氷に包まれるが、当の本人は虚空を見つめたまま黒の涙を流す。落ちるはなから凍る涙は、瘴気の塊。死の怨念。
「何とも可憐で、美しい姿でしょう」
女の声がため息と共に掛けられるが、リンザは動かない。
声の主は言葉や声音とは裏腹に、紅い唇を横に引き裂く。何とも、醜悪な笑み。
「上手く芽吹いたようで何より…あー…それにしても、氷の結界は少々難がありますわね。皇のもの、にしては些か荒い。…まあ、何にせよ、早めに失礼する方が得策ですわね」
細い腰をくねらせ、高いヒールをカツコツと鳴らしながら白い髪の女がリンザへ歩み寄り、リンザの髪を鷲掴んだ。
「愚鈍な野郎はオモチャにもなりませんわ。さっさと行きますわよ」
ふ…と風も無く蝋燭の火が消えた。残されたのは、室内を広がり続ける氷と、氷に呑まれたリンザの下半身。そして、左腕だった。
***
某居館の大広間。居館の主人である康泰の前には、深く深く項垂れた男がひとり。魔皇ロイウェンの王妃で康泰の友人でもあるガロンだ。
二日前、ガロンが愛で育てて来た人魚族の男が失踪した。
中途半端に構築されてしまった氷の棺の中に、左腕と下半身を残して。事態はそれだけで収まる事も無く。
部屋の前に配備していた衛兵二人は、無残な姿と成り果てて扉や壁を赤く染めていた。壁の傷を見るに奮戦していたようだが、何かに圧し潰されたような有様だった。
「明らかな外部犯にも関わらず、手掛かりはゼロ…」
肘掛けに頬杖を付き、ガロンに倣うように深く息を吐き出す。
俯いていたガロンは顔を上げ、頷いた。
「…あそこにつけた兵はボクが直々に育てた子等や。そんじゃそこらのモンには負けんよ。それが、冥幻魔界のモンやったらっちゅー大前提やけどな」
金色の瞳が、燻る怒りを内包してきらきらと輝く。影の中でも煌めく双眸に、言葉に出来ない恐怖を覚える。
「…上か、下か、はたまた真ん中か」
天界か、冥界か、人間界か。
お道化る康泰の問いに、ガロンは小さく笑う。
「真ん中は無い、可能性はゼロやな。人間にそんな力があったら、とうの昔に大戦争勃発しとるよ」
「冥幻魔界もほぼ無し、人間界も無し。そうなると天界か冥界か…」
康泰が水槽の水に潜ませていた氷の結界は、間違いなく正常に作動していた。リンザの中に瘴気が残っていた場合の保険が、確かに展開されていた。探知の術式も組み込んでいた。
それにも関わらず、何者かが潜り込み、リンザを連れ去った。その肉体を引き裂いて。
リンザ本人の生死も不明だ。生命力の高い冥幻魔界の住人であろうと、胴を二つに裂かれて生きているものなのか。
「俺としてはどちらでも良いんだが、何故、探知術式が作動しなかったのかがわからん」
天井を仰いだ状態で唸っていると、人影が差し込んだ。
「探知術式は間違いなく作動しておりましたよ」
麗しい微笑みが覗き込む。
「ミオンさんだ」
「はい、ミオンでございます。一時的ではありますが、ただいま戻りました。長らく留守にいたしまして申し訳ございません」
恭しく礼をとるミオンに、康泰は気にする事は無いと笑う。
「魔皇さん直々の指示だからね。お疲れ様でした」
「身に余るお言葉、有難く。皇より賜りました魔道具製作任務は完了し、現在試運転状況ではありますが、あとはヴィヴィアン=ジュエラにお任せして、皇の許可のもと戻って参りました。二日ほど滞在ののち、最終調整の為に再び炎熱区域に向かいます」
康泰は背後のミオンを振り返り、背凭れに肘をついてその姿を見分する。普段と変わらぬ佇まいからは不調を感じ取る事は出来無い。
「こちらに戻る前にガロン=ジュエラの居城近辺に立ち寄りましたが、間違いなくコータ様の結界は発動しておりました」
上階層から凍土区域への移動は転移陣を使用するのが常だ。しかし、魔道具製作の完了と帰城予定を報告の際、皇より不審な魔力の残滓が無いか念のために調べて来いとの命を受けた。否やも無く頷いたミオンは、秘密裏のルートを使用して階層を降り、ガロンの居城及びその近辺を一通り調査してから帰城したのだ。
その際。海の中、きらきらと輝いていたのはあるはずも無い、純白の雪の結晶。穏やかな潮流の中、ゆらゆらと舞っていた。
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