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第7章
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しおりを挟む―キュウ、キュィ!
聞き慣れた小動物の甘ったれた声が聞こえた。
一切の光を感じさせない影の中、鳴き声を辿るようにロイウェンが歩を進めて行くと、遠くに淡い光を纏う子供の姿を見つけた。
「邪魔するぞ」
「ん?ああ、魔皇さん。元気そうで何よりだ」
膝の上で甘える従僕魔を撫で回しながら笑う康泰に、ロイウェンはやれやれと息を吐き出しながら隣に腰を下ろせば、呆れたような態度が気に喰わなかったのか膝の上に乗り上げて来た。拒む理由も無いので、己よりも細い腰を支えて胸に寄り掛からせる。
「何をしているかと思えば、リィに引き留められたか?」
喉の奥で笑えば、体を起こした康泰の従僕魔―リィが主人の肩に駆け上がり、ロイウェンに対して小さな口を大きく開けた。
『貴殿の『影』が我が主を引き留めるのだ。分かっていてそのような事を申すのは些かつまらぬぞ?魔皇殿』
人であれば少しばかり不機嫌な表情をしているだろう声音だ。
可愛い子だと笑う康泰は、リィの言葉に同意する。
「少しばかり歩いたんだが…まあ、案の定出られる訳も無く、かと言って下手に魔力を使う事も出来なくて困っていたところだ」
来てくれて助かった。
そう言って笑う康泰だが、言う程困っていたわけでは無い。閉じ込めているのが、知っている人物の『影』であると知っていたのも大きい。
ロイウェンも唇に笑みを刷き、栗色の柔らかな髪に頬を寄せる。ひんやりとした空気と雪の匂い。康泰とロイウェンだけが纏う、『氷鏡』の名残だ。
「ユリエラさんは?」
「問題ない」
「なぜ俺は引き留められている?」
「さあ?」
首を傾げたのは揶揄でもなんでもなく、本当に分からなかったからだ。己の支配下から外れた『影』の意思を知る事は出来ない。
四方を囲む影を指先で触れるが、何も読み取る事は出来ない。
少しばかりの沈黙のあと、小さなため息と共に康泰が口を開いた。
「あんたの力ではなくなった『影』を呼ぶのは、余程の事だ」
真っ直ぐに見上げて来る琥珀色に、そうだなと胸中で肯定した。手放した力を求めるほどに、腹に据えかねたのだ。
「メリディアを捕えた」
康泰の胸の中央に手のひらを押し当て、手のひら全体で康泰の力強い鼓動を感じ取る。
「メリディア嬢を?…なぜ?」
外見は可憐な少女であってもその気質は苛烈であり、康泰にとって危険人物である事は認識していた。しかし、ロイウェンが手を出すほどの事案では無かった事も確かで。むしろ楽しんでいる節すらあった。
柔らかな吐息が首筋を擽り、康泰は僅かに身じろいだ。動く事を拒むかのように、ロイウェンの腕に力が籠る。
「アレは『境目』が曖昧になり始めていた」
言いながら脳裏に描くのは、『魔皇』に敵意と殺意を向けた仄暗い光を宿す少女の姿。
吐息と共に瞼を閉じて、少女の姿を掻き消した。
メリディアの根源たる『核』に刻み込んだ魔皇の祝福は永劫の呪い。永遠の傀儡と化す。消える事の無い『呪い』は少女を苛むだろう。
「境目…?あの子はメリディア嬢では無いと言うことか?」
呟くような声に、ロイウェンは内側に向いていた思考をそうと悟られぬようにゆっくりと浮上させる。
「…お前と対峙したのは正真正銘のメリディアだ。だが、あの頃のメリディアの『核』に何かが芽吹いたのだろう。いつその種が撒かれたのか一考の余地ありだがな」
ロイウェンが眠りに就いている間であろうが、不逞の輩を招き入れるほどに脆弱な結界では無いと自負している。
「…まあ、紛れ込む可能性はあるか」
天界からの不必要なまでの侵攻。その騒動を隠れ蓑に、何者かが入り込んだ可能性はある。
いくら強固な結界と言えど、抉じ開けられてしまえば隙間が生じ、いかに修復力が高くとも空白の刹那が生まれてしまう。
「侵入者の力の大きさに隠れれば、入り込む事は容易いだろうな…だが、ただ弱いだけならば、私の魔力によって散るはずだ」
「…じゃあ、あんたの魔力に負けない何かがソレにあると?」
「そう考えるのが妥当だろうな」
腕の中の温もりに言葉に出来ない安堵を覚え、とろりと瞼が落ちる。じわりと肌に広がる己とは違う『氷鏡』の感覚にほうと息を吐き出した。
永い歴史の中、魔皇にしか宿らない至高の魔力『氷鏡』。皇妃であろうとその身に宿す事の出来ぬ始まりの力であるはずなのに、なぜ。冥幻魔界と異なる世界に生きた子供の身に宿ったのか。異なる世界の魂だからこそ、なのか。
「魔皇さんの魔力に負けない、となると」
己の従僕魔のように懐いて来るロイウェンを気に掛ける事も無く、康泰は考え込む。脳裏に思い描いたのは、男でもあり女でもある黄泉の王帝。意思を持つと言う王帝の力『九泉』。
「可能性はあるだろうな」
だが、あくまで可能性の話。
『九泉』は王帝の為だけの力。王帝の一部と言っても過言ではない、意思あるものだ。王帝以外が長く触れて正気を保っていられる代物ではない。
「王帝に話を聞くしかあるまいよ」
「…そうだな」
今ここで考え込んでも答えは出ないのは明白。
「なら、早くここから出して欲しいんだがね」
出してもらえる気配は皆無。寧ろ拒絶の意思を感じる。
後ろの元飼い主は、くつくつと笑うだけで手伝う素振りも見せない。
「名を呼んであげれば、姿を現す」
「名前?」
「『影』は主の半身。個としての意思もある存在だ。もちろん、名も。私の『影』だったこの子の名は『―』だ」
「オゥ…?」
「ああ、影法師以外には些か聞き取りにくい発音かも知れんな。そうだな…『ロディウス』と」
耳慣れない発音は影法師一族特有のものらしく、正確に聞き取る事は困難だと言う。ミオンやシュノアですら首を傾げると聞くと、相当難しいのだと分かる。
康泰でも聞き取れる名前を音に。
「ロディウス…?」
名前を音に乗せれば、クォンとひと声。
影の一部がしゅるりと解けて、狐を模った。影の漆黒とは正反対の、美しい純白の毛並みをした三尾の狐。毛先に白銀が混じっているようで闇の中でふわりと光を纏う。
「大きいな…」
美しくはあるが、その大きさに瞠目する。顔の大きさが康泰の背丈ほどあり、体躯は更に大きなものだ。
康泰の背後からロイウェンが手を差し出せば、くぅくぅと甘えた声を出しながら鼻先を寄せた。
「本来、この子は十尾を持つ。尾の本数で我が身の大きさを調整していて、本来の姿はもっと大きく美しい。城を覆い隠さんばかりの大きさほどか…?」
「それは、また…」
驚愕にまばたく康泰を、白狐は見つめる。おかしそうに眇められた白銀の眦が何とも艶めかしい。
「どうして俺を閉じ込める」
ため息交じりに問えば、白狐はくうと鼻を鳴らして長く薄い舌で康泰の頬をべろりと舐め上げた。
『アナタは、とても、かなしいコ…』
女の声だった。穏やかで、優しい、母のような。
『あなたの、中心ハ、『混沌』。あつかいヲ間違えレば、己サエも、滅ぼしかねナい、とても、強いチカラ』
美しい狐は、生きてと請う。
『アナタの、生く道ハ、命ヲ対価に、作られル。此方の、主上の手ヲ離しては、だメ』
「ロディウス、お前の主はユリエラだぞ」
ぬ、と背後から出てきた手に、少しばかり肩が跳ねあがった。ロイウェンが居る事を忘れた訳では無いのだが、目の前の白狐に意識が捉われていたのだと気付く。
ロイウェンが顎の下を撫でれば、白狐はくるくると猫のように喉を鳴らした。
『ええ、此方の契約主は、ユリエラ様。でも、主上ハ、あなた』
そう囁いた声は、寂しさと哀しさを滲ませていた。
白狐の双眸が再び康泰に向く。
『愛しき子、これハ、誓イ。決して、主上の手ヲ』
「離さんよ。美しき白き『影』の王、あなたに誓おう」
紡がれようとした言葉を遮り、康泰は宣誓する。
「あなたとの誓約だ。俺からは絶対に離れる事は無い」
交錯した琥珀と白銀の奥に刻まれた、雪の紋様。それが、康泰と白狐の『祈誓』の証。
その様子を眺めていたロイウェンの胸の内には、少しばかり苦々しい思いが広がる。
康泰は誓約した。自分からは離れる事は無い、と。
ロイウェンは康泰に気付かれぬよう、そろりと息を吐き出した。
自分からは離れる気は無いが、ロイウェンから離れる可能性があると言っているようなものだ。
彼の心の柔らかい部分を垣間見たような気がした。
そっと動き、康泰の背後に立つ。
『ロゥディクラウス、『影』の王であり、愛しき我が半身よ』
紡がれた言葉には、強い魔力が込められていた。
古語を解さない康泰は、訝し気に表情を歪める。
『我が『魔皇』の名に於いて誓う。我が皇妃『星呂康泰』は我が掌中の珠。損なう事無く共に在り、共に朽ちる事を我が魂、其方の根源に刻み賜う』
白狐の白銀の毛がざわめき、その双眸が歓喜に染まる。
先に刻み込まれた雪の紋様を囲うように、『魔皇の刻印』に酷似した翼の印が刻まれた。
『主上の誓い、確と賜りまして…』
ロイウェンと同じ古語で返した白狐がぱちりとまばたきすれば、刻み込まれた『祈誓』が虹彩に溶けて消え去った。
『楔は、打タれた。愛しき子、すでニ、此方のカケラは、其方に溶け込ンで、芽吹いテいる。何かあれバ、我が『子』を使いナサイ』
―此方とは、もう、二度と会わぬでしょう。
白狐の言葉に康泰が驚く間も無く、周囲の影がざらりと解け、視界が一気に明るくなった。
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