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嫉妬という感情 1

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 農業用のため池を作ってほしいと要望が上がっていた村へ、ラルフはケネスを伴って視察へ行った。

 オーレリアもついて行きたかったけれど、ラルフは遊びに行くわけではないので断念し、大人しく留守番をすることにする。

 母は父が視察に出向くときに同行することが多かったけれど、ラルフとオーレリアは夫婦ではないから、当然のようにオーレリアがくっついていくのはおかしい。

「お嬢様、注文していたハンカチが到着しましたよ」

 ラルフがいなくなるだけで邸の中ががらんとして淋しく感じるのは何故だろう。いつもと変わらないはずなのに色あせたような邸の中を、意味もなく歩き回っていた時、ドーラがそう言ってオーレリアを呼んだ。

 オーレリアはパッと顔をあげた。

 ドーラがオーレリアの部屋に届いたハンカチを運んでくれたと言うから、急いで自室へ向かう。

 ソファの前のローテーブルの上に置かれた小さな箱には、青いハンカチが十枚ほど入っていた。

 ラルフがバベッチ家の仕事をしてくれているから、お礼に何かできないかと考えて、刺繍をしたハンカチをラルフが喜んでくれたから、それをあげることにしたのだ。

 ラルフはオーレリアが刺繍をした青いハンカチを毎日胸ポケットに入れていて、洗濯しなくてはいけないから貸してくれと言うのに、使っていないから大丈夫だと言って渡してくれないのだ。ハンカチは使うためのものなのに、きっと一枚しかないから遠慮して使っていないのだろう。それならたくさんあげればいい。

 この前買った銀糸はまだたくさん残っているので、同じように、ラルフのイニシャルとカルフォード家の紋章を刺繍するのだ。

 ラルフが帰ってくるのを待っている間の暇つぶしとしてもちょうどいい。

 オーレリアはさっそくハンカチを刺繍枠にセットして、チクチクと刺繍を開始した。

 外で遊ぶことが好きオーレリアだったが、刺繍は貴婦人の心得だと言って、母からみっちり叩き込まれている。母の刺繍の腕は相当なもので、邸の中には母の力作のタペストリーがいくつも飾られているのだ。

 父は母が刺繍したハンカチがお気に入りで、あちこちで自慢して回っていたことを思い出す。

 兄はそんな父に苦笑いで、母はいつも恥ずかしそうで――、ああ、ついこの前まであった日常は、もう二度と戻ってこないのだ。

 動かしていた針を止めて、オーレリアは自然に浮かんできた涙を袖口でぬぐった。

 ふとした瞬間に、やっぱりまだ淋しいと思う。悲しいと思う。どうしてと泣き叫びたくなる。

 ラルフがいなければ、きっとオーレリアはまだその悲しみのどん底にいて、膝を抱えて泣いていただろう。

 ラルフのRの文字を刺繍し終わったオーレリアは、無意識のうちに、その隣に入れる紋章を、百合ではなくて柊の――バベッチ家の紋章を刺繍しはじめてしまった。

 ハッと気づいた時には、今から百合に修正するのは難しく、仕方なく柊の紋章を最後まで刺繍する。

 残念だが、このハンカチは渡せないだろう。刺繍を終えたハンカチを丁寧に畳んで、オーレリアはテーブルの隅に置いた。

 針を置いて、大きく伸びをしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

 誰か来たらしい。ケネスがラルフと一緒に視察に行っていていないから、ドーラが確認しに降りてくれる。

 しばらくして、ドーラは険しい表情で戻ってきた。

「お嬢様がお望みでしたら追い返しますが」

 誰が来たのかも継げずに、ドーラが硬い声で言う。

 それだけではよくわからないので来客を確認すれば、ドーラはコリーン・ダンニグだと短く答えた。

 コリーン・ダンニグ。叔父のエイブラム一人娘で、オーレリアの従妹。

 先日叔父がはじめてここに来たときに一緒に来ていたけれど、オーレリアを蔑んだ目で見るだけで、会話らしい会話もしなかったあのコリーンだ。

(いったい何の用?)

 ドーラによると、エイブラムやその妻チェルシーの姿はなく、コリーンは一人で来たとのことだった。

 ドーラの言う通り追い返してほしいけれど、ここで追い返せば、次は叔父たちを連れて乗り込んでくるかもしれない。そう考えると追い返すのはまずいかもしれない。オーレリアはこの家を奪おうとするあの家族には極力関わりたくないのだ。

「いいわ、降りるから。場所はサロン?」

「はい、そちらへお通ししています」

 オーレリアは頷いて、裁縫道具を片付けるとサロンへ向かった。

 サロンの扉を開けると、部屋の中から「いつまで待たせるのよ!」と不機嫌そうな怒鳴り声が聞こえる。

 待たせたと言っても数分だ。事前に訪問予定も告げずに貴族宅へやってきた場合、そのくらい待たされるのは当然で、怒るようなことではない。

 オーレリアは僅かに眉を寄せたが、これでこちらも礼を欠いても大丈夫だと思いなおすことにした。

 最初に失礼をしたのはそちらだ。オーレリアの態度が多少つっけんどんでも、自業自得と言うものである。

「何の用かしら?」

 サロンのソファに腰を下ろしながらオーレリアは開口一番に訊ねた。

 お茶も茶菓子も出さない。長居をさせる気はないからだ。この前は家族を失ったばかりで憔悴していたから叔父に好き勝手言わせる結果になったけれど、いつものオーレリアなら言われっぱなしではないのである。

 歓迎する気はさらさらないというオーレリアの態度に、コリーンは細い――本当に細い。眉を抜きすぎだと思う――眉を跳ね上げた。

 しかしすぐににんまりと口端を釣り上げると、くるくるときつく巻かれた髪を指先でいじりながら居丈高に言う。

「今日は忠告しに来てあげたのよ。いつまでもここに居座っていても無駄だってね。ここはもうすぐ完全にお父様のものになるんだもの。そして、いずれはわたくしと、わたくしと結婚するラルフ様のものになるのよ」

「勝手な――なんですって?」

 勝手なことを言うなと言おうとしたオーレリアだったが、コリーンが言った「ラルフ」の名前に目を見開いた。

(ラルフって……ラルフのこと?)

 ラルフ・カルフォードのことだろうか。そんな馬鹿な。何故ラルフがコリーンと結婚するのだ。

 驚いているオーレリアに、コリーンはふふんと鼻を鳴らした。

「知らなかったの? わたくしとラルフ様は結婚するの。サンプソン公爵様にお願いをしておいたもの。なんでも、ラルフ様すでにここで伯爵家の仕事をしてくださっているんですってね。わたくしとの将来のために今から動いてくださるなんて、本当にお優しい方」

 オーレリアは口を半開きにしたまま固まった。

(何を……言ってるの?)

 ラルフはオーレリアに求婚したはずだ。それなのにどうしてコリーンと結婚することになっているのか。

(領主様にお願いしたって……領主様はそれをお認めになったの?)

 領主命令なら、オーレリアは何も言えなくなる。領主はここを叔父一家に継がせると決めてしまったのだろうか。だからコリーンとラルフを結婚させようとしているのだろうか。

(ラルフは知らなかったの……?)

 そんなはずはないと思う。結婚する当事者がそれを知らないなんてありえない。ならばラルフは、知っていてそれをオーレリアに黙っていたのだろうか。

(わたしに求婚したじゃない。なのにどうして……)

 ラルフがオーレリアを裏切るわけはない。わかっている。信じている。――だけど、不安になる。

 どうして今日、ラルフはここにいないのだろうか。

 どうして今日に限って視察に行ったのだろうか。

 ここに来て、オーレリアの隣に座って、コリーンの言葉を否定してほしかった。

「だからさっさと出て行ってよね。あんたがここにいるせいで、引っ越しの準備が進まなくて困るのよ。ここにあるいらないものだって処分しないといけないのに」

(処分?)

 この家はオーレリアの大切な家。ここにあるものは家族との思い出が詰まったかけがえのないもの。それをコリーンは、処分と言った?

「……出て行って」

 オーレリアは震える声で言った。

「出て行きなさい。今すぐに! ここはあなたが来ていい場所じゃないわ!」

 オーレリアの叫び声を聞いて、ドーラが駆けつけてくる。

 泣くものかと歯を食いしばってコリーンを睨みつけるオーレリアに、ドーラはすぐに反応した。

「お引き取りくださいませ」

 オーレリアをかばう位置に回り、サロンの扉に手のひらを向ける。

 コリーンは鼻白んだが、するに嘲るような笑みを浮かべて立ち上がった。

「今日のところは帰るけど、さっさと荷物をまとめておいてよね」

 最後にそう言い残して、ヒラヒラのドレスを揺らしながら去っていく。

 オーレリアは顔を覆って俯いた。

 ドーラが隣に座って、オーレリアの肩を引き寄せる。

「お嬢様……」

「大丈夫よ」

 泣きそうな声で言っても説得力がないかもしれないが、オーレリアは大丈夫。あんなことで負けたりしない。ここを明け渡したりするものか。

「ここはわたしの、大切な家なの……。絶対に、あの人たちには渡さない……!」
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