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しばらくして、右近が酒と肴を持ってくると、恬子は彼女に宴席で楽しんでくるように伝えた。
朝臣殿は簀子近くまで移動して、柱にもたれかかるようにして座り、空を仰いでいた。
「御簾越しでは、月が見えにくくありませんか?」
朝臣殿が提子から手酌で酒を注ぎながら問いかけてきた。
恬子は口端を柔らかく持ち上げると、その問いには答えずに逆に問いかける。
「月は出ておりますか?」
「うっすらと見えますよ。宵闇がもう少し深くなれば、綺麗に輝くことでしょう」
朝臣殿は杯を持ち上げて、優雅に口に運ぶ。
「灯りを消してもよろしいでしょうか?」
「え? ああ、気がつかなくてごめんなさい」
月を眺めるのに、灯台に火が灯ったままでは邪魔で仕方がない。
朝臣殿は数歩先にある灯台の火を消して、もう一度腰を落ち着けると、杯の中の酒を飲み干して黙り込んだ。
静かに月見酒を楽しみたいと言っていたから、てっきりそうなのだろうと思って口を閉ざしていたら、彼はささやくように訊ねてくる。
「こちらへいらっしゃいませんか?」
「こちら……?」
言葉の意味をすぐに理解できずにいると、朝臣殿がぽんぽんと自分の横を叩く。
恬子は驚いた。御簾から出て来いと言われているのだ。
「そこからでは月はよく見えないでしょう?」
「そ、それは……、そうですけど」
「月が見えないのでは、何のための月見なのかわからないではありませんか」
「そ、そうです、けど……」
「こちらへ」
恬子の逡巡を切り捨ててしまうかのように、有無を言わさない口調だった。
「で、でも……」
「早く。ここには私しかおりませんから」
恬子はまだ躊躇いながら、伺うように御簾を少しだけ開けた。その瞬間、朝臣殿に左腕を掴まれてぐっと引っ張られる。
「あっ」
声をあげたときにはもう、朝臣殿によって御簾の外に引きずり出されていた。
恬子が口をぱくぱくさせていると、朝臣殿が勝ち誇ったように笑う。
「ほら、よく見えるでしょう?」
まだほのかな月明かりが、朝臣殿の意地悪な笑顔を照らし出す。
「し、信じられない……」
左腕を掴まれたままなので、御簾の中へ逃げることはできないし、顔を隠すこともできない。恬子は真っ赤になってうつむいた。
「あなたが早く出てこないから悪いのですよ」
「だ、誰かに見られたら……」
「みな、酒宴で騒いでいるのです。誰も来やしませんよ」
恬子はそっと息を吐いた。裳着を終えてからは、異性――実の兄にすら顔を見せたことはなかったのに。
「怒りましたか?」
「いいえ、驚いているだけです」
恬子はあきらめて顔をあげた。
まだ少し明るさの残る夜空に丸い月が浮かんでいる。空に薄く雲がかかっているのか、月の輪郭はややぼやけて見えた。
「惟喬様に似ていらっしゃる」
「兄妹ですもの」
緊張からか、頬が熱い。
恬子は精いっぱいの見栄で平常心を装うと、提子を取って、朝臣殿の杯に透明な液体を注いだ。
酒宴の喧騒が微かに聞こえてくる中、素顔をさらして朝臣殿と言葉を交わしていることが不思議で仕方がない。掴まれたままに左腕は甘くしびれていた。
恬子が本気で嫌がれば、朝臣殿は彼女を御簾の中に返してくれるだろう。わかっていても、腕がつかまれたままだからと自分に言い訳して逃げないのは、恬子自身、朝臣殿から離れがたく思っているからにほかならない。
(あと数日しか、いないのに……)
朝臣殿が帰ってしまえば、もう会うことはないだろう。少なくとも、恬子が伊勢を退去するまでは。
掴まれたままの左腕が熱くて、否が応でも気づかされてしまう。
彼と話がしたくて、離れたくなくて、そばにいたくてどうしようもないのは恬子の方なのだと。朝臣殿は、惟喬の妹である恬子をからかって楽しんでいるだけにすぎないのかもしれないが、それでも十分だと思えるほどに惹かれている。
彼が都に帰ったあと、長い年月を彼のいないこの地ですごすのかと思うと、心が凍えてしまいそうだった。
からっぽになった杯に酒をつぎ足す。彼は心奪われたように月を眺めていて、先ほどから黙り込んでしまっていた。
恬子の存在は、月よりもちっぽけなのだ。そう思って恬子が唇をかみしめたときだった。
「宮様、ひとつ詠んでくれませんか?」
「え?」
何を求められたのかは、わかる。歌だ。
彼の悪戯心がまた首をもたげたのだろうか?
歌は苦手ではないが得意でもない。だが、歌を詠ませたらその人ありと言われる彼を前にして詠めというのは、意地悪以外の何ものでもなかった。
恬子は彼に捕まれている左腕を見た、彼の気まぐれで捕らえられてしまったが、彼の興が冷めれば、簡単になかったことのように振り払われる、不確かなつながり。
この人はきっと、今日、今このときのこともすぐに忘れて、また都の生活にもどるのだろう。彼の心には入れない。
恬子は泣きたくなってきた。
「……かち人の……、渡れど濡れぬ、えにしあれば」
あなたとは、歩いて渡ったとしても、裾も濡れないほどの浅い川のような、本当に浅い浅いご縁ですので――、震える声でそれだけ詠んで、恬子は口を閉ざす。
下の句は思いつかなかった。いや、考えたくなかった。これ以上、この縁がどれほどちっぽけなものなのかなんて、口に出したくはなかった。
朝臣殿が小さく息を呑む音が聞こえて、恬子は睫毛を伏せる。
情緒もない、月見の席にはあまりに不似合いで、失礼な歌を詠んだ。謝ろうかとも思ったが、そうするとさらに場の空気を凍らせる気がして、恬子はただ口を引き結ぶ。
長いのか短いのかわからない沈黙が落ちた。
恬子の腕をつかむ朝臣殿の手が離れた。ぬくもりが離れて、恬子の目から涙が落ちそうになる。
だが、本当に涙がこぼれてしまう前に、朝臣殿が恬子の細い手を両手で握りしめた。
「あなたは雪のような人だ」
その声があまりに優しくて、恬子は顔をあげた。
いつの間にか闇が濃くなっていて、銀色の月明かりが彼の横顔を照らしていた。
「触れるとあっという間に溶けて消えて……、まるで、はじめからそこにはなかったかのように。捕えてみたいのに、そうすると消えてしまいそうで、私はそれがひどく怖い」
恬子はゆっくりと瞼を下ろして、上げた。そんな瞬きを何度か繰り返す。その拍子に目の淵に溜まっていた涙が零れ落ちて頬を伝った。
朝臣殿は恬子の頬を流れる涙をぬぐって、彼女の読みかけの歌を拾った。
「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば――、またあふ坂の、関はこえなむ。……逢いに行きます。たとえそれが、何年後であっても。だから今は、こうしてそばにいてくれませんか?」
恬子の目が、ゆっくりと見開かれる。
「佐殿……?」
「必ず、逢いに行きますから」
再び目の淵に盛り上がった涙を、朝臣殿の指がさらっていく。
「―――っ」
恬子は朝臣殿の手をぎゅっと握り返した。
「わ、たくし……」
好きだと、言ってしまいそうだった。その口に朝臣殿の人差し指がそっとあてられて塞がれる。この場でこれ以上は駄目だ、と。
だから恬子は小さく頷いて、朝臣殿の肩口に額をつけて、そっと寄りかかった。
月が、綺麗だった。
朝臣殿は簀子近くまで移動して、柱にもたれかかるようにして座り、空を仰いでいた。
「御簾越しでは、月が見えにくくありませんか?」
朝臣殿が提子から手酌で酒を注ぎながら問いかけてきた。
恬子は口端を柔らかく持ち上げると、その問いには答えずに逆に問いかける。
「月は出ておりますか?」
「うっすらと見えますよ。宵闇がもう少し深くなれば、綺麗に輝くことでしょう」
朝臣殿は杯を持ち上げて、優雅に口に運ぶ。
「灯りを消してもよろしいでしょうか?」
「え? ああ、気がつかなくてごめんなさい」
月を眺めるのに、灯台に火が灯ったままでは邪魔で仕方がない。
朝臣殿は数歩先にある灯台の火を消して、もう一度腰を落ち着けると、杯の中の酒を飲み干して黙り込んだ。
静かに月見酒を楽しみたいと言っていたから、てっきりそうなのだろうと思って口を閉ざしていたら、彼はささやくように訊ねてくる。
「こちらへいらっしゃいませんか?」
「こちら……?」
言葉の意味をすぐに理解できずにいると、朝臣殿がぽんぽんと自分の横を叩く。
恬子は驚いた。御簾から出て来いと言われているのだ。
「そこからでは月はよく見えないでしょう?」
「そ、それは……、そうですけど」
「月が見えないのでは、何のための月見なのかわからないではありませんか」
「そ、そうです、けど……」
「こちらへ」
恬子の逡巡を切り捨ててしまうかのように、有無を言わさない口調だった。
「で、でも……」
「早く。ここには私しかおりませんから」
恬子はまだ躊躇いながら、伺うように御簾を少しだけ開けた。その瞬間、朝臣殿に左腕を掴まれてぐっと引っ張られる。
「あっ」
声をあげたときにはもう、朝臣殿によって御簾の外に引きずり出されていた。
恬子が口をぱくぱくさせていると、朝臣殿が勝ち誇ったように笑う。
「ほら、よく見えるでしょう?」
まだほのかな月明かりが、朝臣殿の意地悪な笑顔を照らし出す。
「し、信じられない……」
左腕を掴まれたままなので、御簾の中へ逃げることはできないし、顔を隠すこともできない。恬子は真っ赤になってうつむいた。
「あなたが早く出てこないから悪いのですよ」
「だ、誰かに見られたら……」
「みな、酒宴で騒いでいるのです。誰も来やしませんよ」
恬子はそっと息を吐いた。裳着を終えてからは、異性――実の兄にすら顔を見せたことはなかったのに。
「怒りましたか?」
「いいえ、驚いているだけです」
恬子はあきらめて顔をあげた。
まだ少し明るさの残る夜空に丸い月が浮かんでいる。空に薄く雲がかかっているのか、月の輪郭はややぼやけて見えた。
「惟喬様に似ていらっしゃる」
「兄妹ですもの」
緊張からか、頬が熱い。
恬子は精いっぱいの見栄で平常心を装うと、提子を取って、朝臣殿の杯に透明な液体を注いだ。
酒宴の喧騒が微かに聞こえてくる中、素顔をさらして朝臣殿と言葉を交わしていることが不思議で仕方がない。掴まれたままに左腕は甘くしびれていた。
恬子が本気で嫌がれば、朝臣殿は彼女を御簾の中に返してくれるだろう。わかっていても、腕がつかまれたままだからと自分に言い訳して逃げないのは、恬子自身、朝臣殿から離れがたく思っているからにほかならない。
(あと数日しか、いないのに……)
朝臣殿が帰ってしまえば、もう会うことはないだろう。少なくとも、恬子が伊勢を退去するまでは。
掴まれたままの左腕が熱くて、否が応でも気づかされてしまう。
彼と話がしたくて、離れたくなくて、そばにいたくてどうしようもないのは恬子の方なのだと。朝臣殿は、惟喬の妹である恬子をからかって楽しんでいるだけにすぎないのかもしれないが、それでも十分だと思えるほどに惹かれている。
彼が都に帰ったあと、長い年月を彼のいないこの地ですごすのかと思うと、心が凍えてしまいそうだった。
からっぽになった杯に酒をつぎ足す。彼は心奪われたように月を眺めていて、先ほどから黙り込んでしまっていた。
恬子の存在は、月よりもちっぽけなのだ。そう思って恬子が唇をかみしめたときだった。
「宮様、ひとつ詠んでくれませんか?」
「え?」
何を求められたのかは、わかる。歌だ。
彼の悪戯心がまた首をもたげたのだろうか?
歌は苦手ではないが得意でもない。だが、歌を詠ませたらその人ありと言われる彼を前にして詠めというのは、意地悪以外の何ものでもなかった。
恬子は彼に捕まれている左腕を見た、彼の気まぐれで捕らえられてしまったが、彼の興が冷めれば、簡単になかったことのように振り払われる、不確かなつながり。
この人はきっと、今日、今このときのこともすぐに忘れて、また都の生活にもどるのだろう。彼の心には入れない。
恬子は泣きたくなってきた。
「……かち人の……、渡れど濡れぬ、えにしあれば」
あなたとは、歩いて渡ったとしても、裾も濡れないほどの浅い川のような、本当に浅い浅いご縁ですので――、震える声でそれだけ詠んで、恬子は口を閉ざす。
下の句は思いつかなかった。いや、考えたくなかった。これ以上、この縁がどれほどちっぽけなものなのかなんて、口に出したくはなかった。
朝臣殿が小さく息を呑む音が聞こえて、恬子は睫毛を伏せる。
情緒もない、月見の席にはあまりに不似合いで、失礼な歌を詠んだ。謝ろうかとも思ったが、そうするとさらに場の空気を凍らせる気がして、恬子はただ口を引き結ぶ。
長いのか短いのかわからない沈黙が落ちた。
恬子の腕をつかむ朝臣殿の手が離れた。ぬくもりが離れて、恬子の目から涙が落ちそうになる。
だが、本当に涙がこぼれてしまう前に、朝臣殿が恬子の細い手を両手で握りしめた。
「あなたは雪のような人だ」
その声があまりに優しくて、恬子は顔をあげた。
いつの間にか闇が濃くなっていて、銀色の月明かりが彼の横顔を照らしていた。
「触れるとあっという間に溶けて消えて……、まるで、はじめからそこにはなかったかのように。捕えてみたいのに、そうすると消えてしまいそうで、私はそれがひどく怖い」
恬子はゆっくりと瞼を下ろして、上げた。そんな瞬きを何度か繰り返す。その拍子に目の淵に溜まっていた涙が零れ落ちて頬を伝った。
朝臣殿は恬子の頬を流れる涙をぬぐって、彼女の読みかけの歌を拾った。
「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば――、またあふ坂の、関はこえなむ。……逢いに行きます。たとえそれが、何年後であっても。だから今は、こうしてそばにいてくれませんか?」
恬子の目が、ゆっくりと見開かれる。
「佐殿……?」
「必ず、逢いに行きますから」
再び目の淵に盛り上がった涙を、朝臣殿の指がさらっていく。
「―――っ」
恬子は朝臣殿の手をぎゅっと握り返した。
「わ、たくし……」
好きだと、言ってしまいそうだった。その口に朝臣殿の人差し指がそっとあてられて塞がれる。この場でこれ以上は駄目だ、と。
だから恬子は小さく頷いて、朝臣殿の肩口に額をつけて、そっと寄りかかった。
月が、綺麗だった。
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