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恬子はぱらりと蝙蝠扇を広げた。
扇の面には、歌の下句が書いてある。
兄と中将はまだ、酒を飲みながら話を弾ませているが、夜も更けてきたので、恬子は先に部屋に下がらせてもらったのだ。
寒いけれど、半蔀を少しだけ開いて、月明かりに浮かぶ雪を見やる。
すぐそばにおいた火桶の炭をつつきながら、恬子はふうと息を吐いた。
今から四年前の貞観十八年――、異母弟が帝の位を譲位し、その子である東宮が即位したため、恬子は斎宮を解かれて伊勢を退去した。
そして、恬子が都に戻ってすぐの夜、中将は扇に歌を書いてよこしたのだ。その次の日には昔交わした約束の通り、逢いに来てくれた。
恬子はとても嬉しくて――、嬉しかった、けれど――
「宮様」
呼ばれて、恬子はハッと顔をあげた。
少しだけ開けた半蔀から中将がこちらを覗き込んでいた。
「この寒い中、半蔀をあげているなんて……。風邪を引いたらどうするのですか」
そう言いながら、当たり前のように部屋の中に入ってくる。
酒の入った中将の顔は赤かったが、彼は惟喬とは違い、酒を飲んでも平静なままだ。
恬子に許可もなく、中将が半蔀を閉じてしまうと、室内が密閉されてしまったかのように感じられる。
「その扇、まだ持っていてくださったんですね」
「あ―――」
隠す前に扇が奪われて、中将が懐かしそうに手の内で弄ぶ。
恬子は気恥ずかしくなって視線を彷徨わせた。
「嬉しいですよ」
微笑まれると、少女の時のように心臓が高鳴る。
「お兄様は……?」
「酔って寝てしまわれました」
「まあ、仕方のないお兄様……」
酔いつぶれるほど飲んだのかと恬子はあきれる。
「中将殿は大丈夫なのですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。最近はあまり飲まないようにしているので」
そういえば、兄もそのようなことを言っていた。
「やっぱり、お年を召されると、あまり飲めなくなるのですか?」
「宮様……」
恬子が何気なしに問えば、中将はうめくような声を出した。
「ひどいな。そんなに年寄り扱いしなくてもいいでしょうに」
「え? そ、そんなつもりでは……」
恬子はハッとして袖口で口を覆った。
「た、ただその……、若い時のように無茶はできなくなるのかと……、ええっと、お年寄りだなんて言っているわけではなくて、むしろ中将殿はびっくりするくらい若々しくていらっしゃるし、だから……」
「ふ、ふふふ」
恬子が慌てふためいて言い繕うと、中将は一転しておかしそうに肩を揺らした。
からかったのかと恬子はムッとするが、怒る前に中将の額にじんわりと汗が浮かんでいるのに気がつき、手を伸ばす。袖口で彼の額をそっとぬぐった。
「体調が悪いのですの?」
中将に久しぶりに会えて舞い上がっていたから気がつかなかったが、よく見れば、彼の顔色はあまりよくない。
中将は左右に首を振った。
「いいえ、大丈夫ですよ」
「でも……」
「本当に大丈夫なのです。でも、そうだな……、少しくつろいでもいいですか?」
食い下がろうとすると、中将は冠の紐を解いた。
惟喬の前にいたからか、沐浴を終えたあとだというのに、髪を整えて冠までかぶっていたのだ。
中将は紙の間に指を入れて軽く梳かすと、襟元をくつろげて息をついた。
「ああ、楽になりました」
楽になったと言うが、顔色の悪さは変わらない。けれども彼が大丈夫だと言い切るので、恬子はそれ以上追及しないことにした。
(雪道で体を冷やしてしまわれたのかもしれないわね)
火桶を中将のそばに押しやると、恬子に気づかいを知った中将が優しく目を細める。
扇を開いたり閉じたりしながら、中将は「懐かしいな」とつぶやいた。
「これを届けたあと、あなたからの返事がもらえないから、てっきり嫌われてしまわれたのかと落ち込みましたよ」
「そ、そんなことはありません!」
約束を覚えていてくれたことが嬉しくて――、きちんとした返事を返さなくてはと考えすぎてしまっただけだ。そして、返事を出す前に中将が訪れた。
「そうでしょうか? 結局いまだに、これの返事はもらえていないのですがね」
「うう……、もういいではないですか」
「ふむ。……では、返事がもらえないのなら、この扇は返してもらおうかな」
「だめ!」
恬子が慌てて扇を取り戻すと、中将が楽しそうに喉を鳴らして笑う。
(もう! この人はいくつになっても、わたくしをからかって遊んでばっかり!)
やられっぱなしでは悔しいので、何か意趣返ししてやろうと考えながら、じっとりと中将を睨みつける。
すると、中将はこらえきれなくなったのか、声をあげて笑い出した。
「はは、まったくあなたは! 昔から全然変わらない!」
「そんなことはありません! わたくし、もう三十五ですのよ。いつもでも子ども扱いなさらないでください!」
「いや、子ども扱いをしているつもりはないのですが……、そうか、あなたももう三十五か。私が年を取るはずだな」
中将は感慨深そうに頷く。
「でも、やはりあなたは変わりませんよ。昔のまま……、かわいらしいままだ」
恬子はかあっと頬を染めて中将から視線をそらした。
「ねえ、宮様」
中将は手を伸ばすと恬子の手を優しく握りしめる。
「私と一緒に、都に帰りませんか?」
「……中将殿?」
恬子は驚いて、中将の瞳を覗き込んだ。吸い込まれそうなほど深い黒の瞳が、真剣な光を宿している。
冗談で口にしているのではなさそうだった。
「そばにいてもらえませんか? こんなに遠く離れたところではなく、私のすぐそばに」
恬子の両手を握りしめる中将の手が、熱い。
恬子が小野に居を移してしばらくたつが、中将はこれまで一度も都に戻って来いとは言わなかった。それなのに、今日に限ってどうしてそんなことを言うのだろう。
「お願いです、そばにいてくれるだけでいい。私と一緒に、都へ帰りましょう?」
真剣で、そして熱っぽい声に恬子は頷きたくなる。
だが、泣きそうになりながらも、恬子はゆっくりと首を横に振った。
「わたくしは……、行けません」
「お願いです」
「だめなのです……」
「あなたは昔もそう言った。私のことを好きだと言いながら、私ではだめだと言う。いっそ嫌いだと言われた方がどれほど楽か……、わかりますか?」
「違う……、中将殿がだめなのではなくて、わたくしが―――」
「あなたの言い分は、今も昔もわかるようでわからない。もういいではないですか。些末なことなど考えず、私を好きだというその気持ちだけではだめなのですか?」
いつも恬子の心を慮ってくれる中将が、今日はやけに食い下がる。
恬子はふるふると力なく首を振った。
「私のことが嫌いですか?」
その訊き方は、ずるい。
「嫌いでは……」
「では、好きですか?」
「―――はい」
「それなのに一緒に都に帰ってはくれないのですか?」
恬子はきゅっと唇をかみしめた。
いっそすべてを投げうって、くだらない考えなどすべて捨てて、感情のままに頷いてしまいたかった。
何も言えずに押し黙っていると、中将が細く息を吐きだす。握りしめていた恬子の手も解放された。
「すみません、あなたを困らせたいわけではないのです」
中将の手が伸びで、まるで幼子にするように、恬子の頭を何度も撫でる。
「宮様、私はあなたが好きです。愛しています。あの時――、あなたを妻にと望んだあの時から、私の気持ちは変わりません。あの時のまま、私はあなたのことをずっと恋しく思っている。けれどもあなたは好きだけれどだめだと言う。残酷な方だ」
恬子を避難しているはずの中将の声は、内容に反してとても穏やかだった。
「ごめんなさい……」
声を震わせながら謝罪すると、恬子の頭を撫でていた中将の手が頬に滑り落ちて、手の甲で数回撫でて行く。
「私はもう休ませてもらいます。このままここにいては、あなたを傷つけるようなことをしそうで怖い。……おやすみなさい、宮様」
中将の手が恬子から離れる。
ぬくもりが離れていくことが、ひどく淋しかった。
引き留めることもできずに中将が部屋を出て行くと、恬子は中将が触れて行った頬を指先でなぞる。
(本当はわたくしだって……、そばに、いたいのに……)
どうして自分は内親王なのだろう。
うつむいた恬子の目から、はらはらと涙が零れ落ちた。
扇の面には、歌の下句が書いてある。
兄と中将はまだ、酒を飲みながら話を弾ませているが、夜も更けてきたので、恬子は先に部屋に下がらせてもらったのだ。
寒いけれど、半蔀を少しだけ開いて、月明かりに浮かぶ雪を見やる。
すぐそばにおいた火桶の炭をつつきながら、恬子はふうと息を吐いた。
今から四年前の貞観十八年――、異母弟が帝の位を譲位し、その子である東宮が即位したため、恬子は斎宮を解かれて伊勢を退去した。
そして、恬子が都に戻ってすぐの夜、中将は扇に歌を書いてよこしたのだ。その次の日には昔交わした約束の通り、逢いに来てくれた。
恬子はとても嬉しくて――、嬉しかった、けれど――
「宮様」
呼ばれて、恬子はハッと顔をあげた。
少しだけ開けた半蔀から中将がこちらを覗き込んでいた。
「この寒い中、半蔀をあげているなんて……。風邪を引いたらどうするのですか」
そう言いながら、当たり前のように部屋の中に入ってくる。
酒の入った中将の顔は赤かったが、彼は惟喬とは違い、酒を飲んでも平静なままだ。
恬子に許可もなく、中将が半蔀を閉じてしまうと、室内が密閉されてしまったかのように感じられる。
「その扇、まだ持っていてくださったんですね」
「あ―――」
隠す前に扇が奪われて、中将が懐かしそうに手の内で弄ぶ。
恬子は気恥ずかしくなって視線を彷徨わせた。
「嬉しいですよ」
微笑まれると、少女の時のように心臓が高鳴る。
「お兄様は……?」
「酔って寝てしまわれました」
「まあ、仕方のないお兄様……」
酔いつぶれるほど飲んだのかと恬子はあきれる。
「中将殿は大丈夫なのですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。最近はあまり飲まないようにしているので」
そういえば、兄もそのようなことを言っていた。
「やっぱり、お年を召されると、あまり飲めなくなるのですか?」
「宮様……」
恬子が何気なしに問えば、中将はうめくような声を出した。
「ひどいな。そんなに年寄り扱いしなくてもいいでしょうに」
「え? そ、そんなつもりでは……」
恬子はハッとして袖口で口を覆った。
「た、ただその……、若い時のように無茶はできなくなるのかと……、ええっと、お年寄りだなんて言っているわけではなくて、むしろ中将殿はびっくりするくらい若々しくていらっしゃるし、だから……」
「ふ、ふふふ」
恬子が慌てふためいて言い繕うと、中将は一転しておかしそうに肩を揺らした。
からかったのかと恬子はムッとするが、怒る前に中将の額にじんわりと汗が浮かんでいるのに気がつき、手を伸ばす。袖口で彼の額をそっとぬぐった。
「体調が悪いのですの?」
中将に久しぶりに会えて舞い上がっていたから気がつかなかったが、よく見れば、彼の顔色はあまりよくない。
中将は左右に首を振った。
「いいえ、大丈夫ですよ」
「でも……」
「本当に大丈夫なのです。でも、そうだな……、少しくつろいでもいいですか?」
食い下がろうとすると、中将は冠の紐を解いた。
惟喬の前にいたからか、沐浴を終えたあとだというのに、髪を整えて冠までかぶっていたのだ。
中将は紙の間に指を入れて軽く梳かすと、襟元をくつろげて息をついた。
「ああ、楽になりました」
楽になったと言うが、顔色の悪さは変わらない。けれども彼が大丈夫だと言い切るので、恬子はそれ以上追及しないことにした。
(雪道で体を冷やしてしまわれたのかもしれないわね)
火桶を中将のそばに押しやると、恬子に気づかいを知った中将が優しく目を細める。
扇を開いたり閉じたりしながら、中将は「懐かしいな」とつぶやいた。
「これを届けたあと、あなたからの返事がもらえないから、てっきり嫌われてしまわれたのかと落ち込みましたよ」
「そ、そんなことはありません!」
約束を覚えていてくれたことが嬉しくて――、きちんとした返事を返さなくてはと考えすぎてしまっただけだ。そして、返事を出す前に中将が訪れた。
「そうでしょうか? 結局いまだに、これの返事はもらえていないのですがね」
「うう……、もういいではないですか」
「ふむ。……では、返事がもらえないのなら、この扇は返してもらおうかな」
「だめ!」
恬子が慌てて扇を取り戻すと、中将が楽しそうに喉を鳴らして笑う。
(もう! この人はいくつになっても、わたくしをからかって遊んでばっかり!)
やられっぱなしでは悔しいので、何か意趣返ししてやろうと考えながら、じっとりと中将を睨みつける。
すると、中将はこらえきれなくなったのか、声をあげて笑い出した。
「はは、まったくあなたは! 昔から全然変わらない!」
「そんなことはありません! わたくし、もう三十五ですのよ。いつもでも子ども扱いなさらないでください!」
「いや、子ども扱いをしているつもりはないのですが……、そうか、あなたももう三十五か。私が年を取るはずだな」
中将は感慨深そうに頷く。
「でも、やはりあなたは変わりませんよ。昔のまま……、かわいらしいままだ」
恬子はかあっと頬を染めて中将から視線をそらした。
「ねえ、宮様」
中将は手を伸ばすと恬子の手を優しく握りしめる。
「私と一緒に、都に帰りませんか?」
「……中将殿?」
恬子は驚いて、中将の瞳を覗き込んだ。吸い込まれそうなほど深い黒の瞳が、真剣な光を宿している。
冗談で口にしているのではなさそうだった。
「そばにいてもらえませんか? こんなに遠く離れたところではなく、私のすぐそばに」
恬子の両手を握りしめる中将の手が、熱い。
恬子が小野に居を移してしばらくたつが、中将はこれまで一度も都に戻って来いとは言わなかった。それなのに、今日に限ってどうしてそんなことを言うのだろう。
「お願いです、そばにいてくれるだけでいい。私と一緒に、都へ帰りましょう?」
真剣で、そして熱っぽい声に恬子は頷きたくなる。
だが、泣きそうになりながらも、恬子はゆっくりと首を横に振った。
「わたくしは……、行けません」
「お願いです」
「だめなのです……」
「あなたは昔もそう言った。私のことを好きだと言いながら、私ではだめだと言う。いっそ嫌いだと言われた方がどれほど楽か……、わかりますか?」
「違う……、中将殿がだめなのではなくて、わたくしが―――」
「あなたの言い分は、今も昔もわかるようでわからない。もういいではないですか。些末なことなど考えず、私を好きだというその気持ちだけではだめなのですか?」
いつも恬子の心を慮ってくれる中将が、今日はやけに食い下がる。
恬子はふるふると力なく首を振った。
「私のことが嫌いですか?」
その訊き方は、ずるい。
「嫌いでは……」
「では、好きですか?」
「―――はい」
「それなのに一緒に都に帰ってはくれないのですか?」
恬子はきゅっと唇をかみしめた。
いっそすべてを投げうって、くだらない考えなどすべて捨てて、感情のままに頷いてしまいたかった。
何も言えずに押し黙っていると、中将が細く息を吐きだす。握りしめていた恬子の手も解放された。
「すみません、あなたを困らせたいわけではないのです」
中将の手が伸びで、まるで幼子にするように、恬子の頭を何度も撫でる。
「宮様、私はあなたが好きです。愛しています。あの時――、あなたを妻にと望んだあの時から、私の気持ちは変わりません。あの時のまま、私はあなたのことをずっと恋しく思っている。けれどもあなたは好きだけれどだめだと言う。残酷な方だ」
恬子を避難しているはずの中将の声は、内容に反してとても穏やかだった。
「ごめんなさい……」
声を震わせながら謝罪すると、恬子の頭を撫でていた中将の手が頬に滑り落ちて、手の甲で数回撫でて行く。
「私はもう休ませてもらいます。このままここにいては、あなたを傷つけるようなことをしそうで怖い。……おやすみなさい、宮様」
中将の手が恬子から離れる。
ぬくもりが離れていくことが、ひどく淋しかった。
引き留めることもできずに中将が部屋を出て行くと、恬子は中将が触れて行った頬を指先でなぞる。
(本当はわたくしだって……、そばに、いたいのに……)
どうして自分は内親王なのだろう。
うつむいた恬子の目から、はらはらと涙が零れ落ちた。
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