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第壱章 戻れない道
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朝なのか夜なのか、わからなかった。
薄灰色の空に、
太陽の影だけがぼんやり浮かんでいる。
篠原優希は、車道の端に立っていた。
足元のアスファルトには亀裂が走り、
雑草がそこから生えている。
さっきまで通ってきたはずの県道は、
背後でふっと霧に呑まれて消えた。
「……戻れない、か」
ポケットの中のスマホは相変わらず圏外。
GPSの点滅が、
まるで呼吸しているみたいに
小刻みに明滅している。
彼は深く息を吸い、
前に進むしかないと自分に言い聞かせた。
右手には古い石碑が立っていた。
表面には、かすれて読めない文字と、
赤い手形のような模様。
近づいてよく見ると、それは新しい。
まだ乾いていない血のように、湿っていた。
「……だれか、いるのか?」
返事はない。
ただ、どこかで風鈴のような音が鳴った。
だが音の出所は風ではなかった。
山の奥から、笛の音が
ゆっくりと近づいてくる。
まるで、誰かが“呼び寄せて”
いるような調子で。
優希は心臓の鼓動を
抑えるように胸を押さえ、
歩き出した。
道は細く、両脇には杉の木が密集している。
枝葉が擦れ合う音が
人の囁きのように聞こえた。
「かえして」「おいていかないで」
——そんな声が混じっていた気がした。
十分ほど歩いたころ、
霧の奥に影が見えた。
人影のようだった。
「……おーい!」
声をかけると、
その影がゆっくりと振り向いた。
顔が、なかった。
皮膚の下にあるはずの目鼻口が、
何かに塗り潰されたように滑らかだった。
だが、確かに“こちらを見ていた”。
頬のあたりがわずかに動き、
笑ったように見えた。
優希は息を呑み、一歩下がった。
その瞬間、後ろの木々が一斉にざわめいた。
振り向くと、そこには鳥居が立っていた。
昨夜見たものと同じ、
倒れかけた朱色の鳥居。
だが、道順は確かに違う。
歩いてきたはずの斜面には、
鳥居なんてなかった。
鳥居の柱に貼られたお札が風に揺れている。
墨で書かれた文字は、こう読めた。
「面を捨てし者、村に迎え入る」
優希の喉が鳴った。
背中に汗が流れる。
ふと、足元のスマホが震えた。
画面を見ると、
受信したはずのない通知が一つ。
《ちとせ: ゆうき、迎えにきた》
その瞬間、
鳥居の向こうから笛の音が止まり、
世界が静止した。
風も止み、虫の声も消えた。
ただひとつ、どこからか
“拍子木”の音が響いた。
——カン、カン、カン。
それは合図のように、
どこかの家の障子が
音を立てて開く気配がした。
優希は、恐怖と好奇心の間で
立ち尽くした。
けれど、次の瞬間には
身体が勝手に動いていた。
鳥居の下をくぐり、霧の奥へ。
その瞬間、世界の音が
すべて逆再生のように流れた。
蝉の声、川のせせらぎ、風のざわめき。
すべてが裏返り、
別の“何か”の声に変わった。
「……ゆうき、かえろう。
わたしたちのむらへ」
誰の声かもわからない
“何か”が、彼の名を呼んでいた。
霧が晴れた先に、村があった。
けれど——そこに立つ家々は、
まるで人の顔のように歪んでいた。
屋根が口のように開き、
窓が目のようにこちらを見ていた。
優希は一歩、足を踏み入れた。
背後の鳥居が、音もなく消えた。
——そして、戻る道はもうなかった。
薄灰色の空に、
太陽の影だけがぼんやり浮かんでいる。
篠原優希は、車道の端に立っていた。
足元のアスファルトには亀裂が走り、
雑草がそこから生えている。
さっきまで通ってきたはずの県道は、
背後でふっと霧に呑まれて消えた。
「……戻れない、か」
ポケットの中のスマホは相変わらず圏外。
GPSの点滅が、
まるで呼吸しているみたいに
小刻みに明滅している。
彼は深く息を吸い、
前に進むしかないと自分に言い聞かせた。
右手には古い石碑が立っていた。
表面には、かすれて読めない文字と、
赤い手形のような模様。
近づいてよく見ると、それは新しい。
まだ乾いていない血のように、湿っていた。
「……だれか、いるのか?」
返事はない。
ただ、どこかで風鈴のような音が鳴った。
だが音の出所は風ではなかった。
山の奥から、笛の音が
ゆっくりと近づいてくる。
まるで、誰かが“呼び寄せて”
いるような調子で。
優希は心臓の鼓動を
抑えるように胸を押さえ、
歩き出した。
道は細く、両脇には杉の木が密集している。
枝葉が擦れ合う音が
人の囁きのように聞こえた。
「かえして」「おいていかないで」
——そんな声が混じっていた気がした。
十分ほど歩いたころ、
霧の奥に影が見えた。
人影のようだった。
「……おーい!」
声をかけると、
その影がゆっくりと振り向いた。
顔が、なかった。
皮膚の下にあるはずの目鼻口が、
何かに塗り潰されたように滑らかだった。
だが、確かに“こちらを見ていた”。
頬のあたりがわずかに動き、
笑ったように見えた。
優希は息を呑み、一歩下がった。
その瞬間、後ろの木々が一斉にざわめいた。
振り向くと、そこには鳥居が立っていた。
昨夜見たものと同じ、
倒れかけた朱色の鳥居。
だが、道順は確かに違う。
歩いてきたはずの斜面には、
鳥居なんてなかった。
鳥居の柱に貼られたお札が風に揺れている。
墨で書かれた文字は、こう読めた。
「面を捨てし者、村に迎え入る」
優希の喉が鳴った。
背中に汗が流れる。
ふと、足元のスマホが震えた。
画面を見ると、
受信したはずのない通知が一つ。
《ちとせ: ゆうき、迎えにきた》
その瞬間、
鳥居の向こうから笛の音が止まり、
世界が静止した。
風も止み、虫の声も消えた。
ただひとつ、どこからか
“拍子木”の音が響いた。
——カン、カン、カン。
それは合図のように、
どこかの家の障子が
音を立てて開く気配がした。
優希は、恐怖と好奇心の間で
立ち尽くした。
けれど、次の瞬間には
身体が勝手に動いていた。
鳥居の下をくぐり、霧の奥へ。
その瞬間、世界の音が
すべて逆再生のように流れた。
蝉の声、川のせせらぎ、風のざわめき。
すべてが裏返り、
別の“何か”の声に変わった。
「……ゆうき、かえろう。
わたしたちのむらへ」
誰の声かもわからない
“何か”が、彼の名を呼んでいた。
霧が晴れた先に、村があった。
けれど——そこに立つ家々は、
まるで人の顔のように歪んでいた。
屋根が口のように開き、
窓が目のようにこちらを見ていた。
優希は一歩、足を踏み入れた。
背後の鳥居が、音もなく消えた。
——そして、戻る道はもうなかった。
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