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想⑤(櫂side)
しおりを挟むこの地に戻ってくることはないと、思っていた。
なぜなら自らそこを、出ていったから。
ここは、大切な場所で、でも、苦しかった場所。
・
キィと扉を開けた。
重いその扉を開けると、少しだけ、懐かしい香りが鼻から脳内に抜けるような気がした。
世の中はもうすっかり動き出していて、忙しなく行き交う人々を、視線の端に捉えながら櫂は、大きく伸びをした。
「おはよー」
「あ、おはようございます」
「ユキはいつも一番乗りだねぇ」
「いや、下っ端なんで」
大阪にいた頃世話になった人で、美容師がいた。彼の紹介で櫂は、都内の美容院に勤めた。活気ある美容院で、様々なスキルを学んで、約束通り海外研修にも同行した。
刺激ある毎日を送り、今櫂は、横浜の地にいた。
「ユキ、新店舗立ち上げに入って欲しい」
「まじっすか! でもなんで俺?」
「え? 背高いし? いろいろ役立ちそうじゃん」
「え……どういうことっすか!?」
そんな声をかけられて、横浜の新店舗で働く。都内の美容院より小規模で、アットホームな雰囲気のあるその店は、自分には合っていると、櫂は思っていた。
ずっと、美容師になりたかった。
ずいぶん遠回りして、やっと掴んだ夢だった。
昔から、妹の髪を整えていた。
おとぎ話のお姫様が好きな妹にせがまれ、お姫様のような髪型をよく、セットした。
髪を切ること。
髪をセットすること。
それは、その人を輝かせることができる手段。
病気がちだった妹が、誰に見せるわけでもないその髪型を見て、嬉しそうに笑い、うっとりする姿がただ、嬉しかった。
それから、不器用で真面目な彼が、自分が作り上げた髪型で『違う自分=朔良』になっていく姿を見て、ただ、嬉しかった。
たかが、髪型。
少しいつもと違う自分。
それが持つチカラを、知ったような気がした。
そして、居心地の良かった場所を去って、がむしゃらにその道を突き進んだ。
ただ、がむしゃらに前だけを向いて。
あんな辞め方。
あんな去り方。
あれが正解なんて思っていない。
もっと違うやり方があることも、知っている。
でもそうすることでしか、自分を保っていられなかった。
だからこそ、前を向くしかなかった。
前を向いて、ただ、前を向いて。
そうするしか、なかった。
美容師としての扉が開いたその一方で、すごく、すごく大切なものを失ったような、そんな感情も櫂は、抱いていた。
でもそれを想うことは、許されない。
あの場所の人たちにも、今美容師として歩み始めた自分を支えてくれるココの仲間にも、そんな感情を抱くことは、裏切りになるような、そんな気がしていた。
「ユキ、これ受け取ってきてもらっていい?」
「はい。……花?」
「うん、今日のお得意さんその花好きなんだよね」
「店長すげぇな」
「店先にちょっと置いておこうかなって」
「さすがだわ……行ってきまーす」
重い扉を閉めて櫂は、街に出た。
店の前を通り過ぎる、大学生。
友人たちと笑い合いながら、目の前を歩く。
そんな彼らを見送って少し、胸が痛む。
きっと彼らの通う大学は、あの頃、彼が通っていた大学。
あの人は今、何をしているのだろう。
あたたかい日差しが、世の中を照らす。
決して綺麗な空気ではない。
色をつけるなら、灰色の世界とでもいうのか。
いつでも世の中は、そんな色に見えていた。
でもあの日、いつも曇りがかったような世の中が、一瞬で晴れ渡り綺麗なオレンジに染まった気がした。
あの、海辺での撮影だった。
オレンジに染まる彼の瞳は、まっすぐ自分に向けられていて、それは自分のココロに突き刺さるような、そんな視線だった。
大きな道路脇に植えられたのは、桜の木。
少しずつパラパラと、花が咲き始めている。
小さく咲くピンクの花に、櫂は思わず視線を逸らした。
あれから、巡る季節に、浮かぶ彼の姿に戸惑っていた。
なにを見ても、そこに浮かぶのは、いつも隣にいた、朔良の顔。
暑い季節に見た、彼と初めて交わしたココロの言葉と、交換した熱。
紅葉の季節に見た、初めてファンを前にした驚きと覚悟を携えた彼の強い視線。
寒い季節に見た最後の、寂しげな顔。
何か言いたそうで、決してそれを口にしなくて、何かに必死で耐えているような、そんな顔だった。
そして桜の季節。
それはなにより、なによりも、苦しい季節。
店の恒例行事、花見。
皆で持ち寄る弁当ばかりつついていて、「ユキくん桜見なよ」と言われていた。
見なかったんじゃない。
見ることが、できなかった。
桜に重なるのは、その時期に出会った、彼の顔。その顔は、出会った頃のまだ少し、不機嫌そうな顔。
いや、出会ったのはもう少し先だったか。
名前が「さくら」だからだろうか。
どうしても重なる。
そして浮かぶのはあの、少し不機嫌そうな顔。
こんなにも浮かれた世の中に、あんなにもたくさん笑い合ったのに浮かぶのは不機嫌そうな顔で、心が痛い。
小さな生花店で注文済の花を受け取り、大通りの信号を待つ。
なかなかは変わらない信号に櫂は、目を細めた。
その時、大通りの向こうにちらほら増える人に、ふと視線が固まった。
人混みを避けるように、そして少し不機嫌そうに歩くその横顔は、今まさに、自分の脳内にあったその顔。
「さ……く……」
ほとんど声にならない。息を吐くように彼の名を呼び、彼の動きを、ただ、追った。
遠くから見る彼は、少しだけ後ろ髪がハネていて、太陽の光を避けるように、並木の木陰を選んで歩いているように見えた。
変わる信号に、人々が動き出す。
流されるように、その波に乗る。
渡り切った信号に、彼の後ろ姿。
思わず足が、引き寄せられそうになる。
足が、彼のところに行きたいと、言っていて。
手が、彼を抱きしめたいと、言っていて。
なのに頭が、行ってはいけないと、それを止める。
「ミツキ! ちょっと待てよ!」
すぐ横を走り抜けた同い年くらいの男が、彼に走り寄る。
立ち止まり振り返った彼は、その男を確認して笑った。
「なんだよ、遅せぇよ……」
そう言って振り返ったその顔は、あの不機嫌そうな声。でもその顔は、穏やかで。
「ミツキが早いんだよ! サクラも合流するって」
「あぁ、久々だな」
目を細めて笑う。
その顔に、心がギュッと苦しくなる。
「サクラがさぁ、最近ミツキがかまってくれないって拗ねてんぞ」
「ハハッ、なんだよそれ」
遠くに響く、笑い声。
そうだ。
彼は、笑う時はこんな風に、声を出すんだった。
あの男は、誰だろう。
サクラとは、誰だろう。
今、彼の隣で彼を、支えている人なのだろうか。
彼と同じ名の、サクラという人。
彼の、不機嫌そうな顔。
彼の、不意に振り返った顔。
彼の、笑った顔。
それだけではない。
自分が不安そうな顔をすると同じように、泣き出しそうな顔をする。
余裕がなくなると少し、怒ったような顔をする。
それを指摘すると本当に怒って、そして耳を赤くする。
そして、甘える時は、頬を染めて瞳が潤む。
あの顔を、今誰に見せているのだろうか。
くるくる変わるあの表情を、誰がそばで、見守ってくれているのだろうか。
小さくなる背中をただ、見送った。
キュッと、拳に力を込めて。
初めてだった。
あんなにも、全てを曝け出せた人。
なぜ、彼には言えたんだろう。
あれは、彼が、心を見せてくれたから。
きっと、彼が。
心を開いて自分を受け入れてくれたから。
この人なら、自分をさらけ出せると思った。
この人なら、受け入れてくれると思った。
この人なら、信じられると思った。
なのに、信じられなかった。
彼を信じられなかったんじゃない。
彼といる自分自身を、信じることができなかった。
いつもスカしてるのに、余裕がなくなる瞬間が、好きだった。
そんな姿を、誰かに見せて。
誰かに見せて。
そして、あの時より、笑っていますように。
手に持つ花を、ギュッと握った。
綺麗な包装が、バリバリと音を立てる。
朔となら、一緒に歩いていけると思ったんだ。
脳内に巡る言葉とは正反対の心を、自覚して。
自覚してもそれを押し込める弱さ。
隣の男と話すあの綺麗な横顔から視線を逸らし、行き交う雑踏に、紛れて、消えた。
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