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10話 なりきり令嬢
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医者は私たちに背を向け、水を張った洗面器で血に汚れた手を念入りに洗っていた。
東の角部屋は八帖ほどの広さだ。
執事頭が用意した燭台の明かりが、部屋全体をやわらかな橙色に染めている。
ヴィクトルは怪我をしたメイドを丁寧にベッドへ寝かせると、
何も言わずに部屋の隅の暗がりへ下がった。
――次の瞬間。
すう、と彼の存在感が薄れる。
壁の影と同化したかのように、そこに“いない”。
まるで、最初からこの部屋に存在していなかったかのようだった。
……慣れている。
この動きは、きっと日常だ。
ヴィクトルは、使用人の中でも相当に低い立場なのだろう。
それからしばらく、
私は執事頭と並んで、医者の言葉を辛抱強く待った。
やがて医者は手を拭きながらこちらを振り返る。
「運が良かったですよ」
穏やかな声だった。
「頭は出血していましたが擦り傷程度。
右腕は骨折していますが、他は軽い打撲が数か所だけです」
そう言って、くしゃりとした笑顔を浮かべる。
……この人、優しそうだ。
「よかった……」
思わず零れた私の声と、
執事頭の安堵の息が重なった。
二人で顔を見合わせて、少しだけ気まずくなる。
私は、彼をほんの少し見直した。
最初は地下に運ぶだの、医者を渋るだの言っていたけれど、
本心ではこのメイドを心配していたのだろう。
――そう思った、その瞬間。
執事頭の顔色が、さっと青ざめた。
「も、申し訳ございません……!」
「え? どうして謝るの?」
私は本気で戸惑った。
怪我が軽くて安堵していたはずなのに、
今の彼は、追い詰められたような表情をしている。
「ミア様は……いつもおっしゃっていました」
震える声で、執事頭は続ける。
「“使用人の代わりなどいくらでもいる。
使えない者はすぐ解雇すればいい”と……」
……本気だ。
冗談でも誇張でもない。
長年聞かされ続けてきた言葉なのだろう。
「ご、ゴホゴホ……そ、そうだったかしら?」
私はとっさに咳払いで誤魔化した。
どうやらミアは、
気に入らない使用人を次々と切り捨ててきたらしい。
――冷酷無慈悲。
絵に描いたような悪役令嬢。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……ああ。
私も、知っている。
現世での私は、
「仕事が出来ない側」の人間だった。
『あの程度の客も捌けないのか?
何年この仕事をしていると思ってる?』
『お前の代わりなんて、いくらでもいる』
何度も、何度も。
心を削るように浴びせられた言葉。
あれで、どれだけ人生を消耗しただろう。
私はぶんぶんと頭を振る。
――違う。
ここは、もうあの世界じゃない。
嫌な上司も、理不尽な叱責も、もう存在しない。
そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。
「……ミア様」
執事頭が、おずおずと私の様子を窺っている。
「大丈夫ですか?」
「あ、ええ。なんでもないわ」
私は軽く瞬きをして、意識を現実へ戻した。
「ミア様、このメイドは診察代も薬代も払えません。ですから……立て替えていただくしか……」
「気にしないで」
私は、きっぱりと言った。
「私が言い出したことだもの。それくらい、私が払うわ」
「……えっ?」
執事頭は、完全に予想外だったのだろう。
目を見開いたまま固まっている。
……まずい?
私、また“ミアらしくない”ことを言った?
部屋の隅で影のように立っていたヴィクトルでさえ、
わずかに目を見開いていた。
「どうしてしまったのですか……?」
「どうって?」
「本当に……そのお言葉を、信じてよろしいのですか?」
「こんなことで嘘ついてどうするのよ」
「しかし、今まで一度も……」
執事頭は脂汗を滲ませ、完全に混乱している。
私は、ベッドに横たわるメイドへ視線を向けた。
頭には包帯。
折れた腕は添え木でぐるぐる巻き。
顔立ちは幼く、まだ十代半ばに見える。
――こんな子が。
この屋敷が嫌で、逃げ出そうとするほど追い詰められていた。
その事実が、胸に重くのしかかる。
「……ね」
私は、静かに言った。
「私のために働いてくれている人に、
少し……厳しすぎたのかもしれないって、考えただけよ」
それは、ミアの言葉としては異端だっただろう。
でも――
私は、これ以上この屋敷の“悪意”を、
当たり前として受け入れるつもりはなかった。
この城には、
変えなきゃいけないものが、あまりにも多すぎる。
そして私は、
その中心に立ってしまったのだから。
東の角部屋は八帖ほどの広さだ。
執事頭が用意した燭台の明かりが、部屋全体をやわらかな橙色に染めている。
ヴィクトルは怪我をしたメイドを丁寧にベッドへ寝かせると、
何も言わずに部屋の隅の暗がりへ下がった。
――次の瞬間。
すう、と彼の存在感が薄れる。
壁の影と同化したかのように、そこに“いない”。
まるで、最初からこの部屋に存在していなかったかのようだった。
……慣れている。
この動きは、きっと日常だ。
ヴィクトルは、使用人の中でも相当に低い立場なのだろう。
それからしばらく、
私は執事頭と並んで、医者の言葉を辛抱強く待った。
やがて医者は手を拭きながらこちらを振り返る。
「運が良かったですよ」
穏やかな声だった。
「頭は出血していましたが擦り傷程度。
右腕は骨折していますが、他は軽い打撲が数か所だけです」
そう言って、くしゃりとした笑顔を浮かべる。
……この人、優しそうだ。
「よかった……」
思わず零れた私の声と、
執事頭の安堵の息が重なった。
二人で顔を見合わせて、少しだけ気まずくなる。
私は、彼をほんの少し見直した。
最初は地下に運ぶだの、医者を渋るだの言っていたけれど、
本心ではこのメイドを心配していたのだろう。
――そう思った、その瞬間。
執事頭の顔色が、さっと青ざめた。
「も、申し訳ございません……!」
「え? どうして謝るの?」
私は本気で戸惑った。
怪我が軽くて安堵していたはずなのに、
今の彼は、追い詰められたような表情をしている。
「ミア様は……いつもおっしゃっていました」
震える声で、執事頭は続ける。
「“使用人の代わりなどいくらでもいる。
使えない者はすぐ解雇すればいい”と……」
……本気だ。
冗談でも誇張でもない。
長年聞かされ続けてきた言葉なのだろう。
「ご、ゴホゴホ……そ、そうだったかしら?」
私はとっさに咳払いで誤魔化した。
どうやらミアは、
気に入らない使用人を次々と切り捨ててきたらしい。
――冷酷無慈悲。
絵に描いたような悪役令嬢。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……ああ。
私も、知っている。
現世での私は、
「仕事が出来ない側」の人間だった。
『あの程度の客も捌けないのか?
何年この仕事をしていると思ってる?』
『お前の代わりなんて、いくらでもいる』
何度も、何度も。
心を削るように浴びせられた言葉。
あれで、どれだけ人生を消耗しただろう。
私はぶんぶんと頭を振る。
――違う。
ここは、もうあの世界じゃない。
嫌な上司も、理不尽な叱責も、もう存在しない。
そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。
「……ミア様」
執事頭が、おずおずと私の様子を窺っている。
「大丈夫ですか?」
「あ、ええ。なんでもないわ」
私は軽く瞬きをして、意識を現実へ戻した。
「ミア様、このメイドは診察代も薬代も払えません。ですから……立て替えていただくしか……」
「気にしないで」
私は、きっぱりと言った。
「私が言い出したことだもの。それくらい、私が払うわ」
「……えっ?」
執事頭は、完全に予想外だったのだろう。
目を見開いたまま固まっている。
……まずい?
私、また“ミアらしくない”ことを言った?
部屋の隅で影のように立っていたヴィクトルでさえ、
わずかに目を見開いていた。
「どうしてしまったのですか……?」
「どうって?」
「本当に……そのお言葉を、信じてよろしいのですか?」
「こんなことで嘘ついてどうするのよ」
「しかし、今まで一度も……」
執事頭は脂汗を滲ませ、完全に混乱している。
私は、ベッドに横たわるメイドへ視線を向けた。
頭には包帯。
折れた腕は添え木でぐるぐる巻き。
顔立ちは幼く、まだ十代半ばに見える。
――こんな子が。
この屋敷が嫌で、逃げ出そうとするほど追い詰められていた。
その事実が、胸に重くのしかかる。
「……ね」
私は、静かに言った。
「私のために働いてくれている人に、
少し……厳しすぎたのかもしれないって、考えただけよ」
それは、ミアの言葉としては異端だっただろう。
でも――
私は、これ以上この屋敷の“悪意”を、
当たり前として受け入れるつもりはなかった。
この城には、
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そして私は、
その中心に立ってしまったのだから。
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