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2巻

2-3

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「顔色が悪いけど……なにかあったのか?」

 心配そうな表情で私の顔を覗き込むフォルト。そんな彼の目線から逃れるように、私はふいっと顔を逸らした。

「いえ、なにも」
「……そうか。暇なら付き合ってくれ」

 フォルトは少しの間じっとこちらを見た後、急に私の手を引いた。

「ちょっと、フォルト! どこに行くの?」

 目を丸くする私の手をぎゅっと握り直し、フォルトは一軒のカフェに足を踏み入れた。
 すかさず店員がやってきて、私達を見晴らしのいい席に案内する。お互いの護衛が少し離れた席に座ったのを確認すると、フォルトは店員になにやら注文した。
 しばらくして、私とフォルトの前には美味しそうなパンケーキが置かれた。

「一人じゃ入りにくいから助かった」

 そう言って、フォルトは目を細めて私に微笑んだ。
 きっと私が暗い顔をしているのを見て、わざわざここに連れてきてくれたんだろう。本当は私のことをよく思ってないだろうに……気を使わせちゃったな。
 フォルトはすぐにパンケーキをフォークで切り分け、口に運ぶ。美味しいのだろう、わかりやすく頬を緩ませるのが可愛いらしい。
 たっぷりの生クリームもバナナもイチゴもマンゴーも、あっという間に平らげられていく。
 本当に甘い物が好きなんだなぁ。

「どうした? 口に合わなかったか?」

 フォルトの食べっぷりを見るばかりで、あまり食べていない私にフォルトが声をかけた。

「とっても美味しいから大事に食べているのです。ねぇ、フォルト……」
「なんだよ、改まって……」

 私がフォークをテーブルの上に置き、神妙な面持ちでフォルトを見つめると、彼はあからさまに嫌な顔をした。

「私達、今からでも友達になれないかしら」
「はぁ?」

 フォルトの眉間にしわが寄る。
 フォルトは優しいから、なんだかんだ言って私が頼めば断わらないのではと思ったのだ。だが、彼は難しい顔をして黙ったままだ。
 怒らせただろうか。優しいからといって、流石さすがに図々しいお願いだったかも。でも友達ゼロという現実が辛すぎたのだもの。

「あの、今のはなしで」

 沈黙に耐えきれずそう告げて、私はいそいそとパンケーキを口に運ぶ。

「あーっと、友達、な。今からな……」

 フォルトは左手で髪をグシャグシャとかいて、顔を隠すように横に向けた。

「――っ! はい!」

 どうやら友達になってくれるみたいだ。嬉しくなって私は勢いよく返事をする。
 私の笑顔を苦笑ぎみに見ていたフォルトは、すっと真剣な表情になった。

「なぁ、レーナ嬢……」
「どうかしました? おかわりなら、次はこっちがいいんじゃないかしら」

 メニューを差し出し、次はもう少し軽めのデザートでどうかと指を差す。

「いや、そうじゃなくてだな。……グスタフの件、怪我はもう大丈夫か? 本当にその、悪かった。今までのことをすべて水に流すのは無理かもしれないが……すまないっ」

 フォルトは歯切れ悪く告げて、頭を下げた。

「私の部屋にお見舞いに来てくれた時、十分謝ってもらったわ。これ以上はもうなし。友達になったのでしょ」

 私がそう言って笑みを向けると、フォルトはこちらをちらりと見て、おもむろに口を開いた。

「……この前のこと、覚えているか?」
「えーっと?」

 どのことよ? いろいろありすぎて、どのことなのかさっぱりわからない。

「ジークがレーナ嬢を助けるためにあれだけ身体を張ったのだから、可能性としてはほぼないかもしれない……。ただ、もし婚約を解消するようなことがあれば、お前との関係、前向きに検討してみる」

 ん? 婚約解消? 私との関係?
 頭にハテナマークが飛び交う。ふと見ると、フォルトの顔が少し赤いことに気づいた。

「え? フォルト、どうし――」
「先に帰る! 家の近くを軽く散歩って言って出てきているから」
「ちょっと」
「お会計は済ましておく。ゆっくり食べてこい」

 フォルトは私の言葉を遮るように矢継ぎ早に言うと、さっさと帰ってしまった。
 以前一緒にイチゴパフェを食べた時とは違い、今度は私が、訳のわからないまま残りのパンケーキを黙々と食べる羽目になった。


 フォルトと友だちになって二日が経過した。フォルトとはパンケーキ屋さんで別れてから会っていない。
 ジークに出した手紙のことや、アンナとミリーと私の関係など、楽しいバカンスを過ごすはずが、結局私はいろいろと考えてしまっていた。
 気をまぎらわすために、レーナが集めていたニコル・マッカートの恋愛小説を読み始めたが、まったく頭に入ってこない。
 楽しみにしていたダンスのレッスンでも、リオン先生の足を何度も踏んでしまった。
 アンナとミリーから、昨日も今日も『都合が合えば』とお茶の誘いがあったけれど、適当な理由をつけて断った。
 なんとなく、アンナとミリーには会いにくかったのだ。
 断わり続けているともっと会いにくくなるから、次に誘われた時は行かなきゃと思う。けれど、自分だけ友達じゃないという事実を、私はかなり引きずっていた。
 このままじゃよくないと思い、私は庭で魔力を使う練習もかねてトマトを実らせることにした。
 こういう時は無心で、なにか単調な作業を黙々とやるに限るのだ。夏休み前、雑貨屋さんで購入したステータスが上昇する装備品も全部つけちゃえ。
 私はティアラのようなカチューシャを頭にのせ、ネックレスも二つ重ねづけした。指輪を三つもはめてお洒落的にいまいちだけど、ステータスの底上げ効果は期待できる。
 うまくトマトが実ったら、皆に振る舞おう。
 魔法はこの世界の住人全員が使えるものではない。そのため、学園では落ちこぼれよりの私の魔法でも、魔法を使えないメイドからすると気になるらしく、チラチラと様子を見に来る。
 メイドが見ているのがわかると、つい見栄を張りたくなる。
 顔は優雅に、ふんぬぅうっとトマトの苗に触れて魔力を送った。
 すると、スルスルとつるが伸びて花が咲き、あっさりと実をつけた。私はそれをハサミで収穫し、傍らで控えるメイドが持ってくれているかごに入れる。
 艶といい、色といい、形といい、よい出来だと心の中で自画自賛した。
 一番大きいものは父と母にあげて、残りはメイド達と食べてしまおうと、黙々とトマトを作っては収穫するを繰り返す。
 美味しそうなトマト。行儀が悪いと言われそうだけど、一口かじれば、うん、美味しい。
 アンナとミリーにあげたら食べてくれるかな……
 ついついトマトを片手に考え込んでしまう。
 こういうのは、とりあえずあげてから考えよう。少なくとも悪いものではないし、いらない場合はメイドにでも下げ渡してもらえばいいもの。
 私はかごにトマトを四つずつ入れて、二人に届けてもらうことにした。
 アンナとミリーに送るなら、友達になったフォルトにも送るべきよね……
 フォルトにだけ送って、同じ家に滞在しているシオンにはなしは、かわいそうかしら。
 仲間外れはよくないだろうと、結局シオンにもトマトを送ることにした。ついでに、かっこいいダンスの先生にもお世話になっているから送る。
 大量に実らせたトマトの送り先が見つかったことで、心なしかメイドがほっとしているように見える。無心で作っていたからすごい数だ。
 魔力が枯渇こかつしてきたのか身体がダルいけど、トマトをたくさん実らせたことで、私は達成感を覚えていた。
 アンナとミリーとは友達じゃなくてもいいじゃない。上司と部下のような関係でも、いい関係というものは築けると思う。
 私はテラスのソファに横たわり、最近気に入っているトロピカルドリンクを少しずつ楽しみながら、水平線に沈む夕日をぼんやりと眺めた。
 贅沢ぜいたくだ。この景色を独り占めとか……魔力を使ったことによる疲労感と心地いい波の音に段々と眠くなる。

「お嬢さま、お休みになるのでしたら室内に入られては?」

 うつらうつらとする私に、隣で立っていたクリスティーがそっと声をかけた。その言葉に私はゆるゆると首を横に振る。

「夕日が沈むのが見たいのよ」
「さようでございましたか」

 クリスティーが遠ざかる気配がする。
 私は半分夢の世界に入りつつも、目の前の美しい風景に見入っていた。


「レーナ様。先日ジーク様に出した手紙ですが……」

 少しして、私の背後からクリスティーが話しかけてきた。

「はい~。こちらに~」

 半分寝ていた私はひらひらと手を振って、適当に返事する。
 先日、早馬を使ってジークに二通目の手紙を送った。その件についてなにか報告があるのだろう。
 ぼーっとしていると、クリスティーと一緒に誰かがこちらに近づいてきた。
 寝惚ねぼまなこで目の前に立つ人物を、顔も上げずに確認すると、足元だけが目に入った。男性用の乗馬ブーツを履いているので、おそらく彼がジークに手紙を届けてくれた騎手かもしれない。
 挨拶くらいはと思うのだけど、魔力をたくさん使ったせいで顔を見ることが酷く億劫おっくうだった。

「申し訳ございません。お嬢さまは先ほどまで魔力を使われており、魔力切れに近い状態でして」

 優秀なメイド・クリスティーが失礼な振る舞いをしている私をフォローした。
 すると、テーブルの上に手紙が二通、そっと置かれた。どちらも私がジークに送った手紙だ。どうやら二通目の手紙を届けた彼が、一通目の早馬に追いつき回収してくれたようだ。
 ジークの手に深夜テンションの手紙が渡らなかったことに一先ひとま安堵あんどする。

「ありがとう、このような状態でごめんなさいね。クリスティー、彼に十分な報酬とトマトを……」
「えっ! は、はい、かしこまりました。ただいまご用意いたします」

 クリスティーは少し驚いた様子で返事をした。優秀なクリスティーも、彼にトマトを渡すのは予想外だったようね。
 せっかく美味しくできたのだから、彼もトマトを食べるといいわ。

「素敵な景色だ」

 クリスティーが離れる気配を感じた後、傍らに残った騎手が口を開いた。

「えぇ、この時間は一日の中で一番素晴らしいの。長旅ご苦労様。よかったら隣で一緒に一杯飲んではどうです?」

 私は目をすっかり閉じたまま、ソファの空いているスペースを指差す。

「ではお言葉に甘えて」
「どうぞどうぞ」

 眠すぎて、使用人に対する態度じゃないとか、そういうことを気にする余裕はなかった。騎手の彼も、遠慮せず普通にソファに腰掛ける。

「一つ質問をしても?」
「なんですか?」
「手紙にはなんと?」

 気になりますよね。早馬を出してまで、相手に読ませないようにしたくらいだもの。

「婚約者と私は仲がよくないのです。彼に出すべきではない手紙を出してしまいました」
「……仲がよくない?」
「政略結婚だもの。珍しいことではないでしょう」

 日がかげると、日中よりも涼しくなり心地よい。
 うとうとしていた私は、それから本格的に眠ってしまった。


 ――どのくらい時間が経過したのだろうか。
 突然誰かに身体を持ち上げられ、意識が覚醒かくせいした。
 やばい、クリスティーに日焼けするから寝るならば室内でと怒られる。

「すみません、歩けます」

 そう言って、お姫様抱っこしてくれている人物を見上げ……時が止まった。
 だって、そこにはここに本来いるはずのないジークがいたのだから。

「すまない。起こしたかい? おはよう――レーナ」

 信じられないけれど、乗馬服姿のところを見ると、どうやらジーク自身が学園都市からアンバー領まで馬で駆けて来たようだ。
 今思い返せば、どうりでクリスティーがすんなりと異性を部屋に招き入れたわけだよ。だって彼は私の婚約者なのだもの……
 クリスティーが驚いたのは、私がトマトをあげるように言ったことではない。私が訪問してきた婚約者に対して、報酬を渡すように言ったことにだよ!
 私が知らない男性の横で寝ていても起こさなかった理由は、その男性がジークであったからに違いない。
 そういえば、二人きりになった時点で、彼は公爵令嬢である私に敬語を使っていなかった。寝惚ねぼけすぎてそこまで気が回らなかったわ。

「どうしてここに……ジーク様……」

 完全に目が覚めた私は、自分を抱き上げるジークを引きつった笑みで見つめた。
 だって、ここは学園都市じゃない。アンバー領よ!
 どうしてジークがいるの⁉
 至近距離で下から見つめても、やっぱりジークは美しい。普通の女の子だったら、キャーッとなってもおかしくないシチュエーションなのに、嬉しいどころか、サーッと青褪あおざめていく気すらする。
 それもこれも、ジークに問い詰められたらヤバいことだらけだからだ。
 夏休み前に遭ったジークとのトラブルも、アンバー領に逃げることによってうやむやになると思っていたのに。

「手紙の封を切らずに送り返してほしいだなんて、初めて言われたよ。それほどのことなら、他の人間に頼むより、私が直接君に届けたほうがいいのではと判断したんだ。気にすることはないよ、私もちょうど君と話をしたかったからね。パーティーの日以来だね。会いたかったよ……レーナ」

 ジークはニッコリと微笑んでいるのに、その目がまったく笑っておらず、怒っているのがわかってしまう。
 ……さて、ジークが怒っているのはなぜ? と一人脳内クイズが始まる。
 ①ジークからの手紙をシカトしていたこと。
 ②やっと書いた返事を見るなと言ったこと。
 ③一度ちゃんと話をしようと言われていたのに、夏休みを理由にこれ幸いとトンズラしたこと。
 はい、どれだろうって全部かな?

「あの、怒っていらっしゃいます?」
「おや? 私は笑っているはずなのに、なんで怒っていると君は思うのだろう。不思議だね……」

 ジークは笑みを浮かべている。間違いなく、その表情は笑顔に分類される。でも、ジークの目の奥は凍てついていた。

「ベッドに運べばいいかい?」

 ジークは愛想笑いのまま、私に尋ねる。

「いえ、ここで大丈夫です。もうしっかりと目が覚めましたから、自分で歩けます」

 ジークに下ろしてもらってすぐ、私は三歩ほど下がり彼から距離を取った。
 ふと周りを見ると、いつの間にかレーナ付きのメイドが勢揃いしていた。
 確か今日は非番だったはずのメイドまでいる。メイド達にとっても、レーナの婚約者であるジークの訪問は一大事なのだろう。
 それにしても、手紙を出したのは二日前なのにどうなっているの? 学園からアンバーまで、馬車で四日もかかったのに。
 気まずくて、メイド助けて~と視線を送る。
 メイドは私の視線に気づいて、さりげなく視線を逸らした。なぜ私の味方をしないの? 私のメイドでしょう。頼むわよ……
 視線を横に滑らせて、端に控えていたクリスティーに視線で助けを求める。
 クリスティーはため息を一つ吐くと、ジークのほうを見て口を開いた。

「ジーク様、学園都市からアンバー領まであまり休憩を取らずに馬で駆けられたと伺いました。お風呂の準備が整っておりますので、一度汗を流されてはいかがでしょうか? その間にゲストルームの支度をしますので、今日は早めにお休みになられたほうがよろしいかと」

 いいぞ、クリスティー。流石さすが年の功‼
 ありがとう、ナイスアシスト! と思わず心の中で手を合わせる。
 ジークは右手を口元に持っていきしばらく考えた後、不敵な笑みを浮かべた。まるでいいことを思いついたとでもいうように。

「ありがとう。では、お言葉に甘えさせてもらうよ。ただ、一つだけお願いがあるのだけれど、いいかな?」
「もちろんでございます。なんなりとお申しつけください」

 クリスティーはチラッと私の顔を見てから、ジークに視線を戻しうやうやしく礼をした。

「レーナと久しぶりに会うので入浴後少しでいい、彼女との時間が欲しいんだ。もちろん、時間を取ってもらえるね?」

 ジークはそう言ってクリスティーと私を交互に見遣る。
 口調こそ柔らかい、柔らかいのだけれど。あれ、ゲームでこんなに強引で腹黒いところあったかな? おかしいなぁ。腹黒いのはシオンだけでもう満腹なんだけどなぁ。

「もう日も暮れましたし、殿方と部屋で二人きりで話すわけには……。そうでしょう? クリスティー」

 クリスティーに再びのナイスアシストを求めて、パスを出したのに……

「では、メイドが部屋の隅に控えていれば問題ないわけだね。すまないが、誰か頼めるだろうか?」

 あぁ、なんてことでしょう。完全に退路を断たれた。
 頭を抱えたい衝動を抑え込み、お風呂に向かうジークを見届ける。
 ジークがアンバー領にやってきたことは既に両親に伝わっていて、当然のようにジークを交えての夕食となった。将来の息子を前にして、父も母も上機嫌である。
 父とジークが馬の話で盛り上がっている間に、自分の部屋にとんずらしようと、そっと席を立つ。
 しかし、ジークのほうが一枚上手だった。

「せっかくレーナに会いに来たのに、まだゆっくり話す時間を取れていないのです。お話の途中で申し訳ありませんが、レーナと一緒に私も退席してもかまいませんか?」

 と、のたまったのである。
 レーナがジークにぞっこんだったことを知っている家族は、それを止めなかった。
 そして、地獄の二人きりタイムが始まった。
 正確には、二人きりではない。この広ーーーいリビングの隅にメイドがいるからだ。
 ただ、部屋が広いため、小声で話せばメイドの耳に会話の内容が届くことはないだろう。
 メイドも見える位置に立っていればいいものを、気を使ってあえて私達の視界に入らないようにしている。

「ジーク様。お疲れでしょう? 今夜はゆっくりと休まれて、また明日にでもお話ししませんか?」

 対策を練る時間を一晩ください、お願いします。

「レーナとのことは先延ばしにしないと決めたんだ。そう言われてしまう理由に心当たりは――あるよね?」

 ジークはすっと目を細めて、うっすらと笑う。
 流石さすが攻略対象、見惚れるような笑みだ。けれど私を見つめるジークの目は冷ややかで、私は完全にへびに睨まれたかえる状態になっていた。

「そうでございますか……」
「君は、もう学園には戻らないつもりなのかい?」

 てっきり、『なんで王子の命を狙った人物が学園にいることに気づいたのか?』とか、『王子暗殺についてどうやって調べたのか?』とか、もっと答えにくいことを聞かれると思っていた。
 しかし、ジークが声のトーンを落として聞いてきたのは、まさかの学園に私が戻るのかどうかということだった。
 なぜ、私が学園に帰還するかの確認?
 って……そういえば、グスタフ事件の後、それまで契約していた寮の部屋は、防犯上危ないから、違う部屋に引っ越しすることにしたんだった。
 引っ越しするのはアンバー領への出発の日の朝、突発的に決めた。だから、当然誰かに報告する暇もなかった。
 だって私はその時すでに、頭の中はヒロインと攻略対象と離れて、素敵なバカンスを過ごすことでいっぱいだったし。
 ジークは私に聞きたいことがたくさんあっただろうから、私が旅立った後、引っ越ししたと知らずに部屋を訪問したに違いない。タイミング悪くメイドにも休みを与えていたから、部屋には誰一人としていなかったはず。
 なにもなくなったレーナの部屋を見て、私が学園を去ったとジークが勘違いするのも無理はない。

「レーナ」

 あれこれ考察している私にジークが声をかけた。慌てて視線を向けると、ジークがこちらを真剣に見つめていた。

「夏休みが終われば戻ります」
「嘘を吐いているのでは?」

 ジークは口の端をさらに上げて笑みを深める。依然、目はまったく笑ってない。

「嘘? 私は嘘など吐いておりません。仮にこれが嘘だとしても、ジーク様が私になさってきたことに比べたら可愛いものだと思いますよ」

 私は嫌味を織り交ぜてニッコリと笑う。
 お互い顔だけ見れば笑顔なのに、内心ジャブの撃ち合い状態だ。
 婚約者と夜に部屋で二人きりだというのに、ムードのかけらもない。

「以前の君の部屋を訪ねたが、もぬけのからだった。それはどう説明するつもりだい?」

 そりゃそうだ。私が不在の間に、大型のものも含めて、すべての家具をメンテナンスすることになったから。

「もし私が学園に戻らなくても、ジーク様にはなんら不便はないでしょう? ジーク様がお望みになるなら、婚約関係はそのままにしておきます。ただ、お互い好きな人が現れたら……うまいこと婚約をなかったことにするほうが、お互いのためではないかしら」

 この際だから、ずっと思っていたことを口にする。
 どうせジークはレーナのことなんて好きじゃない。この提案は、彼にとっては願ったり叶ったりのはず。
 私の言葉に、ジークは一瞬呼吸を止め、きつく両目を閉じながらゆっくり息を吐いた。その姿は感情を押し殺している風にも見える。

「君に好きな人ができたら婚約を解消、もしくは破棄すると言っているように聞こえるのだけれど?」
「もちろん、私だけではありません。ジーク様に好きな方ができた場合も、穏便に解消しましょうと言っているのです」

 流石さすが、私。あらかじめこう言っておけば、この先ジークとヒロインが恋に落ちたとしても、レーナと円満に婚約が解消できるだろう。断罪の可能性はぐっと低くなるに違いない。
 確かにジークは別れるには惜しい容姿とスペックだけれど、これからの人生が滅茶苦茶になるのだけは避けなければ。
 我ながらなんていいアイディアなのだろう。さぁ、私に遠慮することなく提案を呑みなさい。そうすれば問題は解決よ。
 貴方の恋、応援します!

「レーナ」

 突如、聞いたこともないほど低い声で、ジークに名前を呼ばれた。

「なんですか?」
「……解消はしない」


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