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第4話 癒しの力
〇
朝の霧がまだ消えきらない村を、鐘の音がゆっくりと包み込んでいた。
私は井戸のそばで桶を満たしながら、白い息を吐いた。冷たい水面に顔を映すと、そこにはほんの少しだけ穏やかな表情の自分がいた。
ここで暮らし始めて、もう数日が過ぎた。洗濯をし、食事を作り、時には子どもたちと遊び、夜にはリオネルと村のことを話す。忙しくも、心が穏やかに満たされる毎日。
――それは、これまで知らなかった“平和”の形だった。
「おはよう、ミリア」
振り向くと、リオネルが手を振っていた。
朝の光に照らされて、銀の髪がまるで霧の粒のように輝く。
私は思わず胸の奥がくすぐったくなって、笑みを返した。
「おはようございます。今日は早いですね」
「森の見回りだ。南の方で病気が流行っているらしい。念のため確認してくる」
「……病気?」
私は桶を置き、眉をひそめた。
この平和な村にも、そんな不穏な話があるのだろうか。
「ああ。まだ詳しくは分からん。だが、放っておくわけにはいかない」
彼の声には、迷いのない力がこもっていた。
その姿を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「私も行きます」
「いや、危険かもしれない。おまえは村で待っていろ」
「でも……人が苦しんでいるのなら、私、助けられるかもしれません」
私の言葉に、リオネルが驚いたように目を細めた。
そして、少しだけため息をついたあと、静かに頷いた。
「……分かった。ただし、俺のそばを離れるな」
「はい!」
胸の奥が明るくなる。
その瞬間、ネックレスがほのかに光った。
◇
森の中はひんやりとして、陽の光が木々の間を斑に差し込んでいた。
鳥の声が遠くで響き、地面には露を含んだ草の匂いが漂っている。
リオネルが先を歩き、私はその背中を追った。
「……このあたり、少し空気が重いですね」
「ああ。動物の気配も薄い」
リオネルの手が剣の柄に自然と伸びる。その仕草に、彼の元・騎士としての癖が垣間見えた。
やがて、開けた場所に出る。そこには、小さな村の家がぽつんと建っていた。
扉の前に腰を下ろした老婆がいて、苦しそうに胸を押さえている。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ると、老婆が弱々しく顔を上げた。
「……咳が、止まらなくてねぇ。薬も効かないんだよ」
リオネルが膝をついて様子をうかがう。
その額には薄く汗が滲んでいた。
「病が広がる前に、手を打たなければ……」
私は老婆の手をそっと取った。冷たい。けれど、そこに確かな命の鼓動がある。
胸の中がじんわりと熱くなっていく。
「お願い。少しだけ、触れてもいいですか?」
老婆がうなずく。私は深く息を吸い、目を閉じた。
光の粒が胸の奥で揺れ、やがて掌の先へと流れていく。
ネックレスが脈打ち、空気が柔らかく震えた。
次の瞬間、手のひらから金色の光が溢れ出した。
その光はゆっくりと老婆の体を包み、温かい春風のように肌を撫でる。
「……ああ……あたたかい……」
老婆の声が震えた。
光が消えたとき、彼女の呼吸は穏やかになり、頬に血色が戻っていた。
「どう……して……?」
老婆が涙を浮かべて私を見つめる。
私自身も、震える手を見つめ返すことしかできなかった。
「本当に……治ってる」
リオネルの声が静かに響いた。
彼の目は驚きよりも、確信を帯びていた。
「やはり、おまえは――本物の聖女だ」
「聖女……」
その言葉が、胸の中で何度も反響する。
あの日、王城で“無能”と呼ばれた私が、いま誰かを救っている。
それが夢のようで、涙が滲んだ。
「ありがとう、ミリアさん。本当にありがとう……」
老婆の手が私の手を包み、震えながらも優しく握り返してきた。
私はその温もりに応えるように、そっと微笑んだ。
◇
森を出る頃には、空が茜色に染まっていた。
鳥たちが巣に戻り、遠くの川が静かにきらめいている。
リオネルが隣で、ゆっくりと口を開いた。
「見事だった」
「いえ……私はただ、祈っただけです」
「祈りで人を癒やす者を、この国では“聖女”と呼ぶ」
リオネルが微笑んだ。
その横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなった。
「……あの日、王城で信じてもらえなかった力が、ここでようやく誰かの役に立てたんですね」
「そうだ。おまえが本物だと、誰よりも早く知っていたのは、もしかすると俺かもしれない」
「え……?」
「最初に見たときから思っていた。おまえの目は、何かを“救う”ために生きる人の目をしていた」
その言葉に、息が詰まる。
風が頬を撫で、木々の間から光がこぼれる。
彼の瞳に映る自分が、まるで別の人のように見えた。
「……リオネルさん」
呼ぶ声が震えた。
けれどその震えを、彼の穏やかな微笑みが包み込む。
「怖がるな、ミリア。おまえの力は祝福だ。そして――俺にとっても救いだ」
その一言で、心が溶けた。
目の奥がじんと熱くなり、涙が零れそうになる。
その瞬間、胸のネックレスがまた光った。
それはまるで、二人の間の想いに呼応するように、柔らかく脈を打っていた。
リオネルが手を伸ばし、私の髪をそっと撫でる。
「よくやったな、ミリア」
その言葉が、どんな褒美よりも嬉しかった。
胸の中の光が、いつまでも消えずに輝き続けていた。
△
その夜。
村の広場には焚き火が焚かれ、炎の明かりが人々の顔を柔らかく照らしていた。
昼間の出来事が瞬く間に村中に広がり、“病を癒した娘”として私のことが語られていた。
誰もが信じられないというように、それでも希望を込めた瞳で私を見つめている。
その視線が少しくすぐったくて、けれど温かかった。
「ミリアちゃん、本当にありがとうね」
「うちの婆さんまで元気になっちまってよ、まるで奇跡だ!」
村人たちが口々に言葉をかけてくれる。
私は慌てて手を振った。
「い、いえ……私、そんな……。本当に、少し手を当てただけなんです」
「その少しが大事なんだ」
リオネルの低い声が焚き火越しに響いた。
彼は腕を組み、火を見つめていた。炎の赤が彼の横顔を染め、影が頬を滑る。
穏やかで、でもどこか誇らしげな目をしていた。
村の子どもたちが、私の裾をつかんで覗き込む。
「ねえ、ミリアお姉ちゃん。あの光、もう一回見せて!」
「えっ、光?」
戸惑って笑うと、子どもたちは両手を合わせて期待に満ちた目で見上げてくる。
リオネルが少しだけ肩をすくめた。
「無理はするな。力を使うのは消耗するだろう」
「……大丈夫。少しだけ、ね」
私は焚き火の傍らにしゃがみ、手を胸に当てた。
深呼吸を一度。
すると、あの温かい光が静かに胸の奥から流れ出してくる。
掌に広がる金の粒子。焚き火の炎とは違う、やわらかな輝き。
「わあ……!」
子どもたちの歓声が夜空に弾けた。
光は蝶の形になり、ふわりと宙を舞う。
それが次々と空へ昇り、夜風に乗って星と混ざる。
「きれい……」
誰かの呟きが、静かな祈りのように聞こえた。
私はその光景を見つめながら、胸の奥にこみ上げてくるものを抑えられなかった。
こんなふうに笑ってくれる人たちがいる。
誰かの役に立てる。――ただ、それだけで。
涙がこぼれそうになった瞬間、肩に温もりを感じた。
リオネルの手が、そっと私の肩に置かれていた。
「無理をするなって言っただろう」
「すみません……でも、なんだか嬉しくて」
「嬉しいならいい」
短い言葉。
けれど、その声に含まれた優しさがあまりにも深くて、胸の奥が熱くなる。
彼の掌から伝わる体温が、焚き火よりもあたたかい。
周囲ではまだ子どもたちが走り回っていた。
光の残滓が夜空に散り、流星のように消えていく。
そのたびに歓声が上がり、笑い声が広がる。
「この村にこんな夜が来るとはな……」
リオネルが呟いた。
私は顔を上げて彼を見る。
「どういう意味ですか?」
「皆、長いこと暗い顔をしていた。天候不順で作物が育たず、病が広がり、王都からは見放された。……だが、今は違う。おまえが来て、村に光が戻った」
「私なんて……ただの人間です」
「ただの人間が、奇跡を起こすこともある」
リオネルは微笑んだ。
その瞳の奥に、焚き火の炎と同じ色の光が揺れている。
見つめられると、鼓動が強くなって、呼吸が浅くなる。
「……そんなふうに言わないでください」
「なぜだ?」
「だって、そんな……。勘違いしてしまいそうで」
思わず漏れた言葉に、彼の眉がかすかに動く。
炎の音だけが静かに響いた。
しばらく沈黙が続き――やがて、リオネルが小さく息を吐いた。
「勘違いでも、いい」
その声は低く、どこか切なげだった。
彼は少しだけ視線を逸らし、夜空を見上げる。
「おまえが笑ってくれるなら、それでいい」
風が吹いた。
焚き火の火の粉が舞い、二人の間をかすめて空へ昇っていく。
その光を見上げながら、私は言葉を失った。
何かが胸の奥で確かに変わっていくのを感じた。
誰かを救いたいという気持ち。
そして、誰かに必要とされたいという願い。
その両方が、ゆっくりとひとつに溶けていく。
気づけば、リオネルの肩に頭を預けていた。
彼は驚いたように一瞬息を止めたが、すぐに何も言わず、静かにそのままにしてくれた。
焚き火の音が遠ざかり、星々の光が滲む。
村の夜は穏やかで、どこまでも優しかった。
――ああ、ここが私の居場所なんだ。
そう思いながら、私はそっと目を閉じた。
胸元のネックレスが、またやさしく光る。
その灯りは、ふたりの影を包み込みながら、夜空へと溶けていった。
◇
その晩の焚き火が消え、夜が深まったころ――村の空には雲ひとつなく、無数の星が静かにまたたいていた。
私は窓辺に座り、頬杖をついて外を眺めていた。広場の焚き火跡にはまだかすかに赤い光が残り、風が通るたびにそれがふっと揺らめく。
ネックレスの中で光の粒が眠っている。あたたかい、呼吸するような鼓動を感じる。
――“あなたの力は、癒しの光。恐れずに、信じて。”
あの声が、再び心の奥で囁く。
私は小さく息を吸い、胸の前で手を組んだ。
ありがとう、と誰にともなく呟く。
けれど、次の瞬間。
不意に遠くで悲鳴が上がった。
「きゃああっ! だ、誰か――!」
私は飛び上がり、窓を開けた。広場の向こう、納屋の方で火の手が上がっている。
外に飛び出すと、冷たい夜気が肌を刺した。すでに村の人たちが集まり始め、火の回りで慌ただしく走り回っている。
「リオネルさん!」
「ミリア、下がってろ!」
炎の向こうから彼の声が返る。
リオネルは水桶を手に、数人の男たちと一緒に火を消そうとしていた。だが、炎は思ったより強い。家畜小屋の藁に燃え移って、熱風が夜気を押し返す。
私は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
動かなければ――。
「リオネルさん、離れて!」
「何を――!」
彼の言葉を遮って、私は炎の前に立った。
両手を掲げる。心臓が高鳴り、胸のネックレスが熱を帯びる。
空気が震えた。
「――光よ、どうか……この命を守って」
声が夜空に溶けた瞬間、私の周囲に柔らかな金色の光があふれた。
それは波紋のように広がり、炎を包み込む。
ごうごうと唸っていた火の音が、不思議なことに静まり、熱風が和らぐ。
そして――炎は、花びらのような光に変わって、夜の空へと消えた。
「……嘘だろ」
「火が……消えた……」
村人たちが息を呑む。
辺りには、燃えた匂いの代わりに、花のような甘い香りが漂っていた。
私はその場に膝をつく。体の中の力が一気に抜けて、息が荒くなる。
「ミリア!」
リオネルが駆け寄り、私の肩を抱きとめた。
彼の腕の中で、私はようやく呼吸を整えた。
「……大丈夫です。もう……大丈夫」
「無茶をするな。こんな力、使えば体を削る」
「でも……みんなを助けられたなら、それでいいです」
彼が言葉を失い、私を抱く腕に力がこもる。
胸の奥で、彼の鼓動が伝わる。
その温もりがあまりにも近くて、怖いくらいに優しかった。
「……本当に、おまえは光の人だな」
その声が耳に落ちる。
私は静かに目を閉じた。涙が一筋、頬を伝って流れた。
◇
火の後始末が済んだあと、リオネルは私を家まで送り届けてくれた。
玄関の前に立つと、夜風が二人の間を通り抜けていく。
月が雲の隙間から顔を出し、リオネルの銀の髪を照らした。
「……おまえの力は、人を救うだけじゃない。この村の闇まで払った」
「闇……?」
「皆、恐れていたんだ。いつまた飢えや病が戻るかと。だが、今夜おまえが見せた光で、誰もが希望を思い出した」
リオネルの言葉が胸にしみた。
私は何も言えず、ただ首を横に振った。
「私はそんな大したものじゃ……」
「謙遜するな。おまえは奇跡を起こしたんだ。誰もが見た」
彼の声が静かに響く。
まっすぐな瞳に見つめられると、逃げ場がなくなる。
息を吸い込むと、夜の空気が少し甘く感じた。
「リオネルさん……」
声が震える。
月明かりの下で、彼の表情がわずかに揺れた。
そして、ゆっくりと私の頬に手を伸ばす。
「怖くないか?」
「……もう、怖くないです」
そう答えると、彼はほっとしたように微笑んだ。
手のひらの温もりが、涙の跡をそっとなぞる。
「おまえの優しさは、きっとこの国を変える」
「そんな大それたこと、できませんよ」
「できるさ。……俺が保証する」
その言葉に、胸の奥で何かが強く脈を打った。
次の瞬間、ネックレスが光り、二人を包むように淡い金色の輪が広がった。
その光の中で、リオネルの指先が私の頬を滑り、唇に触れる――。
世界が止まったように静かだった。
風の音も、虫の声も、遠くの灯も、すべてが霞んで消える。
ただ、彼の瞳の奥だけが、確かな現実だった。
ゆっくりと唇が離れたとき、私の胸の中には確かな温もりが残っていた。
それは、癒しでも奇跡でもなく――ひとりの人間として感じた、初めての愛のかたち。
リオネルが小さく息を吐き、穏やかに言った。
「今夜のことは、俺たちだけの秘密にしておこう」
私は頬を赤くしながら頷いた。
「……はい」
彼は微笑み、私の頭を優しく撫でる。
夜空には雲ひとつなく、数えきれない星が輝いていた。
まるで二人の約束を祝福するように、静かに瞬いていた。
そして胸のネックレスが、再び小さく脈を打つ。
その光は、もう恐ろしいものではなかった。
それは――誰かを癒やし、愛するための、私自身の光だった。
◇
翌朝。
夜の冷たさを溶かすように、金色の光が東の空からこぼれはじめていた。
私はまだ柔らかい夢の余韻の中で目を覚ました。頬には温かい感触が残っていて、胸の奥では心臓がいつもより静かに、それでも確かに打っていた。
窓を開けると、澄みきった風がカーテンを揺らす。村の屋根が朝日を受けて白く輝き、遠くの森の木々が光に染まっていく。昨日の火事の跡はもう跡形もなく、空気には焼けた匂いの代わりに花の香りが満ちていた。
――まるで、夜そのものが癒されたみたい。
私はネックレスを手のひらに包んだ。
ガラス玉の中では小さな光がゆっくりと脈を打っている。
それはまるで私の心と呼応しているようで、見ているだけで落ち着く。
そのとき、扉の向こうからノックの音がした。
「起きているか、ミリア」
リオネルの声だ。
思わず胸が高鳴る。急いで髪を整え、扉を開けた。
「おはようございます、リオネルさん」
「……ああ。昨夜は眠れたか?」
「はい。とてもぐっすり」
彼はほっとしたように頷いた。
その顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼の表情には疲れの色があったが、どこか晴れやかでもあった。
「村の連中が、おまえに礼を言いたいと言っている。広場で待っているらしい」
「私に……?」
「そうだ。おまえがいなければ、昨夜は村が消えていた」
その言葉に、思わず視線を落とした。
私はあの光景を思い出す。燃え上がる炎、あふれ出た光、そして――リオネルの腕の中の温もり。
頬が熱くなる。
「……わかりました。行きます」
◇
広場に出ると、村人たちが輪になって待っていた。
子どもたちが花を手にして走り寄り、私の手を取る。
「ミリアお姉ちゃん、これあげる!」
差し出されたのは、小さな白い花の冠だった。
それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。
「ありがとう……」
花を受け取ると、村の人たちが次々と声をかけてくれる。
「昨日は本当に助かった」
「聖女様だって噂になってるよ!」
「この村に光が戻ったんだ」
私は何度も首を振った。
「そんな、私は聖女なんかじゃ――」
「いいや、あんたは立派な聖女だ」
老婆が笑いながら言った。昨日癒したあの人だ。
彼女の顔にはもう苦しそうな影はない。
「名ばかりの聖女なんざ王都に腐るほどおる。でも、本物の聖女は“そばにいてくれる人”だよ」
その言葉に、思わず息を飲む。
リオネルが少し離れた場所で、静かにこちらを見ていた。
彼の視線とぶつかると、心の奥で何かが弾ける。
「……ありがとう、皆さん」
気づけば涙がこぼれていた。
村人たちは温かく微笑み、誰もその涙を笑わなかった。
◇
人々が散ったあと、リオネルが近づいてきた。
彼は昨日よりも穏やかな顔をしている。
「おまえが笑うと、村が明るくなる」
「それはリオネルさんが守ってくれているからです」
「違う。おまえがここにいるから、俺も戦える」
彼の声はいつになく真っ直ぐだった。
風が吹いて、花冠がかすかに揺れる。
私は視線を落とし、小さく微笑んだ。
「……そんなこと言われたら、もっとがんばらなきゃいけませんね」
「無理はするな。ただ――おまえが自分を信じる限り、この村も俺も守られる」
言葉のひとつひとつが、心に刻まれていく。
彼の瞳の中に、私の姿が小さく映っていた。
「リオネルさん」
「ん?」
「……昨日のこと、秘密って言ってましたけど」
「……ああ」
私が顔を上げると、彼の瞳が少しだけ揺れた。
頬が熱くなりながら、それでも勇気を出して言った。
「秘密じゃなくてもいいです。もう、私は……逃げませんから」
その言葉に、リオネルが息を呑んだ。
風がふたりの間を通り抜け、花びらが舞い上がる。
そして――彼が小さく笑った。
穏やかで、どこまでもやさしい笑みだった。
「……そうか。なら、俺も隠さない。おまえがここに来てから、心が変わった」
その声が、胸の奥を温かく貫いた。
太陽の光が雲の隙間から差し込み、二人の影を長く伸ばしていく。
ネックレスが光り、風に花冠の白が舞った。
それはまるで、未来を祝福する光の雨。
リオネルが手を差し出す。
私は迷わずその手を取った。
そして、あの日とは違う笑顔で言った。
「……この世界で、生きていきます。あなたと一緒に」
彼の瞳がまっすぐに細められる。
「それが、俺の願いでもある」
風が吹いた。
森の木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
世界が生きている音が、やさしく胸に響いた。
私はリオネルと手をつないだまま、空を見上げる。
二つの月が青白く並び、昼の光の中でも確かに輝いていた。
その光景が、永遠に心に焼きついた。
――“本物の聖女”と呼ばれた日。
私が、この世界で“生きる理由”を見つけた朝だった。
◇
昼下がりの風はどこまでも穏やかで、陽射しが柔らかく村の屋根を撫でていた。
その平和な光景を眺めながら、私は畑の端に腰を下ろしていた。リオネルは隣で鍬を置き、汗をぬぐっている。額の汗が光にきらめき、ほんの少し乱れた前髪が風に揺れた。
……ただ、それを見ているだけで胸が熱くなる。
彼がここにいる。私もここにいる。たったそれだけのことが、奇跡のように思えた。
「もう慣れたか?」
リオネルの声がした。
私は空を見上げたまま、微笑んで答える。
「ええ、すっかり。……こんなに土いじりが楽しいなんて、知らなかったです」
「最初は手が真っ赤だったのにな」
「そういえば、そうでしたね」
笑い合うと、風がふたりの間を通り抜けた。
その瞬間、ふとリオネルが遠くを見つめる。
「王都からの使者が来るらしい」
「え……?」
その言葉に、胸がどきりと鳴った。
「どうして急に?」
「噂が届いたんだろう。辺境で“聖女が現れた”と」
息が詰まった。
昨日までの穏やかな時間が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
私が呼吸を整えようとしたとき、リオネルが真剣な顔で言った。
「ミリア、もし何かあっても、俺が守る」
その一言に、胸が強く震えた。
目を上げると、彼の瞳はまっすぐで、少しも揺れていなかった。
「でも、王都の人たちにとって私は――」
「“無能”だと言われた娘か?」
彼の声が静かに響く。
私は小さくうなずいた。
「彼らにどう思われてもいい。ここでは、おまえがどれだけの人を救ったか、みんな知っている」
その言葉が胸の奥に沁みた。
そして、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
「……ありがとう。でも、私、もう逃げません」
「そうだな。おまえはもう“聖女”として立っている」
リオネルがそっと私の肩に手を置く。
その掌の温もりが、恐れを溶かしていく。
◇
夕方、村の外れに砂埃が立った。
数頭の馬に乗った兵士たちが、王都の紋章を掲げてやってきた。
私は胸の前で手を組み、深く息を吸い込む。
「ミリア・エルノート、だな?」
先頭の男が馬から降り、無表情に告げた。
王都の使者――その姿を見るだけで、過去の記憶が甦る。冷たい視線、嘲るような声、そして“無能”という烙印。
喉がかすかに震えた。
「……はい」
「王命により、貴殿を王城へお迎えにあがった。詳細は到着後に伝える」
「王城に……」
信じられず呟く。
リオネルが一歩前に出て、鋭い声で言った。
「理由は何だ?」
「“聖女認定”の再調査だ」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
私は何も言えずに立ち尽くした。
リオネルの瞳が、私を静かに見つめていた。
「行く必要はない。拒めば俺が――」
「いいえ」
言葉を遮ると、彼が驚いたように目を見開いた。
「私は行きます」
「ミリア……!」
「逃げたら、また“無能”のままです。だから、今度こそ証明したい。私の力が、本物だって」
リオネルが拳を握る。
しばらく沈黙したあと、彼はゆっくりと頷いた。
「……分かった。だが、一人では行かせない。俺も行く」
「え?」
「俺はこの村の代表でもある。聖女を守る義務がある」
真剣な表情で言い切るその姿に、胸が熱くなった。
私は唇を噛み、そして小さく笑った。
「頼もしい護衛さんですね」
リオネルの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「護衛というより……隣に立つ者だ」
その言葉に、鼓動が早くなる。
夕陽が沈みかけ、二人の影が長く伸びて交わった。
◇
夜。
村の出口に並ぶ松明の灯りの前で、村人たちが集まっていた。
誰もが不安そうな顔をしていたが、目の奥には確かな信頼の光があった。
「必ず戻ってきてね、ミリアちゃん!」
「聖女様、王都のやつらなんかに負けないで!」
子どもたちが泣きながら手を振る。
私は微笑んで頷き、彼らに言葉を返した。
「大丈夫。すぐに帰ってきます。皆の笑顔がある限り、私の光は消えません」
リオネルが馬に乗り、私に手を差し伸べる。
その手を取ると、彼が言った。
「行こう。おまえの真実を取り戻すために」
私は頷いた。
夜空には満月が輝いている。
ネックレスの中の光が、それに呼応するように柔らかく揺れた。
王都への道は長く、そして運命を決める旅になる。
けれど今は、怖くなかった。
なぜなら、私の隣には――あの夜、私を包んでくれた光があるから。
馬がゆっくりと動き出す。
村の灯りが遠ざかり、風が頬を撫でた。
その瞬間、胸の奥で確かに何かが芽生える。
それは恐れではなく、希望の光。
――“無能”と呼ばれた少女が、本当の聖女として歩き出すための、最初の一歩だった。
◇
夜明け前の道は、しんと静まり返っていた。
空はまだ群青で、地平線の向こうが少しずつ薄桃色に染まり始めている。
馬の蹄が小さく土を叩く音だけが響き、冷たい風が頬を撫でていく。
私はリオネルの後ろで手綱を握りしめ、ゆっくりと揺れる背中を見つめていた。
王都へ向かう道――それは、私がかつて“追い出された場所”へ帰る道でもある。
胸の奥が痛む。けれど、不思議と後悔はなかった。
今はただ、真実を示したい。
あのとき私を無能と決めつけた人々に、本当の“聖女”とは何かを。
そんなことを考えていると、リオネルが振り返った。
「寒くないか?」
「え? ……はい、大丈夫です」
「手が冷たいだろう。少し寄れ」
そう言って、彼が軽く背に手を回した。
体がぴたりと密着し、心臓の音が一気に早まる。
「リ、リオネルさん!?」
「落ちないように支えてるだけだ」
わざとらしくない声なのに、どこか優しすぎてずるい。
私は顔を真っ赤にしながらも、そっと彼の背に額を預けた。
革の鎧の下から伝わる体温が、やけに安心できた。
◇
陽が昇るにつれて、道の両脇には王都へ向かう商人たちの馬車が増えてきた。
山を抜け、緑の丘を越え、やがて遠くに白い城壁が見えてくる。
王都――私が召喚されたあの場所。
その光景を目にした瞬間、指先が震えた。
リオネルがその様子に気づき、馬を止めた。
「怖いか?」
「……少しだけ。でも、もう逃げません」
「そうか」
彼は静かに微笑んでから、再び手綱を握った。
その横顔を見ていると、不思議と心が落ち着く。
◇
王都の門前は賑わっていた。
商人たちの列、旅人、兵士。かつて見慣れていた光景のはずなのに、どこか遠い世界のように思えた。
門を通ると、石畳の道が続き、両脇には立派な建物が並んでいる。
私は無意識に息を詰めた。
――ここで、私は“無能”と呼ばれたのだ。
「大丈夫だ」
リオネルの声が耳に届く。
振り向くと、彼がまっすぐな目で私を見ていた。
「誰が何を言おうと、俺はおまえを信じる」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
ただ頷くだけで、精一杯だった。
◇
やがて王城に着くと、白い大理石の門が重々しく開かれた。
その向こうには、見覚えのある大広間が広がっている。
絢爛なシャンデリア、金の装飾、冷たい空気――すべてが記憶のままだった。
けれど、私の心はもうあの日の私ではなかった。
玉座の前に立つと、重厚な声が響いた。
「久しいな、異界の娘よ」
王だった。
威厳に満ちたその瞳が、私をまっすぐに見つめている。
「おまえが“聖女”であると再び申すのか?」
その問いに、周囲がざわめいた。
貴族たちの視線が一斉に注がれる。あのときと同じ、冷たい眼差し。
でも、私は逃げなかった。
「……はい」
声は震えなかった。
王の眉がわずかに動く。
「ならば証を示せ。聖女を名乗るなら、神の加護を見せてみよ」
待っていた言葉だった。
私は胸のネックレスに手を当て、静かに目を閉じた。
心の奥で、リオネルの声が聞こえる気がした。
“恐れるな。おまえの光は、本物だ。”
深呼吸。
次の瞬間、光が弾けた。
金色の粒子が大広間いっぱいに広がり、空中で舞い踊る。
冷たい石の床に咲くように、光の花が次々と咲いた。
人々が息を呑む。王が立ち上がり、杖を握りしめた。
「……これが、聖なる光……!」
重臣たちがざわつく。
私の足元に集まった光が、やがて一つにまとまり、淡い蝶の姿を形作る。
それは玉座の前まで飛び、王の杖にそっと触れると、やわらかく溶けて消えた。
沈黙。
次の瞬間、王が低く息を吐いた。
「たしかに、神聖の力……。あの日、我らが過ちを犯したか」
その声に、周囲がざわめく。
貴族の一人が叫んだ。
「ま、まさか! 偽りではないのか!?」
「ならば自ら確かめてみよ」
リオネルが一歩前に出て、鋭く言い放った。
彼の声には、迷いがなかった。
「この目で見た。彼女は人を癒し、村を救った。命を懸けてだ。それを偽りと呼ぶのか?」
堂内が静まり返る。
王は目を閉じ、そして深くうなずいた。
「ミリア・エルノート。――おまえを正式に“聖女”として認めよう」
その瞬間、胸が熱くなり、視界が滲んだ。
王の言葉が響く中、リオネルがそっと私の手を握った。
「やったな」
その笑みを見た瞬間、涙がこぼれた。
私はようやく、自分を認めてもらえたのだ。
誰かの証明ではなく、自分の意志と力で。
光が再び広間に満ち、天井のステンドグラスを照らす。
まるで神が微笑んでいるかのようだった。
私はリオネルの手を強く握り返した。
――これが、私の“ざまぁ”だ。
あの日、私を嘲った人たちの前で、堂々と光を放つこの瞬間こそが。
そして胸の奥で、静かに誓った。
もう二度と、誰にも“無能”なんて言わせない。
私は私のままで、誰かを救える。
――それが“本物の聖女”としての証だから。
ネックレスが最後の光を放ち、
広間全体を包むように、黄金の風が吹いた。
その風の中で、私は小さく微笑んだ。
リオネルが横で笑い、世界が静かに祝福していた。
――聖女の物語は、ここから始まるのだ。
〇
朝の霧がまだ消えきらない村を、鐘の音がゆっくりと包み込んでいた。
私は井戸のそばで桶を満たしながら、白い息を吐いた。冷たい水面に顔を映すと、そこにはほんの少しだけ穏やかな表情の自分がいた。
ここで暮らし始めて、もう数日が過ぎた。洗濯をし、食事を作り、時には子どもたちと遊び、夜にはリオネルと村のことを話す。忙しくも、心が穏やかに満たされる毎日。
――それは、これまで知らなかった“平和”の形だった。
「おはよう、ミリア」
振り向くと、リオネルが手を振っていた。
朝の光に照らされて、銀の髪がまるで霧の粒のように輝く。
私は思わず胸の奥がくすぐったくなって、笑みを返した。
「おはようございます。今日は早いですね」
「森の見回りだ。南の方で病気が流行っているらしい。念のため確認してくる」
「……病気?」
私は桶を置き、眉をひそめた。
この平和な村にも、そんな不穏な話があるのだろうか。
「ああ。まだ詳しくは分からん。だが、放っておくわけにはいかない」
彼の声には、迷いのない力がこもっていた。
その姿を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「私も行きます」
「いや、危険かもしれない。おまえは村で待っていろ」
「でも……人が苦しんでいるのなら、私、助けられるかもしれません」
私の言葉に、リオネルが驚いたように目を細めた。
そして、少しだけため息をついたあと、静かに頷いた。
「……分かった。ただし、俺のそばを離れるな」
「はい!」
胸の奥が明るくなる。
その瞬間、ネックレスがほのかに光った。
◇
森の中はひんやりとして、陽の光が木々の間を斑に差し込んでいた。
鳥の声が遠くで響き、地面には露を含んだ草の匂いが漂っている。
リオネルが先を歩き、私はその背中を追った。
「……このあたり、少し空気が重いですね」
「ああ。動物の気配も薄い」
リオネルの手が剣の柄に自然と伸びる。その仕草に、彼の元・騎士としての癖が垣間見えた。
やがて、開けた場所に出る。そこには、小さな村の家がぽつんと建っていた。
扉の前に腰を下ろした老婆がいて、苦しそうに胸を押さえている。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ると、老婆が弱々しく顔を上げた。
「……咳が、止まらなくてねぇ。薬も効かないんだよ」
リオネルが膝をついて様子をうかがう。
その額には薄く汗が滲んでいた。
「病が広がる前に、手を打たなければ……」
私は老婆の手をそっと取った。冷たい。けれど、そこに確かな命の鼓動がある。
胸の中がじんわりと熱くなっていく。
「お願い。少しだけ、触れてもいいですか?」
老婆がうなずく。私は深く息を吸い、目を閉じた。
光の粒が胸の奥で揺れ、やがて掌の先へと流れていく。
ネックレスが脈打ち、空気が柔らかく震えた。
次の瞬間、手のひらから金色の光が溢れ出した。
その光はゆっくりと老婆の体を包み、温かい春風のように肌を撫でる。
「……ああ……あたたかい……」
老婆の声が震えた。
光が消えたとき、彼女の呼吸は穏やかになり、頬に血色が戻っていた。
「どう……して……?」
老婆が涙を浮かべて私を見つめる。
私自身も、震える手を見つめ返すことしかできなかった。
「本当に……治ってる」
リオネルの声が静かに響いた。
彼の目は驚きよりも、確信を帯びていた。
「やはり、おまえは――本物の聖女だ」
「聖女……」
その言葉が、胸の中で何度も反響する。
あの日、王城で“無能”と呼ばれた私が、いま誰かを救っている。
それが夢のようで、涙が滲んだ。
「ありがとう、ミリアさん。本当にありがとう……」
老婆の手が私の手を包み、震えながらも優しく握り返してきた。
私はその温もりに応えるように、そっと微笑んだ。
◇
森を出る頃には、空が茜色に染まっていた。
鳥たちが巣に戻り、遠くの川が静かにきらめいている。
リオネルが隣で、ゆっくりと口を開いた。
「見事だった」
「いえ……私はただ、祈っただけです」
「祈りで人を癒やす者を、この国では“聖女”と呼ぶ」
リオネルが微笑んだ。
その横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなった。
「……あの日、王城で信じてもらえなかった力が、ここでようやく誰かの役に立てたんですね」
「そうだ。おまえが本物だと、誰よりも早く知っていたのは、もしかすると俺かもしれない」
「え……?」
「最初に見たときから思っていた。おまえの目は、何かを“救う”ために生きる人の目をしていた」
その言葉に、息が詰まる。
風が頬を撫で、木々の間から光がこぼれる。
彼の瞳に映る自分が、まるで別の人のように見えた。
「……リオネルさん」
呼ぶ声が震えた。
けれどその震えを、彼の穏やかな微笑みが包み込む。
「怖がるな、ミリア。おまえの力は祝福だ。そして――俺にとっても救いだ」
その一言で、心が溶けた。
目の奥がじんと熱くなり、涙が零れそうになる。
その瞬間、胸のネックレスがまた光った。
それはまるで、二人の間の想いに呼応するように、柔らかく脈を打っていた。
リオネルが手を伸ばし、私の髪をそっと撫でる。
「よくやったな、ミリア」
その言葉が、どんな褒美よりも嬉しかった。
胸の中の光が、いつまでも消えずに輝き続けていた。
△
その夜。
村の広場には焚き火が焚かれ、炎の明かりが人々の顔を柔らかく照らしていた。
昼間の出来事が瞬く間に村中に広がり、“病を癒した娘”として私のことが語られていた。
誰もが信じられないというように、それでも希望を込めた瞳で私を見つめている。
その視線が少しくすぐったくて、けれど温かかった。
「ミリアちゃん、本当にありがとうね」
「うちの婆さんまで元気になっちまってよ、まるで奇跡だ!」
村人たちが口々に言葉をかけてくれる。
私は慌てて手を振った。
「い、いえ……私、そんな……。本当に、少し手を当てただけなんです」
「その少しが大事なんだ」
リオネルの低い声が焚き火越しに響いた。
彼は腕を組み、火を見つめていた。炎の赤が彼の横顔を染め、影が頬を滑る。
穏やかで、でもどこか誇らしげな目をしていた。
村の子どもたちが、私の裾をつかんで覗き込む。
「ねえ、ミリアお姉ちゃん。あの光、もう一回見せて!」
「えっ、光?」
戸惑って笑うと、子どもたちは両手を合わせて期待に満ちた目で見上げてくる。
リオネルが少しだけ肩をすくめた。
「無理はするな。力を使うのは消耗するだろう」
「……大丈夫。少しだけ、ね」
私は焚き火の傍らにしゃがみ、手を胸に当てた。
深呼吸を一度。
すると、あの温かい光が静かに胸の奥から流れ出してくる。
掌に広がる金の粒子。焚き火の炎とは違う、やわらかな輝き。
「わあ……!」
子どもたちの歓声が夜空に弾けた。
光は蝶の形になり、ふわりと宙を舞う。
それが次々と空へ昇り、夜風に乗って星と混ざる。
「きれい……」
誰かの呟きが、静かな祈りのように聞こえた。
私はその光景を見つめながら、胸の奥にこみ上げてくるものを抑えられなかった。
こんなふうに笑ってくれる人たちがいる。
誰かの役に立てる。――ただ、それだけで。
涙がこぼれそうになった瞬間、肩に温もりを感じた。
リオネルの手が、そっと私の肩に置かれていた。
「無理をするなって言っただろう」
「すみません……でも、なんだか嬉しくて」
「嬉しいならいい」
短い言葉。
けれど、その声に含まれた優しさがあまりにも深くて、胸の奥が熱くなる。
彼の掌から伝わる体温が、焚き火よりもあたたかい。
周囲ではまだ子どもたちが走り回っていた。
光の残滓が夜空に散り、流星のように消えていく。
そのたびに歓声が上がり、笑い声が広がる。
「この村にこんな夜が来るとはな……」
リオネルが呟いた。
私は顔を上げて彼を見る。
「どういう意味ですか?」
「皆、長いこと暗い顔をしていた。天候不順で作物が育たず、病が広がり、王都からは見放された。……だが、今は違う。おまえが来て、村に光が戻った」
「私なんて……ただの人間です」
「ただの人間が、奇跡を起こすこともある」
リオネルは微笑んだ。
その瞳の奥に、焚き火の炎と同じ色の光が揺れている。
見つめられると、鼓動が強くなって、呼吸が浅くなる。
「……そんなふうに言わないでください」
「なぜだ?」
「だって、そんな……。勘違いしてしまいそうで」
思わず漏れた言葉に、彼の眉がかすかに動く。
炎の音だけが静かに響いた。
しばらく沈黙が続き――やがて、リオネルが小さく息を吐いた。
「勘違いでも、いい」
その声は低く、どこか切なげだった。
彼は少しだけ視線を逸らし、夜空を見上げる。
「おまえが笑ってくれるなら、それでいい」
風が吹いた。
焚き火の火の粉が舞い、二人の間をかすめて空へ昇っていく。
その光を見上げながら、私は言葉を失った。
何かが胸の奥で確かに変わっていくのを感じた。
誰かを救いたいという気持ち。
そして、誰かに必要とされたいという願い。
その両方が、ゆっくりとひとつに溶けていく。
気づけば、リオネルの肩に頭を預けていた。
彼は驚いたように一瞬息を止めたが、すぐに何も言わず、静かにそのままにしてくれた。
焚き火の音が遠ざかり、星々の光が滲む。
村の夜は穏やかで、どこまでも優しかった。
――ああ、ここが私の居場所なんだ。
そう思いながら、私はそっと目を閉じた。
胸元のネックレスが、またやさしく光る。
その灯りは、ふたりの影を包み込みながら、夜空へと溶けていった。
◇
その晩の焚き火が消え、夜が深まったころ――村の空には雲ひとつなく、無数の星が静かにまたたいていた。
私は窓辺に座り、頬杖をついて外を眺めていた。広場の焚き火跡にはまだかすかに赤い光が残り、風が通るたびにそれがふっと揺らめく。
ネックレスの中で光の粒が眠っている。あたたかい、呼吸するような鼓動を感じる。
――“あなたの力は、癒しの光。恐れずに、信じて。”
あの声が、再び心の奥で囁く。
私は小さく息を吸い、胸の前で手を組んだ。
ありがとう、と誰にともなく呟く。
けれど、次の瞬間。
不意に遠くで悲鳴が上がった。
「きゃああっ! だ、誰か――!」
私は飛び上がり、窓を開けた。広場の向こう、納屋の方で火の手が上がっている。
外に飛び出すと、冷たい夜気が肌を刺した。すでに村の人たちが集まり始め、火の回りで慌ただしく走り回っている。
「リオネルさん!」
「ミリア、下がってろ!」
炎の向こうから彼の声が返る。
リオネルは水桶を手に、数人の男たちと一緒に火を消そうとしていた。だが、炎は思ったより強い。家畜小屋の藁に燃え移って、熱風が夜気を押し返す。
私は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
動かなければ――。
「リオネルさん、離れて!」
「何を――!」
彼の言葉を遮って、私は炎の前に立った。
両手を掲げる。心臓が高鳴り、胸のネックレスが熱を帯びる。
空気が震えた。
「――光よ、どうか……この命を守って」
声が夜空に溶けた瞬間、私の周囲に柔らかな金色の光があふれた。
それは波紋のように広がり、炎を包み込む。
ごうごうと唸っていた火の音が、不思議なことに静まり、熱風が和らぐ。
そして――炎は、花びらのような光に変わって、夜の空へと消えた。
「……嘘だろ」
「火が……消えた……」
村人たちが息を呑む。
辺りには、燃えた匂いの代わりに、花のような甘い香りが漂っていた。
私はその場に膝をつく。体の中の力が一気に抜けて、息が荒くなる。
「ミリア!」
リオネルが駆け寄り、私の肩を抱きとめた。
彼の腕の中で、私はようやく呼吸を整えた。
「……大丈夫です。もう……大丈夫」
「無茶をするな。こんな力、使えば体を削る」
「でも……みんなを助けられたなら、それでいいです」
彼が言葉を失い、私を抱く腕に力がこもる。
胸の奥で、彼の鼓動が伝わる。
その温もりがあまりにも近くて、怖いくらいに優しかった。
「……本当に、おまえは光の人だな」
その声が耳に落ちる。
私は静かに目を閉じた。涙が一筋、頬を伝って流れた。
◇
火の後始末が済んだあと、リオネルは私を家まで送り届けてくれた。
玄関の前に立つと、夜風が二人の間を通り抜けていく。
月が雲の隙間から顔を出し、リオネルの銀の髪を照らした。
「……おまえの力は、人を救うだけじゃない。この村の闇まで払った」
「闇……?」
「皆、恐れていたんだ。いつまた飢えや病が戻るかと。だが、今夜おまえが見せた光で、誰もが希望を思い出した」
リオネルの言葉が胸にしみた。
私は何も言えず、ただ首を横に振った。
「私はそんな大したものじゃ……」
「謙遜するな。おまえは奇跡を起こしたんだ。誰もが見た」
彼の声が静かに響く。
まっすぐな瞳に見つめられると、逃げ場がなくなる。
息を吸い込むと、夜の空気が少し甘く感じた。
「リオネルさん……」
声が震える。
月明かりの下で、彼の表情がわずかに揺れた。
そして、ゆっくりと私の頬に手を伸ばす。
「怖くないか?」
「……もう、怖くないです」
そう答えると、彼はほっとしたように微笑んだ。
手のひらの温もりが、涙の跡をそっとなぞる。
「おまえの優しさは、きっとこの国を変える」
「そんな大それたこと、できませんよ」
「できるさ。……俺が保証する」
その言葉に、胸の奥で何かが強く脈を打った。
次の瞬間、ネックレスが光り、二人を包むように淡い金色の輪が広がった。
その光の中で、リオネルの指先が私の頬を滑り、唇に触れる――。
世界が止まったように静かだった。
風の音も、虫の声も、遠くの灯も、すべてが霞んで消える。
ただ、彼の瞳の奥だけが、確かな現実だった。
ゆっくりと唇が離れたとき、私の胸の中には確かな温もりが残っていた。
それは、癒しでも奇跡でもなく――ひとりの人間として感じた、初めての愛のかたち。
リオネルが小さく息を吐き、穏やかに言った。
「今夜のことは、俺たちだけの秘密にしておこう」
私は頬を赤くしながら頷いた。
「……はい」
彼は微笑み、私の頭を優しく撫でる。
夜空には雲ひとつなく、数えきれない星が輝いていた。
まるで二人の約束を祝福するように、静かに瞬いていた。
そして胸のネックレスが、再び小さく脈を打つ。
その光は、もう恐ろしいものではなかった。
それは――誰かを癒やし、愛するための、私自身の光だった。
◇
翌朝。
夜の冷たさを溶かすように、金色の光が東の空からこぼれはじめていた。
私はまだ柔らかい夢の余韻の中で目を覚ました。頬には温かい感触が残っていて、胸の奥では心臓がいつもより静かに、それでも確かに打っていた。
窓を開けると、澄みきった風がカーテンを揺らす。村の屋根が朝日を受けて白く輝き、遠くの森の木々が光に染まっていく。昨日の火事の跡はもう跡形もなく、空気には焼けた匂いの代わりに花の香りが満ちていた。
――まるで、夜そのものが癒されたみたい。
私はネックレスを手のひらに包んだ。
ガラス玉の中では小さな光がゆっくりと脈を打っている。
それはまるで私の心と呼応しているようで、見ているだけで落ち着く。
そのとき、扉の向こうからノックの音がした。
「起きているか、ミリア」
リオネルの声だ。
思わず胸が高鳴る。急いで髪を整え、扉を開けた。
「おはようございます、リオネルさん」
「……ああ。昨夜は眠れたか?」
「はい。とてもぐっすり」
彼はほっとしたように頷いた。
その顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼の表情には疲れの色があったが、どこか晴れやかでもあった。
「村の連中が、おまえに礼を言いたいと言っている。広場で待っているらしい」
「私に……?」
「そうだ。おまえがいなければ、昨夜は村が消えていた」
その言葉に、思わず視線を落とした。
私はあの光景を思い出す。燃え上がる炎、あふれ出た光、そして――リオネルの腕の中の温もり。
頬が熱くなる。
「……わかりました。行きます」
◇
広場に出ると、村人たちが輪になって待っていた。
子どもたちが花を手にして走り寄り、私の手を取る。
「ミリアお姉ちゃん、これあげる!」
差し出されたのは、小さな白い花の冠だった。
それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。
「ありがとう……」
花を受け取ると、村の人たちが次々と声をかけてくれる。
「昨日は本当に助かった」
「聖女様だって噂になってるよ!」
「この村に光が戻ったんだ」
私は何度も首を振った。
「そんな、私は聖女なんかじゃ――」
「いいや、あんたは立派な聖女だ」
老婆が笑いながら言った。昨日癒したあの人だ。
彼女の顔にはもう苦しそうな影はない。
「名ばかりの聖女なんざ王都に腐るほどおる。でも、本物の聖女は“そばにいてくれる人”だよ」
その言葉に、思わず息を飲む。
リオネルが少し離れた場所で、静かにこちらを見ていた。
彼の視線とぶつかると、心の奥で何かが弾ける。
「……ありがとう、皆さん」
気づけば涙がこぼれていた。
村人たちは温かく微笑み、誰もその涙を笑わなかった。
◇
人々が散ったあと、リオネルが近づいてきた。
彼は昨日よりも穏やかな顔をしている。
「おまえが笑うと、村が明るくなる」
「それはリオネルさんが守ってくれているからです」
「違う。おまえがここにいるから、俺も戦える」
彼の声はいつになく真っ直ぐだった。
風が吹いて、花冠がかすかに揺れる。
私は視線を落とし、小さく微笑んだ。
「……そんなこと言われたら、もっとがんばらなきゃいけませんね」
「無理はするな。ただ――おまえが自分を信じる限り、この村も俺も守られる」
言葉のひとつひとつが、心に刻まれていく。
彼の瞳の中に、私の姿が小さく映っていた。
「リオネルさん」
「ん?」
「……昨日のこと、秘密って言ってましたけど」
「……ああ」
私が顔を上げると、彼の瞳が少しだけ揺れた。
頬が熱くなりながら、それでも勇気を出して言った。
「秘密じゃなくてもいいです。もう、私は……逃げませんから」
その言葉に、リオネルが息を呑んだ。
風がふたりの間を通り抜け、花びらが舞い上がる。
そして――彼が小さく笑った。
穏やかで、どこまでもやさしい笑みだった。
「……そうか。なら、俺も隠さない。おまえがここに来てから、心が変わった」
その声が、胸の奥を温かく貫いた。
太陽の光が雲の隙間から差し込み、二人の影を長く伸ばしていく。
ネックレスが光り、風に花冠の白が舞った。
それはまるで、未来を祝福する光の雨。
リオネルが手を差し出す。
私は迷わずその手を取った。
そして、あの日とは違う笑顔で言った。
「……この世界で、生きていきます。あなたと一緒に」
彼の瞳がまっすぐに細められる。
「それが、俺の願いでもある」
風が吹いた。
森の木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
世界が生きている音が、やさしく胸に響いた。
私はリオネルと手をつないだまま、空を見上げる。
二つの月が青白く並び、昼の光の中でも確かに輝いていた。
その光景が、永遠に心に焼きついた。
――“本物の聖女”と呼ばれた日。
私が、この世界で“生きる理由”を見つけた朝だった。
◇
昼下がりの風はどこまでも穏やかで、陽射しが柔らかく村の屋根を撫でていた。
その平和な光景を眺めながら、私は畑の端に腰を下ろしていた。リオネルは隣で鍬を置き、汗をぬぐっている。額の汗が光にきらめき、ほんの少し乱れた前髪が風に揺れた。
……ただ、それを見ているだけで胸が熱くなる。
彼がここにいる。私もここにいる。たったそれだけのことが、奇跡のように思えた。
「もう慣れたか?」
リオネルの声がした。
私は空を見上げたまま、微笑んで答える。
「ええ、すっかり。……こんなに土いじりが楽しいなんて、知らなかったです」
「最初は手が真っ赤だったのにな」
「そういえば、そうでしたね」
笑い合うと、風がふたりの間を通り抜けた。
その瞬間、ふとリオネルが遠くを見つめる。
「王都からの使者が来るらしい」
「え……?」
その言葉に、胸がどきりと鳴った。
「どうして急に?」
「噂が届いたんだろう。辺境で“聖女が現れた”と」
息が詰まった。
昨日までの穏やかな時間が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
私が呼吸を整えようとしたとき、リオネルが真剣な顔で言った。
「ミリア、もし何かあっても、俺が守る」
その一言に、胸が強く震えた。
目を上げると、彼の瞳はまっすぐで、少しも揺れていなかった。
「でも、王都の人たちにとって私は――」
「“無能”だと言われた娘か?」
彼の声が静かに響く。
私は小さくうなずいた。
「彼らにどう思われてもいい。ここでは、おまえがどれだけの人を救ったか、みんな知っている」
その言葉が胸の奥に沁みた。
そして、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
「……ありがとう。でも、私、もう逃げません」
「そうだな。おまえはもう“聖女”として立っている」
リオネルがそっと私の肩に手を置く。
その掌の温もりが、恐れを溶かしていく。
◇
夕方、村の外れに砂埃が立った。
数頭の馬に乗った兵士たちが、王都の紋章を掲げてやってきた。
私は胸の前で手を組み、深く息を吸い込む。
「ミリア・エルノート、だな?」
先頭の男が馬から降り、無表情に告げた。
王都の使者――その姿を見るだけで、過去の記憶が甦る。冷たい視線、嘲るような声、そして“無能”という烙印。
喉がかすかに震えた。
「……はい」
「王命により、貴殿を王城へお迎えにあがった。詳細は到着後に伝える」
「王城に……」
信じられず呟く。
リオネルが一歩前に出て、鋭い声で言った。
「理由は何だ?」
「“聖女認定”の再調査だ」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
私は何も言えずに立ち尽くした。
リオネルの瞳が、私を静かに見つめていた。
「行く必要はない。拒めば俺が――」
「いいえ」
言葉を遮ると、彼が驚いたように目を見開いた。
「私は行きます」
「ミリア……!」
「逃げたら、また“無能”のままです。だから、今度こそ証明したい。私の力が、本物だって」
リオネルが拳を握る。
しばらく沈黙したあと、彼はゆっくりと頷いた。
「……分かった。だが、一人では行かせない。俺も行く」
「え?」
「俺はこの村の代表でもある。聖女を守る義務がある」
真剣な表情で言い切るその姿に、胸が熱くなった。
私は唇を噛み、そして小さく笑った。
「頼もしい護衛さんですね」
リオネルの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「護衛というより……隣に立つ者だ」
その言葉に、鼓動が早くなる。
夕陽が沈みかけ、二人の影が長く伸びて交わった。
◇
夜。
村の出口に並ぶ松明の灯りの前で、村人たちが集まっていた。
誰もが不安そうな顔をしていたが、目の奥には確かな信頼の光があった。
「必ず戻ってきてね、ミリアちゃん!」
「聖女様、王都のやつらなんかに負けないで!」
子どもたちが泣きながら手を振る。
私は微笑んで頷き、彼らに言葉を返した。
「大丈夫。すぐに帰ってきます。皆の笑顔がある限り、私の光は消えません」
リオネルが馬に乗り、私に手を差し伸べる。
その手を取ると、彼が言った。
「行こう。おまえの真実を取り戻すために」
私は頷いた。
夜空には満月が輝いている。
ネックレスの中の光が、それに呼応するように柔らかく揺れた。
王都への道は長く、そして運命を決める旅になる。
けれど今は、怖くなかった。
なぜなら、私の隣には――あの夜、私を包んでくれた光があるから。
馬がゆっくりと動き出す。
村の灯りが遠ざかり、風が頬を撫でた。
その瞬間、胸の奥で確かに何かが芽生える。
それは恐れではなく、希望の光。
――“無能”と呼ばれた少女が、本当の聖女として歩き出すための、最初の一歩だった。
◇
夜明け前の道は、しんと静まり返っていた。
空はまだ群青で、地平線の向こうが少しずつ薄桃色に染まり始めている。
馬の蹄が小さく土を叩く音だけが響き、冷たい風が頬を撫でていく。
私はリオネルの後ろで手綱を握りしめ、ゆっくりと揺れる背中を見つめていた。
王都へ向かう道――それは、私がかつて“追い出された場所”へ帰る道でもある。
胸の奥が痛む。けれど、不思議と後悔はなかった。
今はただ、真実を示したい。
あのとき私を無能と決めつけた人々に、本当の“聖女”とは何かを。
そんなことを考えていると、リオネルが振り返った。
「寒くないか?」
「え? ……はい、大丈夫です」
「手が冷たいだろう。少し寄れ」
そう言って、彼が軽く背に手を回した。
体がぴたりと密着し、心臓の音が一気に早まる。
「リ、リオネルさん!?」
「落ちないように支えてるだけだ」
わざとらしくない声なのに、どこか優しすぎてずるい。
私は顔を真っ赤にしながらも、そっと彼の背に額を預けた。
革の鎧の下から伝わる体温が、やけに安心できた。
◇
陽が昇るにつれて、道の両脇には王都へ向かう商人たちの馬車が増えてきた。
山を抜け、緑の丘を越え、やがて遠くに白い城壁が見えてくる。
王都――私が召喚されたあの場所。
その光景を目にした瞬間、指先が震えた。
リオネルがその様子に気づき、馬を止めた。
「怖いか?」
「……少しだけ。でも、もう逃げません」
「そうか」
彼は静かに微笑んでから、再び手綱を握った。
その横顔を見ていると、不思議と心が落ち着く。
◇
王都の門前は賑わっていた。
商人たちの列、旅人、兵士。かつて見慣れていた光景のはずなのに、どこか遠い世界のように思えた。
門を通ると、石畳の道が続き、両脇には立派な建物が並んでいる。
私は無意識に息を詰めた。
――ここで、私は“無能”と呼ばれたのだ。
「大丈夫だ」
リオネルの声が耳に届く。
振り向くと、彼がまっすぐな目で私を見ていた。
「誰が何を言おうと、俺はおまえを信じる」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
ただ頷くだけで、精一杯だった。
◇
やがて王城に着くと、白い大理石の門が重々しく開かれた。
その向こうには、見覚えのある大広間が広がっている。
絢爛なシャンデリア、金の装飾、冷たい空気――すべてが記憶のままだった。
けれど、私の心はもうあの日の私ではなかった。
玉座の前に立つと、重厚な声が響いた。
「久しいな、異界の娘よ」
王だった。
威厳に満ちたその瞳が、私をまっすぐに見つめている。
「おまえが“聖女”であると再び申すのか?」
その問いに、周囲がざわめいた。
貴族たちの視線が一斉に注がれる。あのときと同じ、冷たい眼差し。
でも、私は逃げなかった。
「……はい」
声は震えなかった。
王の眉がわずかに動く。
「ならば証を示せ。聖女を名乗るなら、神の加護を見せてみよ」
待っていた言葉だった。
私は胸のネックレスに手を当て、静かに目を閉じた。
心の奥で、リオネルの声が聞こえる気がした。
“恐れるな。おまえの光は、本物だ。”
深呼吸。
次の瞬間、光が弾けた。
金色の粒子が大広間いっぱいに広がり、空中で舞い踊る。
冷たい石の床に咲くように、光の花が次々と咲いた。
人々が息を呑む。王が立ち上がり、杖を握りしめた。
「……これが、聖なる光……!」
重臣たちがざわつく。
私の足元に集まった光が、やがて一つにまとまり、淡い蝶の姿を形作る。
それは玉座の前まで飛び、王の杖にそっと触れると、やわらかく溶けて消えた。
沈黙。
次の瞬間、王が低く息を吐いた。
「たしかに、神聖の力……。あの日、我らが過ちを犯したか」
その声に、周囲がざわめく。
貴族の一人が叫んだ。
「ま、まさか! 偽りではないのか!?」
「ならば自ら確かめてみよ」
リオネルが一歩前に出て、鋭く言い放った。
彼の声には、迷いがなかった。
「この目で見た。彼女は人を癒し、村を救った。命を懸けてだ。それを偽りと呼ぶのか?」
堂内が静まり返る。
王は目を閉じ、そして深くうなずいた。
「ミリア・エルノート。――おまえを正式に“聖女”として認めよう」
その瞬間、胸が熱くなり、視界が滲んだ。
王の言葉が響く中、リオネルがそっと私の手を握った。
「やったな」
その笑みを見た瞬間、涙がこぼれた。
私はようやく、自分を認めてもらえたのだ。
誰かの証明ではなく、自分の意志と力で。
光が再び広間に満ち、天井のステンドグラスを照らす。
まるで神が微笑んでいるかのようだった。
私はリオネルの手を強く握り返した。
――これが、私の“ざまぁ”だ。
あの日、私を嘲った人たちの前で、堂々と光を放つこの瞬間こそが。
そして胸の奥で、静かに誓った。
もう二度と、誰にも“無能”なんて言わせない。
私は私のままで、誰かを救える。
――それが“本物の聖女”としての証だから。
ネックレスが最後の光を放ち、
広間全体を包むように、黄金の風が吹いた。
その風の中で、私は小さく微笑んだ。
リオネルが横で笑い、世界が静かに祝福していた。
――聖女の物語は、ここから始まるのだ。
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