私をいじめていた女と一緒に異世界召喚されたけど、無能扱いされた私は実は“本物の聖女”でした。 

さら

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第4話 癒しの力


 朝の霧がまだ消えきらない村を、鐘の音がゆっくりと包み込んでいた。
 私は井戸のそばで桶を満たしながら、白い息を吐いた。冷たい水面に顔を映すと、そこにはほんの少しだけ穏やかな表情の自分がいた。
 ここで暮らし始めて、もう数日が過ぎた。洗濯をし、食事を作り、時には子どもたちと遊び、夜にはリオネルと村のことを話す。忙しくも、心が穏やかに満たされる毎日。
 ――それは、これまで知らなかった“平和”の形だった。

「おはよう、ミリア」

 振り向くと、リオネルが手を振っていた。
 朝の光に照らされて、銀の髪がまるで霧の粒のように輝く。
 私は思わず胸の奥がくすぐったくなって、笑みを返した。

「おはようございます。今日は早いですね」

「森の見回りだ。南の方で病気が流行っているらしい。念のため確認してくる」

「……病気?」

 私は桶を置き、眉をひそめた。
 この平和な村にも、そんな不穏な話があるのだろうか。

「ああ。まだ詳しくは分からん。だが、放っておくわけにはいかない」

 彼の声には、迷いのない力がこもっていた。
 その姿を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「私も行きます」

「いや、危険かもしれない。おまえは村で待っていろ」

「でも……人が苦しんでいるのなら、私、助けられるかもしれません」

 私の言葉に、リオネルが驚いたように目を細めた。
 そして、少しだけため息をついたあと、静かに頷いた。

「……分かった。ただし、俺のそばを離れるな」

「はい!」

 胸の奥が明るくなる。
 その瞬間、ネックレスがほのかに光った。



 森の中はひんやりとして、陽の光が木々の間を斑に差し込んでいた。
 鳥の声が遠くで響き、地面には露を含んだ草の匂いが漂っている。
 リオネルが先を歩き、私はその背中を追った。

「……このあたり、少し空気が重いですね」

「ああ。動物の気配も薄い」

 リオネルの手が剣の柄に自然と伸びる。その仕草に、彼の元・騎士としての癖が垣間見えた。
 やがて、開けた場所に出る。そこには、小さな村の家がぽつんと建っていた。
 扉の前に腰を下ろした老婆がいて、苦しそうに胸を押さえている。

「大丈夫ですか?」

 駆け寄ると、老婆が弱々しく顔を上げた。
「……咳が、止まらなくてねぇ。薬も効かないんだよ」

 リオネルが膝をついて様子をうかがう。
 その額には薄く汗が滲んでいた。

「病が広がる前に、手を打たなければ……」

 私は老婆の手をそっと取った。冷たい。けれど、そこに確かな命の鼓動がある。
 胸の中がじんわりと熱くなっていく。

「お願い。少しだけ、触れてもいいですか?」

 老婆がうなずく。私は深く息を吸い、目を閉じた。
 光の粒が胸の奥で揺れ、やがて掌の先へと流れていく。
 ネックレスが脈打ち、空気が柔らかく震えた。

 次の瞬間、手のひらから金色の光が溢れ出した。
 その光はゆっくりと老婆の体を包み、温かい春風のように肌を撫でる。

「……ああ……あたたかい……」

 老婆の声が震えた。
 光が消えたとき、彼女の呼吸は穏やかになり、頬に血色が戻っていた。

「どう……して……?」

 老婆が涙を浮かべて私を見つめる。
 私自身も、震える手を見つめ返すことしかできなかった。

「本当に……治ってる」

 リオネルの声が静かに響いた。
 彼の目は驚きよりも、確信を帯びていた。

「やはり、おまえは――本物の聖女だ」

「聖女……」

 その言葉が、胸の中で何度も反響する。
 あの日、王城で“無能”と呼ばれた私が、いま誰かを救っている。
 それが夢のようで、涙が滲んだ。

「ありがとう、ミリアさん。本当にありがとう……」

 老婆の手が私の手を包み、震えながらも優しく握り返してきた。
 私はその温もりに応えるように、そっと微笑んだ。



 森を出る頃には、空が茜色に染まっていた。
 鳥たちが巣に戻り、遠くの川が静かにきらめいている。
 リオネルが隣で、ゆっくりと口を開いた。

「見事だった」

「いえ……私はただ、祈っただけです」

「祈りで人を癒やす者を、この国では“聖女”と呼ぶ」

 リオネルが微笑んだ。
 その横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなった。

「……あの日、王城で信じてもらえなかった力が、ここでようやく誰かの役に立てたんですね」

「そうだ。おまえが本物だと、誰よりも早く知っていたのは、もしかすると俺かもしれない」

「え……?」

「最初に見たときから思っていた。おまえの目は、何かを“救う”ために生きる人の目をしていた」

 その言葉に、息が詰まる。
 風が頬を撫で、木々の間から光がこぼれる。
 彼の瞳に映る自分が、まるで別の人のように見えた。

「……リオネルさん」

 呼ぶ声が震えた。
 けれどその震えを、彼の穏やかな微笑みが包み込む。

「怖がるな、ミリア。おまえの力は祝福だ。そして――俺にとっても救いだ」

 その一言で、心が溶けた。
 目の奥がじんと熱くなり、涙が零れそうになる。

 その瞬間、胸のネックレスがまた光った。
 それはまるで、二人の間の想いに呼応するように、柔らかく脈を打っていた。

 リオネルが手を伸ばし、私の髪をそっと撫でる。
「よくやったな、ミリア」

 その言葉が、どんな褒美よりも嬉しかった。
 胸の中の光が、いつまでも消えずに輝き続けていた。




 その夜。
 村の広場には焚き火が焚かれ、炎の明かりが人々の顔を柔らかく照らしていた。
 昼間の出来事が瞬く間に村中に広がり、“病を癒した娘”として私のことが語られていた。
 誰もが信じられないというように、それでも希望を込めた瞳で私を見つめている。
 その視線が少しくすぐったくて、けれど温かかった。

「ミリアちゃん、本当にありがとうね」
「うちの婆さんまで元気になっちまってよ、まるで奇跡だ!」

 村人たちが口々に言葉をかけてくれる。
 私は慌てて手を振った。

「い、いえ……私、そんな……。本当に、少し手を当てただけなんです」

「その少しが大事なんだ」

 リオネルの低い声が焚き火越しに響いた。
 彼は腕を組み、火を見つめていた。炎の赤が彼の横顔を染め、影が頬を滑る。
 穏やかで、でもどこか誇らしげな目をしていた。

 村の子どもたちが、私の裾をつかんで覗き込む。
「ねえ、ミリアお姉ちゃん。あの光、もう一回見せて!」

「えっ、光?」

 戸惑って笑うと、子どもたちは両手を合わせて期待に満ちた目で見上げてくる。
 リオネルが少しだけ肩をすくめた。

「無理はするな。力を使うのは消耗するだろう」

「……大丈夫。少しだけ、ね」

 私は焚き火の傍らにしゃがみ、手を胸に当てた。
 深呼吸を一度。
 すると、あの温かい光が静かに胸の奥から流れ出してくる。
 掌に広がる金の粒子。焚き火の炎とは違う、やわらかな輝き。

「わあ……!」

 子どもたちの歓声が夜空に弾けた。
 光は蝶の形になり、ふわりと宙を舞う。
 それが次々と空へ昇り、夜風に乗って星と混ざる。

「きれい……」

 誰かの呟きが、静かな祈りのように聞こえた。
 私はその光景を見つめながら、胸の奥にこみ上げてくるものを抑えられなかった。
 こんなふうに笑ってくれる人たちがいる。
 誰かの役に立てる。――ただ、それだけで。

 涙がこぼれそうになった瞬間、肩に温もりを感じた。
 リオネルの手が、そっと私の肩に置かれていた。

「無理をするなって言っただろう」

「すみません……でも、なんだか嬉しくて」

「嬉しいならいい」

 短い言葉。
 けれど、その声に含まれた優しさがあまりにも深くて、胸の奥が熱くなる。
 彼の掌から伝わる体温が、焚き火よりもあたたかい。

 周囲ではまだ子どもたちが走り回っていた。
 光の残滓が夜空に散り、流星のように消えていく。
 そのたびに歓声が上がり、笑い声が広がる。

「この村にこんな夜が来るとはな……」

 リオネルが呟いた。
 私は顔を上げて彼を見る。

「どういう意味ですか?」

「皆、長いこと暗い顔をしていた。天候不順で作物が育たず、病が広がり、王都からは見放された。……だが、今は違う。おまえが来て、村に光が戻った」

「私なんて……ただの人間です」

「ただの人間が、奇跡を起こすこともある」

 リオネルは微笑んだ。
 その瞳の奥に、焚き火の炎と同じ色の光が揺れている。
 見つめられると、鼓動が強くなって、呼吸が浅くなる。

「……そんなふうに言わないでください」

「なぜだ?」

「だって、そんな……。勘違いしてしまいそうで」

 思わず漏れた言葉に、彼の眉がかすかに動く。
 炎の音だけが静かに響いた。
 しばらく沈黙が続き――やがて、リオネルが小さく息を吐いた。

「勘違いでも、いい」

 その声は低く、どこか切なげだった。
 彼は少しだけ視線を逸らし、夜空を見上げる。

「おまえが笑ってくれるなら、それでいい」

 風が吹いた。
 焚き火の火の粉が舞い、二人の間をかすめて空へ昇っていく。
 その光を見上げながら、私は言葉を失った。
 何かが胸の奥で確かに変わっていくのを感じた。

 誰かを救いたいという気持ち。
 そして、誰かに必要とされたいという願い。
 その両方が、ゆっくりとひとつに溶けていく。

 気づけば、リオネルの肩に頭を預けていた。
 彼は驚いたように一瞬息を止めたが、すぐに何も言わず、静かにそのままにしてくれた。

 焚き火の音が遠ざかり、星々の光が滲む。
 村の夜は穏やかで、どこまでも優しかった。

 ――ああ、ここが私の居場所なんだ。
 そう思いながら、私はそっと目を閉じた。

 胸元のネックレスが、またやさしく光る。
 その灯りは、ふたりの影を包み込みながら、夜空へと溶けていった。





 その晩の焚き火が消え、夜が深まったころ――村の空には雲ひとつなく、無数の星が静かにまたたいていた。
 私は窓辺に座り、頬杖をついて外を眺めていた。広場の焚き火跡にはまだかすかに赤い光が残り、風が通るたびにそれがふっと揺らめく。
 ネックレスの中で光の粒が眠っている。あたたかい、呼吸するような鼓動を感じる。

 ――“あなたの力は、癒しの光。恐れずに、信じて。”
 あの声が、再び心の奥で囁く。

 私は小さく息を吸い、胸の前で手を組んだ。
 ありがとう、と誰にともなく呟く。

 けれど、次の瞬間。
 不意に遠くで悲鳴が上がった。

「きゃああっ! だ、誰か――!」

 私は飛び上がり、窓を開けた。広場の向こう、納屋の方で火の手が上がっている。
 外に飛び出すと、冷たい夜気が肌を刺した。すでに村の人たちが集まり始め、火の回りで慌ただしく走り回っている。

「リオネルさん!」

「ミリア、下がってろ!」

 炎の向こうから彼の声が返る。
 リオネルは水桶を手に、数人の男たちと一緒に火を消そうとしていた。だが、炎は思ったより強い。家畜小屋の藁に燃え移って、熱風が夜気を押し返す。

 私は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
 動かなければ――。

「リオネルさん、離れて!」

「何を――!」

 彼の言葉を遮って、私は炎の前に立った。
 両手を掲げる。心臓が高鳴り、胸のネックレスが熱を帯びる。
 空気が震えた。

「――光よ、どうか……この命を守って」

 声が夜空に溶けた瞬間、私の周囲に柔らかな金色の光があふれた。
 それは波紋のように広がり、炎を包み込む。
 ごうごうと唸っていた火の音が、不思議なことに静まり、熱風が和らぐ。
 そして――炎は、花びらのような光に変わって、夜の空へと消えた。

「……嘘だろ」

「火が……消えた……」

 村人たちが息を呑む。
 辺りには、燃えた匂いの代わりに、花のような甘い香りが漂っていた。
 私はその場に膝をつく。体の中の力が一気に抜けて、息が荒くなる。

「ミリア!」

 リオネルが駆け寄り、私の肩を抱きとめた。
 彼の腕の中で、私はようやく呼吸を整えた。

「……大丈夫です。もう……大丈夫」

「無茶をするな。こんな力、使えば体を削る」

「でも……みんなを助けられたなら、それでいいです」

 彼が言葉を失い、私を抱く腕に力がこもる。
 胸の奥で、彼の鼓動が伝わる。
 その温もりがあまりにも近くて、怖いくらいに優しかった。

「……本当に、おまえは光の人だな」

 その声が耳に落ちる。
 私は静かに目を閉じた。涙が一筋、頬を伝って流れた。



 火の後始末が済んだあと、リオネルは私を家まで送り届けてくれた。
 玄関の前に立つと、夜風が二人の間を通り抜けていく。
 月が雲の隙間から顔を出し、リオネルの銀の髪を照らした。

「……おまえの力は、人を救うだけじゃない。この村の闇まで払った」

「闇……?」

「皆、恐れていたんだ。いつまた飢えや病が戻るかと。だが、今夜おまえが見せた光で、誰もが希望を思い出した」

 リオネルの言葉が胸にしみた。
 私は何も言えず、ただ首を横に振った。

「私はそんな大したものじゃ……」

「謙遜するな。おまえは奇跡を起こしたんだ。誰もが見た」

 彼の声が静かに響く。
 まっすぐな瞳に見つめられると、逃げ場がなくなる。
 息を吸い込むと、夜の空気が少し甘く感じた。

「リオネルさん……」

 声が震える。
 月明かりの下で、彼の表情がわずかに揺れた。
 そして、ゆっくりと私の頬に手を伸ばす。

「怖くないか?」

「……もう、怖くないです」

 そう答えると、彼はほっとしたように微笑んだ。
 手のひらの温もりが、涙の跡をそっとなぞる。

「おまえの優しさは、きっとこの国を変える」

「そんな大それたこと、できませんよ」

「できるさ。……俺が保証する」

 その言葉に、胸の奥で何かが強く脈を打った。
 次の瞬間、ネックレスが光り、二人を包むように淡い金色の輪が広がった。
 その光の中で、リオネルの指先が私の頬を滑り、唇に触れる――。

 世界が止まったように静かだった。
 風の音も、虫の声も、遠くの灯も、すべてが霞んで消える。

 ただ、彼の瞳の奥だけが、確かな現実だった。

 ゆっくりと唇が離れたとき、私の胸の中には確かな温もりが残っていた。
 それは、癒しでも奇跡でもなく――ひとりの人間として感じた、初めての愛のかたち。

 リオネルが小さく息を吐き、穏やかに言った。
「今夜のことは、俺たちだけの秘密にしておこう」

 私は頬を赤くしながら頷いた。
「……はい」

 彼は微笑み、私の頭を優しく撫でる。
 夜空には雲ひとつなく、数えきれない星が輝いていた。
 まるで二人の約束を祝福するように、静かに瞬いていた。

 そして胸のネックレスが、再び小さく脈を打つ。
 その光は、もう恐ろしいものではなかった。
 それは――誰かを癒やし、愛するための、私自身の光だった。





 翌朝。
 夜の冷たさを溶かすように、金色の光が東の空からこぼれはじめていた。
 私はまだ柔らかい夢の余韻の中で目を覚ました。頬には温かい感触が残っていて、胸の奥では心臓がいつもより静かに、それでも確かに打っていた。

 窓を開けると、澄みきった風がカーテンを揺らす。村の屋根が朝日を受けて白く輝き、遠くの森の木々が光に染まっていく。昨日の火事の跡はもう跡形もなく、空気には焼けた匂いの代わりに花の香りが満ちていた。
 ――まるで、夜そのものが癒されたみたい。

 私はネックレスを手のひらに包んだ。
 ガラス玉の中では小さな光がゆっくりと脈を打っている。
 それはまるで私の心と呼応しているようで、見ているだけで落ち着く。

 そのとき、扉の向こうからノックの音がした。

「起きているか、ミリア」

 リオネルの声だ。
 思わず胸が高鳴る。急いで髪を整え、扉を開けた。

「おはようございます、リオネルさん」

「……ああ。昨夜は眠れたか?」

「はい。とてもぐっすり」

 彼はほっとしたように頷いた。
 その顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 彼の表情には疲れの色があったが、どこか晴れやかでもあった。

「村の連中が、おまえに礼を言いたいと言っている。広場で待っているらしい」

「私に……?」

「そうだ。おまえがいなければ、昨夜は村が消えていた」

 その言葉に、思わず視線を落とした。
 私はあの光景を思い出す。燃え上がる炎、あふれ出た光、そして――リオネルの腕の中の温もり。
 頬が熱くなる。

「……わかりました。行きます」



 広場に出ると、村人たちが輪になって待っていた。
 子どもたちが花を手にして走り寄り、私の手を取る。

「ミリアお姉ちゃん、これあげる!」

 差し出されたのは、小さな白い花の冠だった。
 それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。

「ありがとう……」

 花を受け取ると、村の人たちが次々と声をかけてくれる。

「昨日は本当に助かった」
「聖女様だって噂になってるよ!」
「この村に光が戻ったんだ」

 私は何度も首を振った。

「そんな、私は聖女なんかじゃ――」

「いいや、あんたは立派な聖女だ」

 老婆が笑いながら言った。昨日癒したあの人だ。
 彼女の顔にはもう苦しそうな影はない。

「名ばかりの聖女なんざ王都に腐るほどおる。でも、本物の聖女は“そばにいてくれる人”だよ」

 その言葉に、思わず息を飲む。
 リオネルが少し離れた場所で、静かにこちらを見ていた。
 彼の視線とぶつかると、心の奥で何かが弾ける。

「……ありがとう、皆さん」

 気づけば涙がこぼれていた。
 村人たちは温かく微笑み、誰もその涙を笑わなかった。



 人々が散ったあと、リオネルが近づいてきた。
 彼は昨日よりも穏やかな顔をしている。

「おまえが笑うと、村が明るくなる」

「それはリオネルさんが守ってくれているからです」

「違う。おまえがここにいるから、俺も戦える」

 彼の声はいつになく真っ直ぐだった。
 風が吹いて、花冠がかすかに揺れる。
 私は視線を落とし、小さく微笑んだ。

「……そんなこと言われたら、もっとがんばらなきゃいけませんね」

「無理はするな。ただ――おまえが自分を信じる限り、この村も俺も守られる」

 言葉のひとつひとつが、心に刻まれていく。
 彼の瞳の中に、私の姿が小さく映っていた。

「リオネルさん」

「ん?」

「……昨日のこと、秘密って言ってましたけど」

「……ああ」

 私が顔を上げると、彼の瞳が少しだけ揺れた。
 頬が熱くなりながら、それでも勇気を出して言った。

「秘密じゃなくてもいいです。もう、私は……逃げませんから」

 その言葉に、リオネルが息を呑んだ。
 風がふたりの間を通り抜け、花びらが舞い上がる。

 そして――彼が小さく笑った。
 穏やかで、どこまでもやさしい笑みだった。

「……そうか。なら、俺も隠さない。おまえがここに来てから、心が変わった」

 その声が、胸の奥を温かく貫いた。

 太陽の光が雲の隙間から差し込み、二人の影を長く伸ばしていく。
 ネックレスが光り、風に花冠の白が舞った。

 それはまるで、未来を祝福する光の雨。

 リオネルが手を差し出す。
 私は迷わずその手を取った。

 そして、あの日とは違う笑顔で言った。

「……この世界で、生きていきます。あなたと一緒に」

 彼の瞳がまっすぐに細められる。

「それが、俺の願いでもある」

 風が吹いた。
 森の木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
 世界が生きている音が、やさしく胸に響いた。

 私はリオネルと手をつないだまま、空を見上げる。
 二つの月が青白く並び、昼の光の中でも確かに輝いていた。

 その光景が、永遠に心に焼きついた。
 ――“本物の聖女”と呼ばれた日。
 私が、この世界で“生きる理由”を見つけた朝だった。




 昼下がりの風はどこまでも穏やかで、陽射しが柔らかく村の屋根を撫でていた。
 その平和な光景を眺めながら、私は畑の端に腰を下ろしていた。リオネルは隣で鍬を置き、汗をぬぐっている。額の汗が光にきらめき、ほんの少し乱れた前髪が風に揺れた。
 ……ただ、それを見ているだけで胸が熱くなる。
 彼がここにいる。私もここにいる。たったそれだけのことが、奇跡のように思えた。

「もう慣れたか?」

 リオネルの声がした。
 私は空を見上げたまま、微笑んで答える。

「ええ、すっかり。……こんなに土いじりが楽しいなんて、知らなかったです」

「最初は手が真っ赤だったのにな」

「そういえば、そうでしたね」

 笑い合うと、風がふたりの間を通り抜けた。
 その瞬間、ふとリオネルが遠くを見つめる。

「王都からの使者が来るらしい」

「え……?」

 その言葉に、胸がどきりと鳴った。

「どうして急に?」

「噂が届いたんだろう。辺境で“聖女が現れた”と」

 息が詰まった。
 昨日までの穏やかな時間が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
 私が呼吸を整えようとしたとき、リオネルが真剣な顔で言った。

「ミリア、もし何かあっても、俺が守る」

 その一言に、胸が強く震えた。
 目を上げると、彼の瞳はまっすぐで、少しも揺れていなかった。

「でも、王都の人たちにとって私は――」

「“無能”だと言われた娘か?」

 彼の声が静かに響く。
 私は小さくうなずいた。

「彼らにどう思われてもいい。ここでは、おまえがどれだけの人を救ったか、みんな知っている」

 その言葉が胸の奥に沁みた。
 そして、いつの間にか涙が頬を伝っていた。

「……ありがとう。でも、私、もう逃げません」

「そうだな。おまえはもう“聖女”として立っている」

 リオネルがそっと私の肩に手を置く。
 その掌の温もりが、恐れを溶かしていく。



 夕方、村の外れに砂埃が立った。
 数頭の馬に乗った兵士たちが、王都の紋章を掲げてやってきた。
 私は胸の前で手を組み、深く息を吸い込む。

「ミリア・エルノート、だな?」

 先頭の男が馬から降り、無表情に告げた。
 王都の使者――その姿を見るだけで、過去の記憶が甦る。冷たい視線、嘲るような声、そして“無能”という烙印。
 喉がかすかに震えた。

「……はい」

「王命により、貴殿を王城へお迎えにあがった。詳細は到着後に伝える」

「王城に……」

 信じられず呟く。
 リオネルが一歩前に出て、鋭い声で言った。

「理由は何だ?」

「“聖女認定”の再調査だ」

 その言葉に、村人たちがざわめいた。
 私は何も言えずに立ち尽くした。
 リオネルの瞳が、私を静かに見つめていた。

「行く必要はない。拒めば俺が――」

「いいえ」

 言葉を遮ると、彼が驚いたように目を見開いた。

「私は行きます」

「ミリア……!」

「逃げたら、また“無能”のままです。だから、今度こそ証明したい。私の力が、本物だって」

 リオネルが拳を握る。
 しばらく沈黙したあと、彼はゆっくりと頷いた。

「……分かった。だが、一人では行かせない。俺も行く」

「え?」

「俺はこの村の代表でもある。聖女を守る義務がある」

 真剣な表情で言い切るその姿に、胸が熱くなった。
 私は唇を噛み、そして小さく笑った。

「頼もしい護衛さんですね」

 リオネルの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。

「護衛というより……隣に立つ者だ」

 その言葉に、鼓動が早くなる。
 夕陽が沈みかけ、二人の影が長く伸びて交わった。



 夜。
 村の出口に並ぶ松明の灯りの前で、村人たちが集まっていた。
 誰もが不安そうな顔をしていたが、目の奥には確かな信頼の光があった。

「必ず戻ってきてね、ミリアちゃん!」
「聖女様、王都のやつらなんかに負けないで!」

 子どもたちが泣きながら手を振る。
 私は微笑んで頷き、彼らに言葉を返した。

「大丈夫。すぐに帰ってきます。皆の笑顔がある限り、私の光は消えません」

 リオネルが馬に乗り、私に手を差し伸べる。
 その手を取ると、彼が言った。

「行こう。おまえの真実を取り戻すために」

 私は頷いた。
 夜空には満月が輝いている。
 ネックレスの中の光が、それに呼応するように柔らかく揺れた。

 王都への道は長く、そして運命を決める旅になる。
 けれど今は、怖くなかった。
 なぜなら、私の隣には――あの夜、私を包んでくれた光があるから。

 馬がゆっくりと動き出す。
 村の灯りが遠ざかり、風が頬を撫でた。
 その瞬間、胸の奥で確かに何かが芽生える。

 それは恐れではなく、希望の光。
 ――“無能”と呼ばれた少女が、本当の聖女として歩き出すための、最初の一歩だった。




 夜明け前の道は、しんと静まり返っていた。
 空はまだ群青で、地平線の向こうが少しずつ薄桃色に染まり始めている。
 馬の蹄が小さく土を叩く音だけが響き、冷たい風が頬を撫でていく。
 私はリオネルの後ろで手綱を握りしめ、ゆっくりと揺れる背中を見つめていた。

 王都へ向かう道――それは、私がかつて“追い出された場所”へ帰る道でもある。
 胸の奥が痛む。けれど、不思議と後悔はなかった。
 今はただ、真実を示したい。
 あのとき私を無能と決めつけた人々に、本当の“聖女”とは何かを。

 そんなことを考えていると、リオネルが振り返った。

「寒くないか?」

「え? ……はい、大丈夫です」

「手が冷たいだろう。少し寄れ」

 そう言って、彼が軽く背に手を回した。
 体がぴたりと密着し、心臓の音が一気に早まる。

「リ、リオネルさん!?」

「落ちないように支えてるだけだ」

 わざとらしくない声なのに、どこか優しすぎてずるい。
 私は顔を真っ赤にしながらも、そっと彼の背に額を預けた。
 革の鎧の下から伝わる体温が、やけに安心できた。



 陽が昇るにつれて、道の両脇には王都へ向かう商人たちの馬車が増えてきた。
 山を抜け、緑の丘を越え、やがて遠くに白い城壁が見えてくる。
 王都――私が召喚されたあの場所。

 その光景を目にした瞬間、指先が震えた。
 リオネルがその様子に気づき、馬を止めた。

「怖いか?」

「……少しだけ。でも、もう逃げません」

「そうか」

 彼は静かに微笑んでから、再び手綱を握った。
 その横顔を見ていると、不思議と心が落ち着く。



 王都の門前は賑わっていた。
 商人たちの列、旅人、兵士。かつて見慣れていた光景のはずなのに、どこか遠い世界のように思えた。
 門を通ると、石畳の道が続き、両脇には立派な建物が並んでいる。
 私は無意識に息を詰めた。
 ――ここで、私は“無能”と呼ばれたのだ。

「大丈夫だ」

 リオネルの声が耳に届く。
 振り向くと、彼がまっすぐな目で私を見ていた。

「誰が何を言おうと、俺はおまえを信じる」

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。
 ただ頷くだけで、精一杯だった。



 やがて王城に着くと、白い大理石の門が重々しく開かれた。
 その向こうには、見覚えのある大広間が広がっている。
 絢爛なシャンデリア、金の装飾、冷たい空気――すべてが記憶のままだった。
 けれど、私の心はもうあの日の私ではなかった。

 玉座の前に立つと、重厚な声が響いた。

「久しいな、異界の娘よ」

 王だった。
 威厳に満ちたその瞳が、私をまっすぐに見つめている。

「おまえが“聖女”であると再び申すのか?」

 その問いに、周囲がざわめいた。
 貴族たちの視線が一斉に注がれる。あのときと同じ、冷たい眼差し。
 でも、私は逃げなかった。

「……はい」

 声は震えなかった。
 王の眉がわずかに動く。

「ならば証を示せ。聖女を名乗るなら、神の加護を見せてみよ」

 待っていた言葉だった。
 私は胸のネックレスに手を当て、静かに目を閉じた。

 心の奥で、リオネルの声が聞こえる気がした。
 “恐れるな。おまえの光は、本物だ。”

 深呼吸。
 次の瞬間、光が弾けた。

 金色の粒子が大広間いっぱいに広がり、空中で舞い踊る。
 冷たい石の床に咲くように、光の花が次々と咲いた。
 人々が息を呑む。王が立ち上がり、杖を握りしめた。

「……これが、聖なる光……!」

 重臣たちがざわつく。
 私の足元に集まった光が、やがて一つにまとまり、淡い蝶の姿を形作る。
 それは玉座の前まで飛び、王の杖にそっと触れると、やわらかく溶けて消えた。

 沈黙。
 次の瞬間、王が低く息を吐いた。

「たしかに、神聖の力……。あの日、我らが過ちを犯したか」

 その声に、周囲がざわめく。
 貴族の一人が叫んだ。

「ま、まさか! 偽りではないのか!?」

「ならば自ら確かめてみよ」

 リオネルが一歩前に出て、鋭く言い放った。
 彼の声には、迷いがなかった。

「この目で見た。彼女は人を癒し、村を救った。命を懸けてだ。それを偽りと呼ぶのか?」

 堂内が静まり返る。
 王は目を閉じ、そして深くうなずいた。

「ミリア・エルノート。――おまえを正式に“聖女”として認めよう」

 その瞬間、胸が熱くなり、視界が滲んだ。
 王の言葉が響く中、リオネルがそっと私の手を握った。

「やったな」

 その笑みを見た瞬間、涙がこぼれた。
 私はようやく、自分を認めてもらえたのだ。
 誰かの証明ではなく、自分の意志と力で。

 光が再び広間に満ち、天井のステンドグラスを照らす。
 まるで神が微笑んでいるかのようだった。

 私はリオネルの手を強く握り返した。
 ――これが、私の“ざまぁ”だ。
 あの日、私を嘲った人たちの前で、堂々と光を放つこの瞬間こそが。

 そして胸の奥で、静かに誓った。

 もう二度と、誰にも“無能”なんて言わせない。
 私は私のままで、誰かを救える。
 ――それが“本物の聖女”としての証だから。

 ネックレスが最後の光を放ち、
 広間全体を包むように、黄金の風が吹いた。

 その風の中で、私は小さく微笑んだ。
 リオネルが横で笑い、世界が静かに祝福していた。

 ――聖女の物語は、ここから始まるのだ。
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