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月は人を狂わせる(6)
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いつもは整えている髪もラフに流している。そうすると和服やスーツ姿よりもずっと、三十歳と言っても通用しそうな若々しさだった。
だが、今の真琴の胸にそうした賛辞はない。余裕もない。代わって戸惑いと、混乱と、葛藤が入り乱れていた。
冬馬はみずからを凝視する目の意味を勘違いしたらしい。「取材の際にはこうした服装です」、と告げて薄い唇の端に笑みを浮かべた。
「和服ですと目立ちますからね」
軽快な足取りで距離を縮めて来る。
その左手首には包帯が巻かれていたが、真琴が想像していたほどには痛々しくはない。冬馬はもうリハビリを始めているのだとも語った。
「思っていたよりは早くに治りそうです。ですから、真琴さんが気遣われることはありません」
「そう、ですか……。なら、よかったです……」
視線が彷徨うのを見て取ったのか、冬馬は「どうなさいましたか?」、と腰を屈めて真琴の目を覗き込んだ。
「具合が悪そうだ」
「そんなことは……」
琥珀色を帯びた瞳を恐ろしさのあまり見返せない。更に、気付かぬ間に吉田が応接間から立ち去っているの気付く。
冬馬は震え上がる真琴に優しさすら感じさせる声でこう尋ねた。
「あの物語を読んでいただけましたか?」
「……」
「感想を聞かせていただけるとありがたい」
ただ「面白かったです」と答えられればどれだけよかっただろう。だが、真琴はすでに薫にも、月子にも深く関わり過ぎていた。
「先生……私のお義母さんは……高柳先生のお父さんの愛人だったんですか……? 先生のお父さんはそのためにお義母さんを引き取ったんですか……?」
夏柊と冬馬の父親であった春継は、まだ少女だった月子を表向きには家政婦として、実質的には愛人として囲った。
そのおぞましさと痛々しさに吐き気すら覚える。すべて作り話だと思いたかったが、人物の造形や台詞の生々しさが許してくれない。
「あの物語は過去をどれだけなぞったんですか……? 先生も……お義母さんを好きだったんですか?」
冬馬に「あれはフィクションですよ?」、と笑い飛ばされるのを期待していた。くだらない思い込みだと馬鹿にされたかった。
なのに、冬馬はやはり微笑みながらこう答えたのである。
「……ええ、好きでしたよ。二十年以上忘れられないくらいに」
「……っ」
人間とは追い詰められ、極限状態に置かれると、脳が思いがけないパフォーマンスを発揮するらしい。
パズルのピースにも似たバラバラの情報が推理に、推理が確信となって一つの真実を形作っていく。
薫のパソコンにあったあの月子のしどけない写真――いつ、どこで、誰が撮ったものなのかと不思議だった。薫が生まれる前であるのには違いないので、それ以外の人物の仕業だということだけはわかっていた。
まさかとの思いにゴクリと息を呑む。
「あの写真は……お義母さんの写真は、この家で先生が撮ったんですか?」
平常心を保てずに声が震えた。
一方、ただお義母さんの写真と伝えただけで、冬馬はすぐに何を指し示すのかを悟ったらしい。
「美しかったでしょう?」
「……」
春継にこの屋敷の一室に監禁され、拘束され、辱められた直後の月子なのだと冬馬は語った。
「私は、あの時ほどあの人に焦がれたことはありませんでした。……あなたのお父さんにもそう思っていただけていれば嬉しいのですが」
「お、お父さん……?」
なぜここで自分の父親が、真之が登場するのかと目を瞬かせる。
平凡な一サラリーマンでしかなかった、このような名家とは関係ないはずの父親がなぜ――
途端に十一年前、両親が亡くなったあの日をありありと思い出す。
友だちとの約束で駅ビルへ出掛けようとしていた真琴は、自宅で真之が自動車のキーを手に取ったのを見て、「どこか行くなら、ついでに私も駅まで連れて行って」と頼んだ。
ところが、真之は「今日は母さんと出掛けるから。話があって……」と、珍しく娘の頼みを断ったのである。「なぁに、またお義母さんとデート? アツアツだね!」と茶化したのだが、真之は「まあ、そんなものかな……」といつになく歯切れが悪く、また、顔色が幽霊なのかと錯覚するほどほど青ざめていた。
(まさか、まさか、まさか、そんなっ……)
「まさか、あの写真を何も知らない父に送り付けたんですか!?」
いくら過去とはいえ、尋常ではない月子の生い立ちを知って、常識人の真之がそう簡単に受け入れられるとは思えなかった。真之は月子を妻として子どもたちの母親として大切にしていた。それだけにあの写真を目にした衝撃も大きかっただろう。
精神的な動揺から運転を誤った、あるいは発作的に心中を図ったのではないか。
また、なぜ薫があの写真を持っていたのかも理解できてしまった。
両親が亡くなって間もなくの頃、薫と二人で形見分けをしたことがある。薫は真之によく懐いており、実の父親のように慕っていたからか、「義父さんのパソコンがほしい」と強請った。パスワードが掛けられているのではと思ったが、薫は持ち前の推理力で解読してしまったらしく、数日後にはもう使えるようになっていた。
薫は真之のパソコンに保管されたあの写真を、なんのためにかはわらかないが取って置いたのだろう。
「なんてことを……! あなたは、なんてことを……!」
十一年後に知ってしまった真実に耐え切れず顔を覆う。
(お父さん……! お義母さん……!)
――真之と、月子と、自分と、薫。
家族四人で幸せだった。あの日まで確かに幸せだったのだ。
真琴の悲嘆を目の当たりにしても冬馬の口調は変わらなかった。
「父も、兄も、私もすべて忘れて……一人だけ幸福になるなど許せますか? 父は、最後まであの人の名を呼んでいた」
それどころか、まるで呪いをかけるかのごとく愛を囁く。
「どうか思う存分私を憎んでください。……無関心よりはよほどいい」
次の瞬間、右腕で腰を攫われ、広い、ムスクの香りのする胸に抱き締められた。
「離して。離してくださいっ……!」
片手は折れているはずなのに、その力は恐ろしいほど強い。敵わない。
(やだ……。……薫、薫!)
「確かに私は月子さんを忘れられなかった。ですが、今はあなたが好きだ」
熱い唇が悲鳴を上げかけた口を塞ぐ。
「んんっ……」
強引に割り開かれ舌を絡め取られそうになり、死に物狂いで全身で抵抗したのだが、呆気なく冬馬の思うがままになってしまう。
冬馬は一端離れて睫毛が触れぬほどの距離を取ると、思いを注ぎ込むかのような眼差しで見下ろし、
「……残念です、真琴さん。あなたが金や地位に目が眩む、そんな女だったなら私も諦められたでしょうに」
、そう呟いて再び真琴の唇を奪った。
だが、今の真琴の胸にそうした賛辞はない。余裕もない。代わって戸惑いと、混乱と、葛藤が入り乱れていた。
冬馬はみずからを凝視する目の意味を勘違いしたらしい。「取材の際にはこうした服装です」、と告げて薄い唇の端に笑みを浮かべた。
「和服ですと目立ちますからね」
軽快な足取りで距離を縮めて来る。
その左手首には包帯が巻かれていたが、真琴が想像していたほどには痛々しくはない。冬馬はもうリハビリを始めているのだとも語った。
「思っていたよりは早くに治りそうです。ですから、真琴さんが気遣われることはありません」
「そう、ですか……。なら、よかったです……」
視線が彷徨うのを見て取ったのか、冬馬は「どうなさいましたか?」、と腰を屈めて真琴の目を覗き込んだ。
「具合が悪そうだ」
「そんなことは……」
琥珀色を帯びた瞳を恐ろしさのあまり見返せない。更に、気付かぬ間に吉田が応接間から立ち去っているの気付く。
冬馬は震え上がる真琴に優しさすら感じさせる声でこう尋ねた。
「あの物語を読んでいただけましたか?」
「……」
「感想を聞かせていただけるとありがたい」
ただ「面白かったです」と答えられればどれだけよかっただろう。だが、真琴はすでに薫にも、月子にも深く関わり過ぎていた。
「先生……私のお義母さんは……高柳先生のお父さんの愛人だったんですか……? 先生のお父さんはそのためにお義母さんを引き取ったんですか……?」
夏柊と冬馬の父親であった春継は、まだ少女だった月子を表向きには家政婦として、実質的には愛人として囲った。
そのおぞましさと痛々しさに吐き気すら覚える。すべて作り話だと思いたかったが、人物の造形や台詞の生々しさが許してくれない。
「あの物語は過去をどれだけなぞったんですか……? 先生も……お義母さんを好きだったんですか?」
冬馬に「あれはフィクションですよ?」、と笑い飛ばされるのを期待していた。くだらない思い込みだと馬鹿にされたかった。
なのに、冬馬はやはり微笑みながらこう答えたのである。
「……ええ、好きでしたよ。二十年以上忘れられないくらいに」
「……っ」
人間とは追い詰められ、極限状態に置かれると、脳が思いがけないパフォーマンスを発揮するらしい。
パズルのピースにも似たバラバラの情報が推理に、推理が確信となって一つの真実を形作っていく。
薫のパソコンにあったあの月子のしどけない写真――いつ、どこで、誰が撮ったものなのかと不思議だった。薫が生まれる前であるのには違いないので、それ以外の人物の仕業だということだけはわかっていた。
まさかとの思いにゴクリと息を呑む。
「あの写真は……お義母さんの写真は、この家で先生が撮ったんですか?」
平常心を保てずに声が震えた。
一方、ただお義母さんの写真と伝えただけで、冬馬はすぐに何を指し示すのかを悟ったらしい。
「美しかったでしょう?」
「……」
春継にこの屋敷の一室に監禁され、拘束され、辱められた直後の月子なのだと冬馬は語った。
「私は、あの時ほどあの人に焦がれたことはありませんでした。……あなたのお父さんにもそう思っていただけていれば嬉しいのですが」
「お、お父さん……?」
なぜここで自分の父親が、真之が登場するのかと目を瞬かせる。
平凡な一サラリーマンでしかなかった、このような名家とは関係ないはずの父親がなぜ――
途端に十一年前、両親が亡くなったあの日をありありと思い出す。
友だちとの約束で駅ビルへ出掛けようとしていた真琴は、自宅で真之が自動車のキーを手に取ったのを見て、「どこか行くなら、ついでに私も駅まで連れて行って」と頼んだ。
ところが、真之は「今日は母さんと出掛けるから。話があって……」と、珍しく娘の頼みを断ったのである。「なぁに、またお義母さんとデート? アツアツだね!」と茶化したのだが、真之は「まあ、そんなものかな……」といつになく歯切れが悪く、また、顔色が幽霊なのかと錯覚するほどほど青ざめていた。
(まさか、まさか、まさか、そんなっ……)
「まさか、あの写真を何も知らない父に送り付けたんですか!?」
いくら過去とはいえ、尋常ではない月子の生い立ちを知って、常識人の真之がそう簡単に受け入れられるとは思えなかった。真之は月子を妻として子どもたちの母親として大切にしていた。それだけにあの写真を目にした衝撃も大きかっただろう。
精神的な動揺から運転を誤った、あるいは発作的に心中を図ったのではないか。
また、なぜ薫があの写真を持っていたのかも理解できてしまった。
両親が亡くなって間もなくの頃、薫と二人で形見分けをしたことがある。薫は真之によく懐いており、実の父親のように慕っていたからか、「義父さんのパソコンがほしい」と強請った。パスワードが掛けられているのではと思ったが、薫は持ち前の推理力で解読してしまったらしく、数日後にはもう使えるようになっていた。
薫は真之のパソコンに保管されたあの写真を、なんのためにかはわらかないが取って置いたのだろう。
「なんてことを……! あなたは、なんてことを……!」
十一年後に知ってしまった真実に耐え切れず顔を覆う。
(お父さん……! お義母さん……!)
――真之と、月子と、自分と、薫。
家族四人で幸せだった。あの日まで確かに幸せだったのだ。
真琴の悲嘆を目の当たりにしても冬馬の口調は変わらなかった。
「父も、兄も、私もすべて忘れて……一人だけ幸福になるなど許せますか? 父は、最後まであの人の名を呼んでいた」
それどころか、まるで呪いをかけるかのごとく愛を囁く。
「どうか思う存分私を憎んでください。……無関心よりはよほどいい」
次の瞬間、右腕で腰を攫われ、広い、ムスクの香りのする胸に抱き締められた。
「離して。離してくださいっ……!」
片手は折れているはずなのに、その力は恐ろしいほど強い。敵わない。
(やだ……。……薫、薫!)
「確かに私は月子さんを忘れられなかった。ですが、今はあなたが好きだ」
熱い唇が悲鳴を上げかけた口を塞ぐ。
「んんっ……」
強引に割り開かれ舌を絡め取られそうになり、死に物狂いで全身で抵抗したのだが、呆気なく冬馬の思うがままになってしまう。
冬馬は一端離れて睫毛が触れぬほどの距離を取ると、思いを注ぎ込むかのような眼差しで見下ろし、
「……残念です、真琴さん。あなたが金や地位に目が眩む、そんな女だったなら私も諦められたでしょうに」
、そう呟いて再び真琴の唇を奪った。
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