天使と悪魔の契約結婚

東 万里央(あずま まりお)

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1巻

1-2

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 それはセラフィナが初めてアンジェラと外出したときのことだった。
 その日の空はどこまでも深く青く、緑の丘はどこまでもあざやかで美しかった。丘の下の牧草地や草をむ羊の群れ、小さく目に映る領民らの玩具おもちゃのような家々を見て、世界はこれほど広く限りがないのだと思った。
 幼い子どもにとってはなにもかもが珍しかったのだろう。セラフィナはいただきの近くで従者の馬から降ろされるなり、思わずその場から駆け出した。小さな手を大きく広げると、自分の瞳と同じ色の空を、丸ごと抱き締めた気分になる。

『お母様、見て、見て!』

 アンジェラは子どもから見ても美しい人だった。けぶるような睫毛まつげうれいを帯びた眼差し、高くて細いすっきりした鼻筋。常に微笑みを浮かべる唇には、うっすらとべにが塗られていた。華奢きゃしゃな身体をラベンダー色のドレスに包み、レースの傘を手にしているさまは、神話の花の精を思わせた。
 セラフィナは大好きな母と同じ亜麻色あまいろの髪、セレストブルーの瞳であることを、心から誇りに感じていたものだ。

『空の色が私たちといっしょよ! とってもきれいね!!』

 アンジェラはセラフィナのそばに歩み寄り、まぶしそうに空を見上げた。そして、どこかかなしげな微笑みを浮かべる。

『まあ、確かに同じね。本当に綺麗きれいだこと』

 セラフィナはその横顔に首を傾げる。

『お母様……?』

 思えばこのころからアンジェラは、遠い目をするようになっていた。セラフィナは彼女の心がこの場にないのを感じ、ひどく心細く不安になる。早く呼び戻さなければ、なにか注意を引くものはないかとあたりを見回した。
 やがて少し先にブルーベルの群生ぐんせいを見つけ、喜び勇んで摘みにいった。ブルーベルは紫がかった青の花だ。自分たちの瞳と同じ色の花を見て、きっと母も笑ってくれるだろうと心を弾ませ、釣りがねがいくつもぶら下がったかのような、鈴蘭すずらんにも似た花で手を一杯にする。

『お母様、見て。ブルーベルが咲いていたの。お母様の髪にさしてあげるわ』

 娘の愛らしい気遣いに、アンジェラの瞳に柔らかな光が浮かんだ。

『まあ、ありが――』

 ところが、気がいていたためか、アンジェラまであと少しというところで、セラフィナは小石に足を取られ転んでしまった。腹這はらばいに倒れ、ひたいをしたたかに打ちつける。

『大変だわ。お嬢様!』

 すぐさま乳母うばが駆け寄ろうとしたが、アンジェラは手を出しそれを止めた。

『お待ちなさい』

 娘に歩み寄りそっと顔を覗き込む。

『セラフィナ、自分の力で立ち上がって、背を伸ばして、前を見なさい』

 セラフィナは転んだ衝撃で泣きそうになっていたが、アンジェラの言葉に驚き、涙が引いた。これまでは乳母うばや使用人らが必ず抱き起こしてくれていたし、アンジェラも優しくでてなぐさめてくれていたからだ。自分を見上げるセラフィナに、アンジェラはゆっくりと繰り返す。

『あなたにならできるわ。あなたは強い子なのだから』

 セラフィナは何度か目をしばたたいたが、やがて言われるとおりに痛みをこらえて身体を動かした。土に汚れたドレスを見て、また涙が出そうになる。それでもセラフィナは歯を食いしばった。
 立ち上がった次の瞬間、ふたたびセレストブルーの空が見えた。痛みはまだおさまらないけれど、みじめな気持ちがすっとその青に溶けていく気がする。人は悲しいからうつむくのだが、うつむくことでより悲しくなるのだと、セラフィナはそのとき初めて知った。意志の力で背を伸ばして前を見ることは、そうした気持ちを振り払い、おのれをふるい立たせる力があるのだとも。
 アンジェラの手がふわりと肩に乗せられた。

『まあすごい、頑張ったわね。セラフィナは世界一素晴らしい子よ』

 母にこれ以上ないほど褒められ、セラフィナは生まれて初めて誇らしさを覚えた。

『あなたは大丈夫ね』

 アンジェラは、セラフィナについた土を丁寧にぬぐいながら、ほっと溜め息をく。

『あなたは私と違って、きっと何度でも立ち直れる。だから、きっと大丈夫ね……』

 ――それからは立ち上がれる限りは大丈夫だと、自分に言い聞かせ続けてきたのだ。アンジェラが亡くなったときも、婚約を破棄されたときも、たった一つの心の支えだった。

「……そう。私は大丈夫だわ。だから、背を伸ばして、前を見るの」

 セラフィナは言い終えるのと同時に、背を伸ばして真っ直ぐに前を見据みすえた。母を亡くしエドワードとも別れた今、レノックス家に未練はなかった。愛情を与えられずとも、婚約者を奪われようとも、自分の人生まで汚されるつもりはない。セラフィナは家を出ていくつもりだった。
 このために謹慎きんしん中は従順に振る舞い、ひたすらどう抜け出すのかを考え、計画を練りに練っていたのだ。ヘンリーとクレアに怪しまれぬように、少しずつ準備を進めていたため、ギリギリまでかかってしまったけれど。
 とはいえ、もっとよく注意をしていれば、セラフィナが不自然な行動を取っているのは、なんとなくわかっただろう。ところが、彼らが気づいた様子はまったくなかった。セラフィナは胸をで下ろすのと同時に、自分がいかに関心を持たれていないかを実感し、寂しく悲しい思いにも駆られていた。
 翌朝、家出の準備のため、セラフィナはベッドの下から服を取り出した。絹のハンカチや革手袋などの比較的高価な小物と引き換えに、メイドらからひそかに手に入れていた仕事着と平民の私服である。私服はブラウス、スカート、帽子、靴、鞄とどれも使い古したものだが、変装するにはちょうどいい。セラフィナは仕事着に着替え長い髪をまとめると、特徴的な瞳を前髪で隠した。次いでアーチ形の大窓に手をかけ、なるべく音を立てずに開く。セラフィナは地面に下り立ちすぐさま裏手へ回った。
 レノックス邸は頑丈な鉄柵で囲まれており、二人の屈強な門番が屋敷を守っている。正面からではとても突破できないだろう。そこでセラフィナは、屋敷の裏手にある使用人専用の出入り口を狙うことにした。無論そこにも門番はいるのだが、ひとりだけなのだ。しかも、毎朝五時にはこの出入り口から、食材の買い出し担当のメイドが出ていく。セラフィナはそんなメイドのひとりにふんし裏門を訪ねた。

「おはよう。門を開けてくれる? 市場にいくの」
「ああ、はいはい。ちょっと早くないか?」

 かけられた疑問の言葉に、セラフィナは平静をよそおい答える。

「エリカ様がもうお目覚めになって、新鮮な卵のオムレツをすぐに食べたいとおっしゃったのよ。急がなきゃ叱られてしまうわ」
「あーあ、またか。あのお嬢様も相変わらずだなぁ。ほいよ、いってきな」

 言葉とともに出入り口が音を立てて開かれた。セラフィナはあっさりと通され驚いたが、門番はセラフィナを疑った様子はない。
 こうして、まんまと生家から脱出することに成功したのだった。


 とりあえずは、乗り合い馬車の停留所のある町を目指す。セラフィナは歩きながら行き先について考えていた。家出を計画した際に真っ先に浮かんだのが、アンジェラの実家に当たるカーライル家だ。
 カーライル家ではしくもアンジェラの死の一ヶ月前に、セラフィナの祖父に当たる当主がやまいで亡くなっている。現在は叔父おじのブライアンが跡を継いでいるはずだった。
 もっともブライアンがセラフィナを受け入れてくれるという自信はなかった。アンジェラから弟と仲が悪かったとは聞いていないが、彼はアンジェラの葬儀そうぎにこなかったからだ。今思えば当時は引き継ぎなどが忙しかったせいなのかもしれない。けれど、どうしても心にわだかまりは残ってしまう。
 おまけにセラフィナは幼いころに数度しかブライアンに会っておらず、もはやその記憶は薄れ、顔すら覚えていない。ブライアンも同じであれば縁の薄いセラフィナを、しかも婚約を破棄され醜聞しゅうぶんを振りまいた彼女を、積極的に保護するとは思えなかった。
 それでも他に選択肢がなかった。まだ起きてもいない出来事を想像し、負の感情に振り回されても仕方がない。

「いくしかないんだわ……」

 セラフィナはふと顔を上げ、足を止めた。しばらく先の町にある教会の尖塔せんとうが見えたからだ。目指す町はさらに先にあり、長い道のりを思ってふうっと溜め息をく。慣れない靴と歩きのせいでかかとはすりけ、血がにじんでいた。

「……っ」

 痛みで顔をゆがめるも、足を止めることはなかった。
 それから一週間が過ぎたころ――セラフィナは七つ北にある町にいた。わずかな所持金で乗り合い馬車を乗り継ぎ、安い宿屋に泊まり、とにかくいけるところまでいったのだ。
 冷遇れいぐうされていたとはいえやはり貴族の令嬢であり、世間知らずであったセラフィナにとって、楽な旅路ではなかった。いかにも怪しい男性に声をかけられ、どこかへ連れ込まれそうになったのは一度や二度ではない。今も無事なのは奇跡と言っていいだろう。
 ところがこの町に着いて乗合馬車から降り立ったところで、所持金が残りごくわずかだと気づき、夕闇の大通りで途方とほうに暮れる。宿屋を借りられないので、セラフィナは仕方なく路地裏に一枚きりの上着を敷き、そこに腰を下ろして壁に寄りかかった。寒さをしのごうと自分で自分を抱き締め、溜め息をく。
 ようやくここまできたが、カーライル領まではまだ遠い。王都を挟んでさらに五〇マイルは先にあり、手持ちの銀貨一枚程度では間に合わないだろう。押し寄せる不安にかたくまぶたを閉じる。
 そのとき、突然誰かに呼ばれ、セラフィナは目を開けた。

「あんた、なにやっているの?」

 人のよさそうな大柄の女性だった。褐色かっしょくの髪は後ろでまとめ、紺の簡素なドレスにエプロンをつけている。年齢は三十代後半だろうか。女性は腰をかがめセラフィナの顔を覗き込む。

「この町は治安が悪いわけじゃないけど、若い娘が外で寝るとなると、さすがに貞操ていそうの保証はできないよ」 

 セラフィナは呆気あっけに取られて女性を見上げた。

「あ、あの……」
「あら、あんた、いい目をしているねぇ。なにかわけあり?」

 女性はセラフィナの肩に手を置き、にっと笑う。

「なんだったらうちにくる? 少し手伝ってくれれば食事と宿くらいあげられるよ。私はそこの曲がり角にある食堂の女将おかみのエリナーさ」

 食事と宿と言われてしまうと、セラフィナの心は否が応でもかたむく。エリナーの眼差しの優しさと温かさが、アンジェラによく似ていたのも決め手になった。おずおずと立ち上がったセラフィナは、ありがたさに涙がにじみそうになり、慌てて目元をこすった。

「……では、お世話になってよろしいですか」

 エリナーはまたにっと笑いセラフィナの手首を掴んだ。

「さあ、こっちだよ!」

 彼女の運営する石造りの食堂は古く狭かった。店内にはすすけたカウンターとテーブル六つがえつけられていて、どの席も労働者の男性たちでごった返している。
 セラフィナは一瞬中に入るのに躊躇ちゅちょしたが、有無を言わさずエリナーに腕を引っ張られてしまった。カウンター内の厨房ちゅうぼうに押し込まれるなり、湯気ゆげの立つスープとコップを渡される。

「はい、お願い!」
「え、え?」
「そっちのエールは右の奥のひげじいさんね。そっちのスープはカウンター左端の茶髪の男性」

 どうやら料理を運べと言っているらしい。

「おーい、女将おかみ、料理はまだか」

 呆気あっけに取られるセラフィナに、エリナーはほらほらと手を振った。

「早くいってあげて。あの人たちお腹ペコペコなんだから」

 セラフィナは戸惑いながらも、食器をそれぞれ手に持った。ところが、スープをこぼさず運ぶのが意外に難しい。コップいっぱいに入っているエールも、少々テーブルにかけてしまった。

「もっ、申し訳ございません!」
「いいって、いいって」

 真っ青になって謝るセラフィナに、男たちがげらげらと笑う。

「姉ちゃん、今日が初めてか? 初々ういういしいなぁ」
「まー、すぐ慣れるって。元気出しな!!」
「申し訳ございません、申し訳ございません」

 セラフィナはそう繰り返しつつ、カウンターへ引っ込んだ。中ではエリナーも笑いながら待ち構えている。

「はい、じゃあ、次はこれね」

 今度は野菜の入ったかごとナイフを渡された。

「皮をいて適当に切ってね。で、火にかけているスープが煮立ったら放り込んで、柔らかくなったころに塩を振って。適量よりは多めにして、ちょっと塩辛いかな? って思う程度にね。みんな働いて汗をかいているから」

 皮をく。適当に切る。放り込む。塩を振る。味見をする――すべてがセラフィナにとっては未知の言葉だった。エリナーがさっさと向こうにいこうとするのを慌てて引き留め、恥を忍んで尋ねる。

「あ、あの、あの、適当に切るって大きさはどれくらいなんですか? スープが煮立つってどんな状態なんですか? 塩の適量ってどれくらいなんですか?」
「えっ? ああ、そっか。貸してごらん」

 エリナーは頭をくとナイフを受け取った。かごからイモらしき物体を手に取ると、あっという間に丸裸にする。そして調理台にあるまな板に乗せ、小気味よい音を立てて一口大に切り分けた。

「すごい……」

 感動するセラフィナに、エリナーは「慣れよ」と微笑んだ。

「スープは時間がかかってもいいから、まずは皮きをゆっくりやってごらん。ちょっとくらい皮が残っていても気にしないよ」
「で、でも」
「なぁに、死ななけりゃいいのよ。美味おいしければなんとかなるものさ」

 エリナーに背中を叩かれ、セラフィナも笑ってしまう。

「や……やってみます!」

 そして、闘志もあらわに、早速イモへと向かった。ナイフは長年使われているのか、手によくなじみ握りやすかった。それでも下ごしらえは簡単ではなく、思った以上の時間がかかる。手も二度ほど切ってしまった。
 セラフィナは痛みをこらえつつ、たった一皿のスープを作るのに、これほど手間がかかっていたのだと驚く。レノックス家にいたころは、食べるばかりで知らなかった。
 ふと顔を上げてエリナーの姿を探すと、彼女は焼いた肉を手早く二皿に盛りつけ、あらかじめ作っておいたソースをかけていた。つけ合わせの野菜を添えて、両手に持ってテーブル席に運びに出る。
 その一連の動きを、セラフィナが一つのイモをく間に、なんと二度もこなしていたのである。他にも時間が少しでもけば、鼻歌を歌いながら皿を洗っていた。歌劇の主役のような軽快な足取りと手捌てさばきに、セラフィナはつい見惚みとれてしまう。
 はっと我に返るとふたたび作業に集中する。とにかく今は頼まれた下ごしらえを、できる限り早くに終わらせなければならない。
 夢中になって働いていると、時間はまたたく間に過ぎて、食堂は深夜も間近にようやく閉店した。セラフィナは疲れ果てた身体を、やっとの思いでカウンターの椅子に預ける。初の下ごしらえと給仕に四苦八苦したものの、致命的な失敗はせずに済んだのが幸いだった。

「お疲れさま」

 エリナーに声をかけられ、一杯のスープとパンとともに、少々黒ずんだ銀貨と銅貨が置かれる。セラフィナは目をしばたたかせエリナーを見上げた。彼女は笑みを浮かべてセラフィナの隣に腰をかける。

「あんた、働くの初めてだったんだろう? 今日の給料だよ。頑張ってくれたからね」
「こんなにたくさん……」 

 レノックス家で令嬢として暮らしていたセラフィナにとって、生まれて初めて自分で稼いだお金である。信じられない思いでおそるおそる銀貨に触れると、なぜか胸がいっぱいになるのを感じた。

「あの……ありがとうございます。このお店は女将おかみさんおひとりだけなんですか?」
「そう、コツコツ働いてお金を貯めて、二年前やっと開店したの。ただ、最近忙しくなってきたから、人手が欲しいと思っていたところ」

 エリナーはなんでもないことみたいに答えたが、セラフィナは雷に打たれたような衝撃を受けた。これまでセラフィナがいた貴族の社会では、女性が働くなどもってのほかだったからだ。貴族の女性が学ぶものといえば、読み書きや計算の他に社交、ダンス、刺繍ししゅうである。いずれはよき妻、よき母となることだけを求められていた。
 貴族の女性のみならず平民ですら、こうして女性が表に立って働くことは珍しい。女性の仕事とは農村での手伝いか、よくて乳母うばやメイドくらいなのだ。

「お辛くは……なかったですか?」

 貴族と男性がとうとばれるこの国――大アルビオン王国で、平民であるエリナーがどんな辛酸しんさんめたのか、セラフィナには想像もつかなかった。彼女はカウンターに手を組み、あははと笑う。

「そりゃ嫌なこともたーくさんあったさ。けど、今は幸せよ。自分の力で生きていけるからね」

 ――自分の力で生きていける。
 家にも親にも親族にも頼らない。なんと素晴らしいことかと思ったが、エリナーのようになるためには並々ならぬ強さと覚悟が必要だろう。セラフィナは一枚の銀貨をぐっと握り締めた。

「私にも、できるでしょうか?」

 立ち働く自分の姿を想像してみる。

「ああ、もちろん」

 エリナーは間髪かんはつれずに答え、セラフィナの肩をふたたび叩いた。

「そう望みさえすればできるさ」

 その手は水仕事に荒れ、節々も目立っていたが、目と同じように優しく温かかった。


   ◇◆◇◆◇


 セラフィナが食堂のエリナーに勧められ、住み込みで働き始めてから一年が過ぎた。その間にセラフィナは十六歳になり、なにもできない貴族の令嬢から、食堂の看板娘へ転身をげていた。
 今日も昼食時の食堂は、腹ペコの男たちでいっぱいである。

「おおい、スープ追加頼んだ」
「俺はレバーのゼリーとパン。あ、スープもな」
「俺は野菜のサンドイッチな。で、やっぱりスープ」
「はいはーい、お待ちください! ちょっと順番前後しますよー」

 次々とくる注文を頭に叩き込み、セラフィナは厨房ちゅうぼうに引っ込んだ。まずは野菜のサンドイッチである。焼いたパンをまな板に置くと、レタスと玉ねぎのピクルス、薄く切ったチーズを載せた。仕上げに塩と乾燥ハーブを手早く振り、もう一枚のパンを重ねれば完成だ。

「はい、どうぞ」

 セラフィナはカウンター席の男性に、笑顔とともにサンドイッチを手渡した。

「次はスープね」

 奥ではほどよく煮込まれたスープが、いかにも美味おいしそうな香りを放っている。セラフィナは食器棚から三枚の皿を出すと、あっという間にスープをいでいった。具を取り分けている最中さいちゅうに、客のひとりが声をかける。

「俺、イモ少なめにして」
「いけませんよ!」

 セラフィナは腰に手を当て客を叱った。

「ちゃんと食べなきゃ大きくなれませんよ!」
「いやあ、俺、もう五十過ぎだぜ? 大きくなる必要ねえって」

 いい年をした男性の泣き言に、店内にどっと笑い声が上がった。セラフィナもいつもと変わらぬやり取りに、屈託くったくのない笑みを浮かべる。厨房ちゅうぼうのエリナーはそんなセラフィナを、母親のような眼差しで見つめていた。


 食堂の営業は午前十一時から午後三時、午後五時から夜九時までの二部に分かれている。客入りのいい日には時間を過ぎることもままあり、今日も昼時の終わりが四時にずれ込んでしまった。そのぶん夜の仕込みを急がなければならず、セラフィナは目の前に積み上げられたイモを、片端から手早くいていた。

「すっかりうまくなったね。もう十年もやっているみたいだ」

 エリナーがカウンター越しに、しみじみとセラフィナを眺める。セラフィナは飾り気のない褒め言葉に頬を染めた。

「……ありがとうございます」

 この一年で料理や給仕を一日も休まず叩き込まれた。初めは手にり傷や切り傷が絶えなかったが、努力の甲斐かいあってか、今では手際よくこなせるようになっている。
 エリナーは目を細めテーブルをき始めた。

「フィーナがきてくれたおかげで大助かりだよ」

 エリナーがセラフィナをフィーナと呼ぶのは、セラフィナが初めにそう名乗ったからだ。自分は貴族の令嬢なのだと、正体を打ち明ける勇気はなかった。アルビオンでは貴族と平民は、生活も、価値観もなにもかもが違い、双方が互いを別人種だと認識している。本来であれば交わることなど一生ない貴族の出身だと知られれば、さすがのエリナーも態度を変えてしまうだろうと恐れたのだ。
 それに、エリナーのことは信用しているものの、情報がろうえいするのも避けたかった。いつレノックス家の手の者が現れ、連れ戻されるかわからないのだ。万が一そうなってしまえば、意に沿わぬ老人との結婚をいられ、死んだように生きていくしかない。自由と自立を経験してしまった以上、そんな生活に耐えられるはずがなく、できればこのまま食堂で働きたかった。
 もちろん、レノックス家にいたころと比べれば暮らしは貧しい。一日中の労働で手は荒れ、足も棒みたいになる日ばかりだ。それでもここでは「ありがとう」と感謝されたり、「ああ、美味うまい。またくるよ!」と褒めてもらえたりする。ちゃんと自分を見てもらえるのだ。それがなによりも生きる喜びとなる。

「フィーナ」

 エリナーに呼ばれたセラフィナは、はっと顔を上げた。

「悪いけど、大通りの肉屋で鳥肉を三羽分買ってきてくれる? 今日はたっぷり肉を入れてみんなに振る舞おう」
「はい、わかりました!」

 セラフィナはバスケットを手に出入り口を開けた。通りを歩きながら脇に並ぶ店や、道に咲く花、空を流れる雲を楽しむ。頬をでる秋の風が気持ちよく、気分がいつにも増して明るくなった。
 途中、布地屋の磨き抜かれた窓ガラスに自分の姿が映り、何気なく立ち止まる。つやのない薄い茶の髪と肉づきの悪い身体だ。セラフィナの姿は母を亡くした十三歳から、時を止めたようにほとんど変わっていなかった。
 レノックス家にいたころは幼く、美しいとは言えないこの姿に劣等感があった。だが、今となってはこれでよかったのだと思う。平民にまじっても違和感がないからだ。なにが幸いするのかわからないと思いつつ、セラフィナはふたたび肉屋に向かって歩き始めた。
 ちょうど解体した家畜を運び込んだばかりなのか、肉屋には新鮮な鳥獣肉ちょうじゅうにくがたくさんあった。軒先のきさきには羽をむしられた鳥や羊の腸が吊るされ、カウンターにも様々な部位が並べられている。別通りにある食堂の主人も買い物にきており、熱心に羊肉を品定めしていた。
 セラフィナは吊るされた鳥から三羽を選び、バスケットいっぱいに詰めてもらった。エプロンのポケットから銀貨を取り出し店主に手渡す。

「ありがとうございます。こちら代金です」
「おうよ、また頼むな」

 店主は片手でコインを受け取り、もう片手を腰に当てつつ、カウンター越しにセラフィナを眺めた。

「……? なにか?」
「ん、いや、なんでもねぇよ。女将おかみによろしくな」

 店主は早くいきなと手を振った。セラフィナは戸惑いながらも元きた道を戻る。
 その背を見送った別通りの食堂の主人が頭をいた。

「あー、さっきあんたが言っていたのってあの娘かぁ。確かに言われりゃそんな感じの目の色だったなぁ」
「向こうも今日あたり確かめにくるとか言っていたぜ。ま、違っていてもたいしたことじゃねえさ」

 店主はカウンターの片隅に置かれたメモを手に取った。一昨日おととい、商人組合を通じてとある通達があったのだ。

『探し人あり。身体的特徴は、身長がやや低い、せ型、セレストブルーの瞳の娘。セレストブルーとは深みのある紫がかった青。情報提供者には全員に報酬金ほうしょうきん。本人の場合さらに金貨十枚を追加。なお、探し人本人ではない場合も罰則はなし。連絡は各組合にまで』 
「どうせ別人なんだろうが、金貨十枚は魅力的だよな」

 肩をすくめ、メモを丸めて後ろにぽいと捨てる。

「はてさて、このセレストブルーの瞳の娘はなにをしでかしたんだか」

 大方、借金取りから逃げ出したのだろうと、店主は手の汚れをぬぐいつつ仕事に戻ったのだった。


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