鸞翔鬼伝 〜らんしょうきでん〜

紗々置 遼嘉

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六章 決別

二十九.再仕官へ向け

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  遺体を尾張に運ぶように高信たかしなに頼み、翔隆は着物を高信に借りて佐々さつさ成政なりまさ達に追い付く。
翔隆は、何も言わなかった。
黙ったまま、ただ光征と共に姫の輿の隣りを歩く。

 そして甲斐に入った途端に、翔隆は髪を結い直して成政の側に行く。
「翔隆?」
「ここよりは、武田家の近習としてご案内仕りまする。どうぞ、こちらへ」
「う…うむ」
そう言われて、知ってはいたが改めて〝武田に仕えているのだ〟と実感し、成政は戸惑いながらも頷く。

  そして躑躅ヶ崎館に着くと、翔隆は穏やかな顔をして菊姫の手を取り、中へ案内した。
…先程までの死人のような顔は何処へ行ったのやら…。
 信玄の弟の武田刑部少輔ぎょうぶしょうゆう信廉(三十四歳)が出迎える。
「遠路遙々、ご無事で何より。お疲れでしょう、さ、中へ」
「忝ない」
成政が答え、翔隆や姫と共に館の中に入る。
 火焼間では、既に手の空いている重臣達と勝頼が待っていた。
「お菊様、ご到着にござる」
「うむ」
信廉が言うと、信玄は微笑して頷く。
すると、成政達織田家の者達と共に菊姫を連れた翔隆が入って座り、恭しく一礼する。
「此度は四郎さまと菊姫さまの婚儀を承諾して下さり、誠にめでたく…」
「堅苦しい挨拶など抜きにして…これが伜の四郎勝頼じゃ」
「お初にお目もじ至す、お菊どの」
勝頼が笑って一礼すると、菊姫は頬を赤らめて一礼する。
「菊にござりまする。よろしゅう、お願い致しまする…殿」
二人の挨拶を見て、信玄は頷く。
「ほれ四郎、何をしておる。姫君を案内して差し上げい」
「は、はっ…」
勝頼は立ち上がって菊姫の側に行くと、片膝を撞いて手を差し伸べる。
「お疲れであろう。まずは、曲輪へ案内至す」
「あい」
その手を取り、菊姫は侍女達を伴って勝頼と共に出て行った。
「さて、佐々どの。忙しいであろうが、一献呑まれて行かれよ」
「…では、有り難く」
一礼してちらりと翔隆を見る。
翔隆は当然のように信玄の後ろに控えている…。
〈…まことに…信玄に……〉
いつも信長の側に居て当然だった友が、別の主君の側に居るのを見るものは、快くない。
そんな成政の視線に気付き、翔隆は申し訳なさそうに俯いた。
〈……不快な思いをさせてしまったか……しかし、武田に仕えているのは承知の筈だ…〉
判っていても、自分であったらやはり驚くし、嫌な気分になるだろう。
 成政は三献だけ戴いて、一礼する。

「それでは…」
「ご苦労であったな。織田どのに、よしなにお伝えあれ」
「はっ! では、これにて失礼仕りまする」
成政は再び深く一礼して、皆と共に立ち去る。
それを見て、翔隆は信玄を見る。…と、微笑して頷かれた。
行ってこい、と言ってくれているのだ。
翔隆は軽く会釈して後を追う。

「―――成政…殿!」
館の外で追い付いて言うと、成政は眉を顰めて返り見る。
「翔隆……安心せい。口外はせん」
「…それは有り難いが…そうではなく……」
小走りで成政の馬に近寄ると、翔隆は深く一礼した。
「済まん! 見たくも無いものだったやもしれぬのに…」
「翔隆…」
「必ず、再士官を果たす。だから……」
翔隆は唇を噛み締める。すると成政は苦笑して馬から降り、翔隆の肩を叩く。
「顔を上げろ」
「…成政……」
顔を上げた翔隆は、思った通り泣きそうな表情をしていた。
「…ふっ。今は、まだ至仕方あるまい。―――待っておるぞ!」
そう言い、強く翔隆の肩を掴む。
翔隆は何度も頷いて成政の腕を掴んだ。
「…必ず…っ!!」

その後、行列に続く光征を呼び止めて離れた所に行く。
「…光征……戻れば分かる事だが、雪孝が死んだ」
「えっ?!」
「…双子の兄との戦いに敗れた…治す事も出来ずに……」
「雪孝が―――っ!!」
光征は目眩を起こす。
いつも共に笑い合い、修行をしたり寝食を共にした仲間が…昨日まであれ程元気だった友が殺されるとは…!
翔隆は言いにくそうにしながら続ける。
「…それと、義成だが…」
「! 義成様がどうかなさいましたかっ!?」
その返答で、光征達がまだ義成が〔狭霧〕に行った事を全く知らないのを確認する。
「…どうしている?」
「あ……それが…子と文を置かれて…出て行ってしまい…」
「何と、書いてあった?」
「あ…。〝許せ、これよりはもう会えぬ〟とだけ…」
「―――そう、か…」
「?!」
おかしい。
今までであったら、大切な義成が居なくなれば必死で探すし、〝何処に行った〟と問い詰めてくる筈だ…。
なのに、翔隆はやたらと冷静な顔で宙を見つめているだけ…。
〈何か知っておられる…。やはり、一成と共に何かを知ったのだ…〉
それは確信出来たが、今主君を問い詰めても何も言うまい。
言うのなら、もっと早くに知らせている筈…。
余程の事があったのは分かるが……教えて欲しい。
 もっと、信頼して欲しい…。
〈待つしかない…か〉
きっと、再士官すれば話してくれるだろう。そう思い、光征は何も聞かない事にした。
「…どうか、お体をお厭い下さいませ」
「ん……光征も…。皆にも、元気でいろと伝えてくれ」
「はい」
光征は微笑んで一礼して、行ってしまう。
〈…済まん…―――〉
翔隆は心中で詫びて、館に戻る。
まだ、義成が敵の〝長〟になったとは言えなかった…。
自分でも信じられないし、まだ信じたくないと思っているからだ。

 重臣達がそれぞれにくつろぐ中、翔隆は信玄の下へ戻る。そして平伏した。
「勝手な真似をして申し訳ござりませぬ! ですが、道中は危険だと思い…」
「良い。その格好を見れば、責められもせんわ。早う着替えて参れ」
「…あ…」
言われて、自分が血だらけである事に気が付く。着物から血が滲み、袴はボロボロ。
「…では、失礼を」
そう言って翔隆は火焼間を後にする。
菊姫を迎えに行った事は、影優かげゆう義深よしみの調べで分かっているのだ。

 借りている西曲輪に来ると、三人の子供が庭で遊んでおり、樟美だけが木の上で空を見上げていた。
浅葱が翔隆に気付いて、すぐに駆け寄ってくる。
「父さま! ケガしてるの?」
「ん…大事ない。遊んだら、皆と字の練習をするんだぞ」
「はぁい」
そう返事をして、浅葱はまた走り出す。
微笑してそれを見送り、ふと樟美を見上げる。
〈…あんな頃もあったな…〉
樟美を見つめながら、自分の幼い頃を思い出す。
 ちょうど同じ年の頃、よく空を見上げた。
 広くて何処までも続く大空を見上げていた。
雲は手が届きそうで届かず、何処かへ流れていく…。空を見ると楽しかったり、悲しかったり…。
 そう思っていると、樟美が振り向き降りてくる。
「父上…怪我を……」
「治すからいい。…お前は、たまには遊んだ方がいい」
そう言いくしゃりと樟美の頭を撫でて、曲輪に入った。
そして、傷を癒して着替える。
〈…陽炎を相手にした割には、軽い傷で済んだな…〉
視界が悪かったのが幸いしたのだろう。
翔隆は深く溜め息を吐いて、座る。
〈こんな事だけでは……他に何かしなくては許されない。思う事以上の働きを、望んでいらっしゃるのだ…〉
それは、分かっている。
信長が思いも付かない事をしろと言われて、すぐにいい事が思い付いたら苦労はしない。
〈…毎日こっそり忍び込んで、武器を磨いたり…掃除……〉
思い付く事が情けないものばかり。
かといって、戦などで《力》を使ったりしたら、それは卑劣な行為となるだろう。
―――と、最近気付いた事だ。
以前に《力》を使った自分が恥ずかしい。
〈じっくり考えよう……焦ったとて仕方が無い〉
翔隆は再び長息ちょうそくを吐いて、信玄の下へ向かった。



  今年中は居られる―――。

 そう思っていたのだが、そうもいかなくなった。
〔狭霧〕が不穏な動きをしている、と頭領の凪間なぎまが知らせに来たのだ。
どうやら躑躅ヶ崎館を襲撃して、今度は信玄を盾にしようとしているらしい…と。
「いかがいたしますか? 長…」
「ならば高信たかしなと手を組み、細かく情報を取った上でその裏を掻け。どうせ大将は清修だろう。ならば、この街道を使う筈だ。それとここからここに…」
と、詳しく絵図で説明をしてから凪間を帰らせた。
こんな平和な武田家に、迷惑は掛けられない。翔隆は急いで旅支度をした。


 そして、信玄に会って事情を説明する。
「――なので、ここにはおれませぬ。まだ東海も回ります故、どうかご容赦を…」
そう言い平伏する。
「…そうか……分かった」
「申し訳ござりませぬ…」
「良い。…馬が一頭では心細かろう。野育ちのいいのがいる。参れ」
そう言って信玄は立ち上がった。

 ついてくると、厩の奥に一頭だけ他の馬より一回り大きな馬が居た。
その馬はこちらを見ると、いなないて前足でカツカツと地を叩く。
「奴は気が荒い女子おなごでな。六人掛かりで捕まえたが、強くて丈夫だぞ」
「はあ…有り難く……」
つまり、手に負えないから厄介払いをしたいのだろう。
そういう事なら、快く頂ける。
翔隆は何も言わず、その馬に近付いていった。すると馬は激しく暴れ出す。
『ヒヒヒーン!!』
縄を千切らんばかりに暴れるが、翔隆は優しい微笑を浮かべてすぐ近くまで行くと、じっと目を見つめる。
「恐いのか?」
『ブルルル…』
「殺しはしない。お前、戦は好きか?」
そう聞くと、馬はピクリと反応した。
どうやら言葉は理解出来るらしい。
翔隆は笑って続ける。
「私は嫌いだ。だが、黙っていてもいつも向こうから戦いを挑まれる。それ故、足となる馬も、強くてしっかり者でなくてはならん。…女子のお前に言うのも悪いのだが、私の下で働いてはくれまいか?」
『ブルル…ブル…』
おとなしくなると、馬はじっと翔隆を見つめた。
「いい目をしているな」
『ヒヒヒン!』
「来るか?」
尋ねると、馬は頷くように首を縦に振った。それに頷き、翔隆は横木を外してやる。
すると馬は静かに出てきて、翔隆の頬をベロリと舐めた。
それを見て、信玄は感心する。
「ほう、さすがよな」
「気が合っただけです。…名前を付けないと…」
「ああ、それなら決めてある。百鬼なぎりよ。百の鬼をも負かす名じゃ。良かろう?」
「……はあ」
「そ奴の前で〝気に入った名があれば嘶け〟と言って色々と言ったら、百鬼にだけ嘶いた」
〝女〟に付ける名ではないが、当の馬が気に入ったのならいいのだろう。
取り敢えず〝影疾かげとき〟に対面させて隣りに並べた。
雄と雌だからどうかとも思ったが、興奮する様子も無く静かに互いを見ているので、相性はまあまあのようだ。
「明日…いや、今夜には発つから、それまで休んでいてくれ」
『ヒヒン!!』
二頭が同時に答えた。

 婚儀までには、まだ時間がある。翔隆は勝頼の下へ挨拶に行く。
「…よろしいでしょうか?」
「ん? ああ、入れ」
障子を開けると菊姫の姿がなく、勝頼は暇を持て余している所だった。
翔隆は静かに障子を閉めて、平伏する。
「初陣に参陣出来ず、申し訳ございませぬ」
「ああ、それか。良い良い。それよりも、もっと近う」
勝頼がにこにこしながら手招くので、近寄ってみるといきなり抱き寄せられて、接吻の嵐を受けた。
「なっ…勝頼様っ!?」
頬やら首やら唇にまで口付けをすると、勝頼はニヤリとした。
「いつの間にか、こうしてお主を抱けるようになった。いつも見上げてばかりで、首が痛くなっておったのにな」
「はあ…それは申し訳…いえ、おめでとう…??」
翔隆は何と返事をしていいか分からずにいた。
「わしも十八。気に入りの小姓もおるぞ」
「そうですか…。あの、手を……」
勝頼は翔隆を抱き締めたまま、肩に顔を埋める。
「…わしは、主君の伜だ」
「はい」
「では、抱いても良かろう?」
「――――はあっ?!」
仰け反ると、更に強く抱き締められ着物を引っ張り出された。
「良かろう?」
「い、いえいえ! 良くはありません! それに、今日は姫君を娶られている、めでたい日ではありませんかっ!!」
「婚儀は夜じゃ。暇でな」
「かっ、勝頼様っ!!」
叫ぶと、ゴホンと障子から咳払いが聞こえる。見ると、伊織が立っていた。
「伊織…なんじゃ」
「なんじゃ、ではありませぬ! 姫君が見たら何とするのですか?」
「……」
そう言われ、勝頼は仕方なく翔隆を離した。
「何の用じゃ」
問われて伊織は一礼して言う。
「菊姫さまは、支度で夜までお会いになれませぬので、それを伝えに参りました。それでは、ごゆるりと…」
そう言い障子を閉めて行ってしまう。
「はあ…」
翔隆はその場に座って溜め息を吐いた。
すると、勝頼も溜め息を吐いて座る。
「いい所で邪魔をする。…して、翔隆。何か用があったのか?」
「あ、はい。実は婚儀の後に甲斐を出る事になりまして…」
「何?! 折角会えたのに、もう行くのか!?」
「はっ…申し訳ござりませぬ。故は、信玄様に申し上げましたが…」
「〔一族〕とやらの事か?」
「…はい」
「……ふぅ」
勝頼は溜め息を吐いて、翔隆を見つめる。
「…昔、義深から聞いた事がある。翔隆があちこちを飛び回るのは、〔一族〕と戦っているからだ、と。先程も、怪我を負っていたな…」
「…はい。姫を狙って〔一族〕がやってくると思いましたので……」
「戦とは…違うのだな」
「はい。いつ、何処でも、狙って参ります故…」
翔隆が俯いて言うと、勝頼は苦笑しながら翔隆の頭を撫でる。
「勝頼様…」
「余り、無理はするなよ?」
「…はい」
翔隆も苦笑して頷く。

 勝頼と菊姫の婚儀を見届けてから、翔隆は子供達を連れて亥の三刻(午後十一時頃)に館を出た。
 これから先、ここを訪れるのはいつになるか分からない…。
解任を解かれなければ、ここには来れなくなる…。
〈どうか、息災で…!〉
翔隆は深く館に向かって一礼をし、歩き出した。
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