ことりの台所

如月 凜

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第十二話 梅に鶯

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「悪いなあ、隼人君。ことりちゃんも心配してくれて、ありがとうな」 
 
田所さんが、箪笥から出した浩二君のシャツをトートバッグに詰めた。

「いえ、俺らも一度様子を見ないと落ち着かないんで。邪魔になるのも良くないんで、すぐ帰りますが。田所さんが帰る時、連絡くれたら港まで迎えに行きますよ」

「大丈夫や、帰りは丸山さんのタクシー呼ぶから。しかしほんま、具合悪なった時に月子ちゃんがおってくれて良かったわ。おらんかったらと思うとゾッとする。よし、ほんなら行こか」
 
二階が居住スペースになっている喫茶クラウンを出て、隼人の運転する車で陽ノ江港へ向かった。

「浩二君、入院したって聞きましたけど」
 
津久茂島と本州を結ぶ連絡船の甲板に三人でいるところを、船員である戸波さんが、心配そうに声を掛けてきた。

昨夜、浩二君が喫茶クラウンの店内で後片付けをしている時に倒れたという噂は、今朝の内には島中に広がっていたのかもしれない。

戸波さんは出勤した際に、船員同士の会話から聞いたのだと言う。

田舎の恐るべし情報網である。

「あぁ、なんや疲れが溜まっとったみたいやわ。うん。店の新しいメニューでも考えて、夜更かしばっかりしよったんや。元々あんまり身体も強いタイプやないからな。一応、検査でもしとこかってなっただけや」
 
昨夜、隼人がマリーさんから連絡を受けた時にも、そういう話を聞いている。

ちょうど一緒にいた月子さんが言うには、閉店後の店でマリーさんを待っている時にお腹が痛いと言って二階で休むと言ったのだそうだ。

どうやら会った時から少し調子が悪そうだった事を心配していた月子さんが見に行くと、ベッドに倒れ込んでいたので慌てて救急車を呼んだらしい。

意識もあり、会話もできるというので浩二君はしきりに救急隊員に謝っていたそうだが。

でも、何かあってからでは遅い。

本当に具合が悪いのだから、月子さんの判断は間違っていなかったと私は思うし隼人も同意見だった。

「そうですか……。とりあえず一通り検査して貰えたら安心ですね。何かお手伝いできることがあれば言ってください」

「ありがとうな。ほんま、ありがとうな」
 
本州のシルエットがぼんやりと白い景色の中に浮かび上がる。

空は薄雲が掛かっている。海上を吹き抜ける風の冷たさに、手袋をした手をすり合わせる。

「ことり。はい、これ。持ってきてなかったのか?」
 
隼人が自分のポケットから差し出したのはカイロだ。

「うん。でも良いよ。隼人のが無いでしょ」
 
すると反対のポケットから、もうひとつ同じカイロを出した。

「両ポケットに入れてた」

「なんだ。ふふっ、ありがとう」
 
受け取ったカイロは、手袋ごしでも温かくて。
優しい温もりが手の平いっぱいに広がった。



浩二君の病室の扉を開ける前から、マリーさんがそこにいる事だけはわかった。

ドアの上部にある小さなすりガラスの向こうに佇む大きな人影。

月子さんに「もう少し小さな声で喋って」と注意されている。

「みんな、来てくれてありがとう。心配かけてごめん」

「良いって。検査入院って長引くのか?」
 
隼人が着替えの入った荷物を棚に片付けながら訊ねる。

私は月子さんの隣のパイプ椅子に腰かけた。

「一週間くらいかな。店も臨時休業になってるから早く帰りたいんだけどね」

「そんなにか。まあ、休みも必要だって。今の体調はどうなんだ?」
 
隼人が心配するのも無理はない。私も同じように思っていた。

あまり浩二君の顔色が良いようには見えないのだ。

元々彼は肌が白い方では無いが、それにしても顔色が土色っぽい。

最後に浩二君に会ったのは二週間前くらいだが、一回り小さくなったような気がする。

「大丈夫だよ。元気だし、今からでも働けるくらい。月子ちゃんの事も、驚かせちゃって申し訳なかったよ。本当は昨日、マリーさんと月子ちゃんと三人で森野さんの店に行こうと思ってたんだ。お鍋が食べられるって聞いたからね」
 
月子さんが頷く。

「昨日、あの人が電話してきたの。旨い鶏団子鍋が食えるぞって。ネギいっぱい入ってるぞって」
 
マリーさんが「あの人って父親ね。あの偏屈おやじ」と、ワインレッドの唇をタコみたいに突き出して、呆れ顔で片方の眉を上げた。

「チョーさんが家に電話かけてくるなんて、相当珍しいのよー。ネギってワードを出せば食いついてくるってわかってたのよねえ。電話口で奥さんに怒られてでも、月ちゃんに話したい事があったんでしょ」

「話したい事?」
 
私が聞くと月子さんが「二人のこと」と眠そうな目でこちらを見た。

「ことりちゃんのご飯、美味しいって。あの人が他人の事を褒めるなんて珍しいから、凄く気に入ったんだと思う」

「そ、そう」

嬉しい。嬉しいけれど、同時に照れくさくて、どんな顔をして良いのかわからず、中途半端にはにかんだ。

「ええ友達もって良かったな、浩二」

「そうだね」

二人が目を合わせてほほ笑む。

昨夜から殆ど寝ていないのか、ずっとぼんやりしていた月子さんは、ついには座ったまま居眠りし始めた。

そんな月子さんの背中に、隼人が手にしていた自分の上着を掛けた。

「あんま寝て無いんでしょ。月子さんまで倒れらちゃ困るから、このあと俺らが家まで送るよ。なんてったって、俺の愛する服のデザイナーさんだからなっ」
 
ほらっ、と自分のトレーナーを胸までめくり上げた。

【物は言いよう、考えよう。】

半月の目つきの悪い――西郷さんみたいな猫が、悪代官みたいな悪い笑みでこっちを見ている。

その悪代官猫の手には黒と金の華美な扇子が握られている。

「夏場だけかと思ってたけど、冬も着てたんだ」

「おう。夏だけなんてもったいねーじゃん。俺、これめっちゃ好きだもん」
 
なあ、と言われて、月子さんは鳩が豆鉄砲くらったような顔で、浩二君の掛け布団へと視線を逸らした。

かと思うと、今度は肩からずり落ちた上着を慌てて身体に纏い、目を白黒させている。

困っているらしい。照れているのかも。普段から表情に乏しい彼女が、あからさまに動揺している。

「すっかりファンなんだ。隼人君、似合うよね」
 
月子さんの様子を見ていた浩二君が苦笑する。

僕も恥ずかしがらずに着れば良かったな、と続けた言葉にはどこか悔しさが滲んでいた。
 
隼人は呑気に「似合う?やっぱ俺はなんでも似合っちゃうかー」なんて軽口を叩いていた。

「ま、俺は好きなものは好き。やりたい事をやる。それだけなんだけどさ」
 
前も言っていた。それは隼人の口癖みたいなものだ。

「隼人君は優しいわよねえ」
 
マリーさんが意味ありげに、私を、月子さんを。そして浩二君へと視線を滑らせて

「あたしだけ蚊帳の外じゃなあい。やあだぁ」

と浩二君に力の限り抱き着く。

昨日から生えっぱなしだと言う髭面で頬擦りされた浩二君のうめき声に、目じりに皺を溜めた田所さんが笑っていた。



「ごめんねぇ、遠回りして送ってもらっちゃって」
 
運転席と助手席の間から、にゅっと派手な顔が出てきた。

今日はウルフカットのショートヘアだ。
ショッキングピンクのウィッグが一段と派手さを際立たせる。
 
津久茂港から車に乗り、星野地区にあるマリーさんの自宅前までやってきた。

「牛の世話って大変そうですよね。俺、何か手伝いましょうか」

「あら、大丈夫よっ。今日はあたしの父親に任せてあるから。おハゲちゃんでよぼよぼのお爺さんだけど、牛の世話だけはまだまだ完璧にこなすの。一応もう引退してるんだけど、今日は病院に行きたかったからお願いしたら、もう大張り切りよ」
 
ほら、と車を降りたマリーさんが、自宅裏の川の向こうにある牛舎を振り返った。

敷地を大きく取り囲む柵。その扉を閉めている高齢の男性の後姿が見える。

見えると言っても曲がり過ぎた背中のせいで、頭半分しかこちらからは見えない。

キャップを被っているので、髪の有無は確認できないけれど。

牧草の運搬用だろうか、一輪車を押しながら、今度は倉庫の方へと方向転換しようとして、私達に気付いた。

「あ、ほら怖い顔して呼んでるわ。うふふ、ごめんねえ。また今度、お店にも遊びに行くから」
 
じゃあね、と踵を返したマリーさんが遠く父親の元に駆けていく。

マリーさんが一輪車を押しながら、今度は父親に合わせた歩幅で歩く二人の後姿が、とても尊いものに思えてならない。

「二人を家まで送ったら、ちょっと出かけるわ」
 
白鷺地区の大通りで信号待ちをしていると、隼人が思いついたように言った。

「私、ことりちゃんのお店行く」

「いやいや、月子さん寝ないと駄目だって」
 
隼人の言う通りだ。船の中でだって、眠気と疲労感からか船酔いしていたくらいだ。まだ顔も青白い。

「やだ。おネギたっぷりのお鍋食べるんだもん」
 
きっぱりと言い切る月子さんは、それ以上私たちの話は一切聞いてくれなかった。

「それで、隼人君はどこに行くの?」
 
話題を逸らされてしまった。

「ゴミ拾い?」

「それもあるんだけど、小屋の雨漏りの件も平昌社長に頼みに行かないといけないし」

「雨漏りしてるんだ。大変」
 
本当に思っているのかと吹き出しそうになるくらい抑揚の無い声で、運転席の後ろで月子さんが言う。

言って、また瞼がずずずと落ちていく。相当眠いのだろう。

それでもうちに来るのだから、ネギへの執念は凄い。

車は森を抜け、空っ風に揺れるケヤキの下で停止した。
 
隼人を見送り家に入ると、居間のど真ん中で伸びていた西郷さんが立ち上がり、のそのそと月子さんの足元にすり寄った。

「いつ見てもイケメンだねえ」
 
赤ん坊を相手にするような甘い声で、西郷さんの顎周りの肉を撫でまわす。

このところ西郷さんの毛が随分伸びてきた。

トレードマークとも言える目元にまでかかり出した毛を親指で避けながら「お元気ですか。そうですか」と会話している。

西郷さんの方も、肉で顔が押し上げられて変な顔になろうと、されるがままだ。
 
こたつの電源を入れると、西郷さんはいそいそと中に入り、そこに月子さんが腰を下ろした。

「今日は何にするの?」
 
本日のメニュー、と書きだした私の手元を覗き込む。

「月子さんは、昨日食べられなかったお鍋が良いんですよね」
 
迷いなく頷く。

あまりに真剣な表情に思わず笑いそうになって、気付かれないように再び手元に視線を落とした。

「まだ水菜が沢山あるので、豚バラで巻いてみようかなと思います。あとは大根の煮物とお味噌汁かな。ネギもあるから、今日はおネギが主役のお味噌汁とかどうでしょう」
 
言いながら書き、ふと顔を上げると、月子さんの丸い濡れた瞳が真正面にあった。

何かの漫画でこういう時、きらきらの星がビームのように飛んできていた気がする。

居間に月子さんと西郷さんを残し、私は急いでエプロンを着て台所に立った。
 
お米を水に浸してご飯の準備を済ませたら、次は時間が掛かる大根の煮物を作る事にした。

面取りし、表面に包丁でばつ印を入れていく。

大根は厚めだ。

時間は掛かるけれど、しっかり味が染みた時は、これが一番美味しいと個人的に思う。
 
大根を生米を入れた鍋で下茹でし、それから醤油やみりん、出汁でじっくり煮ていく。

ぐつぐつという音がもう耳にご馳走だ。

これは作っている人の特権でもある。
 
お味噌汁はネギ。ネギと油揚げだ。

ネギはたっぷり入れよう。透明のお湯に、溶いた麦味噌が雲の様にふわふわと広がって香りがふわりと立ち上る。
 
時折、居間の方から西郷さんの足音が聞こえて、月子さんのとろけるような優しい声が囁くように聞こえてくる。

家の周りでは鳥が鳴いていた。一羽では無いらしい。

会話でもしているのか、微妙に違う声で鳴き合う。

冷え切っていた台所が少しずつ温かくなってきたからか、私の心までほんのりと陽だまりみたいなぬくもりが広がっていった。

その時、電話が鳴った。味噌汁の火を止め、廊下へと出る。
 
受話器を耳に当てるが、何も聞こえない。もしもし?どちら様ですか。返事はない。

「どうしたの?」
 
月子さんが居間から顔を出した。

「間違い電話みたいです。支度、急ぎますね」
 
月子さんのお鍋を作ろう。

白ネギを多めに用意し、水菜、春菊、豆腐、鶏団子と準備していく。

固形燃料と一人用のいろり鍋を準備し、月子さんのテーブルへと運んだ。

「わあ、素敵」
 
ぐつぐつと煮立つ具に表情をとろけさせているうちに、みるみる顔色が青白からピンク色に変わっていく。
 
私は台所に戻り、水菜を洗ってザルに上げ、砂糖と醤油で甘辛だれを作った。
 
家の敷地の入り口に看板を出し、本日の営業開始だ。

時刻は十一時前。

月子さんが夢中でネギたっぷりのお鍋を楽しんでいる時に、玄関の扉が開いた。

「こんにちは。猫村です」
 
この寒い冬の朝から来てくれたのは、猫村夫婦だ。

「ふふ、どうしても気になって夫も連れて来ちゃいました」
 
奥さんが笑うと頬が丸く浮き上がって、愛嬌たっぷりの笑顔になる。

その隣では、奥さんとは対照的に表情の変わらない旦那さんが、かろうじて聞こえるぼそぼそとした声で「どうも」と会釈した。

二人を居間に案内すると、真っ先に奥さんが「あら月子ちゃん」と駆け寄った。

月子さんも「おばさん、久しぶりだね」と薄い笑みを浮かべた。

「お仕事の方はどうですか?」

「まあ、なんとか」

「シャツのデザインもやってるんでしょう?」
 
月子さんは「そうだね」とお茶をすすった。
 
 あれ?彼女の仕事はシャツのデザインが本業じゃないの?

デザインも、という言い方は、まるで他に仕事があるかのように聞こえる。

「日替わりメニューでお願いします」
 
奥さんの隣で旦那さんが目を伏せ、黙ったまま頷いた。

「私、お茶のお代わりが欲しい」

「珈琲か紅茶もご用意できますけど、お茶で良いですか?」

「じゃあ紅茶にする。お砂糖とミルクも欲しい」

「かしこまりました」
 
空になった鍋と食器を下げ、ひとまず紅茶を月子さんに運ぶ。

猫村さんが育てた水菜だ。それを彼女自身にお出しする。責任重大。

よし、と袖をまくり、手を洗った。

水菜は豚バラで巻き、フライパンで焼いていく。

じゅうっと油が弾け、次第にこんがりと豚肉が焼けていく。

もうこれだけで充分美味しそうだ。

そこに用意しておいた甘辛だれを回しかけ絡ませる。砂糖の効果で少しとろみが出たら完成だ。

このたれがまたご飯と相性抜群。

ああ、もう堪らない。自分用であれば、つまみ食いしているだろう。
 
冷まして味を染み込ませておいた大根の煮物は、もう一度火にかける。

蓋を開けると、出汁がしっかり染みた美味しい煮物が姿を現す。

分厚い大根。箸ですっと切れて、口に入れると舌の上で鰹出汁と醤油の風味がじゅわりと広がる。
 
甘みのある麦味噌のお味噌汁と、ふっくら艶のある土鍋ご飯。

それらをお盆に乗せ、月子さんの隣のテーブルで待つ猫村夫婦の前に並べた。

第一声は奥さんの歓声にも似た「美味しい」だ。

この瞬間がまた嬉しい。

旦那さんも「美味いな」と静かに、だが力強く言った。

外食が苦手だと聞いていたので少し不安があった。

旦那さんはプロの料理人だ。

もちろん私だってお金を頂いて料理を提供している以上はプロに違いないのだが、そこは経験の差という、とてつもなく大きな壁がある。

猫村さんの旦那さんは、洋食黒猫で長年この島の人たちに愛される料理を作ってきた人だ。

そんな人の「美味い」の一言は、緊張に強張っていた私の表情を緩ませる。

縁側のある一面ガラス戸の向こうは、まだまだ冬景色だ。

寒々しい、白と茶の世界と、ガラス一枚隔てたこの居間は、部屋の中心に置いた円筒ストーブとこたつ。

お客さんの笑顔でぬくもりに満たされている。

店を開いてから、本当に平和だ。

平和で穏やかな毎日。

「ことりちゃん。西郷さんのことだけど」
 
お盆を台所に戻そうと立ち上がった私を、月子さんが呼び止めた。

「毛、切っても良い?」
 
縁側で寝そべっていた西郷さんは、自分の事を話しているのに気が付いたのか、外を眺めたまま耳をピンと立ててこちらの話を聞いている。

「切れるんですか?」
 
月子さんが縁側に転がる西郷さんを抱き寄せ、右の前足を人間が挙手するみたいに顔の横に上げて見せた。

「私の本職だから」

 なんと。
 
大根の煮物をしみじみ味わっていた猫村さんが、そうねえと目を線にしながら言った。

「トリマーさんだものね」

西郷さんは満足気に、毛むくじゃらの顔を月子さんのトレーナーにこすり付けていた。



お昼を少し過ぎた頃、帰って来た隼人を真っ先に出迎えたのは西郷さんだ。

上がり框でくるりと周り、その場に座って「おかえり」と鳴いた。

「わっ、西郷さん毛が短くなってる!なんで?ことりが切ったのか?」

「ううん、私じゃないよ」
 
そう言って庭で片づけをしていた月子さんを見遣る。

猫村さんの奥さんは旦那さんは、こたつで新聞を読んでいた。

「月子さん、超多才じゃん。すげえ。良いなあ、西郷さん。俺よりイケメンになっちまって」
 
思わず鼻で笑ってしまったが、隼人は気付いていないらしい。

抱きかかえられて頬をぶにぶにと押し付けられた西郷さんは、最初こそまんざらでもない様子だったが、最後には隼人の顔面に猫パンチ(爪は立てていないのが西郷さんなりの優しさだ)をお見舞いしていた。


「ごちそうさまでした。本当、すっごく楽しかったです」
 
玄関で靴を履いた猫村さんが、マフラーで口元を埋めながら満面の笑みを見せる。

「またね」

「送って行かなくて大丈夫?」
 
隼人が訊ねると、月子さんはこくりと頷いてスマホを胸の前に掲げた。

「丸山さんを呼んだから。森を出たところに来て貰うことになってる」

頬をピンク色に染めた月子さんは、満腹らしいお腹を擦る。
 
私の足元から顔を出した西郷さんにだけ「ばいばい」とほほ笑んで、あっさり帰って行った。

最後に靴を履いていた猫村さんの旦那さんが「よし」と立ち上がる。

「あ、お父さん待って。嫌よねぇ、私ったら楽しさのあまりに忘れちゃって。森野さんにこれを渡そうと思っていたんですよ」

「これって……」
 
役場の朝市で見たジョウビタキと南天の刺繍の額飾りだ。

「実は私が作ったんです。手に取って見てくれていたでしょう。気に入ってくれたのなら、お友達になった記念に差し上げようと思って。ふふ、売れ残りを押し付けたみたいで困るかしら」
 
私は手のひらサイズの額飾りを胸に抱いて、何度も首を横に振った。

「嬉しいです。ものすごく」

「良かった。もう五年くらい続けてる趣味なんですよ。畑が忙しいからあまり作れないけれど。喫茶クラウンってあるでしょう。喫茶店になる前は手芸屋さんがあって、そこで体験会に行ってからハマっちゃって」
 
そこまで言って、はっとしたように「ごめんなさいね、寒いのに玄関も開けっ放しで。お邪魔しました」と、先に外に出ていた旦那さんの元に駆けて行った。

二人で会釈をして。奥さんは最後に手を振って。

ふたり肩を並べて歩いていく後姿を、隼人と西郷さんとで見送っていた。

その日は、白鷺自治会長の長野さんとそのご近所さんが五人で来てくれた。

五人分の料理にてんてこ舞いになっている所に、更に観光客が二人。

遅めのお昼休憩に丸山さんが来てくれて、ことりの台所は珍しく満席になった。

「順調だな」
 
隼人が嬉しい悲鳴を上げながら、次々に食事を運んでいく。

私はひたすら豚肉で水菜を巻いては焼き、巻いては焼きを繰り返していた。
 
最後のお客さんを見送ったのは、午後三時を過ぎた頃だった。

それまで薄雲が掛かっていた空の切れ目から夕日が降り注ぐ。

「あの光って天使の梯子って言うんだぜ。この前、図書館で読んだ本に書いてあった」

「へえ。綺麗な名前だね」
 
隼人は「だよな」と、雲間から地上へと一直線に射す光を見上げる。

本当に天使が下りてきそうだ。

ラッパを手にした羽が生えた小さな子供。どこかで見たようなべたな天使像が思い浮かぶ。

「あそこから見てくれてると良いなって思うよ」

「……隼人のお祖母ちゃん?」

だが隼人は一瞬眉をひそめ、すぐに下唇を嚙みながら口角を上げた。

「まあ、ね」
 
隼人はそれ以上、その話については触れなかった。



「ことり、準備できた?」

「うん。もう行けるよ」 
 
今夜は隼人の提案で、陽ノ江地区の居酒屋に行くことになっている。

車の助手席に乗り、大通りを津久茂商店街の方へと下っていく。

すっかり陽も沈んだ津久茂島は、まだ七時過ぎだというのに辺り一面が闇に包まれている。

田んぼ、畑、山の稜線。すべてが黒に沈み、田んぼの真ん中にどんとそびえる鉄塔の赤い光と、遠く津久茂中学のグラウンドの照明器具だけが夜に光を灯している。
 
途中、丸山さんが運転するタクシーとすれ違い、隼人が会釈した。

相変わらず人のよさそうな狸顔に、見るからにカツラの七三分けの丸山さん。

後部座席にはお客さんを乗せていたようだ。

サイドミラー越しに、タクシーが風の丘地区へ続く脇道に入って行くのが見えた。
 
車は、津久茂商店街と港を隔てる山の麓にある小さな駐車場で停まった。

流石に夜になると空気が冷たい。
マフラーに顔を埋め、コートの襟元にできた隙間をぎゅっと掴んで閉じた。

「ここが月子さんのお店なんだね」
 
駐車場を出てすぐ左手に、一階建ての店舗があった。

シャッターは降りているが、窓から光が漏れている。

入口のすぐ上に掲げた看板には【手作りシャツと古着の店】と、なんだか不器用な人が頑張って書きましたというのが伝わってくる丸字で書かれている。

 中学生の女の子の字みたいだな。

水色のペンキで書かれたそれを見上げて、少し緊張していた顔の筋肉がほぐれた。
 
緊張というのも仕方ないと思う。

これから私はチョーさんのお店に行くのだから。

「寝不足なのに、デザイン考えてんのかな」
 
明かりのついた窓を横目に、隼人がため息を吐いた。

 月子さん、そんなに熱心にやってたんだ。
 
どちらかと言うと、いつもぼんやりしている彼女だ。
のんびり気ままにやっているものだと思っていたけれど。

「とりあえず行くか」
 
隼人は腕時計をちらりと見てから、向かいにある居酒屋の暖簾を潜った。

「チョーさん、唐揚げと生のお代わり」
 
一番奥のテーブル席から、白髪の男性が威勢の良い声を響かせた。

「あいよ。あぁ……いらっしゃい。なんだ、空いてる席に座んな」
 
入り口に突っ立っていた私たちに気付いたチョーさんはカウンターの中から顎で客席を指すと、サーバーからビールを注ぐために背中を向けた。

肩幅の広い筋肉質な背中が、拗ねた子供みたいに丸まっているのが、なんだか可笑しい。

注文を聞きに来たチョーさんにばれないように、頬の内側を軽くかんだ。

「唐揚げと、出汁巻き卵と……ことりは?あ、これね。豆腐サラダで。飲み物は俺はコーラ」
 
私も、と付け加えて、隼人が「コーラ二つで」と言い直す。

「なんだ、お前ら。酒は飲まねぇのか」
 
伝票は取らないスタイルらしいチョーさんが怪訝な顔で隼人を見下ろした。

私が飲まない事よりも隼人の方が意外だったのかもしれない。

「車ですから。普段も飲まないですし」
 
チョーさんは「ほーん」とまだ納得していないように言うと、今度は「あぁ、そうか」と頷いた。

「お前、丸山と平昌の飲み友だったな。あの貧弱な茶飲み会」

「紅茶会ですよ」
 
笑いながら隼人が訂正する。

「何それ」
 
思わず突っ込んだ。そういえば丸山さんが隼人に「また飲みに行こう」と言っていたことがあったっけ。

平昌社長も飲み友だとか言ってたのを聞いたが、隼人はお酒を飲まないはずだ。

まさかその飲みと言うのが、紅茶だったとは。男三人。

浩二君ならまだしも、一人は工務店のおじさん、リサイクルショップ兼タクシーの運転手、今は黒髪とはいえ、耳にはピアスが光る隼人の三人で紅茶会なんてものを開催していたなんて。

 なんか可愛い――。
 
しかも話を聞くと、開催していたのは喫茶クラウンらしい。

 ちょっと見てみたい。

再び別の客に呼ばれ、チョーさんは私たちのテーブルを離れた。

すぐにコーラをふたつ持って来たチョーさんは、今度はカウンターの向こうのキッチンでせわしなく右へ左へと移動しながら料理をしていく。

「この店、ひとりでやってんだな」

「そうだね」

 凄いな。
 
そんな会話をしているうちに、あっという間に次々と料理が私たちの前に並べられた。
 
チョーさんの料理は何を食べても文句なしに美味しかった。

唐揚げは鰹節を混ぜて揚げているらしい。

鰹の風味がふわりと鼻に抜け、程よい油が肉から溢れる。

ざくっとした触感の唐揚げは、ビールが進むのも無理はない。

ビールだけでなく、焼酎、日本酒と何にでも合いそうだ。

店内のどのテーブルにも必ず唐揚げが乗っているのも頷ける。
 
豆腐サラダも、レタスは新鮮でパリッと瑞々しい。
そこに味付き海苔と崩した豆腐、トマトがざっくりと和えてある。

こちらはごま油と少しの醤油で味が付いているようだ。

「卵焼き、まじでうめぇ」
 
隼人が箸を置き、両手を膝の上に揃えて目を見開いた。

促されて、私もひとくち。
 
出汁とみりんと醤油。どれもが互いに主張しすぎず、上手く混ざり合って、ふわふわの出汁巻き卵を作り出している。

しょっぱ過ぎず、でもあっさりし過ぎず。これが良い【塩梅】と言うものだ。

暖簾に掲げられた店名を見返して「本当、美味しい」と思わず笑みをこぼした。

「これ、食ってみろ」
 
チョーさんが出してきたのは、天ぷらだ。

敷紙の上に揚げたての天ぷらが盛り付けられている。

「サービスだ。しょうもねぇ遠慮はいらねぇから、さっさと食え」

隣には塩が添えられているので、それを少し付けてから食べてみた。

「ネギ!」
 
隼人の声に、隣のテーブルの作業服三人組がこちらを見て笑った。

「それ美味いだろ」
 
立派なビール腹が作業服の上からでもわかる年配男性が得意げに言う。

「美味いっす。めちゃめちゃ美味いっす」
 
興奮しすぎて、またも「っす」になっているが、気持ちはわかる。

本当に美味しいのだ。

とろりとしていて、甘みがある。塩と相まって、その甘さが更に引き立つのだ。

断面からたっぷりと透明なぬめりが出てくる。
これが甘さと良い香りの正体らしい。

天ぷらのさくさくとした衣と甘いネギは、衝撃と共に、私のネギに対する印象をがらりと変えた。

ネギは脇役じゃない。主役になれるんだ。

「月子が最初に好きになった料理だ」

「月子さんが?」

箸を置いた私に対し、隼人はもう次の天ぷらに箸を伸ばしていた。

そしてまた「うめえ」と唸る。

「ガキの時はネギが大っ嫌いでな。というか、野菜全般食べなかった。好き嫌いってより食わず嫌いの方が多かったが、ネギに関しては匂いが嫌だったらしい。母ちゃんが植木鉢で育てたネギをうどんに乗せたら臭いなんて言いやがってさ」
 
その話は常連客はみんな知っているらしい。

チョーさんが話し始めると、またかと言わんばかりに飲み食いを再開した。

「お前らの家の持ち主の田畑夫婦。あの人たちは俺の親代わりになってくれた人だ。俺はあの家で飯も食ったし風呂にも入った。母親を早くに亡くして、飲んだくれの親父に代わって世話してくれてたんだ。親父とふたりの時には飯もろくに食えねぇ生活だったから、あの家で二人が育てた野菜を使った飯を食うのが幸せでな」
 
一気に話して、ふう、とカウンター席の椅子を引き寄せて腰を下ろした。

「だから例えうどんに乗ったネギだろうと、臭いなんて言うのが許せなくてよ。別に嫌いなら仕方ねぇが、それなら黙ってりゃ良いんだ。だが、臭いなんて言葉にしちゃいけねえよ。自分の娘だからこそ、余計にそう思った。そっから俺が何とか食わせてやるって毎日ネギ料理したんだ」
 
チャーハンに混ぜたり、ちぢみにもしたが一口も手をつけない。

思い切って作った焼きネギも味噌汁の具にも駄目。

少し齧ろうとするものの、やっぱり嫌だと首を振るのだと言う。

「そんな時、田畑さんの所に行ったんだ。そしたら、ネギを変えてみたらって親父さんが言ったんだ。九条ネギを作ってる農家を知ってるから、紹介してやるよって。京都の佐野さんって夫婦が作ってるって。そのネギで作る天ぷらが美味いんだって」

チョーさんは懐かしむように目を細めて「それがこれだ」と残り三つになったネギの天ぷらを見遣る。

「それが切っ掛けで、嘘みてぇに月子はネギが好きになった。ネギどころか野菜に苦手意識が無くなったんだ。それくらい美味かったんだろうよ。しかし渋いよなあ。幼稚園児がネギの天ぷら好きってよ」
 
がはは、とチョーさんが笑ったと同時に、がらりと店の入り口が開いた。

「おう、岩城。なんだ、今日は早いな。芋で良いのか」

「うん。ネギ天と焼き鳥のタレも」
 
チョーさんは座っていた椅子を戻すと「じゃあな」とキッチンに入って行った。

「やっと来たか水島君」

「隼人で良いですよ。やっと来たかって、待ってくれてたんですか」
 
岩城さんは「そうだよ」とジャンパーを脱いでカウンター席に座り、芋焼酎の水割りを作るチョーさんに目配せした。

「おたくに魚を買ってほしくてね」
 
その一言で、隼人の感極まった叫びが店中に響き渡ったのは言うまでもない。



午後十時。店内が満席になった頃、私と隼人は上着に袖を通していた。

「ごちそうさまでした」
 
会計を済ませ、暖簾の下で隼人が言うと、

「あぁ、ちょっと。これ渡してきて欲しいんだが」
 
チョーさんがビニール袋を私の前に差し出した。

タッパーが二つ。

袋を受け取った両方の手のひらに温もりが広がる。

「誰にですか?」
 
訊ねると、顔を歪ませて困ったように外を顎で指した。

「あいつだよ」

「月子さんですか」
 
隼人が察したように言う。照れくさいのだろう。

「あんまり遅くまでやるなよって、言ってやってくれ」

 自分で渡せばいいのに。
 
だが隼人はわかりましたと言うと、私に「行こう」と外へ促した。
 
月子さんがいるシャツ屋はまだ明かりが点いていた。

入口横に取り付けられた、簡易的なボタンだけの呼び鈴は全く音がなっている様子が無い。

仕方なく叩いたシャッターの無機質な音が夜に響く。

窓が開いて、隙間から「なに?」と月子さんの声がした。

「なんだ、ことりちゃん。隼人君まで。何してるの?」

「何してるのはこっちだよ。昨日もろくに寝てないのに。デザイン作ってんの?」

「そうだけど……ことりちゃん、何持ってるの?」
 
渡すタイミングを伺うように胸の前で大事に抱えていたビニール袋に視線が注がれる。

「あ、これね。チョーさんから。あんまり遅くまでやるなよ、だって」

「心配してたみたい」
 
隼人が付け加える。月子さんは中を確認して「ネギの天ぷら。筑前煮もある」と嬉しそうに呟いた。

「ありがとう」

「仕事、まだ終わらないのか?」

「うん。あともう少し。梅が咲いてる時期だから、梅の花を使ったデザインで考えてるの。梅とウグイス。ありきたりだけど、相性が良いから」

「おー、何か良いじゃん。すげぇ、超楽しみ。でも無理はしちゃ駄目だぜ。じゃあな。ことり、行こう」
 
吹き付けた冷気に「おぉ、さみぃ」と身を震わせながら駐車場へと歩き出した隼人の後を追いかけた。

「隼人君」
 
月子さんの、澄んだ声が静かな夜に溶けて消える。

振り返ると、窓から身を乗り出して、胸の横で手を振っていた。

「完成したら、着てくれる?」
 
月子さんの精一杯だと思われる大きな声に、隼人は「もちろーん」と頭上で力強く手を振り返した。


駐車場で車に乗り、ふと思った。

「隼人、月子さんに敬語で話してなかったっけ」
 
シートベルトを締めながら、隼人が「前はね」と言う。

「星野地区の空き家を見に行った時に月子さんと会ったって話したじゃん。その時に、ため口で良いっていってくれたんだ」

「そうなんだ」
 
隼人がアクセルを踏み、ゆっくりと車は港沿いを抜け、白鷺地区へと走り出す。
 
すっかり車の通りも無くなり、津久茂中学の明かりも無くなった景色は、更に一面の闇の世界だ。

 島全体が眠っているみたい。

「岩城水産から仕入れできるなんて、すげぇ嬉しいよな」

やー、良かった良かった。隼人が上機嫌で真っ暗な森の道を、慣れたハンドルさばきで進んでいく。
 
これで魚の仕入れも安定する。隼人の釣りに頼らなくても済むのだ。

美味しい魚料理が作れる。お客さんはどんな顔をしてくれるだろう。

想像するだけで胸が高鳴る。

「そうだ。近いうちにツネさんの所に行ってくるよ」
 
ことりの台所の目印であるケヤキのシルエットが夜空に浮かぶのが見えた。

そういえばツネさんはどうしているのだろう。

私も一緒に行こうかな、と口にしようとしたとき、心臓が一瞬スキップしたような気がした。

真っ暗な中、ぼんやりと浮かぶ黒い人影。

胸を斜めにかかるシートベルトを握りしめた。

「ん?誰かいるのか?」
 
車のライトが人影に近づいていく。
 
黒い靴。よれた黒いズボン。灰色のロングコート。
 
頭のてっぺんまで黄色いライトで照らしだされたその男は、眩しそうに目を細める。

迫りくる車にぴくりとも動じないまま、私たちを真っ直ぐに見据えていた。

「ことりは待ってな。俺が行く」

シートベルトを外して、ドアに手を掛ける隼人の左腕を掴む。

「待って」

隼人の腕を掴む手が震える。

震えがどんどん大きくなって、呼吸が乱れるのがわかる。

身体中の臓器が、筋肉が、全てが爆発しそうなくらいに脈打っているような感覚。

頭の中がじわじわと熱を帯びていく。

「ことり、どうした?まさか例の不審者か?」

隼人の声が遠くに聞こえる。

男は間違いなく私を真っ直ぐに見ていた。

「お……」

わななく唇から、今にも消えてしまいそうな声を絞り出す。

「お父さん……」

遠い、小学三年生の記憶が蘇る。

あの頃よりも、ずっと痩せて、頬がこけて、目元が落ち窪んで。

だが間違いなく、あの光の無い瞳は。

銀縁の眼鏡の奥から、何の感情も無く私を見るあの目は、記憶の中にある父のそれと重なった。




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