ことりの台所

如月 凜

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第十三話 遠い記憶と黄昏のおにぎり

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「お父さんって……ことりのってことだよな」
 
父の事について何も知らない隼人が状況を掴めていないのは無理もない。

「私が行くから。隼人はここにいて」
 
身体中の血管で暴れ打つ脈が耳にも響いてくる。

息が詰まる。胸を黒い手に鷲掴みにされているような感覚を覚えた。

「待てって。どう見ても感動の再開って状況じゃねぇよな」

「感動なわけないよ」
 
初めて他人に話した。

幼い私がどういう環境で育っていたのかという事。

父が母にしてきた事。

どれだけ今目の前にいるあの男に、人生を狂わされてきたかという事。
 
私がこの島に来たのは、いずれ母の居場所を突き止める恐れのある父から、母を守りたいという思いがあったということを。
 
黙って話を聞いてくれていた隼人は「話してくれてありがとな」とだけ言うと、私が止める間もなく車を降りてしまった。

「ちょっと待って」

隼人は慌てて車を降りた私を振り返る事も無く、こちらをじっと睨んだまま動かない父の元へ詰め寄った。
 
 どうしよう。

「隼人、だめっ――」
 
掴みかかるんじゃないかと思った。

だが父の目の前で立ち止まっただけだ。

父はこんなにも背の低い人だっただろうか。

隼人に見下ろされる父は、眼球だけを動かして睨み上げる。

「すみません。この時間はもう閉店で」
 
いつもの軽い口調で隼人が言う。

ふと視線を下げると、隼人の左手が「下がってろ」と合図しているのに気づいて、私は一歩後退った。
 
私が後ろに下がったのを追うように、父の視線が隼人から私へと移る。

息苦しい感覚を抑え込むように、胸の前でぎゅっと拳を作った。

「お客さんじゃないですか?どちら様でしょう。ちなみに俺はここに住んでる水島って言います」
 
父は答えず、ずっと石化状態の私を睨み据えている。

「あのー、聞いてます?」
 
完全に眼中に無い隼人の話など耳に入っていないのだろう。

隼人はわざと大きくため息を吐くと、後頭部を掻きむしった。

苛立つ彼を見向きもせず、父は骨と皮だけの、年齢以上に酷く老いた右手を差し出した。

「家の鍵をよこせ」

「い、家って」

 実家の?この人は何を――。

「まさか、家に行ったの?」

否定しない父に、背筋が冷たくなった。

「渡すわけ……渡すわけないでしょっ」
 
実家の鍵が入ったバッグは車の中だ。私がこの場を通さなければ良い。

踏ん張るように両足に力を籠めるが、膝が震えてしまう。

身体が言う事を聞かない。

思い切り突き飛ばしてやりたいのに。

これまでの思いを怒りに任せてぶちまけてやりたいのに。

その場から動けないでいると、ざっと砂を踏みつけて近づいてきた父と私との間に、隼人が立ちふさがった。

「おい、いい加減にしろよ。父親だからって何しても許されるわけじゃねーだろ」
 
声を荒げる隼人と、じろりと睨み返す父と、焦る私。

そんな三人を、入って来た一台の車のライトが強烈な光で照らした。

丸山さんのタクシーだ。

車が止まるや否や、後部座席のドアが開き、人影が転がり出た。

「ことりっ」

「お母さん?!」
 
丸山さんが困ったように眉をハの字にさせながら、私たちに視線を巡らせる。

「行かない方が良いんじゃないかって言ったんだけど……。僕もその人を乗せて森野さんの家まで案内しちゃった責任もあるから強く言えなくて。ごめんね」
 
そう言って、ちらりと父を見遣った。

居酒屋に行く途中、すれ違ったタクシーに乗っていたのは父だったのか。

母の家に行くために、風の丘へ向かっていたんだ。

「ことり、もう家に戻りなさい。隼人君と一緒に、ね」
 
母が隼人に目配せしながら私の背中を押す。

おねがいね、と唇が動く。

「いや。行かない」
 
背中にある母の手を払い、父と向き合った。

タクシーのライトで照らされた父の顔色は酷いものだった。

瞳以外、面影は全く無い。あかりちゃんがお爺さんと見間違えるのも無理はない。

寧ろ、この島の高齢者の方がもっと生き生きとしているだろう。

ここに立っている事だけでも、実は相当辛いのではないだろうか。

そう思うくらい、父は肩を上下させ、くぼんだ虚ろな目で私たちを見ていた。

その頬は痛みにでも耐えているかのように時折引き攣っている。もしかして、

どこか悪いのか――。

「里美」

「こないで。何しに来たの。警察からも近づかないように言われてるはずよ」
 
張り上げた母の声が、真冬の夜に響き渡った。
胸の前で握った拳が震えていた。

「戻って来てくれ」
 
さっきから私たちを睨んでいた割に、随分と弱気で情けない言葉だ。

「俺はもう変わったんだ」
 
情けない目の前の男は、かつて恐怖で支配した母に乞うている。

「さっさと帰りなさいよっ」
 
だが、母はその場にしゃがんだかと思うと、手の平一杯に握りしめた砂や小石を纏めて父に投げつけたのだ。

灰色の砂埃が舞って、吹いた風にさらわれた。

「今度はことりを守るって言うのは本当だったんだな」
 
言いながら父は一瞬顔を歪め、不気味に笑う。

母は父の言葉を制止するように「やめて」と繰り返している。

「ことり、知ってるか」

「隼人君、お願い。ことりと家に戻ってちょうだい」

「里美は。母さんは、お前を殺そうとしたんだぞ」

 お母さんが、私を?

「四歳の誕生日からそう経ってない頃だったな。黙ってるのが耐えられなくなったのか、泣きながら言ってたぞ。お前の首に――」

「ことり、聞かなくて良い。もう家に戻ろう」

 私を殺そうとした。お母さんが?

「ほら、行こう」

そんなわけない。だってお母さんは鬱陶しいくらい私に対して過保護で、いつだって自分を犠牲にしてきたんだよ。

「ねえ、お母さん」
 
 嘘よ。お父さんの嘘だよって、言ってよ。

「……本当なの?」
 
母は俯いたまま答えない。

頭を横に振ってよ。否定してよ。

そう願っても、母は微動だにせず、ただ地面に視線を落とす。

「本当は、私はいない方が良かったの?」

私がいなければ、お母さんはもっと早く父から離れられていたはずだ。

私がいたから、父との息が詰まるような生活を逃れられなかった。

離婚しても、私のせいで父との関係が切れない。
 
そう思うと次第に胸が重く、苦しくなりはじめた。息を吸っても肺に入らない。

まるで肺のどこかに穴でも開いているみたいだ。

「そんなわけない。いない方が良かったなんて、そんなこと――」

 どさり。
 
目の前で灰色の塊が地面に崩れ落ちた。

足元で父が額に脂汗を滲ませてうめき声をあげていた。

「はっ?!なんだってんだ。おい、大丈夫か?」

「救急車っ。救急車呼ばないと」
 
丸山さんの悲鳴が遠く雑音の中に響く。

あぁ、もう――。

「ことりっ」
 
ふっと糸が切れたように、立っていられなくなった。

薄れる意識の中で、焦る隼人と母の悲痛な叫び声が押し寄せては引いていく波のように反響していた。



チチチッ
 
微かな鳥の囀りと、まぶた越しに淡い光を感じた。

消毒薬のツンとする匂い。
慣れない固いシーツの感触が手の平に触れる。

「お母さん、ことりが」
 
細い視界の全てを母が覆いつくした。

「あぁ、良かった」
 
白髪だらけの傷んだ毛先がばさばさと目の前で揺れる。

張りの無い母の顔の皮膚は、下から見ると更にたるんでいた。

「医者はどこも悪い所はなさそうだって言うのに、全然目覚まさねぇから焦ったわ」

「隼人君、もう全身検査してくれなんて言うんだよ。心配し過ぎだね」
 
足元側にいる丸山さんが、可笑しそうに言う。

「ほんと。結構過保護だよね」

「あれ、浩二君。どうしてここに」
 
丸山さんの隣で浩二君が隼人をからかっているじゃないか。

「浩二君が入院してる病院だよ。ことりは島の診療所でも良かったんだろうけど」

 どういうこと?
 
ベッドに取り付けられたリモコンで頭側を上げ、上半身を起こして辺りを見回した。

ほっとしたような母と丸山さんと浩二君。

言いにくそうに隼人が病室の出入り口の方に視線を投げた。

「ことりの親父さんが結構やばかったみたいで。一緒の救急車に乗ってたことりもこっちに来たんだよ」

「まあ、今は落ち着いてるけど。でも……」
 
丸山さんが慣れた手つきで前髪を綺麗に七対三に分けた。

「違う意味でやばい状態って感じだけどね」

「違う意味?」

「チョーさんが来てる。親父さんのベッド脇で目が覚めるの待ち構えてるわ」
 
隼人がこめかみを掻きながら苦笑した。

「ちょっと。これどういう状況なの」
 
父のネームプレートが掛かった病室の前でドアに耳を貼り付ける。

浩二君と丸山さんは呆れたような表情で廊下のソファに座って見ている。

母は父の担当医に呼ばれていた。

「だから言っただろ。チョーさんが来てんだって。ことりが倒れたって話をどっかから聞きつけて今朝来たんだよ。で、事情を話したらこの状況。このドアの向こうにはチョーさんとツバキさんがいる」

 ツバキさんもいるんだ。 
 
隼人の話によると、ツバキさんはチョーさんと一緒の船で来たらしい。

たまたま乗り合わせただけのようだが、チョーさんが父の病室に行くと言って聞かなかったので、念のためにと着いて来てくれたらしい。

「まあ、あの人を止められるのは、この場ではツバキさんだけだからな。あかりちゃんと月子さんはまだ来てないし」
 
チョーさんは月子さんはもちろん、あかりちゃんにも滅法弱いのだそうだ。

確かに、以前うちに来た時「島が荒らされるのはお前らのせいだ」という風に怒っていたチョーさんも、あかりちゃんの登場で急に態度が変わっていたから納得だ。

 あ――。
 
父が目を覚ましたのかもしれない。

静かだった病室から、チョーさんが急に立ち上がったのか、パイプ椅子が大きな音を立てた。
 
声をよく聞こうと意識を集中させるがよく聞こえない。

「今はやめなよ。先生を呼んだ方が良いんじゃないの?」
 
ツバキさんの声は聞こえた。相変わらず声が大きい。

その時、隼人の表情が不自然に歪んだのを見逃さなかった。

私が咄嗟に口もとを押さえ付けると、同時にくしゃみが出た。
 
何やってんのよ。しゃーねぇだろ、消毒くせぇんだよ。

声に出さず言い争う私たちの努力も虚しく、背後からやってきたその人は、廊下の端から端まで響き渡る声を上げた。

「みぃーつけたー。何で病室が空っぽなのぉ。搬送された患者でしょうがー」

「げっ、マリーさん」

「やだ、駄目だって、静かにして」
 
私たちが必死で口をぱくぱくさせても、マリーさんはどすどすと廊下を大股で歩いてくる。

月子さんも一緒だ。

闘牛も逃げ出す迫力と形相で向かってくるマリーさんに、ずるずると引っ張られている。

 こっち来ちゃだめーっ。
 
両手を振って来ないでと必死に訴えていると、病室の扉が開いた。

咄嗟に亀のように首を縮める。

「あんたたち、さっきからずっと何やってんの」
 
ツバキさんの呆れた視線が、私と隼人、マリーさん、廊下の向こうに座る浩二君たちをぐるりと一周した。

六人部屋の窓側のベッドに父の姿があった。

点滴に繋がれた父は、爽やかな朝陽に照らされて、浮き出た頬骨に濃い影を落としていた。

泥のようなじっとりとした虚ろな視線は、ちょうど戻って来た母に向けられる。

その視線を遮るように、チョーさんが父のベッドにパイプ椅子をつけて、どんと腰を下ろした。

「森野さんの元亭主って聞いたけど。なんだってこんな所にいるんだ?もう何年も前に別れたって聞いたが。男がいつまでも粘着質に女を追いかけまわして、不気味な野郎だな」
 
じろりと視線をチョーさんに滑らせ、不快そうに眉間に皺を寄せた。

「関係ないでしょう」
 
ひび割れた唇をぼそりと動かした父に、チョーさんは「いやいや」と苦笑を零す。

「そうはいかんだろうよ。あんた、飲み食いしたゴミを森に放置したり、空き家を勝手に使って寝泊まりしたり、随分好き放題やってたみたいじゃないか。こっちはえらい迷惑を被ってるんだ」

第一、とチョーさんが声を低くする。

「あんたの娘さんも、元嫁さんも、今はうちの島民なんでな。他人事ってわけにはいかねぇんだ。少なくとも、俺の周りで怯えながら暮らしてる人間がいるなんて、見過ごせねぇんだわ」

え――。

チョーさんの言葉に驚く私をよそに、父は穏やかな口調で言う。

「出て行ってくれませんか」
 
こんな姿になっても、外面だけは良いところは変わらないらしい。

お世辞にも愛想が良いとは言えないが、それでも昨夜私に向けた表情よりも、少し頬の筋肉が緩んでいるように見える。

具合が悪くて笑う力も無いのか、それでも父なりに笑みを浮かべているつもりなのかもしれない。

「いや、出て行かな――」

「あんた。ほら、行くよ」
 
ツバキさんがチョーさんの背中を叩き、乱暴な仕草で廊下を指さした。

「あ?俺らには話を聞く権利くらいあるだろ」

「その話はあとでも良いでしょ。病院でどうこうされる事もないだろうし、あたしらは一旦席を外すの。ほら、月子もね。他の患者さんにも迷惑だから」
 
マリーさんの横で父を無表情で見下ろしていた月子さんが、不満げに唇を尖らせた。

「なぁに。親子そろって野次馬根性見せつけてんじゃないわよぉ。浩二君も病室に戻らないと。ほら、行くわよ」


病室に親子三人が取り残された。

父のほかに二人の患者がいるようだ。

仕切られたカーテンの向こうから、気持ちよさそうな鼾が聞こえてくる。

もう一人はベッドの上で黒いイヤホンコードを耳に着けて微睡んでいるのが見える。ラジオでも聞いているらしい。
 
母が父の周りのカーテンを引いた。

隼人はあのドアの向こうで待つと言っていた。

唇を噛み締め、膝の上で拳を握って、改めて父と向かい合った。

「何しに来たのよ」

母が重い口を開いた。紫色のセーターの背中が大きく深呼吸する。

「これ以上、この子に怖い思いをさせないで」
 
父の蛇のような視線が母を捕らえて逃さない。

だが母は、その視線から逃げようとするそぶりも見せず睨み返す。

母の喉が唾を飲み込んで上下した。

「私たちはもう離婚してるのよ。終わったの。私はもう、あなたとは――」

「終わってない」
 
こんな枯れ枝のような身体のどこからその声が出たのかと思う低い怒鳴り声に、母の横顔が一瞬強張った。
 
父は外面だけは良い。こんな場所でこんな姿を露にする人じゃないはずだ。

カーテンで仕切られているだけで、隔離されたような気がしているのだろうか。

それとも、もうそんな世間体なんてどうでも良いほどに、追い込まれているということだろうか。
 
どれだけ自分勝手な人なのだろう。
 
幼かった私にはわからなかった。

母の前で大きな声を出し、物に当たり、周りを委縮させる父を、私はそれだけ強い人なのだと思っていた。
 
強くて、怖い。力だけでなく、言葉でも相手を恐怖に陥れる事が出来てしまう。

それに抗う力の無い私や母のような人間は、怯えているしかできない。

男の人は、そういうものだと思っていた。

 でも、違う。今ならわかる。

「お父さんは……」

 この人は強いんじゃない。

「何が怖いの?」
 
骸骨のような顔に、蛇のような眼光。

明らかな怒りの感情を滲ませた視線が、私に向けられた。

娘への愛情なんて、これっぽちも存在しない。

「いつもお母さんに対して威圧的で」

「ことり、やめなさい」

私の拳に乗せられた母の手を、もう片方の手でそっと外した。

「そんなやり方でしか自分を保てないなんて」
 
隼人と出会ったからこそ、わかる。父は強くなんてない。

 なんて弱い人――。
 
口にしかけた言葉を飲み込んだ。

「あんたなんて、早くいなくなれば良いのに」
 
長い間、ずっと腹の底に渦巻いていた言葉を吐き捨てた。

親に投げつける言葉じゃないのかもしれない。

父がいなければ私はいない。

そんな事はわかっていても、私がこの人に感謝の気持ちを抱かなければならない理由になり得るのだろうか。
 
最低な子供かもしれない。だが、私にとっても最低な父でしかない。
 
私がこんな言葉を口にすると思っていなかったのかもしれない。

もしかすると、昔みたいに、母とふたり怯えながら肩を震わせでるとでも思ったのだろうか。

一瞬、父の顔が強張ったのがわかった。

だが瞬く間に表情は歪み、繋がれていた輸液バッグが取付けられたスタンドを乱暴に床に叩きつけた。

「俺がいたから良い暮らしができてたんだろうが」
 
唾を飛ばしながら喚く父の腕から抜けた針が宙を舞った。

「やめて、やめてよ」
 
母の悲鳴が病室に響き渡ったかと思うと、真後ろのカーテンが一気に開いた。

「は、隼人」

「おいマジかよ。何やってんだ。ことり、お母さんも離れてください」
 
強引に父のベッドから引き離され廊下に出ると、入れ替わりに年配の看護師が飛んできて、父をベッドに押し戻した。
 
その間も父は白髪を振り乱し、言葉にならない怒声を喚き散らしていた。

「お前はことりを殺そうとしただろう」
 
病室を後にする私たちの背中に、父は言葉のナイフを投げるのを辞さなかった。



「じゃあ浩二君。先に帰って待ってるね」

「本当にもう帰れるの?」
 
病室に戻り、医者からの許可が出た私は早々に荷物を纏めて浩二君を訪ねた。

「うん。私はもう何ともないから」
 
父と同じ病院で寝泊まりするなんて御免だ。

「無理はさせないように見張っとくから浩二君は心配しないで、もう暫くゆっくりしてな」

「なんや、みんな帰るところか。ことりちゃんも元気そうで良かったわ見舞いにと思って林檎持って来たんやけど。ほんなら、持って帰って家で食べ」

「ありがとうございます」
 
林檎を受け取った隣で隼人は腕時計を確認し、

「船の時間があるから行かねぇと」
と一同に目配せをした。
 
連絡船では、戸波さんが出迎えてくれた。

開口一番に私の事を心配してくれた戸波さんによると、私が運ばれたことを聞いたあかりちゃんが見舞いに行くのだと言って、朝から保育園に行くのを渋っていたらしい。

元気だとわかればあかりもきっと安心するよ、と安堵の表情の戸波さんと、その背にある広く穏やかな海と津久茂島の姿に、私の心もようやく緊張の糸が解けたような気がした。

コバルトブルーの海の上を船が駆けていく。

ひらひらと光の粒がちらばる水面を見ていると、母と津久茂島に来た日の事を思い出す。

親子ふたりで中学三年間を過ごした島を離れ、こうしてまた島に戻って来た私――。

 私は何のためにまた津久茂島に戻って来たの?
 
ふと、自問自答した。

 お母さんを守る為よ。
 
答えは直ぐに出た。だが、再び疑問が生まれる。

 私は守れた?
 
守るどころか、私は母の重荷だったのだ。

幼い私を、母は手にかけようとした。

父の虚言だと思いたかったけれど、母の反応を見る限り真実なのかもしれない。

「ちょっと森野さんの様子を見てくるわ」

ツバキさんが掛けていたブランケットをチョーさんの膝に丸めて乗せた。

「私が行きます」
 
本当はツバキさんと他愛のない話をする方が気が紛れるかもしれないが、どうしても母の事が気になる。

ああして海を見ながら、何を思っているのだろう。

父の病室を出てから、母は父の事について何も言わなかった。
 
ツバキさんは「ことりちゃんは、ゆっくりしてて良いのよ」と言ってくれたが、私は首を横に振った。

「ちょっと風にも当たりたくて」
 
船室のノブに手を掛ける。

なだれ込む潮の匂いが、酷く心を掻き乱した。

「お母さん、風邪ひくよ」
 
一呼吸置いて、猫背気味の背中に声を掛けた。

髪を耳に掛けながら頬を緩める母の笑顔は、白い陽の光に飲まれてしまいそうだった。

「今日はありがとうね」
 
並んで段差に腰かけると、心配そうな瞳が私の横顔を見つめていた。
 
感謝される事なんてしていない。

私はただ怒りに任せて、腹の底に溜まっていた言葉を父にぶつけただけだ。

思い出すだけで心がざらりと痛む。

「お父さんね、かなり体調が悪いみたい……というか、もう余命何カ月とか言うどころじゃなくて、いつ亡くなってもおかしくない状況なんだって」

「そう」
 
なんて無慈悲な反応しかできないのだろう。

親の死を宣告されても尚、そんな言葉しか口に出来なかった。

「寂しいみたい」

「は?」

その言葉を真に受けてるの?嘘でしょう。
 
明らかな不快感を露わにした反応に、そうなるよね、とため息を吐いた。

「帰って来いって。救急車の中でずっと唸ってたの」

「馬鹿みたい」
 
あんなに母の前ではさも自分が一番正しく偉いように振る舞っていたくせに、何をいまさら病気になったからと言って弱音を吐いているのか。

それに――。

「あのまま入院することになったの。これから、時々お見舞いに行こうと思う」

「お見舞いって……いやいや、なんでお母さんが。あの男にどれだけ苦しめられて人生狂わされてきたかっ――」
 
苛々する。

さっきから、母のこの穏やかな表情と口調はどういうことなの。

私を殺そうとするまで苦しんだのに。

今更、何を同情する義理があるのか。

「そう何週間も続く事じゃないのよ。きっと」

「だからって……」
 
母はそれ以上何も言わないまま、ただ黙って海を見つめていた。

くたびれ果て、酷く老いた母の横顔に悲しみすら覚える。

「もういい。気の済むようにしなよ」
 
甲板に母を残して船室に戻った。
 
心の真ん中に、どうしようもなく重苦しい鉛玉がごろんと転がって動かない。

母の人生は何だったのか。私のこれまでも何だったのか。

こうもあっさりと許せてしまう母の気持ちが私にはわからない。
 
あんなにも美しいコバルトブルーの海も、今の私には色の無い景色に見えて仕方なかった。




それから母は毎日のように海を渡り、父の入院する病院へと見舞いに行っているという話を、店に来ていたツバキさんから耳にした。
 
ことりちゃんは良いの?と言われて反応に困ったが、一緒にいた洋食黒猫の猫村夫婦の奥さんが上手く話題を逸らしてくれて助かった。

猫村さんはこうして人の表情を伺うのが上手い。

長年お店をやってお客さんを見ていると、そういう気遣いができるようになるのだろうか。

元々、居間での仕事は隼人に丸投げしている私だが、ここ最近は更に余裕が無くなっている。

特に母の話が出るたびに、私の中の鉛玉が存在を主張するように鈍く転がるのだ。
 
そんななか、母も時々店に来ては食事をしていた。

一応私も話はするものの、父の事には一切触れない。

これ以上、母に嫌な言動をとりたくない私にとっては、それだけは唯一の救いだった。





一月の終わり。

津久茂島の景色が雪化粧をした朝、電話が冷たく張りつめた空気に鳴り響いた。
 
朝いちの船で、お父さんの病院に来て頂戴。
 
母の声もまた、必死で平静を装うように不自然なほど明るく、不安定に震えていた。

「港まで送るわ」
 
電話している雰囲気に状況を察したのか、私より早くに着替えを済ませた隼人が、玄関先で上着に袖を通し、寝癖が飛び出した頭を適当に撫でつけた。

「急にごめん」
 
陽ノ江港に向かう途中、早朝の薄青い空にぼやける道の先を見つめながら言った。

隼人は「おう」と短く答えるだけだ。

港の前で車を降りた。

波に乗って緩やかに上下する船の上で、戸波さんが出航の準備に取りかかっていた。

「ことり」
 
振り返ると、車から降りた隼人が私の目の前まで駆け寄って来た。

「俺、ちゃんと待ってるからな」

「そんな。寒いし、時間かかるかもしれないから帰ってて良いよ」
 
だが、隼人は肩をすくめてほほ笑んだ。

「待ってるって、俺が決めたの。気にしなくて良いから、俺はちゃんと待ってるから」

「……うん。わかった。ありがとう」

 いってきます。
 
心の中で呟いて船に乗り込み、徐々に遠のいていく隼人に手を振った。
 
父になんて会いたくない。たとえ、これが最期だとしても。

でも――。

「待っていてくれる」
 
隼人の言葉に、これから父の元へ向かう私の緊張という名の氷は、音を立てて溶けてしまった。





海に行こう。
 
そう隼人に誘われ、強制的に外に連れ出されたのは、病院を訪れたあの日――父が亡くなった一週間後の二月初旬の事だ。
 
一週間前はあんなにも雪が積もっていたのに、二月に入った途端、季節は明らかに春へと移りつつあった。

客足が早々に途絶え、もう今日は店仕舞いかとぼんやり台所の丸椅子に座っていた。

壁から床にかけて溜まる夕照が寂寥感を漂わせている。

そんな折、畑仕事を済ませた隼人が裏口から声を掛けてきたのだ。

「何よ、急に」
 
別に海になんて行きたいと思っていなかった。

面倒くさい。

父が亡くなってから更に、雪面を転がる雪玉のように徐々に大きくなっていく鉛玉が私の思考を停止させていた。
 
平昌社長に裏小屋の雨漏りも修理して貰ったというのに、喜ぶ隼人の隣でも私は大した感情も湧かずに適当に愛想笑いを浮かべているしかできなかった。

「おにぎりと水筒持ってさ。はい、俺は梅干しと昆布ね。ことりも同じで良いよな。鮭は今から焼いたら時間かかるし、ツナは品切れ中だし」

「行くなんて言ってないよ」
 
冷めた口調で言ったものの、全く動じないこの男は早速冷蔵庫を漁り始めていた。

「もう。昆布はそっちのタッパー」

「お、行く気になったね。ことりさん」

「なってない」

 どこまでポジティブなのよ。
 
私は行きません。その意思を示す為にこたつに座って梃でも動いてやらないと決め込んだが、おにぎりと水筒を持ち、新しいシャツにウクレレまで背負った隼人に、捨て犬の瞳を向けられた私は弱い者だった。


「それが着たかっただけなんじゃないの」
 
駐車場に車を止め、上機嫌でスキップしていた隼人がくるりとこちらを振り返っていたずらっぽく歯を見せて笑う。

「あ、ばれた?」
 
今日、食事に来てくれた月子さんが隼人にプレゼントしてくれたシャツは、梅と鶯だ。

丸みのある可愛らしいタッチで描かれた鶯が、梅の木に止まって囀っているようなデザインの下に、水色の絵の具で書いたようなメッセージが添えられていた。

【そのままの君が良い】
 
雲のようなふわふわな文字に寝そべるように、茶色いまん丸な猫がいる。

でろんと溶けたような体型がなんだか西郷さんみたいだと思ったが、月子さんは何も言わなかった。

「ことりー、灯台の方に行こう。って、何やってんだよ、こけるなよ」

「ご、ごめん」
 
指の間をすり抜けてしまいそうなほど浜の砂は柔らかい。

足を取られながら歩く私を見かねて、戻ってきた隼人が手を差し出した。

ざん、ざん――。
 
足元に注意しながら歩く私の耳には、汀に寄せる波音と、手を繋いだ私と同じタイミングで足を取られて笑う隼人の声が優しく混ざり合う。

「よし、ここまで来れば平気だな。灯台の下までだーっしゅ」

「ちょっ、待ってよ」

ウクレレが左右に揺れる隼人の背中を追いかけて、私たちは白くそびえる灯台の下までやって来た。

電線の無い、夕焼けの空と海の世界に灯台が映える。

肩に掛けていた鞄から、おにぎり四つと水筒を取り出し、堤防から足を海に投げ出して座った。

「うまー。やっぱ外で食うのって特別感あるよな」

「そうだね」
 
ありきたりな言葉を交わし、おにぎりにかぶりつく。

「そのシャツ、良かったね」

「だろ。でも、買うつもりだったんだけどなぁ。ちょっと悪い事しちまったかなって思ったけど」

「良いんじゃない。月子さんもデザイン考えてる時から隼人に着てほしかったみたいだし」
 
チョーさんのお店に行った夜の事を思い出す。

普段、大人しくて、どちらかというとぼんやりしている事が多い彼女だが、あの日はとても大きな声で隼人に着て欲しいと言った。

店に来てくれた時、私は月子さんと二人で話すことはあまり無い――まぁ、私自身が話下手で会話を繋げられないせいもあるのだけれど。

それでも隼人とは他愛のない話に花を咲かせている事が多い。

マリーさん以外であれば隼人くらいなんじゃないだろうか。

浩二君に至っては初恋の中学生みたいにもじもじしながら横から見ているばかりだ。

とはいえ、内向的が故に行動を起こせない彼の気持ちが痛いほどわかってしまって、無暗にそれを笑ったり茶化したりする気持ちにはなれないのだけれど。

「俺はー」

食べかけのおにぎりを片手に、隼人が突然海に向かって叫んだ。

ぎょっとして、思わずむせてしまう。

「美味い野菜をいっぱい作るぞー」
 
清々しい笑顔で、今年の目標、と親指を立てて見せた。

「もう二月だってのに、今年の目標言ってなかったじゃん」

「そうだけど。別に叫ばなくても」

いやいや、それじゃ駄目なんですよ。隼人がわかってないなぁ、と頭を振る。

「目標は口に出すってのに意味があるんだぜ」

「へぇ。そうしたら叶うの?」
 
ふたつめのおにぎりのアルミホイルを剥きながら訊ねる。

隼人は早々に二つ目にかぶりついていた。中身は昆布の佃煮だ。

「叶うかどうかは自分次第だろ。俺の目標ですって人に言っておいたら、もう逃げられなくなるじゃん。そこに意味がある」
 
 そういうものなんだ。

甘辛い昆布の佃煮のタレがごはんに染み込んで美味しい。

あっという間に二つ目も食べ終えて、まだ湯気の立つお茶を飲んだ。

「ことりは?」
 
言われて、考えてみた。だが特に思いつかない。

というか、やっぱりまだ頭の中はもやもやしていて、どうしてもすぐに父の事が脳内にちらつく。
 
上手く答えられない沈黙をどうしていいのかわからないまま、足元の海を見下ろす。

たぷん、たぷん。
 
コンクリートの壁に当たる波が丸い音を立てていた。

「前に高校の時に友達がバイクで事故った話したの覚えてる?それがあったから、ことりをバイクの後ろに乗せられないってやつ」

突然どうしたのか。

よくわからないまま、相槌を打った。

「あれ、俺の話なんだよ」

「え……」
 
大海原を見つめる隼人の横顔は眩しそうに目を細め、潮風が黒髪を揺らす。

空は濃紺に夕焼けが混ざり合う黄昏色。

沈みゆく太陽が水平線を黄金に縁どっていた。

「実際は高校行ってないんだよ。祖母ちゃんが死んでから、高校行く余裕無くてバイトしてたんだ。仕事の帰りに、一番仲良かった同僚が送ってくれって言うからバイクに乗せたら飲酒運転の車が突っ込んできて。俺は助かったけど、後ろに乗ってた友達は……」
 
一呼吸置いて静かに言った結末は、柔らかな波の音にさらわれていく。

「こうしておけば、とかさ。こうすべきだったんじゃないかとか。嫌な記憶とか想い出とか、悲しい事とか色々あって。もちろん誰と比べてマシだとか酷いとか無くてさ」
 
隼人は立ち上がると、灯台の裏に回ってしまった。

でもさ、と続ける隼人の言葉に耳を傾け続ける。

「起こる事とか、既に起きた事にはもう抗えないけど、これから自分が起こす事って変えられるじゃん」
 
うん。姿が見えない隼人に短く相槌を打つ。

「生まれた環境とか、周りが自分にしてくる事とか、変えられないものは仕方ないんだよ。世の中は不公平なんだ。それが普通で当たり前なんだよ。でも、幸せになる権利は誰にだってある」

 不公平が当たり前――。

「俺はことりの親父さんの事は話で聞いた中ではとんでもない人だと思った。俺はそういう酷い人に対して、きっと親父さんも思うところがあったから仕方ないなんて思わねぇよ。悪い人間も嫌な人間もいる。根は良い人かどうかなんて無くて、自分が嫌な奴だ、酷い奴だって思うならそれで良いんだ。でも……」
 
隼人の声が一瞬遠のいた。

何をしているのだろう。

気になったが、覗いてはいけないような気がして黙っていた。

「その事をずっと心に抱えて苦しみ続ける人生は勿体ないと思うんだよな。幸せになる権利はあるんだ。そうなれる道を進むってのも、自分次第だと思うわけ」

ずっと心に残っていた父の事。

父の最期は何とも呆気ないものだった。
 
痛みに苦しむ父に、痛み止めを打つよう医師に頼んだのは母だ。

楽にしてあげてください――そう言ったのも母だった。
 
私は隣で、死ぬ間際まで苦しめばいいのに。そう思っていた。
 
だが、母は違ったのだ。

あれだけ苦しめてきた父を許したのだろうか。

許せるの?こんなやつを。母に苛立ちさえ覚えた。
 
眠るようにして亡くなった父を前に、私は言いようのない空虚感に苛まれた。

嬉しいはずなのに、心の中は空っぽだった。

ただ一言、灰色の心の中に浮かび上がった言葉だけが、私の中に雪の様に降り積もって、鉛玉を大きくした。
 
 私のこれまでの人生は何だったの。
 
父に怯えた幼少期。シェルターに入り、津久茂島に引っ越し、大人になってまで父から逃げ続ける人生。

母は私を手に掛けようとまでしたのだ。

それはきっと、私がいるせいで父と離婚する事にも簡単に踏み切れないからだと思う。

「これまでどうにもならなかったのに」

思わず口にした。

そうだ。これまでどうにもならなかったのに、今更どうなるというのだ。

「そう?ツネさんところで頑張ってたじゃん」

「あれは仕事だもん。仕事しないと生活できないし」

「俺はことりが凄く前向きに頑張ってるように見えたけどな。初対面はあんなに嫌そうだったのに、俺とも喋ってくれるようになったし」

「き、気付いてたんだ」

「最初は目も合わせてくんなかったじゃん」
 
隼人の愉しそうな笑い声が響く。

避けたくても従業員は私たち二人なうえに、この男は幼馴染かのように接してくるのだ。

相手の懐に入り込むのが上手いのは、津久茂島での生活ではとても助けられているのも事実なのだけれど。

「ことりは津久茂島を出て、親父さんの事に負けず、ちゃんと表に出てバイトをした。それがことりにとっての幸せになる道だったわけだよ。そこで俺と出会う。津久茂島に戻る。俺と一緒に店を始める。そして今も幸せになる道を進んでるわけ。途中で親父さんが干渉してきたけど、それでも道を逸れずに突き進んできた」
 
で、この先をどう進むかはことり次第。

そう付け加えると、灯台の陰からひょっこりと姿を見せた。

両手を後ろにしながら、にっと口角を上げる。

「ことりは、この先はどうなりたい?」

「それが私の幸せへの道しるべって事?」

「正解」
 
言いながら、隼人は私の隣に腰を下ろした。

「私は……」
 
太陽の三分の二が水平線の向こうに沈んでいた。

私たちの頭上はすっかり藍色に染まり、水平線は熟した柿色に染まる。

「笑顔を見たい」

 お母さんの笑顔を――。
 
自然とそんな想いが浮かんで、はっとした。
 
母に対して、この数日抱いていた感情の答えだった。
 
小さな私を手に掛けようとしたこと。
これまで苦しめられた元凶の父を見舞い続けた事。

どうして、どうして。

そんな感情が鉛玉の正体だった。

母は父を許したのかもしれない。

思えば思うほど、私だけが過去に取り残されたような気さえした。
 
だが違う。

隼人の話を信じるのなら、母は母なりの幸せの道を進もうとしただけなのかもしれない。
 
かつては愛し合って結婚したはずの父だ。

その過去の自分と、目の前で死の際を彷徨う哀れな男の末路と向き合い、決別するためだとしたら。

「ことりの台所で、沢山の人の笑顔を見たい」
 
母だけでなく、月子さんや浩二君、マリーさん。チョーさんも丸山さんも。

みんなの笑顔が見たい。
 
私の言葉に、隼人が意味深ににやりと笑った。

「良いじゃん」
 
さっきからずっと合わせたままの手の隙間をこちらに向けてきた。

ほら、と言われて覗くが暗すぎて見えない。

「じゃーん」
 
開いた手のひらに何か乗っている。なんだろう、そう思った瞬間――

「いやあっ、なにこれ、ちょっと!」
 
動いた。

開かれた手のひらで「それ」も驚いたのか、凄い速さで隼人の手のひらを駆け下りる。

そのシルエットは、私が世界で一番嫌いな黒いアイツに似ていて、咄嗟に飛び上がった。

「ちょっ、やだ、無理無理無理。虫でしょ、今の虫だよねっ」
 
 あり得ない。あり得ない。この状況でそんなものを見せる?
 
怒りや恐怖を通り越して、私の中で様々な感情が入り乱れる。

「あはははっ、フナ虫。さっき灯台の裏で見っけたやつ」

フナ虫はコンクリートを走り抜け、どこかに行ってしまった。

この男は、良い話をしている間も、私が少し感動している間も、ずっとあのフナ虫を手のひらに隠し持っていたという事だ。

 なんなの、本当にもう。

「もう、本当、意味わかんない」
 
意味が解らなさ過ぎて泣けてくる。

笑い過ぎて、お腹が痛い。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

普段なかなか使わない筋肉を使っているからか頬が痛い。

「ごめんごめん。ま、もちろん無理して笑う必要はないけどさ」
 
ウクレレを抱え、人差し指で下から上に弦をはじいた。

 ポロン
 
軽やかな音色が薄明の空に転がるように響いた。

「今のは無理矢理でしょ」
 
思わず突っ込んだ。

隼人は、まぁね、と言うと、もう一度弦を弾く。

「ちょっとだけ、ことりの笑顔も見たいなって思っただけ」

「え――?」
 
だが隼人はそれに答えず、ポロン、ポロン。

やがて音が繋がって、メロディを奏で始めた。
 
原曲よりも遅いテンポにアレンジされているが、聴いたことのある曲だった。

あまり音楽に詳しくない私でも、テレビのコマーシャルか、どこかの店のBGMかで耳にしたのだろう。
 
てっぺんだけが僅かに残っていた太陽も、曲が終わる頃には、とぷん、と甘い音を立てるかのように水平線の向こうに沈んでしまった。

「凄い。凄いね」
 
思わず拍手した。いつの間に練習していたのだろう。

いつになく恥ずかしそうな隼人は、目を合わせずにウクレレをケースに仕舞って立ち上がった。

「帰ろう」
 
それを合図に、私も立ち上がる。

堤防を歩いて砂浜に足を踏み入れる時、差し出してくれた隼人の手に自分の手を乗せようとして、慌てて後ずさった。

「やだっ、やっぱやめる」

「えー、来るときは普通に繋いでくれたじゃん」
 
そういえばそうだった。来るときは「普通に」繋いでいた。

「無理。だってその手、さっきフナ虫触ってた手だもん」
 
言い捨てて、咄嗟に駆け出した。

勢いよく走ったせいで、スニーカーの中に砂が入ってもお構いなしに、砂浜を走り続けた。
 
そんな私の後を、まるで怪獣みたいに低い雄たけびを上げながら追いかけてくる。

自分でそんな声を出しておきながら、たまらず吹き出して笑ったりしながら。
 
道路へ出る前に、立ち止まって息を整えながら振り返る。

隼人はゆっくりと歩きながら、宵の空をバックに大きく手を振っていた。


帰ったら、スニーカーの中は砂でいっぱいになっていた。

勢いよく靴を脱いだら砂が漫画みたいに飛び出して、二人で上がり框に座って大笑いした声が家中に響き渡る。
 
西郷さんは相変わらずの無愛想な顔で、そんな私たちを見ては大あくびしていた。

「ことり、おやすみ」
 
洗面所から出ると、隼人が玄関で靴を履こうとしているところだった。

雨漏りの修理が済んでからは、こうして毎晩小屋に戻るようになった。

「こっちで寝たら?」
 
思いもよらなかったのか、隼人がきょとんと振り返る。

「良いのか?」

「朝、こっちに来るの大変でしょ。寝起きで外歩いてくるの寒いし。ほら、小屋は隙間風もありそうだし」
 
色々それっぽい理由を並べてみた。

本音は、部屋が別なら構わないと思えるようになったからなのだけれど。

「サンキュー。いやー、助かるわ」
 
さっさと靴を脱いだ隼人が、台所側の奥の部屋に向かった。

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ。また明日ね」
 
隼人の部屋の襖が閉まるのを確認して、電話機を手に取り、ダイヤルを回した。

「お母さん、こんな時間にごめんね」
 
夜も十時を過ぎた電話に何事かと思ったのか、一瞬身構えるような母の声に笑いそうになった。

「あのね、お母さんの都合の良い日に、一緒にお茶しない?喫茶クラウンで」
 
話をしよう。

改めて母の気持ちを聞くのは怖い部分もある。

「色々あったからさ。ゆっくりお母さんと話したいなって思ったの。悪い意味じゃないよ。むしろ――」
 
母も父の事だと察したらしい。

少し緊張が混じった声で私の誘いを承諾した。

「私もお母さんと一緒に、前を向いて生きていきたいって思ったから。浩二君のおすすめのケーキでも食べて、たまにはゆっくりお喋りしたりしたいなって思ったの」

予定を見て日取りを考えるわ。母のほっとしたような口調に、私も安心した。

電話を終え、カーテン越しの月明かりを瞼の裏に感じながら眠りについた。
 
夢の世界に落ちる間際まで、隼人が弾いてくれたスピッツの「空も飛べるはず」が耳の奥で優しい音色を奏でていた。
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