【完結】空に溺れる月〜孤独なセンチネルは安寧を願う〜

てんてこ米

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第二章 不和

3 ハグの魔法

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 今までガイドに頼らざるを得なかった精神面の調律が一般人にもできると分かり、講義室は一気に騒がしくなった。特に年頃の青年たちの喜びようはひとしおで、嫌いなガイドに頼らずに済む上に、あんな美女とハグできるなんてご褒美だと盛り上がる。
 彼らが理想の美女について話し始めると、それを冷ややかな目で見ていた女性陣から疑問の声が上がった。

ルオ先生、女性の結果はないんですか?」

「もちろんあるよ! 男性の時と条件を揃えて実験をした結果を貼っていくね」

 羅深思ルオシェンスーはホワイトボードの実験結果を横に移動させ、鞄から別の紙を取り出す。それぞれごく普通のおばさんガイド、若い女性ガイド、そして最後は一般人のいわゆるイケメンと呼ばれるタイプの青年だ。
 美男子の写真を見た女子たちが黄色い悲鳴を上げ、美女の話で盛り上がっていた男子たちが何事かと前を向く。全員の視線が再びホワイトボードに集まったのを見て、羅深思ルオシェンスーは口を開いた。

「実は、女子の結果はかなり面白いことになったんだ。これがハグをしてる時のストレス値。よく見比べてみて」

 そう言うと、彼は顔写真の下に一枚ずつゆっくりと折れ線グラフの紙を貼っていった。
 女性二人との結果だけ、高い位置にあった線はジグザグと山を作りながらも緩やかに下降していく。手前に座った男子の一人がいち早くその事実に気付き、小さく呟いた。

「あれ? 女同士だと、どっちも下がってないか?」

 本当だ!と周りの訓練生もざわつき出す。一番後ろの席では、姉から研究の話を聞いていそうな李光リーグァンまでもが驚いていた。
 いい反応をする生徒たちに羅深思ルオシェンスーはにっこりと笑いかけた。

「その通り! これは女性特有のものでね、男性よりも同性との触れ合いに嫌悪感がないからなんだ」

 男同士よりも女同士の方が距離感が近い。手を繋いで歩いたり、それこそハグをしたり。ここにきて、それがはっきり違いとなって現れていた。
 最終結果を張り出すと、どれもストレス値は平均値まで下がっていて、三人全員が同じだけの効果を得られたことが分かる。訓練生たちは思わぬ結果に口をポカンと開けて、ひそひそ話をすることさえ忘れていた。

「ハグには元々、人をリラックスさせる効果があるからね。上海の研究施設では、ガイドとの調律にもハグが推奨されてるんだ」

 通常、センチネルの昂った感情を抑制するには、ガイドと手を繋いで調律を行うことになる。
 しかし、相性の良い者同士なら抱擁した方が効果が高まるのだ。面と向き合って抱き合うのも良いが、ただ肩を抱くだけでもいい。

「まあ、嫌いな相手だと逆にストレスが溜まるから。仲のいい人にお願いしてごらん」

 訓練生たちは実験結果という目に見える証拠に納得したようで、友人を肘で小突いたり耳打ちしたり楽しそうに話し合っている。しかし、羅深思ルオシェンスーは浮かない顔をしている楊福安ヤンフーアンを盗み見て、これだけでは駄目だなと考えた。
 彼は、人に触れられること自体に恐怖を覚えているようだった。そんな状態でハグはハードルが高すぎる。
 そんな時、中央辺りに座っていた青年がピンと手を上げた。

「先生、ハグする相手がいない人はどうすれば良いですか? ぼっちにはキツすぎます!」

 冗談めかした彼の発言に、周囲からハハハと笑う声がする。ちょうど良いタイミングで来た質問に、羅深思ルオシェンスーは内心ガッツポーズをしながら答えた。

「もちろん、独り身の寂しいセンチネルにも救いはあるぞ。ハグの効果は人以外でも発揮されるんだ。ペットの犬や猫とか……それこそぬいぐるみでも良い」

 要は癒し効果が得られればいいのだ。一部の訓練生は当てがあるのか、嬉しそうにグッと拳を握って喜んでいる。

「ハグだけじゃなく、日頃から楽しいことをしてストレスを発散する。そして疲労は溜めない。その二つを守れば、調律の回数をうんと減らすことができるからね」

 そう呼びかけると、訓練生たちはすっかり安心し切った顔で「はーい!」と元気のいい返事をした。そこにはもう、授業を始めた頃の身構えていた彼らはいない。
 しかし、わいわいと楽しそうに話し始めた訓練生たちに、羅深思ルオシェンスーはまだ大事なことを伝えていなかった。彼が大きな声で「ただし……」と言うと、講義室に溢れていた話し声は水を打ったように静まり返る。

「ドロドロになった力の流れはガイドにしか治せない。だから、最低でも二週間に一回から、一ヶ月に一回くらいはガイドのお世話になること」

「それくらいなら、全然良いですよ!」

「うんうん、全然平気!」

 口々にそう言うと、よほどガイドとの関係が煩わしかったのか、彼らはもはやお祭り騒ぎの喜びようだった。対立は余計に深まるかもしれないが、調律に対する不快感を募らせるよりはずっといい。
 羅深思ルオシェンスーは鞄からプリント用紙の束を取り出し、大騒ぎしている訓練生たちに一枚取って横の人に渡すようにお願いした。

「効果的なストレス解消法が載ってるから試してみて。もし施設に足りないものがあったら、俺が施設長にお願いしてみるよ」

「今どき紙かよ!」

 若い子らしい不満の声に、羅深思ルオシェンスーはわざとらしく怒った声を出す。

「あっ、そういうのはよくないぞ? 紙の方が頭に入りやすいって研究結果があるんだからな! 大体、メールで送ったって読まないだろ?」

 図星を突かれた青年は「バレたか!」と顔をしかめる。彼は女子たちからクスクス笑われ、バツの悪そうな顔をして小さくなった。
 講義室は和やかな笑い包まれたが、突然大きな不満の声が上がる。

「あいつら、ガイドだなんて言いながら犬以下じゃねぇか。散々偉そうな口叩いてたくせにな」

 声の主は体格のいい勇偉ヨンウェイという青年だ。訓練生のリーダーらしく、彼に同調して周りからも不満の声が上がる。
 これは内情を知るいい機会だ。いかにも悪ガキといった顔をした彼に、羅深思ルオシェンスーはさり気なく声をかけた。

「そんなに嫌な奴がいるのか? なんて名前だ?」

王逸輝ワンイーフイ。あいつ、いつも仲間を扇動して俺たちをバカにしやがる。ワン姓の面汚しだ」

 彼とそのガイドは苗字が同じなようで、吐き捨てるようにそう言った。羅深思ルオシェンスーはその名を心に留め、改めて授業の終わりを告げた。

「よし、全員に行き渡ったな? 今日の講義はここまで! 何か質問は?」

ルオ先生、彼女いますか?」

 可愛らしい女の子の声が響いた。質問をした彼女の側では、友人たちがきゃあきゃあとはしゃいでいる。年頃の女の子らしい質問に、羅深思ルオシェンスーは微笑んだ。

「いないよ。はい次」

 すると今度は、男子の集団の中から手が上がる。何やら一様にニヤニヤして、いかにも悪巧みしていそうな顔だ。

「先生、彼氏はいますか?」

 案の定、思春期男子の馬鹿馬鹿しい質問に、羅深思ルオシェンスーは怒るどころか暖かな気持ちになった。地獄の実験ばかりを繰り返していた上海の研究施設と違って、ここは天国のように生ぬるい。一時はどうなることかと思ったが、訓練生たちの微笑ましい態度には癒しさえあった。

「募集中だよ。立候補するか?」

 まさかそう返してくるとは思わなかったのだろう。質問した男子は面食らった顔をして、仲間たちに茶化されながらどつかれていた。

「悪ふざけはその辺にしておきなね。授業内容については大丈夫だったかな?」

「大丈夫でぇーす!」

「紙貰ったしな!」

 元気のいい返事と共に、何人かがプリント用紙をヒラヒラさせる。羅深思ルオシェンスーは苦笑いをしながら質問を打ち切った。

「それじゃあ、みんなお疲れ様。ゆっくり休んでね」

 それなりに長い講義だったものの、帰り支度を始めた訓練生たちの表情はどこかすっきりしている。羅深思ルオシェンスーは彼らの中に暴走の兆候が無いかそれとなく調べてみたが、今のところは問題がなさそうだった。



 講義で使った資料を片付けていた羅深思ルオシェンスーは、大事なことを思い出して振り返った。授業が上手くいった達成感で危うく忘れるところだったが、まだ楊福安ヤンフーアンの問題が残っている。

楊福安ヤンフーアン。ちょっと話があるから残ってくれる?」

 声をかけると、彼はまだ席に座っていた。驚いてびくっと肩を震わせたものの、不安そうに羅深思ルオシェンスーを見つめ返し、小さく頷いた。
 どこか警戒した彼の様子に、羅深思ルオシェンスーは弱ったな……と頭を悩ませる。事情があったとはいえ、初対面で思い切り抱きしめてしまったので変なやつと思われたかもしれない。
 ほとんどの訓練生たちが講義室を出て行くと、あれだけ騒々しかった部屋の中は急に静かになった。楊福安ヤンフーアンを心配してか、宋堅ソンジェンが居残っていたが、李光リーグァンが気を利かせて彼を外へ連れ出してくれる。

「あの……何か問題がありましたか?」

「いや、問題はないよ。君、しばらくは他の訓練生たちとは別で訓練することにしても良い?」

 あくまで彼の意思を尊重しようと思ったのだが、咎められたと思ったのか、楊福安ヤンフーアンは悲しそうに瞳を伏せてしまった。

「あっ、誤解しないで! 周りに人が居たら、巻き込みそうって思ってるだろ? 上手く制御できるようになるまでで良いからさ」

 俺もついてるし、と付け加えると、彼はようやくほっとしたようで、強張った顔が僅かに和らぐ。

「そうだ、連絡先交換しておこう。何か困ったことがあれば、いつでも相談して良いからね」

 面と向かって話すよりも、メールや電話の方が気兼ねなく言えることもある。そう思って連絡先を交換しようとしたのに、いざ支給された携帯を取り出すと物陰から余計なヤジが飛んできた。

「あっ、見てくださいよ! 流れるようなナンパの手口」

「あれは手慣れてるねぇ」

 廊下からこっそり覗き見していた宋堅ソンジェン李光リーグァンだ。似た性格の二人は、話しているうちに意気投合して仲良くなったらしい。
 二人を呆れ混じりに一瞥した羅深思ルオシェンスー楊福安ヤンフーアンに向き直ると、彼の顔は真っ赤に染まっていた。どうも、この手のからかいに慣れていないようだ。

「あの馬鹿たちがごめんな。後でシメとくから」

 冗談半分にそう言うと、『馬鹿二人』は大袈裟に怯えて抱き合った。
 しかし、李光リーグァンは早々にパッと手を離し、新しい友情に目を煌めかせながら羅深思ルオシェンスーに尋ねた。

ルオ先輩、せっかくだし、夕飯は彼らと食べます?」

「いや、気になることがあるからガイドの方に行ってみるよ」

 勇偉ヨンウェイから聞いた、差別を扇動するガイドの存在だ。事実なら、早々に対処した方がいい。
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