囚われの狼は白兎の牙に溺れる

てんてこ米

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第一章

2 狩り

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 狼たちが姿を現すと、森の中の草食動物たちは息を潜めて身を隠す。それが自然の摂理だ。
 湿った土の匂いに満たされた森の中に戻っても、リュカオンの心が落ち着くことはなかった。未だ肌にはまとわりつくような視線の名残りがあり、焦燥感は募るばかりだ。

「ボス、作戦はあるんですか?」

 うさぎが見えなくなって冷静さを取り戻したらしい。先を行くリュカオンに少し遅れてついて来ていたフリーが、我慢できずに尋ねてきた。
 彼の言葉に、リュカオンはしばし考え込む。
 狼は勝算のない狩りをしない。とはいえ、いつまでもうさぎにでかい顔をされては、黒の森の主としての評判が落ちてしまう。

「直にやり合うのは危険だな」

 あのうさぎは圧倒的に不利な状況から、かすり傷ひとつ負わず狼の撃退に成功していた。辛うじて目で追うのがやっとの蹴り技は対処のしようもなく、正面からやり合っては彼らの二の舞いにしかならない。
 力はあれど攻撃が大振りになりがちな狼と違って、うさぎは小回りが効く。だが、まさか逃げるための技術を戦いに応用しようとは。

「戦うならまず、向こうの視界を奪わねぇとな。うさぎは俺たちほど鼻が利かねぇから、煙幕なんてのはどうだ?」

 どれだけ強力な蹴りを放とうとも、当たらなければ意味がない。煙と囮で惑わせ、ちょっと噛みついてやれば、あの気が強そうなうさぎもさすがに腰を抜かすだろう。
 得意満面に作戦を話すリュカオンに、先ほどまで不安そうにしていたフリーは勇気が湧いてきた。

「なるほど! さすが、俺たちのボスはよく考えてるよな!」

 ボスの言葉で勢い付いた彼は、いつもならすぐにくる兄弟分の返事がないことを訝しみ、後ろを振り返った。

「……ハンス?」

 木々が生い茂る闇の中、あるはずのない白が目に入る。さらりと風に流れる銀糸の髪。それは、あの恐ろしく強い白うさぎだった。

「で、出たぁぁぁぁっ!」

 恐怖に顔を引き攣らせ、フリーは腹の底から叫んだ。
 森中に響くほどの大声に、先頭を走っていたリュカオンも驚いて振り返る。そして、目に飛び込んできた光景に顔を引き攣らせた。

「なっ……なんでテメェがいやがる!」

 青ざめた顔のハンスと並び、あの白うさぎが追いかけて来ていた。
 涼しげな表情には何の感情も見えず、ただその瞳だけが射抜くようにリュカオンを見据える。ハンスは彼の横を走りながら、青ざめた顔で必死に気配を殺していた。
 不思議なことに、うさぎは隣のハンスのことは毛ほども意識していない。その赤い目は、狙いを定めたようにリュカオンだけを追っている。

「ついてくるんじゃねぇ!」

 叫びながら、リュカオンはどういう事だと目を白黒させる。
 三人が潜んでいた場所は、箱庭の入り口からかなり距離があった。いくらうさぎ族の初速が速いからといって、あの距離を詰める前に自分たちの速度が上回るはずだ。
 しかし、白うさぎは確かに真後ろにいる。それも微塵の疲れも見せず、むしろまだまだ余裕がありそうな勢いだ。

「なんか言えよっ!」

 後を追って来ながらも、うさぎは一言も発さない。だが、暗闇で爛々と輝くその目は、狙いがリュカオンであると雄弁に語っていた。
 姿形はうさぎなのに、まるで狙いを澄ませた狼みたいだ。
 喉元に牙を突きつけられている気分で、リュカオンはさらに駆ける速度を上げる。相手は持久力のないうさぎだ。このまま走り続ければ振り切れる──はずだった。

「こ、のっ……いつまでついて来やがる!」

 どれだけ速度を上げても、背後に感じるうさぎの気配が消えない。何よりも恐ろしいのは、その音のなさだった。
 静寂が支配する森の中には、三人分の慌ただしい足音と荒い呼吸が響く。それなのに、背後の白うさぎからは衣擦れの音ひとつ聞こえてこない。感じるのは、まとわりつくようなあの視線だけだ。
 振り返れば、涼しい顔をした白うさぎと目が合う。驚いたことに、彼は息一つ乱れていない。

「ボ、ボスを守れぇぇぇっ!」

 なんとかついてきていたフリーが、息も絶え絶えに叫ぶ。その声に、ハンスもハッとしてうさぎに飛びかかった。
 横からの攻撃はしかし、白うさぎにひらりとかわされる。切り返しの早いうさぎ相手に、狼が敵うはずがない。
 ただ、彼らはリュカオンが逃げるだけの時間を稼いでくれた。
 全速力で走り過ぎて、体の中で熱が暴れている。それでも足を止めることはできない。
 彼は得体の知れない恐怖に突き動かされ、迫り来る捕食者の気配を背後に感じながらひたすら走り続ける。
 未だかつて、ここまで追い込まれたことがあっただろうか。心臓が早鐘を打ち、身体中の筋肉が悲鳴を上げている。
 極限状態の中、リュカオンの本能が警鐘を鳴らした。

 執拗に追いかけ、獲物の体力を奪う。これは俺たちのやり方じゃないか!

 何故うさぎにそれができるのか、どうして狩る側の自分が追われているのか。リュカオンはもはや訳が分からなかった。

「クソッ……やって、やらぁっ!」

 うさぎ相手に負けてたまるか。その気持ちだけで彼は踏み止まった。
 急に足を止めたせいで筋を痛めたが、喧嘩に負傷はつきものだ。それよりも、うさぎの澄ました顔に一発をお見舞いしてやろうと振りかぶる。
 ところが、彼が振り返った時、白うさぎの姿は忽然と消えていた。

「なっ……」

 振りかぶったまま動きを止め、リュカオンは呆気に取られる。その時、背後で枯れ葉を踏む小さな音が聞こえた。
 振り返る間もなく後ろから手が伸びてきて、リュカオンの体を包み込む。
 驚くほど優しい抱擁。肩に落ちた髪は滑らかな絹糸のようで、その正体に気付いたリュカオンは一歩も動けなくなった。
 吐息が首筋を撫で、いよいよ喰われると身を強張らせる。ところが、うさぎは彼の首筋に顔を埋め、大きく深呼吸した。

「……やっと見つけた」

 初めて聞く白うさぎの声。囁くような低音は、どこかうっとりと愉悦を滲ませる。
 足を止めても、リュカオンの心臓は早鐘を打ったままだ。今すぐ逃げ出したいのに、体は思うように動いてくれない。
 彼の命はもはや、白うさぎの手のひらの上だった。

「お前……なんなんだよ」

 なんとか息を整え、絞り出すように尋ねる。すると、白うさぎはゆっくりと顔を上げ、彼の顔を覗き込んだ。
 目が合うと、血のように赤い瞳が嬉しそうに細められる。

「私は……あなたのつがいだ」

 言っている意味が分からず、もう一度尋ねようと口を開く。しかし、熟れた林檎の香りと共に、急激な眠気が湧き上がってきた。
 瞼が重くなり、リュカオンは目を開けていられなくなる。白うさぎは力の抜けた彼の体を優しく抱き上げ、空に跳び上がった。
 ふわり、浮遊感と共に月の光が二人の姿を照らし出す。二度、三度、うさぎが跳躍する度に高度は増し、ついに彼らは木々が下に見えるほど空に舞い上がった。

 ……これは魔法だ。

 朦朧とする意識の中、リュカオンはその事実に気が付いた。
 魔法は魔女とごく一部の獣人しか使えない。うさぎはそこに含まれないはずだ。
 淡い光に照らされた月のように美しい顔を見上げ、リュカオンは小さく息を呑む。幻想的なその姿は、まさしく御伽話の魔法使いのようだった。



 その日、黒の森の狼たちは、月に住むうさぎが地上に降り立つ姿を見たという。そして、森の主であるリュカオンは、その日からぱったりと姿を消してしまった。
 彼の行方は誰も知らず、憶測だけが飛び交う。そんな中、彼らの中で一つの噂が流れ始める。

 狼の群れのリーダーが白うさぎに食べられた。

 それは捕食者である彼らを大いに恐れ慄かせ、うさぎが番をするアリスの箱庭への足を遠のかせた。
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