囚われの狼は白兎の牙に溺れる

てんてこ米

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第一章

3 もてなし

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 肉の焼ける芳ばしい匂いに誘われ、リュカオンはふかふかのベッドの中で目を覚ました。三人は優に眠れる広いベッドには見覚えがなく、枕からは仄かに甘い林檎の香りがする。
 部屋を見渡し、まず初めに視界に飛び込んできたのは、棚の上にある小さなガラスケースに飾られた黒い林檎だった。それは、黒の森に群生する何の変哲もない果実だ。

「ここは……」

 木の温もりに溢れた壁に、艶やかな光沢を放つ飴色の家具たち。見慣れない部屋の窓には、星空の模様が入った美しい藍色のカーテンが掛かっている。
 部屋にある扉は三つ。三日月が浮かぶステンドグラスの小窓の扉、小さな覗き窓のある扉。そして、最後の一つは窓のない木の扉だ。そのどれかが外に出るものだろう。
 ぼんやりとした頭をどうにか働かせ、リュカオンは目覚める前の記憶を辿った。
 満月の光と甘ったるい林檎の香り、アリスの箱庭の門番──あの白うさぎに攫われたのだ。
 ハッとして辺りを見渡すも、橙色の明かりに照らされた室内には誰も居ない。ふと、リュカオンは自分の体から花の香りが立ち込めていることに気付いた。
 目覚める前は汗でベタベタだった体が、いつの間にか綺麗に清められている。身を包んでいるのも滑らかなシルクのローブで、元の服すら見当たらない。

「あいつが帰ってくる前にずらかるか」

 柔らかくて寝心地のいいベッドからは離れがたいが、執拗に追い回された恐怖が蘇り、気を奮い立たせる。
 そろりとベッドを抜け出そうとしたその時、三日月の扉が音もなく開いた。香草と肉のいい香りと共に、白うさぎが姿を現す。
 逃げ出そうとした格好のまま固まるリュカオンを見て、うさぎは赤い目を細めた。

「食事は?」

 食欲をそそる匂いに、リュカオンの腹が返事をするようにぐうと鳴る。
 あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。しばらく何も口にしていないため、こんな状況にも拘わらず、彼の胃は空腹を訴えていた。

「……食べる」

 どのみち見つかってしまった今、逃げ出すという選択肢はない。そう思うと、食べない方が損というものだ。
 名前を聞く暇もなく、白うさぎは扉の向こうへ戻っていった。リュカオンの動向を警戒する様子もない。
 逃げ出すなら今がチャンスだ。頭では分かっているのに、腹ペコなリュカオンは美味しそうな匂いに釣られて、つい食卓へ足が向いてしまう。
 洞窟に造った自分たちの住処とは違う、木の温もりが溢れる部屋の中、彼はダイニングチェアにそっと腰を下ろした。
 しばらく待っていると、白うさぎは配膳ワゴンにたくさんの肉料理を乗せて戻ってきた。鳥の丸焼きや分厚いステーキ、どれもこんがりと焼けて、美味しそうな香りが部屋いっぱいに広がる。

「なあ、お前の名前は? あれから何日経った? 俺を連れてきてどうする気だ?」

 テーブルに並べられた肉を丁寧に切り分けているうさぎに、リュカオンは矢継ぎ早に尋ねた。何せ、分からないことが多すぎるのだ。

「私の名はエルシオン。あれから半日。ここに住まわせるために連れてきた」

 表情を変えぬまま、うさぎは端的に答えた。熱を帯びた赤い瞳に見つめられると、リュカオンは落ち着かない気持ちになる。
 記憶を辿り、彼はエルシオンがつがいだと言っていたことを思い出した。

「なんで俺を番にしたいんだ?」

 うさぎはうさぎ同士、狼は狼同士、異種族で番になるなどあり得ない。何より、二人は初対面なはずだ。
 ただ疑問をぶつけただけなのに、エルシオンはぴたりと動きを止め、僅かに表情を曇らせた。

「あの林檎に見覚えは?」

 そう言われ、リュカオンは棚の上のガラスケースに目を向けた。
 艶のある黒い林檎。それは狼族が獲物を誘き寄せるために利用する森の林檎だ。

「うちの森で生ってるヤツだろ? 珍しくもねぇ」

 その答えに、エルシオンが息を呑む。
 表情こそほとんど変わらないが、見開いた目には明らかに落胆の色が浮かんでいる。どうやら彼の望む答えではなかったようだ。
 エルシオンは肉を切っていたナイフを静かに皿の上に置き、不満の滲む声で言った。

「……あれは、あなたがくれたものだ」

「俺が? あの林檎を?」

 そんな馬鹿な、とリュカオンは呆気に取られる。
 新雪のような純白の髪と耳。エルシオンの見た目は見惚れるほど美しく、ひと目見たら忘れようがない。それなのに、記憶の片隅にすら残っていないなんてあり得ないだろう。

「あなたは林檎をくれて、私に求愛した。大きくなって迎えに来いと」

 エルシオンの口から語られる記憶にない出来事に、リュカオンは開いた口が塞がらなくなる。
 捏造するにしても、普通はもっとそれっぽく言うものだろう。エルシオンの言葉はどれも心当たりがない。

「そんなこと言ってねぇ!」

 身を乗り出さんばかりの勢いで否定したものの、リュカオンは待てよ、と動きを止めた。

「大きくなったらだって? 一体いつの話をしてんだ?」

 狼族とうさぎ族は、成獣になるまでの成長速度が倍近く違う。場合によっては、エルシオンの見た目は今よりずっと小さかったかもしれない。

「五年前だ。それから私は、ずっとあなたに会いたいと思っていた」

 話を聞き終えたリュカオンは静かに目を閉じ、考え込むように眉間にシワを寄せた。
 秋口になると、黒の森にはうさぎ族の子どもがよく姿を現す。狼たちは鹿などの大きな獲物を夢中で追いかけるため、熟した黒い林檎をこっそり取りに来るのだ。
 森の主であるリュカオンも、何度か林檎を取りに来た子うさぎを見逃してやったことがある。もしかすると、その中にエルシオンがいたのかもしれない。

「デカくなりすぎてて分かんねぇや」

「あなたが覚えていなくても、私は覚えている」

 エルシオンはきっぱりと言い切った。うさぎのくせに、猛禽類顔負けの鋭い目つきだ。
 リュカオンは求愛の件をはっきりさせたかったが、彼の腹はそれを許してはくれなかった。再び腹の虫が食事を催促し、それを聞いたエルシオンは粛々と肉を切り分け始めた。



 大皿に盛られた肉をフォークに刺し、リュカオンは恐る恐る口をつけた。
 噛み締めると肉汁がじんわりと溢れてきて、香り豊かな香草がすっきりとした後味を感じさせる。火の通り具合も、肉食の好みを熟知しているかのような絶妙な加減だ。

「……美味い!」

 思わず喜びの声が口から飛び出た。別の料理に手をつけても同じで、どれも草食のうさぎが作った肉料理とは思えないほど丁寧に調理されている。
 狼族のシェフにも負けない腕前に、リュカオンはまじまじと向かいに座るエルシオンの顔を見つめた。
 大きな人参のステーキを食べていた彼が、視線に気付いて顔を上げる。

「何か?」

 射抜くような眼差しに見つめられ、リュカオンは口の中のものをごくりと飲み込んだ。獲物を狙うような眼差しにはまだ慣れなくて、見られていると心臓がバクバクする。

「いや……お前、肉料理が上手いな。うちのシェフに負けてねぇよ」

「あなたを迎えるために練習した」

 番のために料理の勉強とは、何ともいじらしい。
 それっきりエルシオンは口を閉ざしてしまったので、食卓はしんと静まり返る。
 自分から話すのはあまり好きではないのだろうか。リュカオンは聞きたいことがまだまだあり、再び口を開いた。

「狩りの仕方は誰に習ったんだ? この俺様を捕まえるなんて、やるじゃねぇか」

 それは心からの称賛だった。
 群れから狙った獲物だけを引き離す手口も、追い詰め方も見事としか言いようがない。彼が狼族だったら、群れを率いていてもおかしくない実力だ。

「……父に」

「へえ、物好きなうさぎもいたもんだな」

 狼の狩りに詳しいうさぎなんているのだろうか。そう不思議に思っていると、エルシオンが訂正する。

「父は狼だ」

「狼に育てられたのか? そりゃ……珍しいな」

 食料として見ることはあれど、基本的に育てることはない。
 だが、他ならぬリュカオン自身も、血の繋がらない狼族の父親に育てられていた。そう考えると、案外我が子以外を育てる者もいるのかもしれない。
 やはりエルシオンは自分から何かを話すと言うことはなく、会話が終わると黙々と食事を始めた。積もりたての雪のような美しい髪と端正な顔立ちはなんとも上品で、そこだけ世界が違って見える。
 開き直ったリュカオンは、こうなったら楽しむが勝ちだと、再び切り分けられた肉を口に放り込んだ。エルシオンの作った肉料理はどれもほっぺたが落ちそうなほど美味しく、一度口にすれば手が止まらなくなる。
 あっという間に平らげ、彼は満足げに息を吐いた。

「飯も食ったし、俺はそろそろ行こうかな」

 弟分たちのその後も、森の様子も気になる。
 ところが、その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。
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