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第一章
4 囚われの身
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「ここがあなたの家だ」
食器を片付けていた手を止め、エルシオンは淡々と言った。
声こそ落ち着いているものの、熱を帯びた視線がリュカオンの身体に絡みつく。敵意が無いと分かっていても、獣じみた獰猛さが宿る眼差しに背筋がぞくりとした。
リュカオンは尻尾をピンとさせて気持ちを奮い立たせると、静かに口を開いた。
「俺の住処は森の中だ。ここじゃねぇ」
うさぎからの求愛を受け入れる気もなく、ここにはもう用がない。五年間の一途な想いを踏みにじる気はなかったが、狼族が集まっている森の状況が気になり、帰りたい気持ちでいっぱいだ。
リュカオンの意思が固いと分かると、エルシオンの強固な態度はたちまち崩れ去り、赤い瞳が不安げに揺らぐ。
「行かせられない」
諦めの悪い彼の言葉に、リュカオンはまだまだ子どもだな、と微笑ましさを覚える。強引すぎるやり口も、うぶな若者の求愛と思えば腹も立たない。
「我儘言うんじゃねぇ。主催者が不在なんておかしいだろ? お前の気持ちはありがたく受け取っておいてやるよ」
仲間たちは優秀とはいっても、今は血の気が多い狼族が集まっている。リュカオン不在の中、来客たちをきちんとまとめられるか怪しいものだ。
寝心地のいいベッドや綺麗な部屋、そして美味しい手料理。どれも切り捨てるには惜しいものがある。しかし、うさぎ族と狼族では住む世界が違う。
「お前のその面なら、俺に拘らなくても伴侶には困らねぇだろ?」
見目麗しく、狼よりも強くて勇敢とくれば、文句なしに引く手数多だ。狼の尻を追い回すよりもずっといい。
リュカオンはこの家から出ようと小窓の付いた扉に向かったが、ふと自分がまだ着心地のいいローブを身にまとっていたことに気付き、エルシオンに尋ねた。
「俺の服はどこやった? さすがにこの格好じゃ──」
振り返った途端、眩しいほどの純白が目に入る。相変わらず衣擦れの音すらなく、エルシオンはすぐ真後ろに立っていた。
「ここからは出さない」
彼は赤い目に静かな執着の色を覗かせ、リュカオンの手首を掴んだ。その力はたかがうさぎと侮れないほど強く、狼の力を持ってしてもびくともしない。
内心で焦りを滲ませながらも、リュカオンは聞き分けのない彼を睨んだ。
「話聞いてたか? 俺は忙しいんだよ」
二人の話はいつまで経っても平行線で、互いに主張が変わらず話し合いの余地がない。このまま力任せに振り解きたいところだが、驚いたことに彼の力はうさぎのそれとは明らかに違っていた。
間近で見ると、エルシオンの顔の造形は息を呑むほど美しい。表情がほとんどないせいで、ますます作り物めいている。
見つめていると思わず何でも許してしまいそうになるが、リュカオンは顔に惑わされている場合ではないとハッとする。こうしている今も、仲間たちは困っているはずだ。
「いい加減にしねぇと怒るぞ!」
黙っていれば諦めると思っているのか、沈黙を続けるエルシオンを睨み、掴まれている方の腕にぐっと力を込める。離さないなら力ずくで押し通すまでだ。
ところが、いざ強引に突破しようとしたリュカオンは、エルシオンの長い耳がぺたりと伏せられていることに気が付いた。明らかに落ち込んでいることが分かるそれを見て、彼はたちまち毒気を抜かれてしまった。
「凹むなら最初からするなよ……」
叱りつけるつもりが、しゅんと伏せられた耳を見ては調子が狂ってしまう。
抵抗の力が弱まるや否や、エルシオンは掴んでいた手首をぐいと引き、リュカオンの体を腕の中に閉じ込めた。
「……行かないで」
耳元に零れ落ちた悲しげな囁きに、リュカオンは大きなため息を吐く。彼が幼い頃見逃した子うさぎだからか、それとも熱烈な求愛を受けたせいか、とにかく怒る気が失せてしまった。
抱きしめる力は決して強くはないが、逃げられるほど弱くもない。まるで意地を張る子どものような彼の背中にそっと手を回し、リュカオンは優しく尋ねた。
「なんで行ってほしくないんだ? 理由があんなら話してみろよ」
孤児の自分を育ててくれた父を真似て、彼自身も群れから取り残された子どもを何人か育てたことがある。しかし、まさかその経験がこんな所で生きるとは。
しばらく大人しく答えを待っていると、エルシオンは躊躇いがちに口を開いた。
「今はよそ者がたくさん来ているから……」
よそ者とは黒の森に集まってきた他の狼族のことだ。毎年のことなので、当然エルシオンも宴のことは知っている。だが、それがどう関係しているのだろう。
続きを待っていると、不意に抱きしめる力が強まり、リュカオンは彼の首筋に顔を埋めることになった。あの魔法で眠らされた夜と同じ、甘い林檎の香りがふわりと鼻腔を掠める。
「誰かに取られたくない」
蕩けるような低い囁きに、リュカオンの心臓はどきりと跳ねた。なぜか、切実な想いを乗せた彼の声にどうしようもなく心が揺れてしまう。
ただのガキの我儘だろ?
うさぎ相手にあり得ない。そう思っていても気持ちは掻き乱され、鼓動が高鳴る。自分でも、何が何だか分からなかった。
「お、俺はっ……誰のものにもなんねぇよ!」
動揺しすぎて声が上ずり、リュカオンの顔はカッと熱くなる。抱きしめられたままで良かったとほっとしたのも束の間、エルシオンがゆっくりと身を離した。
彼の真っ直ぐな瞳に顔を覗き込まれ、ますます頭に血が上る。それでも射抜くような眼差しからは目が逸らせず、恥ずかしさに噛み締めた口の隙間から小さな唸り声が漏れた。
「あなたは私のものだ」
薄い唇が緩やかに弧を描く。初めて見るその微笑みはうっとりするほど甘く、リュカオンは威嚇をするのも忘れてしばし目を奪われた。
エルシオンは優しげな笑みを湛えた唇でそっと彼の額に口づけると、固まったままの体を軽々と抱き上げた。
「昼のうちは休んで、夜にまた話をしよう」
低い声は心地よく、リュカオンの体から力が抜けていく。
また魔法で眠らせるつもりなのかと身構えたが、よく考えてみると狼族は夜行性で、今の時間はいつもベッドの中だ。これは本能的なもので、どうやっても抗えない。
一瞬だけ弟分たちの困った顔が脳裏を過ったものの、頭はもう睡眠モードに入りつつあった。断じて、エルシオンの腕の中が心地よいからではない。
「絶対だぞ! 約束だからなっ」
うるさいくらいに高鳴る胸をぎゅっと押さえながら、彼は申し訳程度にエルシオンを睨みつけて念を押した。結局服も返してもらえず、腹立たしいことこの上ない。
ところが、ふかふかと寝心地のいいベッドに優しく下された途端、なけなしの怒りすらも消え失せてしまう。最高の寝心地のベッドは体を優しく包み込み、穏やかな眠りに誘ってくれる。
「夕飯は何が良い?」
力の抜けた体にシーツを掛けながら、エルシオンがふと尋ねる。すでに彼の中で、リュカオンが夕方まで居ることは確定しているらしい。
寝心地の良さにうとうとしながら考えていたリュカオンは、求愛を諦めさせる『お願い』を思いついた。
「夜はうさぎ肉がいい!」
同族を殺すなんて、いくら愛する人の頼みでもさすがに無理だろう。種族の違いをはっきり認識すれば、エルシオンも諦めるはずだ。
ところが予想に反し、エルシオンは平然と返した。
「分かった、用意しておく」
その言葉には一切の躊躇いもなく、意表を突かれたリュカオンは呆気に取られる。エルシオンの頭から伸びているのは、間違いなくうさぎ耳だ。
まさか、言葉の意味を理解していないのか?
動揺を隠しきれず、ごくりと唾を飲む。あっさりとした返事を訝しみながら、彼は再び尋ねた。
「ほ、本当にいいのか? うさぎ肉だぞ?」
今度は聞き間違えないように、はっきりと『うさぎ肉』と口にする。ところが、エルシオンは先ほどと全く変わらない態度で頷いた。
「夕飯には間に合わせる。あなたは休んでいて」
彼はリュカオンが何度も念を押したのを、無事に肉を手に入れられるか心配していると受け取ってしまったようだ。不穏な言葉と共に胸を優しく叩かれ、リュカオンはますます不安に駆られる。
愛する人のために同族すら手にかけるなんて、一途を通り越して恐ろしい。ここはやはり、隙を見て逃げた方が良いのではないか。
しかし、柔らかな寝床の誘惑は抗い難く、まぶたがどんどん落ちてくる。うさぎ肉に見せかけた別の何かが出てくることを祈りつつ、リュカオンは意識を手放した。
食器を片付けていた手を止め、エルシオンは淡々と言った。
声こそ落ち着いているものの、熱を帯びた視線がリュカオンの身体に絡みつく。敵意が無いと分かっていても、獣じみた獰猛さが宿る眼差しに背筋がぞくりとした。
リュカオンは尻尾をピンとさせて気持ちを奮い立たせると、静かに口を開いた。
「俺の住処は森の中だ。ここじゃねぇ」
うさぎからの求愛を受け入れる気もなく、ここにはもう用がない。五年間の一途な想いを踏みにじる気はなかったが、狼族が集まっている森の状況が気になり、帰りたい気持ちでいっぱいだ。
リュカオンの意思が固いと分かると、エルシオンの強固な態度はたちまち崩れ去り、赤い瞳が不安げに揺らぐ。
「行かせられない」
諦めの悪い彼の言葉に、リュカオンはまだまだ子どもだな、と微笑ましさを覚える。強引すぎるやり口も、うぶな若者の求愛と思えば腹も立たない。
「我儘言うんじゃねぇ。主催者が不在なんておかしいだろ? お前の気持ちはありがたく受け取っておいてやるよ」
仲間たちは優秀とはいっても、今は血の気が多い狼族が集まっている。リュカオン不在の中、来客たちをきちんとまとめられるか怪しいものだ。
寝心地のいいベッドや綺麗な部屋、そして美味しい手料理。どれも切り捨てるには惜しいものがある。しかし、うさぎ族と狼族では住む世界が違う。
「お前のその面なら、俺に拘らなくても伴侶には困らねぇだろ?」
見目麗しく、狼よりも強くて勇敢とくれば、文句なしに引く手数多だ。狼の尻を追い回すよりもずっといい。
リュカオンはこの家から出ようと小窓の付いた扉に向かったが、ふと自分がまだ着心地のいいローブを身にまとっていたことに気付き、エルシオンに尋ねた。
「俺の服はどこやった? さすがにこの格好じゃ──」
振り返った途端、眩しいほどの純白が目に入る。相変わらず衣擦れの音すらなく、エルシオンはすぐ真後ろに立っていた。
「ここからは出さない」
彼は赤い目に静かな執着の色を覗かせ、リュカオンの手首を掴んだ。その力はたかがうさぎと侮れないほど強く、狼の力を持ってしてもびくともしない。
内心で焦りを滲ませながらも、リュカオンは聞き分けのない彼を睨んだ。
「話聞いてたか? 俺は忙しいんだよ」
二人の話はいつまで経っても平行線で、互いに主張が変わらず話し合いの余地がない。このまま力任せに振り解きたいところだが、驚いたことに彼の力はうさぎのそれとは明らかに違っていた。
間近で見ると、エルシオンの顔の造形は息を呑むほど美しい。表情がほとんどないせいで、ますます作り物めいている。
見つめていると思わず何でも許してしまいそうになるが、リュカオンは顔に惑わされている場合ではないとハッとする。こうしている今も、仲間たちは困っているはずだ。
「いい加減にしねぇと怒るぞ!」
黙っていれば諦めると思っているのか、沈黙を続けるエルシオンを睨み、掴まれている方の腕にぐっと力を込める。離さないなら力ずくで押し通すまでだ。
ところが、いざ強引に突破しようとしたリュカオンは、エルシオンの長い耳がぺたりと伏せられていることに気が付いた。明らかに落ち込んでいることが分かるそれを見て、彼はたちまち毒気を抜かれてしまった。
「凹むなら最初からするなよ……」
叱りつけるつもりが、しゅんと伏せられた耳を見ては調子が狂ってしまう。
抵抗の力が弱まるや否や、エルシオンは掴んでいた手首をぐいと引き、リュカオンの体を腕の中に閉じ込めた。
「……行かないで」
耳元に零れ落ちた悲しげな囁きに、リュカオンは大きなため息を吐く。彼が幼い頃見逃した子うさぎだからか、それとも熱烈な求愛を受けたせいか、とにかく怒る気が失せてしまった。
抱きしめる力は決して強くはないが、逃げられるほど弱くもない。まるで意地を張る子どものような彼の背中にそっと手を回し、リュカオンは優しく尋ねた。
「なんで行ってほしくないんだ? 理由があんなら話してみろよ」
孤児の自分を育ててくれた父を真似て、彼自身も群れから取り残された子どもを何人か育てたことがある。しかし、まさかその経験がこんな所で生きるとは。
しばらく大人しく答えを待っていると、エルシオンは躊躇いがちに口を開いた。
「今はよそ者がたくさん来ているから……」
よそ者とは黒の森に集まってきた他の狼族のことだ。毎年のことなので、当然エルシオンも宴のことは知っている。だが、それがどう関係しているのだろう。
続きを待っていると、不意に抱きしめる力が強まり、リュカオンは彼の首筋に顔を埋めることになった。あの魔法で眠らされた夜と同じ、甘い林檎の香りがふわりと鼻腔を掠める。
「誰かに取られたくない」
蕩けるような低い囁きに、リュカオンの心臓はどきりと跳ねた。なぜか、切実な想いを乗せた彼の声にどうしようもなく心が揺れてしまう。
ただのガキの我儘だろ?
うさぎ相手にあり得ない。そう思っていても気持ちは掻き乱され、鼓動が高鳴る。自分でも、何が何だか分からなかった。
「お、俺はっ……誰のものにもなんねぇよ!」
動揺しすぎて声が上ずり、リュカオンの顔はカッと熱くなる。抱きしめられたままで良かったとほっとしたのも束の間、エルシオンがゆっくりと身を離した。
彼の真っ直ぐな瞳に顔を覗き込まれ、ますます頭に血が上る。それでも射抜くような眼差しからは目が逸らせず、恥ずかしさに噛み締めた口の隙間から小さな唸り声が漏れた。
「あなたは私のものだ」
薄い唇が緩やかに弧を描く。初めて見るその微笑みはうっとりするほど甘く、リュカオンは威嚇をするのも忘れてしばし目を奪われた。
エルシオンは優しげな笑みを湛えた唇でそっと彼の額に口づけると、固まったままの体を軽々と抱き上げた。
「昼のうちは休んで、夜にまた話をしよう」
低い声は心地よく、リュカオンの体から力が抜けていく。
また魔法で眠らせるつもりなのかと身構えたが、よく考えてみると狼族は夜行性で、今の時間はいつもベッドの中だ。これは本能的なもので、どうやっても抗えない。
一瞬だけ弟分たちの困った顔が脳裏を過ったものの、頭はもう睡眠モードに入りつつあった。断じて、エルシオンの腕の中が心地よいからではない。
「絶対だぞ! 約束だからなっ」
うるさいくらいに高鳴る胸をぎゅっと押さえながら、彼は申し訳程度にエルシオンを睨みつけて念を押した。結局服も返してもらえず、腹立たしいことこの上ない。
ところが、ふかふかと寝心地のいいベッドに優しく下された途端、なけなしの怒りすらも消え失せてしまう。最高の寝心地のベッドは体を優しく包み込み、穏やかな眠りに誘ってくれる。
「夕飯は何が良い?」
力の抜けた体にシーツを掛けながら、エルシオンがふと尋ねる。すでに彼の中で、リュカオンが夕方まで居ることは確定しているらしい。
寝心地の良さにうとうとしながら考えていたリュカオンは、求愛を諦めさせる『お願い』を思いついた。
「夜はうさぎ肉がいい!」
同族を殺すなんて、いくら愛する人の頼みでもさすがに無理だろう。種族の違いをはっきり認識すれば、エルシオンも諦めるはずだ。
ところが予想に反し、エルシオンは平然と返した。
「分かった、用意しておく」
その言葉には一切の躊躇いもなく、意表を突かれたリュカオンは呆気に取られる。エルシオンの頭から伸びているのは、間違いなくうさぎ耳だ。
まさか、言葉の意味を理解していないのか?
動揺を隠しきれず、ごくりと唾を飲む。あっさりとした返事を訝しみながら、彼は再び尋ねた。
「ほ、本当にいいのか? うさぎ肉だぞ?」
今度は聞き間違えないように、はっきりと『うさぎ肉』と口にする。ところが、エルシオンは先ほどと全く変わらない態度で頷いた。
「夕飯には間に合わせる。あなたは休んでいて」
彼はリュカオンが何度も念を押したのを、無事に肉を手に入れられるか心配していると受け取ってしまったようだ。不穏な言葉と共に胸を優しく叩かれ、リュカオンはますます不安に駆られる。
愛する人のために同族すら手にかけるなんて、一途を通り越して恐ろしい。ここはやはり、隙を見て逃げた方が良いのではないか。
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