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第二章
2 記憶の中の子うさぎ
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子うさぎが消えた扉を開けると、中は何の変哲もないキッチンだった。中には誰も居らず、綺麗に洗われた食器やフライパンなどが並んでいる。
どうやら、魔法でどこかに繋げていたらしい。リュカオンは何度か出入りしてみたが、魔法の力はすでに失われてしまったのか、ただ部屋とキッチンを行ったり来たりしただけで終わった。
「それにしても、さっきの子うさぎ……」
愛らしい少年の顔を見て、彼はようやくエルシオンが言っていた五年前に会ったという記憶をはっきり思い出した。
確かに、二人は過去に会っている。あの女の子のような可愛らしい顔、忘れるはずがない。
二人が会ったのも、ちょうど黒の森で宴が開かれていた頃だ。見回り中に見つけた、低い位置にある林檎を取ろうと飛び跳ねていたうさぎ族の子ども。それが幼い頃のエルシオンだったのだ。
「はあ……マジかよ」
両手で顔を覆い、リュカオンはその場にしゃがみ込む。エルシオンの「求愛された」という発言に身に覚えがないと返していたが、実はそれらしいことを言っていたと思い出したのだ。
リュカオンが彼に言ったのは「大きくなって出直してきな」だ。小さいうちは食い出がないから、成獣になってからまた来いという冗談半分の言葉だった。
しかし、考えてみれば求愛と取られてもおかしくない言い回しだ。それが捕食者と餌の関係でなければだが。
まさか、あの時の可愛らしい子うさぎが凛々しい青年に育つとは誰が想像できようか。今の精悍な姿は全くうさぎ族らしくない。
「ま、まあ、これで誤解も解けるな!」
気を取り直したリュカオンは、勢いよく立ち上がった。
当時のことを思い出し、求愛の言葉が誤解だったと分かったのだ。事実を伝えて、今度こそはっきり断ればいい。
ところが、せっかく真相が分かったというのに、リュカオンはあまり喜ぶことができなかった。嬉しそうに自分を見つめる赤い瞳を思い出すと、なぜだか心がちくりとする。
「とりあえず、あいつが帰ってきてから考えよう」
今は自分のことより仲間たちの話が先だ。そう気持ちを奮い立たせ、彼は重い足取りでソファに戻る。
無意識にため息を吐き、手紙の続きを書き始めた。
リュカオンが書き終わった手紙を三回読み返して不備がないか確認していると、ステンドグラスの小窓がついた扉がガチャリと開き、子うさぎではなく普段通りのエルシオンが顔を出した。
「エル!」
リュカオンはやっと帰って来た彼を見るなり弾かれたようにソファから立ち上がり、駆け寄ろうと一歩踏み出しかけて動きを止めた。
これではまるで、寂しかったと言っているようなものだ。誤魔化すように咳払いをして、リュカオンは改めて口を開いた。
「ど、どうだった?」
「内々で話し合って、三日後に答えを出すと言われた。前向きに検討するそうだ」
その言葉にリュカオンはほっとしてソファに腰を下ろす。これで少し肩の荷が降りた。
さっそくサイドテーブルの上に置かれた手紙に用件を書き足していた彼は、ふと隣からの視線を感じて手を止める。
真実を話すなら今かもしれない。ところが不思議なことに、リュカオンの口は縫い付けられたように開かなくなってしまった。
「リュカ」
穏やかな声が鼓膜を揺らす。
リュカオンが手紙から顔を上げると、エルシオンが横から顔を覗き込んでいた。宝石のような赤い瞳は、目が合うと嬉しそうにキラキラと輝く。
「ただいま」
喜びに満ちた声に誘われるように、リュカオンはさらりと垂れる銀髪に手を伸ばした。先ほどまで感じていた気まずさも、顔を合わせると途端に萎んでしまう。
「おかえり。疲れただろ?」
自分でも驚くほど優しい声が出た。頭の中であれこれ考えていたのに、彼を前にすると一言も出てこない。
エルシオンは穏やかに微笑み、リュカオンの頬に頬擦りした。狼族が親愛の思いを伝える時にする動きだ。
そして彼はリュカオンの体にそっと両手を回すと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
「大丈夫、リュカのためなら何でもする」
気持ちのこもった言葉にどうしようもなく心が揺れる。
甘い林檎の香りと温もりに包まれながら、リュカオンは気付いてしまった。この一途で真っ直ぐなうさぎの青年を傷つけたくないと。
ひとしきり抱きしめて満足したのか、エルシオンがゆっくりと身を離す。思わず手を伸ばしかけたリュカオンは、結局彼には触れられずに手を引っ込めた。
「俺……」
やはり誤解は解いた方がいい。そう思って口を開いた途端、邪魔をするように腹の虫が鳴る。
エルシオンはふっと笑みを漏らし、恥ずかしさに硬直しているリュカオンに尋ねた。
「先に食事にするか?」
出鼻を挫かれた上に、またもや彼に腹の音を聞かれてしまった。
時刻は午前六時を回っていて、朝から何も食べていないリュカオンはやっと空腹だったと思い出す。真夜中から今まで箱庭の情報整理をするのに忙しくて、それどころではなかったのだ。
大事な話をしている最中に腹の虫が鳴いては敵わない。そう思った彼は、後で改めて話せばいいと引き延ばすことにした。
「ああ、頼む。今日は豚肉の林檎ソースがけが食べたいな。あの味、なんか懐かしいんだよ」
不思議なことに、エルシオンの作る食事の中にいくつか懐かしい味があった。豚肉の林檎ソースがけもその一つだ。
「あれは父に教わった料理だ。狼族の誰かがレシピを作ったのでは?」
「そう……なのか? なんとなくどっかで食べた記憶はあるんだが、店のメニューにはねぇんだよな」
ずっと昔に失われてしまったレシピなのだろうか。狼族の経営する飯屋では見たことがない。
記憶を呼び起こそうと頑張っていると、エルシオンは静かに立ち上がり、キッチンへ消えていった。
リュカオンが過去の記憶を引っ張り出そうと頭を悩ませている間に、部屋には食欲を誘ういい香りが漂い始めていた。
空腹に耐えきれず食卓に着くと、見計らったかのようにエルシオンが配膳ワゴンを押して現れた。テーブルの上はあっという間に肉料理で埋め尽くされる。
エルシオンがお酒を注いでくれている間に、リュカオンは待ちきれず豚肉の林檎ソースがけに手を伸ばした。
「美味い! やっぱりこの味、最高だぜ」
甘酸っぱい林檎ソースはさっぱりとしながらも、バターのコクが深みを持たせている。
大好きな料理を心ゆくまで堪能したリュカオンは、すっかり上機嫌だ。我も忘れて夢中になって食べていたが、エルシオンが微笑ましげに見ていることに気付き姿勢を正した。
「そういや、さっきのは何だったんだ? 急にガキになって」
照れ隠しに尋ねると、彼はリュカオンのために追加の肉を切り分けながら平然と言った。
「逆行薬だ。飲んだ者の肉体の時間を巻き戻す。あの薬を飲まなければ、私は箱庭に入れてもらえない」
それを聞いたリュカオンはなるほどな、と納得する。
箱庭に入れるのは『可愛いもの』だけだ。子どもの頃のエルシオンは、見るもの全てを虜にするほど愛らしかった。
だが、アリスはどうしてそこまでして彼を近くに留めておくのだろうか。
「それにしたって、不便じゃねぇか。あん中に入るのに、いちいち薬飲まなきゃなんねぇんだろ?」
ただ薬を飲めばいいとはいっても、面倒なことには変わりない。リュカオンには、そうまでして箱庭に拘る理由が分からなかった。
エルシオンは並の狼族では歯が立たないほど強く、箱庭の外でも充分にやっていける。
「外部の者は知らないだろうが、箱庭の住人は外へ出ることを禁じられている」
エルシオン曰く、アリスは箱庭の住人たちに外の世界は危険がいっぱいだと話しているという。確かに狼や狐たちに襲われる危険が無いわけではないが、リュカオンには彼女の言い草が少し大袈裟に思えた。
「ガキどもは? この時期はよく外に出てるじゃねぇか」
二人が初めて出会ったのも黒の森の中だ。
当時のことを思い出したのか、エルシオンは懐かしむように目を細めた。
「あれはアリスに黙って出て来ている。見つかったら叱られるだろうな」
どこの種族も、子どもは言いつけを守らないらしい。しかし、子うさぎたちにとって黒の森は大冒険だろう。
小さな子うさぎだったエルシオンが林檎を取ろうとぴょんぴょんしていた姿を思い出し、リュカオンは思わず顔を綻ばせた。
あの時の可愛い子うさぎがずいぶん立派になったものだ。
どうやら、魔法でどこかに繋げていたらしい。リュカオンは何度か出入りしてみたが、魔法の力はすでに失われてしまったのか、ただ部屋とキッチンを行ったり来たりしただけで終わった。
「それにしても、さっきの子うさぎ……」
愛らしい少年の顔を見て、彼はようやくエルシオンが言っていた五年前に会ったという記憶をはっきり思い出した。
確かに、二人は過去に会っている。あの女の子のような可愛らしい顔、忘れるはずがない。
二人が会ったのも、ちょうど黒の森で宴が開かれていた頃だ。見回り中に見つけた、低い位置にある林檎を取ろうと飛び跳ねていたうさぎ族の子ども。それが幼い頃のエルシオンだったのだ。
「はあ……マジかよ」
両手で顔を覆い、リュカオンはその場にしゃがみ込む。エルシオンの「求愛された」という発言に身に覚えがないと返していたが、実はそれらしいことを言っていたと思い出したのだ。
リュカオンが彼に言ったのは「大きくなって出直してきな」だ。小さいうちは食い出がないから、成獣になってからまた来いという冗談半分の言葉だった。
しかし、考えてみれば求愛と取られてもおかしくない言い回しだ。それが捕食者と餌の関係でなければだが。
まさか、あの時の可愛らしい子うさぎが凛々しい青年に育つとは誰が想像できようか。今の精悍な姿は全くうさぎ族らしくない。
「ま、まあ、これで誤解も解けるな!」
気を取り直したリュカオンは、勢いよく立ち上がった。
当時のことを思い出し、求愛の言葉が誤解だったと分かったのだ。事実を伝えて、今度こそはっきり断ればいい。
ところが、せっかく真相が分かったというのに、リュカオンはあまり喜ぶことができなかった。嬉しそうに自分を見つめる赤い瞳を思い出すと、なぜだか心がちくりとする。
「とりあえず、あいつが帰ってきてから考えよう」
今は自分のことより仲間たちの話が先だ。そう気持ちを奮い立たせ、彼は重い足取りでソファに戻る。
無意識にため息を吐き、手紙の続きを書き始めた。
リュカオンが書き終わった手紙を三回読み返して不備がないか確認していると、ステンドグラスの小窓がついた扉がガチャリと開き、子うさぎではなく普段通りのエルシオンが顔を出した。
「エル!」
リュカオンはやっと帰って来た彼を見るなり弾かれたようにソファから立ち上がり、駆け寄ろうと一歩踏み出しかけて動きを止めた。
これではまるで、寂しかったと言っているようなものだ。誤魔化すように咳払いをして、リュカオンは改めて口を開いた。
「ど、どうだった?」
「内々で話し合って、三日後に答えを出すと言われた。前向きに検討するそうだ」
その言葉にリュカオンはほっとしてソファに腰を下ろす。これで少し肩の荷が降りた。
さっそくサイドテーブルの上に置かれた手紙に用件を書き足していた彼は、ふと隣からの視線を感じて手を止める。
真実を話すなら今かもしれない。ところが不思議なことに、リュカオンの口は縫い付けられたように開かなくなってしまった。
「リュカ」
穏やかな声が鼓膜を揺らす。
リュカオンが手紙から顔を上げると、エルシオンが横から顔を覗き込んでいた。宝石のような赤い瞳は、目が合うと嬉しそうにキラキラと輝く。
「ただいま」
喜びに満ちた声に誘われるように、リュカオンはさらりと垂れる銀髪に手を伸ばした。先ほどまで感じていた気まずさも、顔を合わせると途端に萎んでしまう。
「おかえり。疲れただろ?」
自分でも驚くほど優しい声が出た。頭の中であれこれ考えていたのに、彼を前にすると一言も出てこない。
エルシオンは穏やかに微笑み、リュカオンの頬に頬擦りした。狼族が親愛の思いを伝える時にする動きだ。
そして彼はリュカオンの体にそっと両手を回すと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
「大丈夫、リュカのためなら何でもする」
気持ちのこもった言葉にどうしようもなく心が揺れる。
甘い林檎の香りと温もりに包まれながら、リュカオンは気付いてしまった。この一途で真っ直ぐなうさぎの青年を傷つけたくないと。
ひとしきり抱きしめて満足したのか、エルシオンがゆっくりと身を離す。思わず手を伸ばしかけたリュカオンは、結局彼には触れられずに手を引っ込めた。
「俺……」
やはり誤解は解いた方がいい。そう思って口を開いた途端、邪魔をするように腹の虫が鳴る。
エルシオンはふっと笑みを漏らし、恥ずかしさに硬直しているリュカオンに尋ねた。
「先に食事にするか?」
出鼻を挫かれた上に、またもや彼に腹の音を聞かれてしまった。
時刻は午前六時を回っていて、朝から何も食べていないリュカオンはやっと空腹だったと思い出す。真夜中から今まで箱庭の情報整理をするのに忙しくて、それどころではなかったのだ。
大事な話をしている最中に腹の虫が鳴いては敵わない。そう思った彼は、後で改めて話せばいいと引き延ばすことにした。
「ああ、頼む。今日は豚肉の林檎ソースがけが食べたいな。あの味、なんか懐かしいんだよ」
不思議なことに、エルシオンの作る食事の中にいくつか懐かしい味があった。豚肉の林檎ソースがけもその一つだ。
「あれは父に教わった料理だ。狼族の誰かがレシピを作ったのでは?」
「そう……なのか? なんとなくどっかで食べた記憶はあるんだが、店のメニューにはねぇんだよな」
ずっと昔に失われてしまったレシピなのだろうか。狼族の経営する飯屋では見たことがない。
記憶を呼び起こそうと頑張っていると、エルシオンは静かに立ち上がり、キッチンへ消えていった。
リュカオンが過去の記憶を引っ張り出そうと頭を悩ませている間に、部屋には食欲を誘ういい香りが漂い始めていた。
空腹に耐えきれず食卓に着くと、見計らったかのようにエルシオンが配膳ワゴンを押して現れた。テーブルの上はあっという間に肉料理で埋め尽くされる。
エルシオンがお酒を注いでくれている間に、リュカオンは待ちきれず豚肉の林檎ソースがけに手を伸ばした。
「美味い! やっぱりこの味、最高だぜ」
甘酸っぱい林檎ソースはさっぱりとしながらも、バターのコクが深みを持たせている。
大好きな料理を心ゆくまで堪能したリュカオンは、すっかり上機嫌だ。我も忘れて夢中になって食べていたが、エルシオンが微笑ましげに見ていることに気付き姿勢を正した。
「そういや、さっきのは何だったんだ? 急にガキになって」
照れ隠しに尋ねると、彼はリュカオンのために追加の肉を切り分けながら平然と言った。
「逆行薬だ。飲んだ者の肉体の時間を巻き戻す。あの薬を飲まなければ、私は箱庭に入れてもらえない」
それを聞いたリュカオンはなるほどな、と納得する。
箱庭に入れるのは『可愛いもの』だけだ。子どもの頃のエルシオンは、見るもの全てを虜にするほど愛らしかった。
だが、アリスはどうしてそこまでして彼を近くに留めておくのだろうか。
「それにしたって、不便じゃねぇか。あん中に入るのに、いちいち薬飲まなきゃなんねぇんだろ?」
ただ薬を飲めばいいとはいっても、面倒なことには変わりない。リュカオンには、そうまでして箱庭に拘る理由が分からなかった。
エルシオンは並の狼族では歯が立たないほど強く、箱庭の外でも充分にやっていける。
「外部の者は知らないだろうが、箱庭の住人は外へ出ることを禁じられている」
エルシオン曰く、アリスは箱庭の住人たちに外の世界は危険がいっぱいだと話しているという。確かに狼や狐たちに襲われる危険が無いわけではないが、リュカオンには彼女の言い草が少し大袈裟に思えた。
「ガキどもは? この時期はよく外に出てるじゃねぇか」
二人が初めて出会ったのも黒の森の中だ。
当時のことを思い出したのか、エルシオンは懐かしむように目を細めた。
「あれはアリスに黙って出て来ている。見つかったら叱られるだろうな」
どこの種族も、子どもは言いつけを守らないらしい。しかし、子うさぎたちにとって黒の森は大冒険だろう。
小さな子うさぎだったエルシオンが林檎を取ろうとぴょんぴょんしていた姿を思い出し、リュカオンは思わず顔を綻ばせた。
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