お料理好きな福留くん

八木愛里

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31 福留くんの試験の結果

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 時は流れて十二月の中旬。暖房を付けて肌の乾燥が気になり始める頃。
 始業前に、私は三俣商事を訪れていた。三俣商事の社長は、毎朝七時に会社にいると知っていたからだ。誰よりも早く出勤して、誰よりもこの業界に精通する。それが社長の仕事だと自負していると言った。

 転職に関する返事は、随分と待たせてしまった。それでも悩みに悩んで出した結果だ。三俣商事の社長も、私の言葉を聞いて、頷いた。

「なるほど。それで、後悔はないのだね」

 三俣商事の社長は、私が転職の誘いを断ると念を押すように聞いてきた。

「はい、将来は独立を考えているので、もっと勉強したいことがあるんです。ですから、今回はお引き受けすることができません。申し訳ありません」

 私がキッパリと言って頭を下げると、社長は観念するように息を吐いた。

「私が思うよりも真島さんは上を目指していたようだ。とんだ誤算だったね」

「そんな。恐れ多いです」

「……応援しているよ。きっと真島さんなら独立してもやっていける」

 それ以上の褒め言葉はない。嬉しくて涙が出そうだ。
 何より三俣商事の社長のその心意気に、敬服する。
 私も独立を目指すなら、こんな人になりたい、と思った。

「……ありがとうございます。でも、当分はこの事務所にいるので、しばらくお世話になります」

 感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げた。



 会社の朝礼で所長が職員の顔を見回した。

「今日、税理士試験の結果が発表された。斎藤、福留は受験した科目を合格した。……さらに福留は晴れて税理士になった」

 皆が拍手をする。よかった、と心から安堵した。

「福留から一言」
「はい」

 福留くんは一歩前に進み出た。顔には自信が満ち溢れている。福留くんは今回の試験で合格に必要な五科目の内、残りの二科目の合格を果たした。それは血の滲むような努力の結果だろう。

「まず、皆様に感謝申し上げます。税理士試験は皆様のご協力がなければ成し得なかったことです。本当にありがとうございます」

 福留、硬いぞ! と野次が入る。福留くんは照れたように頬をかく。

「これからがスタートだと思います。信頼してもらえるような税理士になるべく、日々精進していきますので引き続きよろしくお願いします」

 福留くんが頭を下げると、大きく拍手が鳴った。私も拍手を送る。
 朝礼が終わると、外出する人も沢山出てくる。その中で、職員の一人が福留くんを呼び止める。

「二科目受けて、両方合格できるなんてすごいじゃないか」

「何とか。……今年はどうしても譲れなかったので」

 会議室から出ようとした私と福留くんの視線が一瞬合う。

「でも、福留税理士か。聞き慣れないなぁ」

「失礼ですね。これからなんですから」

 少しムキになるように福留くんが言って、二人の笑い声が聞こえた。



 夜になると、いつものように職場には私と福留くんが残っていた。パソコンの電源を落とし、カバンを肩に掛けようとしたところに福留くんが私に声を掛けてくる。

「真島さん!」

 福留くんは真剣な顔で私を見つめている。息を整えて、顔を上げる。福留くんの頬はわずかに赤くなっていた。

「真島さんに並ぶために頑張りました。真島さんが好きです!」

 福留くんは、私に振られると思っているのだろう。
 覚悟を決めたように晴れ晴れとしていた。

「真島さんとはお別れでも、僕は真島さんがずっと好きです」

「引き抜きの話、断ることにしたわ」

「えっ……そうなんですか⁈」

「私は取締役待遇で社員になるのではなく、いつか自分の税理士事務所を立ち上げたいの。そのためにはこの事務所でもっと学ばなくてはいけないでしょ。……福留くんと一緒にいたいから引き抜きを断ったわけじゃないからねっ。おばあさんにも頼まれたしっ」

 福留くんの諦めかけた瞳に光が宿った。

「おばあさんから頼まれた……?」

「そうよ。福留くんのおばあさんから孫を頼みますって言われたじゃない」

「というと?」

 福留くんは再度聞き返してくる。

「私も、福留くんとお付き合いをしたいと思っているよ」

 福留くんからぎゅっと抱きしめられて「きゃあっ」と小さく悲鳴をあげる。

「あっ。すみません。つい。先輩が可愛くて」

「もう、失礼ね! 私は君より四歳も年上なのよ!」

「真島さん、好きです」

 そう告げる福留くんは可愛かった。
 私もようやく、自分の気持ちに正直になることにした。

「好きよ。私も、好き」

 福留くんの肩に頭を預ける。
 しばらく抱き締められた形でいると、福留くんはそっと体を離した。
 一つの疑問が頭の中によぎる。

「そう言えば、杉原さんから料理の指導を頼まれていた話はどうすることにしたの?」

 杉原さんの紅潮した頬を思い出し、聞いてみる。

「断りました。僕が料理を教えたいのは真島さんだけです」

「どう言って断ったの?」

「……聞きたいですか?」

「やっぱり、聞かない」

 聞いておきながら、怖くなった。福留くんはフッと笑う。
 あえて言うつもりなのだ。そういえば福留くんは、少しだけイジワルというか、サディスティックなところもある気がする。

「僕、料理講座は真島さんへの下心があって始めたんです。だから、僕は真島さんのことを諦めていないのでごめんなさい、と」

 愛の告白のようで恥ずかしい。
 ここが、もう誰もいない職場でよかった。

「そういうことね」

「僕は真島さん一筋ですから」

「……恥ずかしい」

 くすぐったいような気持ちになるのはいつぶりだろう。
 この暖かい気持ちを大切にしていこうと、私は福留くんの笑顔に誓った。
 事務所の鍵をかけて帰るときに、私は思い出したように言う。

「福留くんとやりたいことがあったんだった」

「やりたいことって?」

 福留くんは聞き返す。
 やっぱりこれでしょう。これしかない!
 私はニッと笑った。

「福留くんとまた一緒に料理を作りたい!」
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