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第六話 侵入者と偽の契約書

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 山小屋の夜の明かりはテーブルの上の小さな蝋燭と、カイトが置いて行ったランプだけだった。

 夕食の食器を片付け終えると、扉の方からガタンを大きな音がした。

「カイト!?」

 この山小屋に訪ねてくる唯一の人。会いたくて会いたくて堪らない人の名を呼び、ファビオラは顔を綻ばせ慌てて扉を開けた。

 だが、そこに立っていたのは待ちわびた人ではなかった。

 ファビオラは顔を引きつらせ後退る。

「…テリアスさん?」

 テリアスは不機嫌そうな顔を隠しもしない。

「カイトって誰だ?」

 そう言うと何の許可もなく入って来たテリアスは持っていたランプをテーブルの上に置いた。
 母親似なのかスラリとした長身のテリアスは口元を歪ませる。彼女に注がれる品定めするような不躾で下品な視線は父親に似ていた。

「あなたに答える必要はありません。出て行ってください」

 カイトと勘違いして扉を安易に開けてしまったことを心底悔やんだ。

「大人しそうな顔をして、こんな小屋に男を引き入れていたのか?」
「出て行ってください!」

 テリアスは忌々し気に顔を顰める。

「おまえ、生意気にも俺との結婚を断ったろ? 未だに貴族気取りかよ。俺だって薄汚い女と結婚なんかしたくはないが…おまえごときが俺の顔に泥を塗るなんてあっちゃならないんだよ!」

 ドンッと拳で壁を殴るとファビオラに近づいてくる。

「この俺が、結婚してやろうって言っているのに何が不満だよ。貧乏から抜け出せるだろ? おまえみたいな女でも金を使って磨けば昔のように少しは見栄えするようになるぜ」

 テリアスはファビオラの肩を掴むと乱暴に床に押し倒した。

「何するのよ! やめて!」

 ファビオラは無我夢中で藻掻きテリアスの頬を爪で引っ掻く。

「つ…」

 テリアスが怯んだ隙に必死に手を伸ばし、壁に立て掛けられていた弓を掴んで引き寄せる。カイトが狩猟の仕方を教えてくれた際に、ファビオラでも使いやすいサイズのものをと作ってくれた、お手製の弓だった。

 頬を押さえるテリアスを弓で思いっきり殴ると衝撃で切れた弦がテリアスの腕を鋭く打つ。

「痛ぇ!くそっ」

 彼が痛みで床に転がった隙に床を這いつくばって逃れると、ファビオラは台所に置いてあったナイフをテリアスに向けた。

「おい…おまえ。なんだよ…冗談だろ」
「冗談なんかじゃないわよ。早くここから出て行って!」

 ゆらりと立ち上がるとナイフを手にテリアスに向かって一歩近づく。

「ひっ」
 
 ファビオラの常軌を逸した行動に、怯えたテリアスはランプを引っ掴むとそのまま振り返りもせずに飛び出していった。



 テリアスが去った後、呆然としていたファビオラは冷静さを取り戻すにつれ体に痛みを感じた。
 床に押し倒された時に背中と左半身を強く打ったようで酷い青痣になっていた。右足も捻ったのか歩こうとすると足首に痛みが走る。どうにか、薬草を磨り潰し足首に塗ると上から清潔な布を当て包帯を巻いた。   

 ファビオラは恐怖で眠れぬまま朝を迎えた。

「今日はタンドル先生の所に薬草を届ける日だわ…」

 足首は痛いが歩けないほどではない。大事なお客様に連絡も出来ないまま約束を破ることは出来ないし、信頼を裏切ることも心配をかけることもしたくない。

 ファビオラは背に薬草の入った袋を背負い、足を引き摺りながら山を下りた。
 いつも三倍以上の時間をかけて診療所に辿り着くと、足を引き摺るファビオラを見てタンドル医師は直ぐに手当てをしてくれた。
 医師である彼は左の袖口と、襟元から見える青痣を見逃さなかった。

「ファビオラさん、何があったのですか?」

 有無を言わせぬ強い視線を向けられ、昨夜あったことをポツリポツリと話すしかなかった。

「どうして、テリアスがそんなことを」
「私が…結婚のお話を断ったからだと思います」

 ファビオラは迷いながらも、爵位の売買のこと、新たな生活に向ける想いを話した。
 タンドル医師の顔には、いつもの柔和な笑顔はなく眉間に深い皺が寄せられている。

「今日は診療所に泊まっていきなさい。一人で山小屋にいるのは危険だし、この足では山を登るのは無理だ。怪我の状態が良くなるまで診療所の当直室で寝泊まりすると良い。わかったね?」

 ファビオラも怪我した足で山小屋まで帰れる自信はなかった。

「いつもお世話になってばかりで申し訳ありません。お言葉に甘えて当直室を使わせていただきます」

 頭を下げるファビオラにタンドル医師は大きく頷いた。

「カイト君には連絡したのかい?」
「カイトに連絡を取る方法がなくて。仕事で暫く来れないって言っていたのですが。それから二週間…今度いつ来るのかもわからなくて」

 じわりと瞳に涙の膜が張るのがわかった。

 泣きそうになるファビオラだったが、なにやら廊下が騒がしい。休診時間の筈だが急患だろうか。
 部屋に入ってきた看護師は困惑顔だ。ゴードンがファビオラに会わせろと騒いでいると言うのだ。

「会いたくないなら、いないとしらを切り通します」

 きっと用件は昨晩のテリアスのことに違いない。被害者は自分だが可愛い息子の顔に傷をつくった私に腹を立てているのだろう。

「お会いします」

 罵詈雑言をぶつけられても構わない。テリアスとの結婚話はなくなるのなら本望だ。

「何かあったら、大きな声で呼んでください。廊下にいますから」

 ファビオラは退室するタンドル医師の言葉に頷いた。
 入れ替わりに入って来たゴードンは横柄に診察室の椅子に腰掛けた。

「ファビオラ様が、この診療所に出入りしていると聞いて訪ねてまいりました。流石に私の様な老体には山を登るのは無理がありますので」

 汚い物でも見る様な目でファビオラを見ながらも口調だけは丁寧だ。ゴードンは包帯の巻かれたファビオラの足首を見るとニヤリと笑った。

「おや、お怪我でもなさいましたか?」
「たいしたことはありません。ちょっと転んだだけですわ」
「それは、それは…ご注意くださいよ? しかし偶然ですな、息子も昨晩…頬や手に傷を負って帰って来たのですよ。しかも、ファビオラ様と結婚なんてしたくないと癇癪を起しましてねぇ。いやぁ、困り果てました」

 ゴードンは昨晩のことで腹を立ててはいるもののファビオラを罵るつもりはないらしい。

「双方に結婚の意思がないのなら、この話は破談にするしかございませんな。私から言い出したことなのに申し訳ございません。お詫びと言っては何なのですが…爵位の売買契約の件…こちらでいかがでしょう?」

 小切手に書かれた金額は二年前と同じとはいかないまでも、前回の金額に随分と色を付けた金額だった。

 もう、このことは終わりにしたい。いつまでもゴードン達と関わることは避けたかった。会うのも、これで最後にしたい。

「これで結構です」
「そうですか。では、契約成立ですな」

 用意周到なゴードンは鞄の中から売買契約書を取り出した。金額が小切手と同じであることと、如何なる場合も返還には応じないという文言を丁寧に確認するとファビオラは契約書にサインした。

 満面の笑みを浮かべたゴードンはファビオラに控えを渡すと、用は済んだとばかりにさっさと帰って行った。


 翌日、何もせずにお世話になるのは心苦しいからと、簡単な作業を請け負った。洗濯された綺麗な包帯を巻いていく作業や、入院している竜たちの食事の用意だ。

 診察が終わり片付け作業をしていると、一人の柄の悪そうな男が待合室に入って来た。

「申し訳ありません。今日の診察は終わってしまったのですが…急患ですか?」

 声をかけるファビオラに男は赤黒い顔を可笑しそうに歪めた。

「ここにファビオラっているかい?」

「私ですが…なにか?」

 見知らぬ男に自分の名を知られていることに酷く警戒し身構えた。

「ああ、あんたか。探す手間が省けて良かったぜ。荷物まとめてさっさと俺について来な」
「は? 何故、見ず知らずのあなたについて行かなくてはいけないのです?」

 ファビオラは嫌な予感がして手に持っていたカルテを握り締める。

「俺があんたを王都の娼館まで連れて行ってやるのさ。時間がねぇんだよ。さっさとしてくれ」
「な、何を…どうして私が娼館になんか行かなくてはならないのですか!?」
「ほらよ。こっちには契約書もちゃんとあるんだ。ここにあんたのサインもしてあるじゃねえか」

 驚きで目を見開いた。契約書には確かに自分のサインがあったからだ。サインは自分のもので間違いない。しかし、娼館に行くなどという契約書にサインした覚えなどない。

 瞬間、ハッとして一気に血の気が引いた。この三年間、自分がサインをしたのはたった一回だけ。昨日、ゴードンが持ってきた爵位の売買契約書だけだ。

 …やられた。
 まんまと罠に嵌められたのだ。
 もしかしたら契約書が巧妙に二重になるよう細工されていたのかもしれない。

「ち、違います! こんな契約書にサインした覚えはありません! きっと、昨日の契約書に細工されていて…騙されに違いありません!」
「あんたが騙されたかどうかなんて、どうやって証明するんだ? 警備隊の所にでも行くってのか?」

 男は鼻で笑った。

 町の治安を守る警備隊は国の組織ではあるが、今ではこの町の権力者ゴードンに賄賂漬けにされ、あの男の言いなりだ。

「時間がねぇって言ってるだろ」

 男はファビオラの腕を掴むと無理矢理、診療所から引き摺り出した。
 タンドル医師が後を追って来たが、男の仲間らしき奴等に囲まれ地面に抑えつけられてしまう。

「やめて! 先生に乱暴しないで!」

 ファビオラの叫び声が響くのも虚しく、診療所の目の前に用意されていた馬車の荷台に放り込まれた。

「うっ、痛っ…」
「あんた、貴族のお嬢様だってな。安心しな。あんたが売られるのは、そういう高貴な女を好む客が集まる高級娼館だ。幸運だったなぁ」

 男がそう言うと、荷馬車の幌は下ろされファビオラの視界は閉ざされた。



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