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第四章 初夜に向けて
第12話 胸愛撫(下)
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(アグーズ以外でも軽犯罪が増えているな。兵士を派遣して都市内の巡廻を増やした方がいいか……?)
旧ジャノオン王国時代に苦しくなった生活を立て直せていない民たちの仕業ならば、まだなんとかできる。捕らえて罪を償わせて、まっとうに働けば生きていけるように国が支援すればいいからだ。だが、それらの軽犯罪の裏に組織的な思惑があると厄介だ。たとえば、悪政を行っていた張本人である旧左大臣ブルース・ノートンの一派が議会への反乱を企てているなど。
(この国はまだ、過渡期にある)
自滅という形で滅びたデシエトロンとは違って、ジャノオン王国はロイック首謀のクーデターによって滅亡した。旧王族の血は途絶え、この国は国民の代表者が政治を行う共和制へと移行した。だが、旧時代の権力側にいた人間たちはまだ生きている。新たな時代を認めまいと、彼らは新しい国家の転覆を虎視眈々と狙っているはずだ。
(ロイックもそれはわかっている。だが、決定的な尻尾がつかめない。新たな国で作られた新たな法で裁けるほど、奴らはまだ明確な罪を犯していない)
新しい国の安定を図りつつ、旧時代の者たちとの最後の決着をつけるべく、ロイックもキアンも警戒を続けていた。
そうして事務仕事を終わらせたキアンは、執務室を出て愛馬にまたがると帰路についた。肩に力が入っているのが自分でもわかるが、帰宅すれば解消されるはずだ。
「お帰りなさいませ、キアン様」
正門で馬を下り、雑用使用人の男に手綱を渡す。そして玄関ドアを開けると、妻のティルフィーユがほほ笑みながら出迎えてくれた。
「ただいま」
「お疲れ様です。お夕飯は先になさいますか」
「ああ、そうする」
キアンはまず自室に行って服を着替えてから、食堂に向かった。そしてティルフィーユと二人、向かい合って夕餉にする。
「今日は予定通りアプ族の族長様がいらっしゃって、お話しさせていただきました」
「族長は息災だったか」
「はい。でもそろそろ代替わりを考えているとのことで、その際はキアン様にもしっかりとご挨拶されたいと」
「わかった」
食事を進めながら、キアンはティルフィーユの話に相槌を打った。まるで葬式中かのように沈黙してまったく話さなかった数週間前の二人は完全にいなくなり、基本的にティルフィーユの方が話しかける形だったが、二人はごく自然と会話ができるようになっていた。それは夕餉の席だけでなく、寝室での夫婦の時間も同様だった。
「すーぅ……」
湯浴みを終え、寝台の上であぐらをかいたキアンは、その足の間に座らせたティルフィーユを背後から抱きしめた。そしてしばらくの間、ティルフィーユのうなじに頬を寄せて深呼吸を繰り返す。ティルフィーユからは肌の調子を整えるために塗った薬剤の匂いなのだろうか、さわやかな柑橘系の匂いと果実のような甘さが交じり合った、とてもいい匂いがする。その匂いを嗅いでいると、昼間の仕事の負荷は全部忘れて、キアンは心からリラックスできるのだった。
「キアン様、お疲れですか」
自分の身体を抱きしめているキアンの腕をさすりながら、ティルフィーユは尋ねた。キアンの深い息が吐き出されるたびに首筋にくすぐったさを感じるのだが、どこか弱々しいキアンを払いのけるのはとても気が引けるので、ティルフィーユはおとなしく耐えていた。
「いや、そこまで疲れているわけではない」
キアンはティルフィーユの頬に手のひらを伸ばし、その顔を自分の方に向けさせて彼女の唇を甘ったるく食んだ。
「ティルは?」
「私も、特別に疲れた……ということはありませんよ」
ティルフィーユは気恥ずかしそうにほほ笑む。
互いの体調を確認するやり取り。これが何を意味するのかというと、文字通り互いの疲労具合などを心配してのやり取りではあるが、これから睦み合いをしていいかどうか、という確認も含んでいるのだ。
「今日は少し進めるか」
ティルフィーユを抱きしめる形のまま、キアンは手のひらを動かし始めた。
旧ジャノオン王国時代に苦しくなった生活を立て直せていない民たちの仕業ならば、まだなんとかできる。捕らえて罪を償わせて、まっとうに働けば生きていけるように国が支援すればいいからだ。だが、それらの軽犯罪の裏に組織的な思惑があると厄介だ。たとえば、悪政を行っていた張本人である旧左大臣ブルース・ノートンの一派が議会への反乱を企てているなど。
(この国はまだ、過渡期にある)
自滅という形で滅びたデシエトロンとは違って、ジャノオン王国はロイック首謀のクーデターによって滅亡した。旧王族の血は途絶え、この国は国民の代表者が政治を行う共和制へと移行した。だが、旧時代の権力側にいた人間たちはまだ生きている。新たな時代を認めまいと、彼らは新しい国家の転覆を虎視眈々と狙っているはずだ。
(ロイックもそれはわかっている。だが、決定的な尻尾がつかめない。新たな国で作られた新たな法で裁けるほど、奴らはまだ明確な罪を犯していない)
新しい国の安定を図りつつ、旧時代の者たちとの最後の決着をつけるべく、ロイックもキアンも警戒を続けていた。
そうして事務仕事を終わらせたキアンは、執務室を出て愛馬にまたがると帰路についた。肩に力が入っているのが自分でもわかるが、帰宅すれば解消されるはずだ。
「お帰りなさいませ、キアン様」
正門で馬を下り、雑用使用人の男に手綱を渡す。そして玄関ドアを開けると、妻のティルフィーユがほほ笑みながら出迎えてくれた。
「ただいま」
「お疲れ様です。お夕飯は先になさいますか」
「ああ、そうする」
キアンはまず自室に行って服を着替えてから、食堂に向かった。そしてティルフィーユと二人、向かい合って夕餉にする。
「今日は予定通りアプ族の族長様がいらっしゃって、お話しさせていただきました」
「族長は息災だったか」
「はい。でもそろそろ代替わりを考えているとのことで、その際はキアン様にもしっかりとご挨拶されたいと」
「わかった」
食事を進めながら、キアンはティルフィーユの話に相槌を打った。まるで葬式中かのように沈黙してまったく話さなかった数週間前の二人は完全にいなくなり、基本的にティルフィーユの方が話しかける形だったが、二人はごく自然と会話ができるようになっていた。それは夕餉の席だけでなく、寝室での夫婦の時間も同様だった。
「すーぅ……」
湯浴みを終え、寝台の上であぐらをかいたキアンは、その足の間に座らせたティルフィーユを背後から抱きしめた。そしてしばらくの間、ティルフィーユのうなじに頬を寄せて深呼吸を繰り返す。ティルフィーユからは肌の調子を整えるために塗った薬剤の匂いなのだろうか、さわやかな柑橘系の匂いと果実のような甘さが交じり合った、とてもいい匂いがする。その匂いを嗅いでいると、昼間の仕事の負荷は全部忘れて、キアンは心からリラックスできるのだった。
「キアン様、お疲れですか」
自分の身体を抱きしめているキアンの腕をさすりながら、ティルフィーユは尋ねた。キアンの深い息が吐き出されるたびに首筋にくすぐったさを感じるのだが、どこか弱々しいキアンを払いのけるのはとても気が引けるので、ティルフィーユはおとなしく耐えていた。
「いや、そこまで疲れているわけではない」
キアンはティルフィーユの頬に手のひらを伸ばし、その顔を自分の方に向けさせて彼女の唇を甘ったるく食んだ。
「ティルは?」
「私も、特別に疲れた……ということはありませんよ」
ティルフィーユは気恥ずかしそうにほほ笑む。
互いの体調を確認するやり取り。これが何を意味するのかというと、文字通り互いの疲労具合などを心配してのやり取りではあるが、これから睦み合いをしていいかどうか、という確認も含んでいるのだ。
「今日は少し進めるか」
ティルフィーユを抱きしめる形のまま、キアンは手のひらを動かし始めた。
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