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第六章

人から出るもの③

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 基地のフェンス越しに繰り広げられる憎悪の叫び。その様子を夕陽はただ、呆然と立ち尽くして眺めていた。荒れに荒れ、落ち込む敏生を見ているのがあまりにも辛くて、無意識だったとはいえ彼に突き飛ばされたことがあまりにもショックで、つい一人で逃げ出してしまった休憩時間。だからこれは彼を見捨てた罰なのかもしれない。
 もちろん、これまでにもフェンス越しのデモは千歳時代から何度も目にしたことがある。
 自衛隊は違憲だというものや、夜間離着陸訓練の差し止めといった、どちらかと言うとその手のデモを職業とするプロ市民達による小規模なものばかりだった。
 だが今回は違う。大勢の、どう見ても普通の市民達が基地を取り囲み〝中国を許すな!!〟と真剣な表情で叫んでいる。
 これが…敏生の言う憎しみの連鎖なの……?
〝どこかで断ち切らないと、憎しみの連鎖は際限なく続き、それは破滅へと繋がる〟
 敏生が事態勃発の夜に夕陽を窘(たしな)めた言葉。あの時、敏生が引き戻してくれなかったら彼ら同様、間違いなく自分もこの醜いまでの憎悪の渦に巻き込まれていたはずだ。
 一部の反政府系マスコミでは国民達に冷静な態度を取るよう呼びかけていたが、日頃より売国的な捏造報道に終始し、反対のための反対しか唱えてこなかった彼らの言に耳を傾ける国民など、この状況下では今や誰一人としていなかった。
 許すなって…、あなた達は何がしたいの…? あたし達に何をさせたいの……?
 声高に叫ぶその誰もが自分達の正義を微塵も疑っていない様子で、夕陽は目眩を覚えた。
 心臓がドクンと跳ねる。
 彼らは分かっているのだろうか? その言葉の意味を。
 分かっているのだろうか? 自分達が何をさせようとしているのかを。何を求めているのかを。
〝世界で最も危険な動物〟
 それはライオンでもなくクマでもなく、ニューヨークのブロンクス動物園で見ることができる。
 檻の中の、鏡に映る醜い己の姿を!!

 ユルスナ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、ヤツラヲコロセ

 悪魔とは人間だったのか。
 弱い人間達の心を、ものすごい速さで蝕んでいく憎悪の炎。その悪魔達の叫び声が夕陽の脳を穿うがつ。
 やだ…、やめて…、怖い…怖い…怖いよぉ……。
「夕陽!!」
 大声と共にグイッと腕を引っ張られ、夕陽は我に返った。
「こんなところで何やってんだバカ!!!」
 怒った様子の敏生に引きずられ、デモからの死角になる格納庫ハンガーの裏に連れ込まれると、彼に痛いくらいに強く抱き締められた。そして、まるで憎しみの残り香を夕陽の身体から振り払うかのように、敏生が背中や頭に手を這わせる。
 あたし…また敏生に助けられた……。
 若葉がマスコミに祭り上げられて以降、塞ぎがちになり、無理に笑顔を作ることすらしなくなった敏生。そんな彼を見ているのが辛くて逃げ出した卑怯な自分を、それでも敏生は心配して助けにきてくれたのだ。夕陽はもう何もかも自分が情けなく、許せなかった。
「ごめんなさい! ごめんなさぃ…あたし…」
 泣きじゃくり、彼の胸にしがみついて赦しを乞う。
「もう大丈夫だ。すまなかった」
 そう言って敏生は彼女をさらに強く抱き締めた。そして、悪魔達のうめき声のする方向を見据えて睨みつける。
 お前らはそんなに俺達を戦争に行かせたいか。
 お前らはそんなに俺達に人殺しをさせたいか。
 だが覚えておけ正義の面を被った悪魔ども。もし俺が戦うとしたら、それはこいつを守るためだ!! 仲間達を守るためだ!! 誰がお前らのためになんか血を流すものか!!
 今、腕の中に確かに存在する、自分の生きる意味。俺はもう何があってもこの腕の中の温もりだけは決して失いやしない。
 危うく手離すところだった大切な宝物を二度と離すまいと心に誓った。血が滲むほどに唇を噛み締めながら。


 民衆達の憎しみの連鎖により、後戻りできないところまで追い込まれてしまった日中両国の政府。
 事態発生から五日後、先に動いたのは中国だった。日本の偵察衛星が青島を出港する空母「遼寧」と護衛の駆逐艦・フリゲート艦六隻を、また、寧波を出港する駆逐艦五隻を捉えた。中国三大艦隊のうち、北海艦隊と東海艦隊の二つの艦隊から稼働可能な主力艦を繰り出してきたことになる。停泊していた数隻の潜水艦もいなくなっているので、恐らくこの中に紛れているはずだ。
 中でも日本の防衛関係者を驚かせたのが、中国が虎の子の空母「遼寧」を出撃させたことだった。建造中止となった旧ソ連の空母「ヴァリャーグ」を買い上げて膨大な費用を注ぎ込み、独自に完成させた「遼寧」は中国海軍のシンボル的な存在。
 これまでも常にデリケートな扱いを受けていて、今回も失うことを極度に怖れて温存してくると考えていただけに、内政面で土壇場にまで追い詰められた共産党指導部が人民の目を外患対処で逸らそうとしていることが容易に想像できた。
 ここまで来ればもう話し合いの余地など残されておらず、中国が動いた以上、日本政府も動かざるを得ない。
 その翌朝、ついに戦後初めての防衛出動命令が下されることとなった。

 そして防衛出動命令から二時間後、「いずも」を旗艦とする横須賀第一護衛隊群の尖閣諸島への出撃が決定した。

 初冬を迎えたばかりの、穏やかな小春日和の日の出来事だった。
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