16 / 237
2章
2
しおりを挟む
毎日のように言われ続ければ慣れもするが、塵のような苛立ちが積もらない訳でもない。そうした内面の不調を、志貴は週に一度、思い切り体を動かすことで整えていた。
「精が出るな、志貴」
「中佐こそ。たまにはゆっくりお休みになってはいかがですか」
休みの日、志貴は公使館から徒歩で三十分ほどのところにある、海軍武官府に足を運ぶことにしている。そこには、母国でのご近所さんであり、幼馴染でもある衛藤一洋中佐が赴任しており、武官府の広間を一時的に改装して毎週柔道の道場を開いていた。日本からわざわざ畳を持ち込んでいる本格派で、有名な道場の三男坊という彼の生まれと、その道場主である父親の誇りがそうさせているようだった。
元々は武官たちの自主的な鍛錬の場として開かれたが、やがて身元が確かであれば、軍籍の有無を問わずに希望者を受け入れるようになった。子供の頃から、数年間隔の中断はありつつも衛藤家の道場に通い、護身術として柔道を習っていた志貴も、一洋に誘われて通い続けている。体を動かす機会は貴重な上、仕事を離れて一洋と話ができるのは、異国での任務で緊張を日常とする中で、唯一身構えずにいられる大切な時間でもあった。
「俺が休んだら、道場が立ち行かないだろう」
「中佐の他にも、指導できる上級者はいます。現にお忙しい時は、代理の方が面倒を見て下さっているでしょう」
「その『中佐』といい、他人行儀な話し方といい、何とかならないか。背中が痒くなってくる」
軽い調子で苦情を言われ、志貴は曖昧な笑みを浮かべた。
稽古が終わり、畳を片付けて和の道場を洋の広間に復元するのは、所属、階級を問わず全員で行うことになっている。一洋の気さくな人柄と、リベラリズムと柔軟性を尊ぶ海軍伝統の気風が、このマドリードの地に風通しのいい邦人の社交場を作っていた。
本国や他国の在外公館では、互いに冷ややかに距離を置く陸軍武官とも友好的な協力関係を築き、情報共有も頻繁に行われているという。公使館も武官府も小所帯で家族を帯同する者もなく、民間邦人も少ないスペインという任地だからこそ醸成された、特別な同胞意識なのかもしれない。
とはいえここには、一洋の部下も陸軍の武官も集まる。その前で、昔お世話になったというだけの幼馴染が図々しく振る舞うことなどできるはずもない。親しき中にも礼儀あり、というのは真実だ。せっかく一洋が心を配って和やかな場を作っているのに、彼との付き合いに甘えて秩序を乱しては本末転倒だ。特に軍人との間には、明確にけじめをつけた方がいい。
しかし、誰に対しても垣根を作らない一洋は、志貴の態度が不服なようだ。
「諸君、今は出世して立派に一等書記官を務めているが、志貴は昔は俺の後ろに隠れているような子だったんだ。可愛い弟分だから、くれぐれも苛めてくれるなよ」
「中佐!」
「精が出るな、志貴」
「中佐こそ。たまにはゆっくりお休みになってはいかがですか」
休みの日、志貴は公使館から徒歩で三十分ほどのところにある、海軍武官府に足を運ぶことにしている。そこには、母国でのご近所さんであり、幼馴染でもある衛藤一洋中佐が赴任しており、武官府の広間を一時的に改装して毎週柔道の道場を開いていた。日本からわざわざ畳を持ち込んでいる本格派で、有名な道場の三男坊という彼の生まれと、その道場主である父親の誇りがそうさせているようだった。
元々は武官たちの自主的な鍛錬の場として開かれたが、やがて身元が確かであれば、軍籍の有無を問わずに希望者を受け入れるようになった。子供の頃から、数年間隔の中断はありつつも衛藤家の道場に通い、護身術として柔道を習っていた志貴も、一洋に誘われて通い続けている。体を動かす機会は貴重な上、仕事を離れて一洋と話ができるのは、異国での任務で緊張を日常とする中で、唯一身構えずにいられる大切な時間でもあった。
「俺が休んだら、道場が立ち行かないだろう」
「中佐の他にも、指導できる上級者はいます。現にお忙しい時は、代理の方が面倒を見て下さっているでしょう」
「その『中佐』といい、他人行儀な話し方といい、何とかならないか。背中が痒くなってくる」
軽い調子で苦情を言われ、志貴は曖昧な笑みを浮かべた。
稽古が終わり、畳を片付けて和の道場を洋の広間に復元するのは、所属、階級を問わず全員で行うことになっている。一洋の気さくな人柄と、リベラリズムと柔軟性を尊ぶ海軍伝統の気風が、このマドリードの地に風通しのいい邦人の社交場を作っていた。
本国や他国の在外公館では、互いに冷ややかに距離を置く陸軍武官とも友好的な協力関係を築き、情報共有も頻繁に行われているという。公使館も武官府も小所帯で家族を帯同する者もなく、民間邦人も少ないスペインという任地だからこそ醸成された、特別な同胞意識なのかもしれない。
とはいえここには、一洋の部下も陸軍の武官も集まる。その前で、昔お世話になったというだけの幼馴染が図々しく振る舞うことなどできるはずもない。親しき中にも礼儀あり、というのは真実だ。せっかく一洋が心を配って和やかな場を作っているのに、彼との付き合いに甘えて秩序を乱しては本末転倒だ。特に軍人との間には、明確にけじめをつけた方がいい。
しかし、誰に対しても垣根を作らない一洋は、志貴の態度が不服なようだ。
「諸君、今は出世して立派に一等書記官を務めているが、志貴は昔は俺の後ろに隠れているような子だったんだ。可愛い弟分だから、くれぐれも苛めてくれるなよ」
「中佐!」
21
あなたにおすすめの小説
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、
隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。
しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです…
オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が
なかたのでした。
本当の花嫁じゃない。
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる