赤に踊る獣

音羽夏生

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 いくら仕事が切羽詰っていても、忍はそれを休み時間に持ち込まない。昼食の間に交わす会話は仕事とは無縁の、最近観た映画だったり、面白かった本の感想だったりする。
 そういうオンとオフの潔い切り替えを、千秋はとても気に入っていた。
 前の会社の企画担当は、だらだらとメリハリなく仕事の話をするタイプで、自分の時間を大切にする千秋を相当うんざりさせたものだった。
 しかも大してデザインに造詣が深いわけでもないのに、付け焼刃の知識を振りかざして千秋のデザイン画に難癖をつけてきたりもした。その浅薄な知識と的外れな指摘には、失笑するしかなかったものだ。
 資産家の次男に生まれ、働かなくても一生暮らしていけるだけの財産を受け継ぐ千秋にとって、ジュエリーデザイナーという仕事は、自分の美意識と才能を具現化し、それによって世の女性をより美しくするという、芸術的使命を果たす手段に過ぎない。
 給料の多少など問題ではなく、『好きにデザインしていい』という河野が提示した条件は、何よりも魅力的だった。迷うことなくカワノ宝飾店に移り、その一年後に最強の難敵として現れたのが忍だ。
 今や『商品企画の金庫番』と社内で崇められる忍は、コスト的見地で反対意見を述べても、デザインについて口出しすることは絶対にない。
 デザインは千秋の仕事で、千秋はやるべきことをしている。忍はそれを商品化するために、障害となるコストの削減に力を尽くす。それぞれの仕事、自分の置かれた立場をわきまえているのだ。

(まあ、美的オンチがデザインにケチをつけるなど、分不相応だとわかっているんだろうが)

 芸術家の厳しい審美眼を持つ千秋の目を奪うほどの、清冽でたおやかで、どこか謎めいた印象を与える美貌。けれど忍は、その奥にとてつもないガッツを秘めた、コスト削減の鬼だった。
 そのギャップがまた、堪らなくいい。
 外見が美しいだけではなく、責任と自負をもって仕事に取り組む一人前の男。ゴージャス美意識で周囲を惑わす千秋に冷静に斬り込み、時には骨を断つ気骨も見せる。
 実務的に偏りすぎた彼の美意識には脱力させられるが、その分矯正プログラムで完全な美を構築していく愉しみは、何物にも替え難い。──あまり進捗はないが。
 忍は美しい箸使いで、近所の小料理屋の昼定食を口に運んでいる。
 洋食のテーブルマナーはそれなりでも、箸を正しく端正に使える人間は男にも女にも少ないが、忍はちゃんとした躾をする家庭で育ったようだ。そうした基本的なマナーや心遣いをさらりとこなすところも、外見だけではない彼の美点の一つだと千秋は思っている。
 黙々と目の前の定食を攻略していた忍は、ふと肉じゃがの小鉢で箸を止めると、「肉じゃがは、寮の哀しい記憶の味がします」と意味深にぽつりと洩らした。

「哀しい記憶?」

 忍が中高と全寮制の男子校に通っていたことは聞いている。これまでに何度か聞く機会のあった寮生活の思い出は、それなりに楽しかったものとして語られていた。

「いつも餌食になっていたんです。週末はいつも戦争で……みんな恐ろしく飢えていたから。俺は上手いらしくて、気がつくと手が伸びてきて……やめろと言っても代わる代わる突っ込まれて……すべて奪われました」

 肩を震わせながらため息を零す様子は、愁いを帯びて壮絶に色っぽい。
 普段なら心ゆくまで堪能するところだが、今の千秋にそんな余裕は欠片たりともなかった。

(何、だって……?)

 千秋の心象風景を表すように、手を伸ばそうとした茶碗の中、意気揚々と立っていた茶柱がかくんと倒れた。
 前触れもなく突然語られた凄惨な過去に、いつも鷹揚とした佇まいを崩さない千秋ですら顔色を失う。
 これまで忍は、あっけらかんと寮の思い出を口にしていた。その屈託のなさから、男子寮という、男臭さを感じさせない涼しげな美貌には安全とは言えない空間でも、つつがなく過ごし卒業したのだと思っていた。
 しかし実際は、週末毎に獣欲の権化となって襲い掛かる、同寮生たちの性の餌食となっていたとは。
 千秋の知る限り、忍の恋愛対象は女性に限られている。手加減を知らない高校生を相手に、色白のしなやかな体はどれほどの苦痛と屈辱に泣いたのだろう。
 もしくは──毎週の生贄の儀式に慣れ、汚れた雄を受け入れて心は血を流しても、体は歓喜に打ち震えていたのか。
 硬直した千秋の脳を駆け巡る淫靡な妄想に、忍は陰鬱な調子で止めを刺した。

「妊娠したくなければ側を離れるな、なんて言う友達もいたけど、あいつにも奪われたっけ……俺の昼飯」
「──は?」

(──昼飯?)

 停止した思考に、言葉が続かない。絶句した千秋をよそに、忍は淡々と続けた。

「昼飯ですよ、昼飯。寮の食堂は土日の昼は休みで、食べに出るか作るかしなきゃいけなくて。俺は自炊派だったんですけど、どうも料理が上手いみたいで、横からいつもおかずに箸を突っ込まれていたんです。肉じゃがは簡単だからよく作って、でも殆ど食べられないうちに全部られて。代わりにパンを山ほど買ってもらいましたけど」

「栄養が偏るんですよね」と不満気な忍に罪はない。千秋の邪推が暴走しただけだ。それでもこの胸に逆巻くやるせない憤懣を、どう静めるべきなのだろう。
 感情をありのままに表すのは、千秋の美学に著しく反する。胸中に嵐が吹き荒んでもおくびにも外に出さず、誤解とわかっても引っ掛かる一言について訊ねた。

「妊娠云々というのは?」
「そう言って、何かと面倒を見てくれた友人がいたんですよ。ギヴ・アンド・テイクとかで。気持ち悪い言い草だけど、捻くれた奴だから。あいつ流の冗談だと思います」
「ギヴ・アンド・テイク?」
「そいつは生徒会の役員だったから、雑用に色々引っ張り出されました。その代わり、変な手紙とか呼び出しとか、全部カタをつけてくれましたけど」

 のほほんと中高時代の昔話を披露する忍は、短い間にしろ千秋が生きた氷像と化したことに気づいていない。そしておそらく、自分が邪な思いを持つ男に狙われ、その身を案じた友人に貞操を守られていたことにも。
 自分の容姿に一片の価値も置かない忍ならではの、罪作りな鈍さだった。
 聞きようによっては酷い凌辱を連想させる紛らわしい回想に、脳の天地が引っくり返るほど動揺させられた後だからだろうか。その鈍さが、何故か非常に苛立たしい。

「忍がまさか料理上手だとは思わなかった。今度ご馳走してもらわないとな」

『王のワイン』をテーブルワインと同一視する味覚の持ち主が料理上手というのは、正直腑に落ちない話だ。しかし、すべての発端となった忍の手料理で埋め合わせでもしてもらわなければ、この平常心の乱高下に対して割に合わない。

「味覚オンチのくせにって言いたいんでしょう」

 懸念が口調に出ていたのかもしれない。忍は拗ねたように軽く千秋を睨んだ。

「でも、千秋さんの口に合うかわからないですよ。俺の料理は、その友人の好みだから」
「──友人の?」
「栄養に偏りがなければ、俺は何をどう作って食べても問題ないんですけど、友人はなかなかうるさい奴で。そのくせ自分は包丁を持ったこともなくて、結局俺があいつ好みの味に仕込まれたんです。今でも時々うちに飯を食べに来ますよ、俺の下手ウマな料理が懐かしいって」

「失礼な奴ですよね」とむくれながらもほのかな笑みを浮かべたその顔が、やけに癪に障る。そして、そのことが千秋に見えない棘を刺す。
 食事を終えて会社に戻り、再び忍と丁々発止のやりとりを交わしながらも、昼休みからじくじくと自身を苛む胸の疼きを意識せずにはいられなかった。
 端的に言えば、苛々する。前の職場で思うようなデザインを許されず鬱屈していた時ともまた違う、これまでの人生で初めて味わう不快感。
 忍との話し合いは平行線のまま次回に持ち越しとなり、くすぶる気持ちを抱えたまま、千秋はその日の予定をこなして帰宅した。
 シャワーを浴びて気持ちを切り替え、適当につまみを調えてワインを開けながら、不調の原因──昼休みの出来事を検証してみる。
 由緒正しい子爵家の血を引く紳士たる者、甚大な天変地異が生じようとも泰然自若と受けとめるべしと教えられて、千秋は育った。
 生まれついての鷹揚とした貴族的な佇まいは千秋の真骨頂とも言えるもので、それなのに他愛ない忍の思い出話が、静まり返った水面を乱す小石のように今も千秋の心に波紋を広げている。
 忍に凌辱された過去があると誤解して、かつてないほど動揺した。
 寮生活での守護者のような友人がいて、その身を守ってもらっていたことに気づいていない忍に苛立った。
 その友人が自分好みに忍の料理の腕を仕込み、今も自宅を訪れてその手料理に舌鼓を打っていることに──嫉妬した。
 そう、嫉妬だ。この馴染みのない感情の名は。
 加東千秋という男の華麗なる人生に必要ない、よって今まで知ることもなかった不快な胸の疼きは。

(なるほど……これが嫉妬というものか)

 辿り着いた答えの意外さと愉快さに、くつくつと思わず笑い声が洩れる。理解してしまえば、事態は至ってシンプルだ。
 意外に思われることも多いが、これまで千秋は外見の美醜で恋に落ちたことはない。
 顔で恋に落ちるには千秋の審美眼は厳しすぎたし、千秋の唯美主義は外見の美しさだけを至上とするものでもない。容姿に自信がある人間の中には、それを鼻に掛け中味が疎かになっているカスもいて、余計に千秋の恋心が外見の美に揺り動かされることはなかった。
 忍は初対面から、その類稀なる美貌を強く印象づけていたから、無意識に恋の対象から外していたのだろう。

(外見は完璧、中味も好ましいところばかりの人間は、愛玩対象や同僚といった枠には収まらないということか)

 気がついてしまえば、どこもかしこも好みばかり、破壊的な美的感覚までも不快ではなく痛快に感じる相手に、恋に落ちない方がおかしい。
 これまで気づかなかったのが不思議なほどだが、それだけ無意識のストッパーは強力だったということなのだろう。
 美に対して真摯であるがゆえに、見た目で安易に恋に落ちることはできず、その誇り高い美意識が本当の恋の目眩ましになっていた。皮肉なことだ。

(さて、どうして我が麗しの鈍感の君を振り向かせようか)

 恋を自覚したなら、すべきことはただ一つ。──愛しい人を手に入れることだけだ。
 忍が入社して以来の二人の付き合いも四年目、すっかり良好な先輩後輩の関係が出来上がっている。
 享楽的で芸術家肌の千秋の恋愛観に一切の禁忌はないが、忍は至って普通の異性を対象とする恋愛観しか持ち合わせていない。今は恋人もいないようだが、今更正攻法で迫ってもいたずらに忍を混乱させるだけ、悪くすれば今の刺激的な同僚としての関係すら失いかねなかった。
 つまり、一般的な手順を踏んでいては、忍に自分を恋愛対象として認めさせるのは難しいということだ。
 思案げに伏せた眼差しの先に手にしたワイングラスが映り、それを百均のものと変わらないと評した時の忍を思い出す。
 無味乾燥とした言動、淡々と起伏の少ない佇まい。千秋を相手とする、未知の恋愛に引き込むには、なかなかの難敵と言わざるを得ない。

「この私を相手に──愉しませてくれそうじゃないか」

 獲物を見つけた肉食獣の高揚感とは、こういうものなのかと思う。
 イレギュラーの次回『美的感覚矯正プログラム』を思い描き、千秋はゆっくりと目を細めた。
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