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「あの、大丈夫ですか」

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 疲れている身体ほどジャンクフードを欲しがるのはなぜなんだろう。

 ふくらはぎが熱っぽい。仕事で終日酷使したせいだ。疲れを充実感でごまかして、野田透和(のだとうわ)は階段をステップして改札を出た。
 フライドチキンにするかハンバーガーにするか、駅前に並んだ2店舗の前で腕組みをしてみるが、脳みそは疲労のせいで機能せず、結局どちらも買い求めてしまった。

「まあいいか。一つは晩メシにして、もう一つは朝メシにすればいいんだし」

 駅から徒歩8分、1LDKのマンションに一人暮らしの28歳。同級生から、結婚報告や子供の写真が送られてきたりするお年頃だが、仕事が忙しいことを口実に、彼女いない歴3年である。
 家に帰ってやることといえば、風呂に入ることとゲームをすること、たまに配信で映画を観ては途中で意識をなくしてしまうのが定番コース。あとはひたすら寝るだけ。背負うものがなくて気楽でいいと自分を納得させている。

 商店街の端に小さな児童公園がある。その公園を突っ切るのがマンションへの最短経路だ。
 いつものように公園に足を踏み入れてぎくりとした。
 ベンチの上に黒い塊がある。
 熊? 住宅街に熊がいる?
 まるでスポットライトのように街灯の光を浴びている。
 大きいぬいぐるみかな。うつぶせのテディベアにも見える。おそるおそる近づいた。

 ぼろぼろになった革靴を履いた足が目に入った。ロングコートを着た男が背を向けて身体を丸めているのだ。酔っ払いが眠り込んでいるのか。それとも身体の不調で倒れてしまったのなら救急車を呼んだほうがいいだろうか。

「あの、大丈夫ですか」

 男はわずかに首をめぐらせて野田を見上げた。
 髪はぼさぼさ。顔半分は無精ひげで覆われていた。よく見ると濃茶色のロングコートは毛羽立っていて薄汚れている。
 どうやらホームレスのようだ。

「具合が悪いのなら救急車呼びましょうか」

「けっこう」

「余計なお世話かも知れないけど、9月とはいえ今夜は冷えるって天気予報で言ってたから、ここで寝ないほうがいいですよ。駅前の交番に行けばシェルター教えてくれますよ。それじゃ」

 それだけ言って去るつもりだった。
 かかわってもロクなことにならないからだ。自分は器用な人間ではない。だが冷酷でもない。頭の程度は普通。顔も普通。身の丈に合った生活をして、自身を取り囲むゆるくて小さな世界が満たされていたら幸福だと思う。
 だから適切な距離を本能的に測ったはずだった。
 熊男に声をかけた理由はおそらくほんのわずかな好奇心だった。この公園でホームレスを見たのが初めてだったせいかもしれない。明日の朝、男が冷たい骸となっている姿を発見するのは御免こうむりたい、罪悪感を負いたくないという、しょせんは小心者の保険であろう。
 
 熊男はのそりと起き上がって、顔を歪めた。伸びた前髪や髭のせいで表情はよくわからないが、どうやらにやりと笑ったようだった。

「宅配便か」

「え?」

 慌てて衣服をあらためた。制服は着ていない。職場の更衣室で着替えてきたのだから当然だ。

「なんて?」

 聞き間違いだろう。ぼくが宅配業に従事していることは見た目ではわからないはずだ。

 そのはずなのに、なぜか男は得々と語り出した。

「仕事帰り。私服。22時近いが、急ぐ様子はなく日常的な行動。独身の一人暮らし。人当たりがいい肉体労働者。髪に残る帽子の形の癖。細いが筋肉質な身体。肌の日焼け具合から日中は外回り。力仕事をしている手。指先に残るカーボンの汚れ。君はアカブタ運送の配達員だろう」

「ええ? そんなことまでわかるの!?」

 自分でも驚くほど上づった声になった。

「その靴は仕事でも使っているだろう。甲の部分に板が入っている安全靴だ。赤い布テープの繊維が付着している。赤い布テープを使用しているのはアカブタ運送の特徴だ」

「ああ、なるほど。お見事」

 ダンボールの封印や補修に使っている布テープは企業イメージの赤色。配達車両のボディも赤く塗られていて、シャア専用みたいでかっこいいと思って入社したけれど、同僚は火の車と呼んでいる。ちなみに制服はボルドーとピンクのストライプで左上がりの斜線になっている。なんで右肩あがりにしなかったのか謎だ。

「アカブタ運送はブラック企業として有名だ。制服が赤いのは従業員の血へどに染まったせいだと噂されている。疲弊しきっていないところを見ると、きみはせいぜい勤続3年か」

「いやいや、不吉なこと言うのやめて。あんたさ、拓真町の住人だろ。僕の顔を知っているだけだろ」

 拓真町はぼくが配達を担当している地域だ。電車で3駅の距離。男の言うことはことごとく合っているが、さすがに一目で言い当てたと信じるには無理がある。
 占い師じゃあるまいし。占いは信じてないけど。
 配達の際に顔を覚えられたのだとしたら納得がいく。顔を覚えられるのは滅多にないことだけれど。特徴がない顔立ちのせいか、赤い服の印象が強すぎるせいか、制服を脱いでしまうと町でお客さんとすれ違っても気づいて貰えなくてけっこうへこむ。

「拓真町か。商業地域を含む住宅地だな。廃工場には野良猫が多い──」

 ぐぐう。

 腹の虫が聞こえた。饒舌な熊男はぴたりと口を閉じる。どうやら彼の腹部が震源地のようだ。

「ハンバーガー食べるかい。買いすぎたからやるよ」

「……それはどうも」

 野田が差し出した袋を熊男は素直に受け取った。
 憐れんだわけではない。見事な手品を見せてくれた大道芸人にお捻りを投げるようなものだ。

「じゃ、ぼくはもう行くから」

「いただきます」

 振り返った肩越しに、ハンバーガーに向かって手を合わせている姿が見えた。汚い身なりの割に礼儀正しい男のようだ。
 もう会うことはないだろうと思った。まさか自分が殺人事件の容疑者にされたり、ホームレスと相棒になるなんて、このときは知るよしもなかった。
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