江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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四十九、 蔦屋重三郎

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 耕書堂は日本橋通油町にある。
 お照が万寿屋にシャルルを迎えに行くと、ちょうど秋馬が顔を出していた。
 これから耕書堂に行くと言うので、一緒に行ってもいいかと頼み込んだ。

「絵の売り込みに何度か足を運んでるので、蔦屋重三郎とも顔見知りなんだ」

「心強いです。では、とうとう絵師として……」

「毎度断られてるんだけどね、諦めきれなくて」

 秋馬は風呂敷に絵を包んで持ってきていた。

 お照は耕地屋を出るときに女将から言われたことを思い出した。

『わたくし、わかってまいりましたわ。居場所というものは、与えられるのではなく、みずから作るものだということを』

『居場所を作る。そんな簡単なものでしょうか』

 例えば吉原の女たちは居場所はひとつしかない。ほかを選ぶことも作ることもできないではないか。
 いや、高月くらいになれば、多少は融通できるかもしれないが。

『もがいて、あがいて、作るのですよ』

 お照は黙り込んだ。これまでおそらく、生まれの不幸を嘆いたことがなかったであろう女将が、いまになって居場所を求めているとは。

『もがいてあがく姿はコッケイでしょうね。どんなにコッケイであさましくても笑ってはいけません。笑う権利を持つものなど、世界にはひとりもいないのだわ。わたくしは与えられたものが多すぎて、いままで気づかなかったのよ』

 女将は息をついた。嘆息ではない。 
 滑稽であさましい姿をさらしてでも居場所を手に入れる覚悟をした、芯の太い女の息づかいだった。
 

 女将のいう『居場所』の意味をお照が知るのは、もう少し先の話である。



 歌麿を中心に美人画がずらりと並べられていている店先はとても華やかだ。
店主を呼んでもらうと、しばらくして奥から二人の男がやってきた。
 年かさのほうが蔦屋の主人のようだ。もうひとり、主人と親しそうに話をしながらやってきた男には見覚えがあった。視線が交差する。

「能役者の……えーと、」

「おや、異人さんのところの、えーと……」

 お互いに名前を忘れて見つめ合っている間に、秋馬は蔦屋重三郎に新作を披露していた。

「またいらしたのですか、秋馬さん。はいはい、拝見させていただきますよ。そちらの娘さんが吉原からのお使いのかただね。ともかく奥へどうぞ。では、斉藤さまはお気をつけてお帰りください」

「あなたが蔦屋重三郎さん」

「はい、そうですよ」

 蔦屋はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべている。
 歌麿の美人絵を大流行させた仕掛人、江戸一番の切れ者と噂されている人物。父とさして変わらない歳のようだが、商売柄か、愛想がよさそうだ。
 それと斉藤十郎兵衛。お照は名前を思い出した。立場上、大っぴらにできない歌舞伎鑑賞をひそかに楽しんでいた阿波藩お抱えの能役者である。
 振り返り、しゃっきりとした背中を見送る。
 その手は風呂敷包みをしっかりと掴んでいる。大きさから判断して蔦屋で買い込んだ大判錦絵だろうか。

「いまお帰りになったのは能役者の斉藤十郎兵衛さまでしたね。蔦重さんはお顔が広いのですね」

 蔦屋が一瞬だけ真顔になった。だがすぐに相好を崩し、

「お屋敷の藩士に頼まれたそうで、土産用の錦絵を探しに来られたのですよ。店表では狭いので奥でじっくりと吟味していただいたんです」

「藩士のかたはみずから選びに来ないのでしょうか。好みもありましょうに」

「勤番のつらいところですね。月に三回しか外出許可がおりないそうで。江戸常在で目が肥えておられる斉藤さまは頼られているのでしょう」

 斉藤十郎兵衛とは芝居小屋ですれ違っているお照である。

「斉藤さまはお芝居もよく知ってらっしゃいますものね。今人気の芝居の演目や役者を描いた錦絵は国元のご家族にいいお土産になりそうですね」

 そう返すと、蔦屋の目の奥がきらりと光った。共通の知人という話題で親しみを抱いてもらおうと思った試みは、はたして功を奏しただろうか。

 よくよく考えたら、蔦屋は役者絵は得意ではなかった。店頭には美人画が花を競っている。嫌味に聞こえたら大失敗だ。
 だが蔦屋は気にしたようすもなく、にこやかな笑顔でお照と秋馬を奥の間に案内した。

 畳替えをしたばかりのイグサの香りと高価な墨の香りが混じりあう部屋だった。あるところにはあるのだ。お照の肺腑は清々しさに満たされた。
 
 なんとしても目処をつけたいところだ。
 蔦屋に負けじと、お照は微笑んだ。
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