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本編
5話
しおりを挟む乾いた地面を踏むたび、靴の裏で小石が転がり、かすかな音を立てた。
あの後、尤瑚は倒れていた自分を部屋に招き入れた男の自宅を出た。そこは、ごくありふれた賃貸物件といった風情のアパートだった。見慣れぬ住所、見知らぬ街角。
そして今は、自宅からずいぶん離れた場所に建つ、古びた賃貸マンションへと向かっている。
真昼の陽射しに晒される中、尤瑚は思わず瞼を細めた。
目の前に広がるのは、かつて「新興住宅街」と呼ばれた一帯――けれど、それはもう、過去の話。
ここはもともと、老朽化した工場の跡地を転用してつくられた地区だった。
当時は時代の変わり目に取り残された工業地帯を整備し、移民を受け入れることで新たな労働力を呼び込み、地域経済の活性化を図ろうという行政や一部の企業による意図があった。
しかし、その目論見が実を結ぶことはなく、今ではかつての面影すら失われている。
コンクリートの集合住宅が何十年も前から変わることなく並び、ひび割れた壁には雑草が無秩序に茂っている。ベランダに干された衣服が、風に揺れるたびに色褪せた布きれのように翻った。
都心から外れたこの一角は、いまや低所得者と不法移民、福祉から漏れ落ちた人々が集まるインナーシティ・スラム。
このご時世にも関わらず建物には防犯カメラすら設置されていないという世紀末っぷりだ。
なぜ設置されなくなったのか?
もとはこの場所にもごく一般的な水準の防犯設備くらいは整っていたらしい。けれど住人の誰かが、防犯カメラを取り外して部品を売り、端金を得るために盗んで行く――それが繰り返され常習化したことで誰も設置しなくなった。
誰からも顧みられず、水や電気といったお情け程度のライフラインが、心許なく保たれている。無法地帯とまでは言わずとも、法や秩序が及びきらない土地。
そう――ここは、まさに社会だけでなく、時代にまで見捨てられたかのような荒廃が広がっていた。
機能しない古びたエレベーターを通り過ぎて、自力で階段を登る。一段一段上がるたびに音が反響する。階段を上がり終えて目的の場所へ向かう。ある部屋の前に立ち、尤瑚はノックもせずにドアノブに手をかけた。不用心にも鍵はかかっていなかったので扉は安易に開いた。
古めかしい畳の敷かれた四畳半の部屋。室内に一歩足を踏み入れると、じっとりと湿った匂い、こもった汗の匂い、そしてどこか血と唾液が混じったような生臭さが立ち込めていた。空気はどこか重く、湿っていて、皮膚にまとわりつくようだった。エアコンの気配すら感じられず、代わりに、どこか押し黙った空間が漂っていた。
部屋の奥には、男がいた。黄ばんだ薄い毛布の上で体育座りをし、着古したTシャツと毛玉だらけのジャージを着た姿は、時間が止まったかのように無感情だった。
髪はボサボサで伸び放題。タッパはそれなりにあるが、痩せっぽちで不健康そうな蒼白い肌をしている。額には汗が滲み、視線はどこかぼんやりと宙を泳いでいる。テレビなんかを始めとした電子機器などなく、ただ無音の中で、ひたすら何かを待っているようだった。
「フユキ、食いもん持ってきてやったぞ」
尤瑚は手にしたレジ袋を軽く持ち上げ、音を立てて中身を見せる。
フユキは数秒間、反応せず、しばらくしてぽかんと口を開け、焦点の定まらない目で尤瑚を見た。
何も理解しないまま、ただぼんやりと見つめ返す。その目はどこか遊んでいるようで、無感情とも言えた。
ようやく状況を理解したのか、もたもたと手を伸ばし、食べ物を取り出す。包装紙を破る手つきはぎこちなく、力加減も定まらず、何度も手元が狂って中身を落としそうになった。そのまま、無言で食べ始める。咀嚼の音が部屋の中に小さく響く。
フユキの歯はほとんど崩れかけており、黒ずんだ根元が歯茎から覗いていた。口を開けるたびに、生温かい腐臭が周囲に漂い、空気をじわりと変えていった。
「なあ、お前……たまには歯、磨けよ」
特に責める気もなかった。
ただ、口をついて出たのは、その臭いがあまりにも耐え難かったからだ。フユキはモグモグと口を動かしながら、尤瑚を見上げた。どこか満足げな表情を浮かべていた。
「ユーゴ」
その声は、まるで覚えたばかりの言葉を発するかのように弱々しく、それでも確かに相手を求めていた。男は少し口角を上げ、まるで初めて言葉を発した子供のような表情で尤瑚を見た。
「ユーゴ、どこいってたの?」
「ん? ちょっとな……」
とっさに目を逸らし、言葉を濁す。乱行パーティで酔い潰れて道端に捨てられたあと、知らない男に拾われてソイツの部屋で過ごしていたなんて、話す必要も義理もなかった。
フユキは、数ヶ月前に一夜を共にした水商売の女が「ちょっと預かってて」と言い置いていった男だ。そして押し付けられたはいいが、厄介なことにコイツは脳味噌が幼稚園児レベルで、自分のことは何もできない。
そして、あの女はそのまま姿を消して以来、連絡がつかない。恐らく二度と戻ってこない。どこへ消えたのかもわからないし、一度も探す気など起きなかった。
フユキは母親が帰ってくると信じている。
だからフユキはずっとここにいて、帰りを待っている。
尤瑚は女が戻ることは、あり得ないと分かっていた。
尤瑚は施設で育った。正確には四、五歳まで親の庇護下で育ち、兄妹も何人かいたが、その殆どとフェードアウトしており繋がりはないに等しい。施設で暮らしていた頃、親を待つ子供は何人もいたが迎えに来るものは殆どいなかった。
ここにいても無駄だとフユキを別の場所に連れて行こうと何度も試みたが、フユキはここから動こうとしない。強引なことをしようとすれば癇癪を起こす。いくら説明しても、尤瑚の言うことが理解できていない。
フユキは、まだ母親が帰ってくると信じているのだ。
どの程度信じているのかは判らないが、どちらにせよフユキの中では、母親は「遅れているだけ」で、いずれ必ず帰ってくる存在であり、絶対に失われないものだと思っている。尤瑚は、その幻想を壊すようなことは言わなかった。何も言っても、無駄だと知っているからだ。
フユキが自分の意思でここから出ていかないかぎり、こっちからはどうすることもできない。
黙ってレジ袋の中から食べ物を取り出し、テーブルの上に並べる。
「おかあさん、いつかえってくるんだろう」
フユキはそう呟き、パンを両手で大事そうに持ちながら、誰に話しかけるでもなく、独り言を続けた。その唇の動き、目の動きからは年齢相応の知性や感情の複雑さはほとんど感じられなかった。
彼の世界は、未だ幼い子供のような単純さに支配されており、言葉を発することすらぎこちなく不安定で、彼が社会生活を営むためには、今すぐにでも支援が必要であることは明白だった。
「フユキ、お前、オレがいないときどうやって生活してんの?」
「ちかくに、しらないおばさんがいる」
「その人が世話焼いてくれるって?」
尤瑚が問うと、フユキは首を縦に傾けて頷いた。
以前、女は話していた。「あの子、ちょっと頭のほうがね……」尤瑚はそれ以上、何も聞かなかった。その言葉がどれほどの意味を持っていたのかを、今になってようやく理解できる気がした。
おそらくフユキは、診断もされぬまま、社会の隅に流れ着いた命に過ぎなかった。もし放っておけば、彼はすぐにでも飢え死にするだろう。それだけのことだ。
「なあお前、差し歯に変えるか」
突如として、提案するように呟く。
「さしば……?」
フユキはパンを口にくわえたまま、呆けた顔で首を傾げ、言葉の意味を半分も理解できていないのが見て取れた。
「そんなにボロボロだと、歯磨いたところで意味ないよな。全額出してやるから、歯医者行って変えてもらえ」
「は……かえる?」
間違っても尤瑚には、フユキを助けてやりたいなどという善意の気持ちなど全くない。
そう、これは優しさや同情ではない。
役所に問い合わせてみたところフユキは出生届が出されていない可能性が高かった。
驚きはしない。
寧ろこういった場所では然程、珍しいことではない。住民票や印鑑、収入証明書、身分証明書、IDなど一般的に必要な書類の提出を原則とせず、いい加減な手続きでも安い金さえ払えば部屋を借りられるようなところなので無戸籍、無国籍者などの溜まり場とかしている面もあるのだ。
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