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本編
4話
しおりを挟む「大丈夫か?」
誰かに声をかけられた。
まだ頭は酩酊している。
うっすら瞼を開けて、写ったシルエットは朧げでも声は明らかに男のものだった。
男の顔はぼんやりとしか見えない。目の前に立っているその人物の輪郭が、薄く歪んで見えた。おそらく、どこかで会ったことがあるのだろうが、それすらも曖昧だ。
自分の姿を確認すると幸い、服は着ている。
背中や腰にアスファルトの硬い感触を感じることから考えて自分は道脇に倒れていたようだが、クラブを出た後、自分がどうしていたのかが全く思い出せない。
音楽、声、熱気──それらが一気に流れ出すように、記憶の中で断片的に繋がり合うだけだった。
「……家は?」と、男がもう一度問いかけてきた。
その問いは、どこか冷静でありながら、なにかを探っているようにも感じた。
「あ……うぅぅ……」
頭の中では、何かが絡み合っていて、簡単に答えることができなかった。
「……なんだか酷く、酔ってるみたいだな」と、男が言いながら自分を引き起こそうとする。
力が入らない。身体の中で、何かがふわふわと浮かんでいるような感覚が続いている。
男が近づき、支えられながら立ち上がる。視界は相変わらずぼんやりしているが、無理に目を開けてみると、周りの街灯がぼんやりと光っている。どこか安心感を感じる一方で、なぜかそれが不安を掻き立てているような気がした。
ぼんやりとした思考のまま、尤瑚はどこかへと連れて行かれた。
身体がふわりと浮いた感覚が続き、足元は頼りなく、視界もぼんやりとしている。
自分がどこに向かっているのか、何が起きているのかを考える余裕はなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、ただその場の流れに身を任せているだけだった。
周囲の音や動きは遠くから聞こえるが、身体の感覚はほとんどない。頭を支えることもできず、ただ目を閉じているだけで、時間の感覚さえ曖昧になっていった。
目を覚ましたとき、彼は見知らぬ部屋の床に横たわっていた。
周囲は薄暗く、家具の配置や部屋の雰囲気からして、居心地が良いわけではないことはすぐにわかる。空気が冷たく、どこか無機質な感じがする。
身体は重く、酔いが残っているようで、頭がひどく痛い。目を開けたとき、部屋の隅にある薄暗いシルエットが目に入ったが、それもすぐに消えた。自分がどうしてここにいるのか、全く記憶にない。焦る感情はあるが、身体の重さがそれを押しつぶすように、動く気力が湧かない。
「気がついたか……」
低い声で、誰かが声をかけてきた。その声が耳に届くと、尤瑚は頭を動かして、その主を探す。目の前に立つ男は、どこか見覚えがあるような気がする。
しかし、それも曖昧だ。髪は少し乱れていて、疲れた印象を与えるが、冷静さも漂わせている。彼の顔は、どこか遠くの記憶に引っかかる。でもそれがどこで会った誰なのか、どうしても思い出せない。
「……あんた誰だ?」
尤瑚はその男を見上げながら呟いた。何となく顔を思い出せるような気がしたが、それがどこで会った誰なのか、どうしても結びつかない。
「ただの、通りすがりの者だ……」
「ここどこ?」
「お前が倒れていたから、ここに運んできたんだ」
「……んなこと聞いてねぇよ……つーか、あのまま放っときゃよかったのに……」
言うと、男は鋭い視線を尤瑚に向けた。その瞳の冷徹さに彼の苛立ちが伝わってきた。
「死にたいのか?」
その問いが、やけに真剣に響く。尤瑚は一瞬驚いたが、すぐに目を見据えて言った。
「別に……」
尤瑚が不機嫌そうに答えると、相手はさらに言葉を続けた。
「あんな所で倒れて寝ていたら、次の日には臓器を抜き取られて、体だけ道端に捨てられていてもおかしくないぞ。そんな時、警察が動いてくれると思うか? 自己責任だって言い捨てて、碌な捜査もされないだろう。……自殺するつもりなら場所を選べ」
顔にはあまり感情を表さず、無表情を貫いているが、男はどこか説教じみた口調で話した。尤瑚がどこかふて腐れた態度でいるのもあって、苛立ちを感じているようだった。
「それより、ここはあんたの家か?」
尤瑚が周囲を見回しながら、改めて尋ねた。何となく、この場所に馴染んでいないような気がして、違和感を感じていたからだ。
「ここは俺の家だ」
男は淡々と答えた。
「少し休んでたら、酔って倒れている君を見かけたんだ」
冷静に説明しながら、その目の奥には、何かを見透かそうとするような気配があったが、尤瑚にはそれが何か分からなかった。男の視線が鋭く、どこか遠くを見つめているように感じる。
「まだ酔ってるみたいだし、ここで休んでいてくれ」
男が言った言葉には、命令めいたものがあった。尤瑚は反論する余裕もなく、ただ黙って頷いた。頭が重く、言葉を返す気力もない。
「なんで見ず知らずの人間にそこまでするんだ?」
尤瑚はわずかに声を荒げて言った。それに対する男の反応は冷淡で、ろくに答えも返さない。ただ、少し眉をひそめた程度で、再び黙り込んだ。
それにしても、この男の名前も顔も、どこかで見た気がするのに、どうしても思い出せない。クラブでの記憶が断片的で、目を覚ました瞬間のことだけがかろうじて鮮明に残っている。ただ、それ以上の記憶が完全に消え去っているようだった。
今月に入ってから、尤瑚は両手両足でも足りないほどの男女と関係を持った。
酔った勢いで名前もろくに聞かずにやることも珍しくはなかった。しかし、今目の前にいる男は、おおよそ風俗やネオンの似つかわしくない普通の男だった。特別長身でも小柄でもなく、髪型も目立つほど奇抜ではない。やや伸びた前髪が、どこか根暗な印象を与える。
雑踏に紛れていれば目立たないだろうが、尤瑚が関係を持った人間の殆どは火遊びになれている人間だった。さらに言えば外見も尤瑚のように体にピアスを開けているか、髪を明るい色に染色しているか、タトゥーを入れたりしているようなタイプだった。そんな中でこんな相手と関係を持っていれば逆に記憶に残るはずだろう。
「なあ、アンタとオレ、どこかで会ったっけ?」
目の前の男は無表情を崩さず、感情の読み取りづらい目をしていた。低く落ち着いた声が、薄暗い部屋の中に静かに響く。
「覚えてないのか……あの現場に居合わせていたんだが」
「現場?」
「俺が割って入ろうかと思ったとき、急にあの男が首を掻き切ったから、びっくりした」
首を切った……。
「あ……お前……一昨日の夜の……」
「そうだ」
思えば確かに、あの場には通りすがりの誰かがいた。
何をやっているんだ――と叫んでいたような気がする。
「たとえアンタがオレとアイツの間に割って入ったとしても、アイツのほうが体格いいからどうにかなったとは思えねぇけど」
男の諦観した目がジッと尤瑚を見つめる。
やや間が空いたあと男は「そうかもな」とドライな口調で言った。
「あの後、俺は取り敢えず救急車を呼んだんだ。……でも……結局、それは無意味だったらしいな」
「もうあいつは死んでた。手遅れだった」
「そうか……」
そう呟いた彼は申し訳なさそうに眉を寄せながらも、声色には変化がなかった。
「……なら、余計なことをしたんだな」
空気が重くなり、短い沈黙が部屋に漂う。男は何かを思い出したように、また口を開いた。
「あと亡くなった彼は、お前の……友人か?」
「ただのセフレ」
軽く答えた瞬間、目がわずかに強くこちらを捉えたような気がした。
言葉の裏を探っているのか、それとも何か別の感情が動いたのか——読み取れない。ただ、その視線はじきに和らぎ、また無表情に戻っていった。
「……そうか」
淡々とした口調。その無機質な言い回しが、逆に冷たく胸に突き刺さり、感情を押し殺したようなその表情が、やけに遠く感じられた。理由もなく、微かな圧迫感が胸の内に広がる。
男は黙って立ち上がると、何の躊躇いもなく部屋を出ていった。扉が閉まる音も微かで、尤瑚はその背を目で追いながら、ただ黙っていた。
しばらくして、再び扉が開く。戻ってきた男の両手には、白いマグカップが二つ。湯気がゆらりと立ち上り、薄暗い室内の空気を静かに揺らしていた。香ばしい香りが、どこか現実感の薄れた空間に穏やかに滲む。
そして無言のまま、片方のカップを尤瑚の前に差し出す。
「飲んで目を覚ませ……」
床に寝転んだまま、尤瑚は片腕を伸ばしてその熱を受け取る。掌に伝わる温もりが、妙に生々しく、遠のきかけた現実を手繰り寄せる。
男はコーヒーを片手にソファの端へ腰を下ろす。
尤瑚は身体を起こし、熱い液体をひと口啜った。深い苦味に、ほのかな酸味が混じる。舌の奥に残る香りが、しばしの間、静けさに輪郭を与えるようだった。
「ところであんたは……どうしてあの時、あの現場に居合わせたんだ」
「は?」
「だから、どうしてあの時間、あの場所に居たんだ」
「つまり……どういう意味だ?」
「アンタさ、あんま夜遊びしてそうな人間に見えないんだけど……あの区域が治安が悪いって認識だったんなら、どうしてあんな所をうろついてたわけ? 風俗巡りしてた訳でもねぇだろ、アンタの感じならぼったくられそうだしな」
「……偶然だ」
「偶然? あの道脇って普段から人が殆ど通らねぇんだよ、なのにオレとアンタがあの現場に丁度出くわしたのが偶然なの?」
「じゃなかったら、なんなんだ……」
湯気は未だ細く立ちのぼり、室内の薄闇にゆらゆらと消えていく。
部屋にはどこか緊張を孕んだ静寂が漂い、ただコーヒーの香りだけが微かな安堵を残していた。
尤瑚はカップを手にしたまま、ゆっくりと男へ視線を移す。
そして、唇の端にどこかいたずらめいた微笑を浮かべた。
「ねえ……何か、しないと落ち着かなくない?」
囁くような声が空気の中に溶ける。
その言葉とともに、尤瑚は静かに男の膝へと手を伸ばした。指先が布越しに触れ、確かめるように撫でる。皮膚の下の反応が、わずかに指先に伝わってきた。
相手の身体はぴくりと震え、腿にかけてじわじわとした緊張が走る。それでも動かない。けれど、動じないふりをしているが、呼吸がわずかに浅くなり、まるでその場に縫いとめられたかのように静止しているのが分かる。
部屋の空気がさらに張り詰めていく。静寂が、まるで声を出すことすらためらわせるように重くのしかかる。
天井の蛍光灯がジリジリと唸る音が、不自然なほど耳に残った。
耐えきれなくなったように、尤瑚は一つ息を吐き、身体を彼へと寄せた。頬が太ももに触れ、吐息が男の下腹部を掠める。指先はファスナーへと伸び、それを引く。
「おい、何を……」
低く、掠れるような声が、相手の喉の奥から搾り出される。
狼狽えたその響きに、尤瑚はゆっくりと笑った。
「お近づきの印だ」
尤瑚の瞳には、何かを見極めようとする光が宿っていた。無邪気なようでいて冷酷、軽薄な手つきの奥に、微かな焦燥と期待が滲む。
「やめろ!」
怒声が部屋を切り裂いた。次の瞬間、男の手が尤瑚の肩を掴み、強く突き放す。
身体が宙を浮いたかと思えば、次の瞬間、ソファの端から床に転げ落ちる。尻を打った鈍い痛みが、腰のあたりにじわりと広がる。
「っ……」
痛みよりも、意外だったのはその拒絶の強さだった。ある程度の反発は予想していた。けれど、ここまで激しく拒まれるとは思っていなかった。
尤瑚は床に手をついたまま、彼の背中を見上げる。
男は何も言わずに立ち上がり、背を向けたまま、動かない。肩がわずかに震えていた。息を呑む音が静かに響くが、振り返る気配はない。
沈黙が、二人の間にさらに深く根を張る。
尤瑚の口元はわずかに歪み、彼は静かに、息を吐いた。
なんだ、つまんねぇな―――
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