コッキングへようこそ

笹野にゃん吉

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No.3 そして明日はやって来る

6.辛いときこそ笑うんだ

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 人は神にいのる生き物だ。
 とても身勝手で、自分が弱いことを知っているから。

 彼女も初めて恐怖を感じたときには神へ祈った。

『助けてください』

 そうシンプルに祈ったものだった。
 けれど、神は自分の心が生んだ幻想だ。あるいは、人間などという矮小な存在には関心などもたない存在だ。

 祈りを捧げ信仰しようと、手を差し伸べてくれるわけではない。世は常にくらい影とともにあり、その影を生みだしたのもまた神であるなら、神ほど邪悪なものはない。

「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい……!」

 だから彼女は祈ることをやめた。いるかいないかも判らないものへ祈るより、今そこにある脅威に謝るほうが、まだ助かる望みがあるからだ。

 しかし、それもまた確かではない。

 跪き、床へ額をこすりつけても、

「謝れば済むと思っているのか? あのガキが逃げだしたのは、お前たちの協力あってこそだろうがっ!」

 髪を掴まれ、唾を吐きかけられ。
 怯えた目を向ければ、

「どうやらまだ躾が必要らしいな」

 ニンマリと邪悪な笑みが返って――。

「こうだっ!」

 彼女は身体ごと投げつけられた。
 仲間たちがとっさに腕を伸ばすけれど、その指先はあまりにも遠くて。
 テーブルの角が迫ってくる。

「んあッ……!」

 その瞬間、視界が鼻のおくへ押し付けられたような気がした。天地が真っ逆さまにひっくり返ったかのも束の間、目の前が真っ暗になって。鼻の奥が痺れた。

 けれど、それはほとんど錯覚めいていた。
 顔に当てた手に血がべっとりとついて。
 それなのに口の中が鉄の味でおぼれていた。

 わけも分からず辺りを見渡すと、血の点があって。

「あ……」

 欠けた歯が落ちていた。
 誰のものかは、痛みに抜け落ちそうな思考のなかでも判る。
 押し殺した悲鳴が、部屋のどこかから小さく漏れた。

「おいおい、顔に傷をつけるんじゃないよ」
「ハッ! 誰かに訊かれたら、転んだとでも言っておけばいい」
「まあ、それもそうか。ガキは元気だ。ケンカもするよなぁ」
「そうだ。それよりガキは躾てやらなくては。それが大人の責務だ」

 食堂には二十人ばかりの子どもたちが集められている。そして職員たちもまた、マロウの責任をとらせるべく一堂に会していた。

 子どもたちは頭を抱えて震え、唇を噛みしめ、そうして彼女がいたぶられる様を部屋の隅っこで耐え忍ぶしかなかった。マロウとともに彼女を励ましてきたサヘラでさえも、大人をまえにしては、ただの無力な子どもに過ぎなかった。

 それでもサヘラは育ち、心は臆病なまま、身体ばかり大人へと近づいていく。痩せた太腿には柔い肉がついて、胸には谷間ができてきた。

「サヘラ」

 大人の一人に呼ばれ、サヘラはびくんと震えあがる。恐れや恥辱、吐き気がこみあげ、肌が粟立つ。思い出したくもない事が、次々と脳裏を過ぎった。

 まただ。また地獄が始まる。
 でも――。

 サヘラは恐れのなかでも目をつむろうとはしなかった。悲鳴のひとつも上げず、歯の欠けた義妹いもうとを見て、心を奮わせた。

 わたしはお姉ちゃんだもんね。

 守らなければならない。拳を振りあげ、唾を吐きかけ、助けることはできないけれど。次に義妹へ振りおろされる拳の代わりに、この身を捧げることはできる。

 サヘラはおもむろに立ちあがり、その大きな目にたっぷりの涙を湛えた義妹へ微笑んだ。

「エヘヘ」

 いつか彼女に言った。
 辛いときこそ笑うんだと。
 いつか地獄は終わる。
 そして終わりが見えたとき、それが本物になるからと。

 昨日ようやく九歳になったばかりの、幼い彼女には難しいと解っているけれど。
 お姉ちゃんだから。
 その様を見せて、教えてあげなくては。

「お前は賢い子だ」

 下卑た笑いと汗ばんだ手。
 サヘラはぎこちない笑みで見上げる。

 あと何度笑えばいいだろう。
 何度笑えば本物になるときが来るだろう。
 この教えに意味があると、証明できるときが来るだろう。

 サヘラは、一瞬マロウの誇らしげな笑みを思い浮かべて。

 もうヤだよ……。

 恨みさえした。

 マロウは壁の外にでて、自由を謳歌しているのではないか。
 自分たちを置いて逃げたのではないか。

 汚い大人たちに導かれた、後のことを考えると、サヘラはそう思わずにいられなかった。

 もうマロウが逃げだしてから、二度目の昼がやって来ようとしているのだ。それでも助けは現れず、地獄の日々はつづき、あの子は前歯を折られた。そして自分は、すべてを壊される。憎んでにくんで、殺したいとさえ思うクソどもに蹂躙されるのだ。

「エ、ヘヘ……」

 ダメ、ダメだよ。
 辛いときこそ笑わなくちゃ。

 けれど涙はこみあげて。笑いは嗚咽に変わっていく。
 大好きな義妹は泣いていて。ほかの義兄弟きょうだいたちも泣いている。

 ゴオォォォン……。

 正午を告げる鐘が鳴る。
 それが地獄の始まりの合図なら。
 すべてが焼け落ちてしまえばいいと思った。

 けれど、最悪の日常に終わりはない。
 信じた義兄あにの姿もない。

 今、閉ざされたドアが開かれて、

「え……?」

 そこに見知らぬ偉丈夫が立っていた。
 ウエスタンハットに灰のロングコート。
 手には大口径のリボルバー。
 およそ人間とは思えない七フィートほどの巨躯から、血と硝煙の匂いがする。

「おっと、これからダンスかい?」

 立ち尽くす職員を前に、偉丈夫は楽しげに口端をつりあげた。
 銃口はいつの間にか、まっすぐに職員の額へ向いていて、

「どうせ踊るなら、ウチのと頼むぜ」

 断罪の炎を噴きあげた。
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