その男、幽霊なり

オトバタケ

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神無月

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 昼食を終え、午後の競技がスタートした。
 柔らかい陽射しに加え心地好い風も吹き始めて、腹が満たされてただでさえ睡魔とバトルしていた俺は、更なる強敵の大睡魔に陥落寸前だ。

「気持ちいいですか?」
「あぁ」

 あー、ふわふわする。
 地面が、ふかふかの布団みたいに柔らかく感じる。

「夢の世界へ行きたいですか?」
「あぁ」

 オオイヌノフグリの野原で日向ぼっこしている、もふもふの小動物達が見える。
 一緒に寝転びたい。

「今すぐイきたいですか?」
「行きたい」

 アンタの声、子守唄みたいだな。
 柔らかくて優しい音で、鼓膜が震えて気持ちいい。

「此処では駄目です」

 ぴしゃり、と突き刺さってきた厳しい声で、一気に眠気が遠ざかった。

「もう少しで行けそうだったのに」
「こんな処でイくのは許しません。拓也のイく顔を見てもいいのは僕だけです」
「他にも居眠りしてる奴等がたくさんいるんだから、ちょっとくらい寝てもいいだろ。アンタは今は寝ないけど生きてる時は寝てたんだから、睡魔と戦う辛さも寝落ちする寸前の気持ちよさも知ってるだろ?」

 海老原だって洋書を読みながらうつらうつらしているし、ガーガー鼾をかいて本格的に寝ている奴もいる。
 生徒だけではなく、教員席のテントの下では校長と教頭がこっくりこっくり船を漕いでいる。
 昼飯の前に後輩の女子達と話したから、理不尽な虐めをしてくるのか?
 俺から話し掛けたわけではなく、笑いのネタに写真を撮らせろと馬鹿にされたというのに、どうして男に咎められないといけないんだ。

「誰にも寝顔を見られなきゃいいんだろ」

 立てた膝と胸の間に顔を埋め、腕で両頬をガードして、俺が誰なのか分からない状態にして眠りに就く体勢を整える。

「そんなに寝たいんですか?」
「あぁ、寝かせろ」

 仕方ないですね、と言うような呆れた風にも諦めた風にもとれる溜め息をついた男は、やっと静かになった。

「おい」

 一度は遠ざかった眠気が再び訪れ、さっきはドアノブに手をかけて回す瞬間に消えてしまった夢の世界へ続く扉を開けて足を踏み入れようとした瞬間、肩をガシッと掴まれた。
 お堅い学級委員長様が、体育祭の最中なのに居眠りするんじゃない、と俺だけに文句を言いにきたのだろう。
 口煩い男を黙らせてやっと夢の世界に旅立てるところだったのに、柚木のストレスの捌け口にされて起こされるなんて絶対に嫌だ。
 背後に感じる険悪なオーラは無視して、消えかかっている夢の世界へ続く扉を、無理矢理抉じ開けて中に入り込もうとする。

「おい、起きろ」

 後ちょっとで中に入れそうだったのに、掴まれた肩をグラグラと揺らされて、夢の世界へ続く扉は跡形もなく消えてしまった。

「うるさいな。寝てるのは俺だけじゃないだろ!」

 こっくりこっくりと船を漕いでいる奴で溢れ返っている運動場を見渡して、怒りをぶちまける。
 俺の反応は想定内だったのか、表情一つ変えない柚木が、掌に乗せている襷を押し付けてきた。

「二人三脚の出場者が欠席だ。代わりに君が出ろ」
「なんで俺が出ないといけないんだよ」
「君は百メートルを一回走っただけで体力が余っているだろ。それに俺と身長差もないからな」
「柚木と二人三脚をするのか?」

 確かに、体格的な条件では俺は適任だろう。
 しかし、互いの息が合わないと上手く進めないという二人三脚の一番重要な条件を満たしていない。
 寧ろ一番組んではいけないくらい息の合っていない、二人三脚をするのに相応しくない相手だ。

「どうせ一位を取れなきゃ文句を言ってくるんだろ? グチグチ言われるのは御免だから他の奴を当たってくれ」
「君しか空いている奴はいないんだ。つべこべ言わずに来い」

 シッシッと手を振ってあしらう俺の左足首に、折れるんじゃないかという程きつく襷を結んできた柚木。
 そして、自分の右足首と繋ぎあわせてぎゅうぎゅうに固結びをしてしまい、強制的にパートナーにされてしまった。

「おい、これ、解けるのか?」
「終わったら鋏で切る」

 レースが終わる前に、血が行き届かずに壊死してしまいそうだ。
 チッと舌打ちをして睨む俺に構うことなく、互いの息を合わせようなんて微塵も考えていない柚木は、自分のリズムで二人三脚の出場者の集合場所に向かっていく。
 足に絡まったゴミのような扱いをされ、呪い殺す位の勢いで前を行く背中を睨み付けていると、繋がれた足元に蹲って何やらやっている男を視界の隅に捉えた。
 どうやら、固く結ばれた襷を解こうとしているらしい。
 物体に触れられない男には絶対に無理なことなのに、必死に解こうと苦戦している姿を見て、怒りで真っ黒だった心に淡い色が混ざっていった。
 取れそうか? と声を掛けてやりたいのに、至近距離に柚木がいるから叶わない。
 何を一人で話しているんだ、と気持ち悪いと言わんばかりに見下して見てくるに違いないからだ。

「解けませんね」

 最初から結果は分かっていたのに粘っていた男が、やっと諦めて俺の右隣に戻ってきた。
 眉を下げて申し訳なさそうに男が見下ろす俺の左足首は、擦れてうっすら血が滲んでいる。

「痛いですか?」

 襷を強く結ばれ過ぎて麻痺しているが、ジンジンと皮膚の奥に鈍い痛みを感じるので、こくんと頷く。

「後で手当てをしましょうね」

 痛みを感じないはずなのに俺より痛そうな顔をしている男が、擦れて赤くなった箇所をそっと撫でた。
 微かに感じていた痛みが、すーっと消えていったような気がする。
 俺に触れることの出来ない掌なのに、痛みや苦しみや憤り等、俺の中にある負の感情を吸いとってくれるような不思議な掌だ。
 いつもは悪いところばかりが目につく男なのに、良いところばかり見えるのは、男より最悪な柚木が至近距離にいるからだろうか。

 二人三脚は五十メートルの直線を走るのだが、お遊び競技の色合いが強いようで、派手な仮装をしたクラスのムードメーカーっぽい奴等が多々参加していて、出場者の集合場所はサンバカーニバルの会場のようだ。
 体操服に猫耳の俺なんて、この中では仮装の部類には入らない程度のレベルだが、このくらい我慢しようなんて気にはならない。嫌なものは嫌だ。
 どうやら最初の組で走るようなので、一刻も早く終わらせたい。

 待ちに待っていたのか待っていないのか分からないレースが始まったが、スタート位置までゴミ扱いで連れていかれた俺と柚木の息など合うわけがなく、柚木の一方的な走りに付いていかされている俺。
 何度も足が縺れて転びそうになるのに堪え、なんと柚木の大好きな一位でゴールを迎えるところまできた。
 これで足の痛みから解放される、と目前に迫ったゴールテープを見て気が抜けてしまったのか、今まで耐えていた足が修正不可能な程に縺れてしまい、スライディングでゴールに滑り込んでしまった。
 膝にピリッと痛みが走り、熱くなってくるのを感じる。
 俺につられて転んだ柚木が立ち上がって手に付いた砂を払うと、まだ膝立ちで立ち上がれない俺の腕を乱暴に掴み、ゴールした選手の待機場所とは逆方向の校舎側に向かって歩き出した。

「どこに行くつもりだ?」
「保健室だ」

 ぶっきらぼうに答えた柚木は、足を引きずる俺に振り返りもせず自分のペースで歩き続ける。

「すぐに手当てをしますから、今しばらくの辛抱ですよ」

 擦りむいて血の滲む痛々しい俺の両膝を見た男は、心配そうに顔を歪めながらも励まし続けてくれる。

「サンキュ」

 前を行く柚木の背中から発せられる冷気で凍えた体を暖めてくれるような男の気遣いに、ポロリと心の声が口から漏れてしまった。
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