その男、幽霊なり

オトバタケ

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神無月

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 桃井先輩を見送った海老原は、再び洋書を読み始めた。
 俺もしりとりの続きをやろう、と最後の言葉を思い出していると、俺の出る百メートル走の出場者招集のアナウンスがかかった。

「行ってくるな」
「頑張ってね」

 ひらひら掌を振る海老原に見送られて、招集場所に向かう。
 百メートル走といえば陸上競技の花形で、走りに自信がある奴等が多くエントリーしているのだが、俺は自信があってこの競技を選んだわけではない。
 予選、準決勝、決勝、と順調に勝ち進めば三回走ることになるが、特別足が速いわけではない俺は予選を突破するのも難しいだろう。
 一回、数十秒走るだけで終わる競技なので、百メートル走を選んだのだ。

「やるからには真剣に挑まなければなりませんよ」

 俺のやる気のなさに気付いた男が、苦言を呈してくる。

「この格好で真剣もなにもないだろ」

 頭に着けたままの黒い猫耳を指差し、フッと鼻で笑う。
 着けたままでも競技に支障がないように猫耳を選んだのだからそのまま出場するように、と猫耳を準備した女子達に言われたのだ。

「恥をかかない程度には頑張るさ」

 鼻息を荒くして念入りにストレッチをしている奴等に勝てるとは思わないが、余りにも差をつけられて負けるのも癪なので、それなりには頑張るつもりだ。

「はぁはぁ……きつ」

 予想通り俺は予選落ちで、これで体育祭が終わるまでのんびり過ごせるようになった。
 だが、俺が走った組は、自称優勝候補の走りに自信がある奴等ばかりが集まっていて、手を抜けばとんでもない大差で負けるのが目に見えていたので、全力疾走する羽目になってしまった。
 どう足掻いても最下位には変わりはなかったのだが、断トツ最下位というのは免れた。
 ゴールした出場者の待機場所に倒れるように座り込んだ俺は、体育座りをして立てた膝と胸の間に顔を埋め、乱れに乱れた息を整えている最中だ。

「拓也、そんな恥ずかしい姿を晒してはいけません」
「はぁはぁ……分かってる」

 分かっているけど、どうにもならないんだから仕方ないだろ。
 たった百メートルを走っただけでこんなに息が上がっているのは俺だけで、周りは涼しい顔で残りのレースに出場するクラスメイトを応援したり、クールダウンのストレッチをしたりしている。
 この程度じゃくたばらない位の体力はあったはずなのに……。いつだったか男に言われたように、生活サイクルに運動の時間を取り込む必要がありそうだ。
 なんとか呼吸も心音も落ち着き、ふぅっと大きく息を吐いて顔を上げると、俺を覆い隠すように抱きついている男と目があった。

「呼吸は整いましたか?」
「あぁ。で、アンタは何してるんだ?」
「乱れる拓也の姿を見られないように隠していたんです」
「他人からは見えないアンタが覆い被さっても意味がないだろ」

 呆れ顔で言うと、寂しそうに目を伏せた男は俺から離れられるギリギリの距離の場所までフラフラと漂っていき、怒られた子供のように背中を向けて丸くなって座った。
 大人びた雰囲気の整いすぎた外見に不釣り合いなガキっぽい仕草に思わず吹き出してしまい、仕方なく構ってオーラ全開の背中に近付いていく。
 すると、俺の気配に気付いたのか男が振り返り、花が咲いたような笑顔を浮かべた。
 この時折見せる無垢な子供のような姿に手を差し伸べたくなるのは、母性本能みたいなものなのだろうか?

「気持ちだけはもらっとくよ。それから、いつだったかアンタに言われたように運動の時間を作ろうと思うから付き合えよ」
「ええ。これでもかというほど泣かせてあげますから覚悟していてくださいね」
「望むところだ」

 挑発するように笑う俺に、いつもの大人の余裕の笑みを返してきた男。

「すいません」

 午前の競技が終わり、ジュースを買ってくるから先にベンチに行ってて、と駆けていった海老原の背中を意外に足が速いんだなと感心しながら見送り、一人で運動場を歩いていると女子三人に声を掛けられた。

「何?」

 真ん中の子の腕に両端の子が腕を絡めて三人で一つの生物になっている女子達に、腹が減ってるのに面倒事に巻き込まれるのは勘弁して欲しいし、不機嫌な顔でこちらを睨んでいる男に後で何をされるか分からないので、関わってくるなオーラを出しながら聞く。

「写真を撮ってもらってもいいですか?」

 ほら、面倒臭いことを頼んできた。
 眉間に皺が寄っただろう俺の顔を見て一瞬怯んだ女子達だが、進路を塞いだままどこうとはしない。

「俺、そういうの得意じゃないから写真部の奴に撮ってもらえば?」

 ちょうど隣を通りかかった、写真部と書かれた腕章を付けた奴を指差す。

「いえ、一緒に写って欲しいんです」

 ぶんぶんと少し上気した顔を振った女子達の目線は、俺の頭に向いている。

「あぁ、コレを着けてるからか? 貸してやるから自分にはめて撮れば?」
「いえ、猫耳をつけた宇佐美先輩と一緒に撮りたいんです」

 先輩、と呼ぶということは一年か。
 先輩でも同級生でも面倒臭いことに変わりはないけれど、後輩の方が断り易いので多少は都合がいい。

「悪いけど、こんな恥ずかしい姿を記録に残したくないんだ」

 男子高生が猫耳なんて着けてる、と笑い者にするつもりで写真を撮らせろと言っているんだろ?
 嫌々着けているのに、自ら進んで着けて喜んでいる変態、と笑い者にされるなんて堪ったもんじゃない。
 隠し撮りをされたら敵わないと思って猫耳を外し、立ち竦む女子達の脇を通って中庭に向かっていく。
 チラッと横目で確かめた男の顔は、鼻唄を歌っているようなご機嫌な表情だったので、理不尽な虐めを受けなくて済むなと胸を撫で下ろした。
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