その男、幽霊なり

オトバタケ

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霜月

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 十一月に入り、朝晩はめっきりと冷え込むようになった。
 夏に男と訪れた山は紅葉狩りに訪れる観光客で賑わっているという話題が、夕方のニュース番組で取り上げられていた。
 男と三ヶ月あまりを共に過ごし、季節が夏から秋へ変わったように、俺の心も変化していっている。
 男に絆されて受け入れてもいいかと思う気持ちと、いつ俺の前から消えるのかも分からない記憶喪失の幽霊を受け入れてなどいけないという思いで、心は木枯らしに吹かれる葉っぱのように揺れている。

「拓也、また同じ間違いをしていますよ。集中していますか?」
「え? あぁ、本当だ。ちょっと集中力が切れてきたから休憩する」
「まだ始めて三十分も経っていないじゃないですか。一時間は集中出来なければ受験は乗り切れませんよ」
「分かってるけど、こういう日だってあるだろ。ココア飲んで糖分を補給するから黙ってろ!」

 相変わらず勉強には厳しい男の鬼家庭教師ビームを浴びながら机に向かっていたが、同じ英単語のスペルを三回間違えてしまったので、一旦頭を休めるすることにする。
 男はガーガー文句を言っているが、無視してキッチンに向かう。
 ココアくらい自分で作ろうと思っていたが、ちょうどコーヒーのおかわりを作ろうとキッチンに立っていた母が、ついでだからと作ってくれた。
 モクモクと湯気が上がる熱々のココアを持って自室に戻る。
 ベッドに腰掛け、さっきまで俺が座っていた勉強机の椅子に座り、他に間違いがないかチェックしている男の背中を眺めながらココアを啜る。

「なぁ、なんでアンタはそんなに勉強に煩いんだ?」

 俺と出会う前に病院を徘徊している時に受験生の入院患者を見たって話は聞いたけれど、それだけであんな鬼家庭教師になるのだろうかと疑問に思って聞いてみる。

「何でもやるなら一番を取る方が嬉しいでしょう?」
「アンタ、負けず嫌いなのか?」
「そうですね。僕が負けてもいいと思うのは拓也だけですから」

 英語の問題集の確認を続けている男がさらっと放った言葉に、口の中のココアを吹き出しそうになってしまう。
 慌てて飲み込んだココアが、食道を焦がしながら胃に落ちていく。
 親友とか恋人とかがいたことのない俺は、俺だけは特別、という言葉に弱いんだと最近気付いた。
 俺だけしかいらない、と言う男に絆されかかっているのは、初めて与えられた特別という称号に浮かれているからかもしれない。

「あと、そうですね、たくさんの知識があれば将来の選択肢も増えるでしょう? 拓也には夢はあるんですか?」

 俺の動揺などよそに、勉強に煩い理由を話し続ける男。

「まぁ、あることにはある」
「どんな夢なのか聞かせてください」

 俺の答えを聞いて振り返った男が、キラキラと瞳を輝かせてベッドに近寄ってきた。

「新薬の研究をしたいんだ」

 海賊王になりたいとか天下統一したいとか突拍子もない夢ではなく、高校の進路希望にも普通に書いていることなのに、男に言うのは妙に照れ臭くて早口で告げてココアを啜る。

「新薬の研究、ですか?」

 青い双眸が不思議そうに俺を見つめてくる。

「母さんが薬剤師をしてるから最初は薬剤師を目指してたんだけど、まだ治療薬のない病気がたくさんあるのを知って、調剤するより作る立場になりたいと思うようになったんだ」

 特効薬の開発が望まれている大きな病気は勿論だが、あまり知られていない病気の治療薬の研究もしてみたい。
 発展途上国では先進国では発症しないような病気がたくさんあるが、治療薬を開発したところで利益に繋がらないからと大手の製薬会社は研究すらしていないらしいのだ。
 これ以上人口爆発を進めない為の自然淘汰という考えもあるが、一方では薬がなければ途絶えるべき命を救い、一方では自然の理に従うなんておかしな話だ。
 利益あっての会社なのは頭では分かっているが……。

「どんな病気にも効く万能薬が作りたいんだった……」

 そうだ、そんな薬を開発出来れば平等に苦しむ人を救える。
 正義のヒーロー気取りの俺が考えた、今思うと恥ずかしい夢だった。

「万能薬、ですか」
「え?」

 なんで男が、万能薬を作りたがっていた俺の恥ずかしい夢を知っているんだ?
 まさか……

「アンタ、心の声が聞こえるのか?」

 アンタに対して揺れ動いている気持ちも全て聞こえてしまっているのか?
 サーッと顔の血の気の引いていく。

「何を言っているんですか? 今さっき拓也が教えてくれたことでしょう?」
「俺、声に出してたのか?」
「今日の拓也は少し様子が可笑しいですね。風邪でも引いてしまいましたか?」

 怪訝そうな顔から心配するような顔に変わった男が、掌を額に当ててこようとする。

「あぁ、朝晩冷えるようになったから引きかけてるのかもな」

 風邪の兆候などないのにゴホゴホと咳き込む振りをして男の手をかわし、ココアを啜る。

「僕には布団を掛け直してあげることも出来ませんからね」

 俺に触れられなかった手を布団に乗せ、申し訳なさそうに目を伏せる男。
 その姿はとても弱々しく見えて、手を差し伸べたいと思ってしまった。

「気付いたら起こしてくれればいい」
「あんなことやこんなことをしても起きないのに、起きられるんですか?」
「アンタ、俺が寝てる間に何してるんだ?」
「知りたいですか?」

 妖艶な笑みを浮かべた男が、獲物を狙う獣のような目で聞いてくる。
 どうせ、いやらしいことをしているんだろう。
 頭にきていいはずなのに、寝ている俺にも構いたいと思っているんだということに胸の奥がこそばゆくなって、怒りきれていない自分に戸惑ってしまう。

「何もしてないですよ。拓也の寝顔を眺めているだけです。だから、そんな泣きそうな顔をしないでください」

 男の掌が、自分の心情に困惑する俺の頬に触れてくる。

「寝顔なんて見られたいもんじゃないから見るな!」

 男が眠らないことは知っていたし、男が部屋に居ても何も気にせずに寝ていた。
 それなのに、無防備な寝顔を見られていたということが急に恥ずかしくなってきた。

「拓也の寝顔は、眠れる森の美女よりも美しいので安心してください」

 俺の寝顔を思い浮かべているのか、うっとりと微笑む男を見て心音が早くなっていく。

「ば、馬鹿じゃねーの。アンタ、今日から俺が寝てる間はベランダに居ろ」
「そんな、凍えてしまいますよ」
「寒さなんて感じないだろ?」
「心が凍えてしまうんです」

 触れられる体はなくても、男は俺と同じ心を持っている……。
 生きていても生きていなくても、心にカタチはなくて直接触れることは出来ない。一番大切なものだから、どんな状態になっても消えないようにカタチがないのかもしれない。
 何故だか、そのことに安心したような嬉しような、ほっとした気持ちになってしまった。

「じゃあ、部屋に居てもいいけど、俺の寝顔は見るなよ」
「極力見ないようにします」

 ニヤリと笑う男は絶対に凝視してきそうだが、仕方ないと諦めている俺がいる。

 その日から、入浴時に念入りに顔を洗うようになってしまった。
 今まで外見になど気を遣ったことなどなかった俺だが、相手が完璧過ぎる容姿の持ち主だから、少しでも粗を隠したいというプライドがそうさせたのだろう。

「俺も負けず嫌いなのかもな」

 風呂上がりに洗面台の鏡を見て、顔に汚れはないかをチェックしている自分に苦笑いをする。
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