先生、教えて。

オトバタケ

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 拭き掃除を終えてキッチンに戻り、昼食の準備を始める。

「ナオくんは昨日やったようにレタスを千切ってくれな」
「はい、がんばるっ!」

 レタスの葉を三枚剥いで、ザルと一緒に直人に渡す。
 ダイニングテーブルでそれを千切り始めたのを確認し、俺はオムライスに入れる野菜を微塵切りにしていく。
 黙々と野菜を刻みながら、そういえば俺はキスをしたことがないんだよな、と思い出す。
 あれだけ男と体を重ね、ブツだって咥えていたのにだ。
 されそうになったことは何度もあるが、相手の唇が近付くと悪寒が走り、気持ち悪くて吐いてしまったこともあった。
 キスをしたことがないのに、どうしてさっきキスをしているような感触だと思ったのだろう?

「先生、できたよ」
「あぁ」

 考えたってどうしようもない疑問は、得意気な直人の声によって断ち切られた。

「うん、上手だ。次は卵を割ってみるか」
「ぼくにできる?」
「失敗しても先生がなんとかするからやってみような」
「はいっ!」

 自信なさげにへの字に曲げられていた唇が、楽しみだと言うように逆向きに上がっていく。
 この唇ならば合わせても気持ち悪くないのだろうか、と直人の薄めの唇を見つめている自分に気付き、急いで冷蔵庫に向かって冷気で頭を冷やしながら卵を取り出す。

「ナオくん、薄い卵とトロトロの卵、どっちがいい?」
「トロトロっ!」
「分かった」

 卵でチキンライスを包むのではなく、チキンライスにトロトロの卵を乗せるタイプだな。
 そうすると、一人分に卵が三個は必要か。
 夫人や梅田先生は三個も卵を食べるのを嫌がるかもしれないから聞いてから作ることにして、直人と俺の分だけ割っておこうか。
 手に乗せていた二個の卵を持ったままボールを取りにいき、冷蔵庫に戻って残りの四個を取り出し、ボールに入れて直人のいるダイニングテーブルに置く。

「ちょっと待っててくれな」

 興味津々でボールの中の卵を眺めている直人に告げ、お手拭きを用意する。
 卵を割り入れるボールと、卵を割り損ねても無駄にならないようにボールの下に敷くトレイも用意して、直人の元に戻る。

「まず、先生がやってみるな」

 直人の腰掛けている正面の椅子に座り、卵を手にとってトントンとボールの端に当ててひびを入れ、殻を二つに割ってボールに中身を入れる。
 手品でも見ているかのように、直人は一連の動きに釘付けになっている。

「ナオくんもやってみな」
「はいっ!」

 恐る恐る卵を手に取った直人は、見様見真似でボールの端に当てる。

「もうちょっと力を入れてもいいぞ」

 優しくやり過ぎて全く卵にひびが入っていないようなので助言すると、頷いた直人は思い切り卵を叩き付けた。
 グリャリと潰れた卵の中身が、トレイに垂れていく。
 白身に潰れた黄身が混ざってマーブル状になったものの上には、細かい殻が散っている。
 それを見て、あ、という形に口を開けて固まった直人が、眉を下げて捨て犬のような顔で俺を見た。

「卵を割るのは難しいから、最初から上手くできなくて当然だ。次は先生と一緒にやろうな。その前に手を拭こう」

 笑い掛けながら直人にお手拭きを渡し、トレイに落ちた卵をボールに入れる。
 後で濾して、殻は取り出せばいいだろう。
 俺が作業を終えると、ちょうど手を拭き終わった直人が、イメージトレーニングでもしているのか一心に卵を見つめていた。
 その真剣な表情を見て、トクンと胸が鳴る。
 笑顔が消えた直人は、あの天使のような無垢な姿が想像もつかないほど、冷たそうで鋭利な刃物のような大人の男になる。
 誰彼構わず寝ていた俺が全ての関係を断ち、だけれど覚えてしまった快感を忘れられずに自分で処理をするようになった時、想像すると体が燃えるように熱くなって酷く興奮したのが、直人のような容姿と表情の男だった。

「先生?」
「あ……あぁ、じゃあ一緒に割ろうな」

 無垢な姿に戻った直人の問い掛けで、我に返る。
 直人に似た男ではなく、直人との情事を想像してしまいそうだった脳を、卵を割ることだけに集中させる。
 立ち上がって、卵を掴む直人の手を上から包む。
 骨張った大きな手から伝わってくる温もりに、ベッドの上で戯れているような甘い感覚に囚われそうになり、これは先生としての指導なんだとそれを打ち砕く。

「じゃあ、割るぞ」

 直人の手をボールの端に導き、コンコンと卵を当てる。

「よし、次はボールの真ん中に移動させるぞ」

 直人越しに伝わってくる振動で頃合いを判断し、卵を割って中身を出すために直人の手をボールの中央に導く。

「一回手を離してみな」

 直人の手を包んでいた掌を卵の下に持っていき、俺の指示通りに手を離した直人から卵を受け取り、半分に割る格好に持ち変える。

「ナオくんも先生と同じように持ってみな」

 俺の手の位置を凝視して観察していた直人は軽く頷き、俺の向かいに指を置く。

「よし、じゃあ割るから、指先にちょっと力を入れてみな」

 卵に亀裂が入っていくのを感じて左右に殻を開くと、ポトリと中身がボールに落ちた。

「上手くできたな」
「やったぁ!」

 初成功で自信をつけた様子の直人と、残りの卵も割っていく。

「うん、上出来だ」

 少し殻が入ってしまったが、六個分の白身と黄身が入ったボールの中を見て頷く。

「先生、うれしい?」
「あぁ、ナオくんが手伝ってくれて嬉しいし助かったよ」

 手渡したお手拭きで手を拭きながら、俺の言葉に満面の笑みを浮かべる直人。
 これが直人の本当の顔なんだ。イレギュラーで見せる大人の男の顔に、変な勘違いをして期待を抱くんじゃない。
 己に言い聞かせるためにグッと拳を握り、テーブルの上を片付けていく。
 直人にサラダの盛り付けを頼み、その様子を確認しながらチキンライスを炒めていく。

「先生、できたっ!」
「あぁ」

 炒め終わって皿に盛り付けようとしていると直人から声が掛かったので、持ち上げていたフライパンをコンロに戻してダイニングテーブルに向かう。

「ナオくん、上手いな」

 食洗機に食器を入れるのもそうだが、パズルのように組み立てるのが得意なのか、直人が盛り付けたサラダは店で出されるもののような綺麗な仕上がりだった。

「綺麗すぎて食べるのが勿体ないな」
「先生、食べたくないの?」
「いや、食べたいよ」
「ほんとぉ? よかった」

 ほっと息を吐く直人を見て、施設の子達と接すると感じる温かい気持ちが沸き上がってくた。
 直人に感じるべき正しい気持ちが沸き上がって、ほっとする。

「あら、いい匂いね」

 直人のサラダを眺めていると、夫人と梅田先生がキッチンに入ってきた。

「お母さま、姫子おばさま、これぼくが作ったの」
「まぁ、ナオくん、上手に出来たわね」
「本当だ。ナオくん、シェフになれるわね」

 母親と叔母に褒められた直人は、照れ臭そうに頭を掻いている。
 愛されているんだと分かるその光景に、チクリと胸の奥の傷が痛んだ。
 それを誤魔化すように、オムライスの仕上げにかかる。
 卵は少ない方がいいと言った夫人と梅田先生用に、薄焼き卵でチキンライスを包んだものを作り、直人用にトロトロ卵を作っていく。

「うわぁ、トロトロだぁ。おいしそう!」

 仕上がった皿を直人の前に置くと、キラキラ輝いた瞳でそれを見ている。

「これで卵に好きな字でも書いてみな」

 ケチャップを渡し、自分の分の卵を作りにコンロに戻る。

「先生、見てっ!」

 仕上がった皿を持ち、既に三人が座っているテーブルに就くと、直人がオムライスの乗った皿を俺の前に差し出してきた。

「これ……」
「好きな字書いたの」

 卵の上にケチャップで書かれた『先生』の二文字を見て、胸が締め付けられた。
 それは、先生として認めて貰えたことが嬉しいからなのか、先生として慕ってくれている直人に邪な感情を抱いてしまうことへの罪悪感なのか、どちらからきたものなのか分からなかった。
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