先生、教えて。

オトバタケ

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 夕飯を食べ終わり、食洗機に食器を入れる直人の仕事が終わると、後のことは夫人に任せてキッチンを出た。

「先生、見て」

 リビングに向かっていると、隣を歩く直人が俺のシャツの裾を引っ張ってきたので歩みを止めた。

「どうした?」
「ほら」

 直人が指差す先には玄関の上の吹き抜けに付けられた丸い窓があり、そこには窓と同じ真ん丸な月が映っていた。

「綺麗な月だな。見に行ってみようか」
「うん、行く!」

 行き先を変更して、玄関から庭に出る。
 広大な庭の、マシンによって綺麗に整えられている芝の上を、屋敷を囲む塀の方に向かって歩いていく。
 屋敷からの灯りが届かない距離まで来ると、そこで月を見上げる。

「先生、きれい」
「あぁ、本当に綺麗な月だな」

 うっとりと呟く直人の横で、俺も月に見惚れる。
 昼間の暖かさが消えて、ひんやりとした空気が月の白い光をより引き立たせるのか、宝石のように美しい。
 周りに他の灯りがない静かなここで見上げる月はとても幻想的で、これなら月にウサギが居たり、かぐや姫が住んでいたりという話も、本当のことなのではと信じられそうだ。

「くしゅん」
「寒くなってきたか? そろそろ戻ろうな」

 暫く幻想的な月を見上げていたが、隣の直人のクシャミで現実に引き戻された。

「やだ、もっと見る」
「風邪を引いたら辛いのはナオくんだぞ。部屋からだって見られるから戻ろうな」
「じゃあ、こうする」

 余程月見が気に入ったのか、戻ろうと諭す俺にむうっと頬を膨らませた直人が、俺の背後に移動して俺を抱き締めてきた。

「ナオ……くん?」
「これならあったかいから平気だよ」

 俺の肩に顎を乗せた直人は嬉しそうな声を上げ、月を見上げている。
 先生であれ、と叫ぶ頭に反して、直人の温もりに反応した心臓が早鐘を打つ。
 雄の本能で徐々に体温の上がっていく体に、直人の行動は暖をとる手段という以外の理由はないんだと言い聞かせる。

「先生、あったかい?」
「あぁ、暖かいけどこれでも風邪を引くかもしれないから、十数えたら戻ろうな。ナオくんは十まで数えられるか?」
「数えられるよ。一、二……」

 直人の意識を月から逸らし、ゲーム要素で誘導して戻る方向に持っていく。

「九、十!」
「おっ、ちゃんと十まで数えられたな。じゃあ、玄関までどっちが早く着けるか競争な」
「はいっ!」
「よーい、ドンッ!」

 走る前から全力疾走した後のように波打っていた心臓を、ダッシュしているせいだと自分に言い聞かせて、懸命に走る直人の後を追う。

 先に玄関に着いたのは、直人だった。
 本気で走ったら勝てただろうが、決して足が遅いわけではない直人に、今の状態の俺は態とではなく本当に負けた。
 労うように互いの顔を見合って息を整え、呼吸が落ち着いたところで声を掛ける。

「ナオくんの勝ちだな」
「やったぁ! ごほうびは?」
「何が欲しい?」
「チュー!」
「へ?」
「チューだよ」

 欲しいと言われたものが予想外すぎて脳が処理出来ずにいると、長い人差し指を自分の唇の端に当てて、ここにしろと訴えるように唇を尖らせた直人。

「お母さまが、ごほうびでくれるの」

 呆然と直人の顔を見つめていると、急かすように言ってくる。
 直人にとっては、母親から普通に貰っているご褒美なのだ。
 母親が子供を抱き締めたりキスしたりするのは、動物の親が子供の毛繕いをすると同じ自然な行為だ。
 母親に貰うものを俺からも貰いたいと言ってもらえ、先生として受け入れてもらえているのが分かって嬉しい気持ちと、俺からだけに貰いたいわけではないということへの不満からくる胸の痛み。
 正と負の相反する感情が混ざりあった嵐が、体の中を駆け抜けていく。

「お母様にいつもご褒美で貰っているなら、お母様にしてもらおうか」
「お母さまじゃいやだ」
「じゃあ梅田先生に……姫子おば様が来た時にしてもらおう」
「姫子おばさまとはチューしないの」

 俺からのご褒美のキスに執着する直人に淡い期待を抱きそうになってしまう雄の俺を、直人は幼児と変わらないのだと先生の俺が必死に止める。

「お母様はナオくんの家族だからチューしてくれるけど、先生は家族じゃないからチュー出来ないんだ」

 どうにかして諦めさせようと、直人が納得できそうな言葉で説得する。

「けっこんしたら、かぞくでしょ?」
「まぁな」
「ぼくは先生とけっこんするから、かぞくだよ」

 大人の男にしか見えない真顔の直人に言われ、ドクンと鳴った心臓が高速で心音を刻みだして動けないでいると、ニコッと微笑んだ直人が俺の両頬を掌で包んで強引に上を向かせた。
 月光を浴びた直人の整った顔がスローモーションで近付いてきて、唇を優しい熱が包んだ。
 柔らかくて心地好い、そして砂糖菓子のように甘いその感触は、どこかで味わったことのあるものだ。
 思い出そうとしているのか、チリチリと疼きだした脳に気を取られているうちに離れていってしまったその感触に寂しさを覚え、もっと欲しいと手を伸ばそうとして我に返る。

「ナオくん、今のは……」
「お父さまとお母さまはけっこんしきでお口にチューしたの」

 その言葉で、唇に感じたあの感触は直人の唇だと分かった。
 他人とキスするのが吐くほど気持ち悪くて拒否し続けていた俺の初めての口付けは、吐き気など感じない蕩けそうなほど甘くて気持ちのいいものだった。
 直人と触れ合った唇をそっと指でなぞると、細胞が喜んでいるのか熱を持っていた。

「ナオ……」
「先生、ナオくん、どこにいるの?」

 完全に雄の俺になってしまい続きを欲しがるように直人の名を呼ぼうとしてしまっていたところを、二人の姿が見えないことを心配した夫人の声によって、先生の俺が戻ってきた。

「お母様が探しているから家の中に戻ろうな」

 バクバク鳴り続けている心臓を無理矢理抑え込んで、冷静な声で告げて玄関の扉を開ける。

「先生、もっとチューしたい」
「結婚したらチュー出来るんだろ? 先生はナオくんが一人で何でも出来るようになったら結婚するって約束しただろ。だから、それまでチューもお預けだ」
「ごほうびでも?」
「あぁ。ご褒美は違うものをあげるからな」

 キスに異常に拘り、その場を動こうとしない直人を諭し、なんとか室内に入らせる。
 直人にとってキスは結婚の象徴で、同じことをすれば大好きな両親に近付けるとでも思っているのだ。
 初めての口付けに浮かれて、叶うはずのない淡い期待に胸をときめかせている自分を叩き割るように、胸を叩いた。
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