先生、教えて。

オトバタケ

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 門の前でタクシーを降り、屋敷に向かって歩き出す。

「いつ降っても、おかしくない空だな」
「どうして分かるの?」

 空を仰いで呟いた俺と同じ格好をして、直人が聞いてくる。

「ほら、雲が灰色で重たそうだろ。あれは雨を降らせる雲なんだ」
「くもさん、痛いのかな?」
「え?」
「ぼく、痛いとおむねがくらい色になって泣いちゃいたくなるよ」

 ぎゅっと拳を握り、唇を噛んで雨雲を見上げている直人の心は、この空と同じで暗く陰り、今にも泣きだしそうなのだろうか。
 俺と一緒にいたせいで、辛い思いをさせてしまってごめんな。直人を護れずに逆に傷付けてしまった不甲斐ない俺なんて、先生失格だ。
 情けなくて俯いてしまうと、ふわりと甘い香りが鼻を擽り、温かな熱で体を包まれた。

「先生、もう痛くないよ」
「ナオ……くん?」
「ぼく、しってるよ。雨がふったら、お空には虹が出るんだよ。痛いのも泣いちゃいたいのも、わすれちゃうくらい虹はきれいでキラキラしてるんだよ」

 直人が懸命に紡いだ言葉で、心を覆っていた雲が晴れて七色の虹が架かった。
 直人の魂と同じでキラキラと輝く美しい虹が、俺の中の負の感情を浄化していってくれるようだ。

「先生は痛くないから大丈夫だ。お母様が待ってるから、早く家に入ろう」
「うん」

 そっと胸を押すと、俺の顔を覗いた直人は安心したように頬を弛めて離れていった。

「ナオくん、後で種を植えるから朝顔はここに置いておきな」
「うん、分かった」

 大切そうに抱えた朝顔を持ったまま室内に入ろうとする直人を止め、土間に置かせる。

「ただいま戻りました」
「ただいま」
「おかえりなさい。お買い物は楽しかった?」
「あのね、すごくいっぱいいろんなものがあって、お魚を見て、お花も見て、楽しかったの!」

 扉を開ける音に気付いて出迎えに出てくれた夫人に、満面の笑みを湛えて報告する直人。
 その顔に陰りがないことに、ほっと胸を撫で下ろす。

「それは何かしら?」
「あさがおっ! 先生と一緒に大きくしてあげるの」
「あれ、ナオくんが自分で育てるんじゃなかったのか?」
「かれちゃったらかわいそうだから、先生も一緒にやって」
「先生は見てるだけだぞ」
「まぁ、どんな朝顔が咲くのか楽しみね」

 国重邸の温かで優しい空気に包まれ、明るい笑いが溢れる楽しい会話が続く。
 籠の鳥でも、この空気に包まれて穏やかに暮らすことが、直人にとって一番幸せなのかもしれない。
 犯してしまった大罪を誤魔化すために直人を外の世界に連れだし、傷付けて更に罪を上塗りしてしまった俺は、この優しい空気に包まれることなんて、やはり不可能なんだ。
 越えられるのかもと一瞬期待した国重親子との間に引かれた線が、侵入を拒み、はっきりと浮かび上がっているのが見える。

 もう昼食の時間なので、そのままキッチンに向かう。
 手を洗って就いたテーブルには、たくさんの海鮮が載ったちらし寿司が置いてあった。
 昨日、梅田先生が持ってきてくれた刺身を使ったのだろう。

「うわぁ、きれいだね」

 宝石箱のような海鮮ちらし寿司を見て、ぐうっと腹を鳴らした直人の取り皿に寿司をよそってやる。

「いただきますっ!」

 たくさん歩いたので相当空腹だったのか、すぐに皿は空になった。
 それを微笑んで見守っている夫人に、直人を護れなかったことを胸中で懺悔しながら、空の皿にお代わりをよそっていく。

「先生は、ちらし寿司はお嫌いだった?」
「いえ、凄く美味しいですよ。でも、ちょっと車酔いしたのか、今はあんまり食べられないです。すいません」

 落ち込んでいるせいか、旨そうな海鮮ちらし寿司を前にしても食欲が沸かず、少しだけ皿によそったのだが、それも胸がムカムカして半分も食べられていない。

「まぁ、大丈夫?」
「先生、痛いの?」
「少し休めば落ち着くと思いますんで。ナオくん、痛くないから大丈夫だよ」

 箸を止めて心配そうに眉を下げる国重親子に、大したことはないと笑いかける。
 作ってくれた夫人には申し訳ないが、それ以上食べるのは無理だったので箸を置き、熱いお茶を啜る。

 昼食を終えて片付けを済ませ、絵を額に入れるために二階の寝室に向かう。
 玄関が妙に暗いことに気付き、吹き抜けに付けられた丸い窓を見上げると、降り注ぐ雨粒が見えた。

「降りだしたみたいだな」
「ほんとだっ! 先生の言ってたとおりになったね」

 俺の視線の先を追った直人が、予想が当たって万馬券を獲得したかのような嬉しそうな声をあげた。

「朝顔の種蒔きは今日は無理そうだな。晴れた日に蒔こうな」
「あさがお、雨きらいなの?」
「朝顔は雨が好きだけど、雨に当たってナオくんが風邪を引いたら朝顔の世話ができないだろ?」
「そっか。先生がかぜひいたら、ぼくもくるしいからやめるね」

 母親と同じ慈愛に満ちた顔をして言う直人に、罪悪感で胸が張り裂けそうになる。
 この雨が、俺の穢れた血も、犯した罪も、洗い流してくれたらいいのに。
 ぼうっと雨粒を見上げて叶いもしないことを願い、現実から逃げようとしていると、グイッと腕を引かれて我に返る。

「先生、早く絵を入れようよ」
「あぁ、そうだな」

 トントン、と軽い足取りで階段を昇っていく直人の後を、沈んだ心が影響しているのか鉛のように重い足で追いかける。

 直人は寝室に入ると、まっしぐらに絵の置かれたベッドのヘッドボードに向かった。
 自分で選んだ額に入れられるのが嬉しいのか、ニコニコと絵を眺めている。
 そんな直人のために、茶色の額の包装を剥がしていく。

「ナオくん、額の準備は出来たぞ」

 額の裏に挟んであった説明書を読み、絵を入れられるように裏の板を外して直人に告げる。
 二枚の絵を大切そうに胸に押し当てて駆け寄っきた直人に、額を一つ差し出す。

「ナオくんも、一つ入れてみな」
「できるかな?」
「先生と一緒にやれば大丈夫だ」

 安心させるように笑いかけると、不安げな表情が弛んでいった。

「ぼくは先生がかいてくれたの入れるね」
「じゃあ先生は、ナオくんが描いてくれたのを入れるな」

 相手が描いた自分の顔を、額に収めていく。

「先生、できたよっ!」
「あぁ、上出来だ」

 俺の作業を真剣な眼差しで見つめ、大人の男にしか見えない顔で作業をしていた直人が、無垢な幼児の顔に戻って絵の入った額を自慢気に見せてくる。
 犯してしまった罪にあれだけ落ち込んでいたのに、夢の中の男と重なる直人の表情に心臓が早鐘を打ってしまい、情けなくて泣きそうになる。
 そんな顔を直人に見られるわけにはいかなくて、俺の顔の絵が入った額を持って足早にベッドに向かう。
 ヘッドボードに絵を載せようと手を伸ばした刹那、地震でも起きたかのように地面が揺れ、ぐるんぐるんと目が回って立っていられなくて、床に崩れ落ちてしまった。

「先生っ!」

 慌てた声を上げた直人が近付いてくる気配を感じながら、気が遠くなっていった。
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