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あぁ、気持ちいい――。
陽射しをいっぱいに浴びた、暖かな羽毛に包まれているようだ。雲に包まれたら、こんな感触がするのかもしれないな。
こんなに穏やかで満たされた気分になっているということは、ここは天国なのかもしれない。
ピピピ ピピピ
心地好い眠りを邪魔する、この無粋な機械音は何だ?
いつまで経っても耳障りな音が鳴りやまないので渋々目を開けると、そこは天国の雲の中ではなく、天国よりも安らぎと幸福を与えてくれる、愛しい男の腕の中だった。
大切そうに俺を包んで眠っている直人を起こさぬように、目一杯腕を伸ばして目覚まし時計を掴んで音を切る。
昼間は先生として直人に接するが、劣情を必死に隠していた時のように雄の俺を洗い流して先生の俺に変身する必要はなくなったので、もう少しこのまま俺だけの天国に包まれていることにする。
腕の中から、ギリシャ彫刻のように整った顔を見上げる。
五年前のあの夜の記憶がなくても、この顔を覚えていた体は直人に似た男にだけ反応を示した。
穢れた血の流れるこんな体などいらないと思っていたが、ちゃんと直人を覚えていて直人だけを求めていたこの身が愛しく思える。
愛する人が愛してくれる自分ならば、自分で自分を愛しても許されるのかもしれない。
そんなことを考えていると、直人の長い睫毛が小刻みに揺れだし、ゆっくりと瞼が開いて鳶色の瞳が現れた。
「先生、おはよう」
「おはよう、ナオくん」
幸せそうに微笑む直人と、爽やかな朝に囀ずる鳥たちの挨拶のようなキスを交わす。
朝の生理現象がそれ以上の意味を持つ前にキスをやめ、ベッドから降りて身支度を始める。
並んで浴室まで行き交代で顔を洗い、再び寝室に戻って着替えを鞄から出していると、クローゼットを覗いていた直人が振り返ってこちらの様子を窺ってきた。
「どうした?」
「先生、どんなふくにするの?」
「緑のTシャツといつものジャージにするつもりだけど」
適当に手にした、左胸に樅の木のシルエットのようなマークがプリントされている抹茶色のTシャツを見ながら答えると、納得したように頷いた直人は再びクローゼットを物色し始めた。
「先生とおそろいにしたの」
嬉しそうに言いながら直人が見せてくれたのは、翡翠色のシャツだ。
これは、所謂ペアルックというやつなのか?
同じデザインのものではないので厳密に言えば違うが、俺が着ようと思ったものと似た色の服を直人が選んでくれて、胸が甘く締め付けられた。
「新婚さんみたいで、恥ずかしいな」
「ぼくと先生はけっこんしたんだから、しんこんさんだよ」
新婚の意味を知っていた直人に、初夜の翌朝に妻を気遣う夫のような優しい眼差しを向けられ、照れながら服を着替える。
身支度が整い一階に降りていき、洗濯機を回してキッチンに入ると、夫人と梅田先生が楽しそうに笑い合いながら出来上がった朝食をテーブルに並べていた。
「おはようございます」
「おはよう。お母さま、お怪我はもう痛くない?」
「先生、ナオくん、おはよう。一日休んだらすっかり元気よ」
心配そうに眉を下げている直人に、慈愛に満ちた顔を向けて優しく微笑む夫人。
テーブルにつき、四人で朝食を食べ始める。
細い体のわりによく食べる夫人だが、今朝はいつもより食欲旺盛で体調がいいことが窺える。
直人が俺以外に愛する者に対して抱いていた醜い嫉妬も、直人が俺を生涯のパートナーに選んでくれたことで独占欲が満たされたのか、愛する人の大切な家族を俺も大切にしたいと思えるようになった。
夫人に朝顔の種を撒いたことを懸命に話す直人。
じょうろを探すのは大変だったと愚痴る梅田先生。
クスクスと笑いながら話を聞く夫人。
家族団欒の中にいても、疎外感で息苦しくはない。
直人と深く交じりあったことで、国重一家との間に引かれた線が消えたようだ。
越えたいと切望していた線の向こう側は、想像していた以上に温かくて心地好い。
優しい熱で包まれて心がホカホカになり、零れ落ちそうになる涙に耐えながら、朝食を口に運んでいった。
朝食を食べ終わると、今日は午前も診察があるのだという梅田先生が慌ただしく帰り支度を始めた。
「そうだわ、これ患者さんに頂いたの。今日のやつなんだけど、急用が出来て行けなくなっちゃったんですって。ナオくんと光太郎くんで行ってみたらどう?」
梅田先生が鞄から取り出して差し出してきたのは、額と朝顔を買ったあのホームセンターの近くの公園で開催中のサーカスのチケットだった。
受け取ってよく見てみると、今日の十時半からの回のSS席の指定券と記してあった。
「サーカスですか」
「サーカス?」
「あぁ、ピエロが出てきたり空中ブランコがあったり、ライオンやゾウのショーもあるみたいだな」
チケットに印刷されている写真と宣伝文句から、見せてくれるのであろう演目を伝えると、楽しそうだと思ったのか、直人の瞳がキラキラと輝き始めた。
時計を見ると、まだ開演まで二時間ある。
二十分あれば会場には着けるだろうから、開演には間に合うだろう。
「ナオくん、サーカス見たいか?」
「見たい!」
「折角だから見てらっしゃっい」
病み上がりの夫人を一人で残していくのは気掛かりだったが、俺も見たことのないサーカスに興味があるし、行かせてもらってもいいだろうか。
「終わったらすぐに帰ってきますんで」
「折角お出掛けするんだもの、夕飯の時間までゆっくりしてらっしゃい」
一日夫人を一人にしていいのだろうかと不安になり梅田先生を伺うと、大丈夫と言うように頷いてくれた。
「では、夕飯に何か買って帰ってきますんで」
「簡単なものでいいなら私が作っておくから、二人は家のことは気にせずに楽しんでらっしゃい」
直人に向けるものと同じ慈愛に満ちた顔をした夫人が、子守唄でも歌うように優しく包み込むように告げてきた。
ずっと欲しかった母親の愛情を得られたようで、ちょっと擽ったくて胸がじわっと温かくなるのを感じながら、その言葉に頷いた。
後片付けは夫人に任せ、梅田先生を見送りながら洗濯物を干しに庭に向かう。
我が子を見守る父親のような優しい表情を浮かべて朝顔に水をやる直人を横目に、幸せを噛みしめながら洗濯物を手早く干していく。
九時半前には出掛ける準備が整ったので、タクシーを呼んで夫人に出発の報告をする。
「では、いってきます」
「ライオンさんとゾウさんと、なかよしになってくるね」
「まぁ、仲良しになってお家に招待しても大丈夫なように、夕飯はたくさん作っておかなくちゃいけないわね」
クスクス笑う夫人に会釈して、門の前に向かって歩き始めた。
陽射しをいっぱいに浴びた、暖かな羽毛に包まれているようだ。雲に包まれたら、こんな感触がするのかもしれないな。
こんなに穏やかで満たされた気分になっているということは、ここは天国なのかもしれない。
ピピピ ピピピ
心地好い眠りを邪魔する、この無粋な機械音は何だ?
いつまで経っても耳障りな音が鳴りやまないので渋々目を開けると、そこは天国の雲の中ではなく、天国よりも安らぎと幸福を与えてくれる、愛しい男の腕の中だった。
大切そうに俺を包んで眠っている直人を起こさぬように、目一杯腕を伸ばして目覚まし時計を掴んで音を切る。
昼間は先生として直人に接するが、劣情を必死に隠していた時のように雄の俺を洗い流して先生の俺に変身する必要はなくなったので、もう少しこのまま俺だけの天国に包まれていることにする。
腕の中から、ギリシャ彫刻のように整った顔を見上げる。
五年前のあの夜の記憶がなくても、この顔を覚えていた体は直人に似た男にだけ反応を示した。
穢れた血の流れるこんな体などいらないと思っていたが、ちゃんと直人を覚えていて直人だけを求めていたこの身が愛しく思える。
愛する人が愛してくれる自分ならば、自分で自分を愛しても許されるのかもしれない。
そんなことを考えていると、直人の長い睫毛が小刻みに揺れだし、ゆっくりと瞼が開いて鳶色の瞳が現れた。
「先生、おはよう」
「おはよう、ナオくん」
幸せそうに微笑む直人と、爽やかな朝に囀ずる鳥たちの挨拶のようなキスを交わす。
朝の生理現象がそれ以上の意味を持つ前にキスをやめ、ベッドから降りて身支度を始める。
並んで浴室まで行き交代で顔を洗い、再び寝室に戻って着替えを鞄から出していると、クローゼットを覗いていた直人が振り返ってこちらの様子を窺ってきた。
「どうした?」
「先生、どんなふくにするの?」
「緑のTシャツといつものジャージにするつもりだけど」
適当に手にした、左胸に樅の木のシルエットのようなマークがプリントされている抹茶色のTシャツを見ながら答えると、納得したように頷いた直人は再びクローゼットを物色し始めた。
「先生とおそろいにしたの」
嬉しそうに言いながら直人が見せてくれたのは、翡翠色のシャツだ。
これは、所謂ペアルックというやつなのか?
同じデザインのものではないので厳密に言えば違うが、俺が着ようと思ったものと似た色の服を直人が選んでくれて、胸が甘く締め付けられた。
「新婚さんみたいで、恥ずかしいな」
「ぼくと先生はけっこんしたんだから、しんこんさんだよ」
新婚の意味を知っていた直人に、初夜の翌朝に妻を気遣う夫のような優しい眼差しを向けられ、照れながら服を着替える。
身支度が整い一階に降りていき、洗濯機を回してキッチンに入ると、夫人と梅田先生が楽しそうに笑い合いながら出来上がった朝食をテーブルに並べていた。
「おはようございます」
「おはよう。お母さま、お怪我はもう痛くない?」
「先生、ナオくん、おはよう。一日休んだらすっかり元気よ」
心配そうに眉を下げている直人に、慈愛に満ちた顔を向けて優しく微笑む夫人。
テーブルにつき、四人で朝食を食べ始める。
細い体のわりによく食べる夫人だが、今朝はいつもより食欲旺盛で体調がいいことが窺える。
直人が俺以外に愛する者に対して抱いていた醜い嫉妬も、直人が俺を生涯のパートナーに選んでくれたことで独占欲が満たされたのか、愛する人の大切な家族を俺も大切にしたいと思えるようになった。
夫人に朝顔の種を撒いたことを懸命に話す直人。
じょうろを探すのは大変だったと愚痴る梅田先生。
クスクスと笑いながら話を聞く夫人。
家族団欒の中にいても、疎外感で息苦しくはない。
直人と深く交じりあったことで、国重一家との間に引かれた線が消えたようだ。
越えたいと切望していた線の向こう側は、想像していた以上に温かくて心地好い。
優しい熱で包まれて心がホカホカになり、零れ落ちそうになる涙に耐えながら、朝食を口に運んでいった。
朝食を食べ終わると、今日は午前も診察があるのだという梅田先生が慌ただしく帰り支度を始めた。
「そうだわ、これ患者さんに頂いたの。今日のやつなんだけど、急用が出来て行けなくなっちゃったんですって。ナオくんと光太郎くんで行ってみたらどう?」
梅田先生が鞄から取り出して差し出してきたのは、額と朝顔を買ったあのホームセンターの近くの公園で開催中のサーカスのチケットだった。
受け取ってよく見てみると、今日の十時半からの回のSS席の指定券と記してあった。
「サーカスですか」
「サーカス?」
「あぁ、ピエロが出てきたり空中ブランコがあったり、ライオンやゾウのショーもあるみたいだな」
チケットに印刷されている写真と宣伝文句から、見せてくれるのであろう演目を伝えると、楽しそうだと思ったのか、直人の瞳がキラキラと輝き始めた。
時計を見ると、まだ開演まで二時間ある。
二十分あれば会場には着けるだろうから、開演には間に合うだろう。
「ナオくん、サーカス見たいか?」
「見たい!」
「折角だから見てらっしゃっい」
病み上がりの夫人を一人で残していくのは気掛かりだったが、俺も見たことのないサーカスに興味があるし、行かせてもらってもいいだろうか。
「終わったらすぐに帰ってきますんで」
「折角お出掛けするんだもの、夕飯の時間までゆっくりしてらっしゃい」
一日夫人を一人にしていいのだろうかと不安になり梅田先生を伺うと、大丈夫と言うように頷いてくれた。
「では、夕飯に何か買って帰ってきますんで」
「簡単なものでいいなら私が作っておくから、二人は家のことは気にせずに楽しんでらっしゃい」
直人に向けるものと同じ慈愛に満ちた顔をした夫人が、子守唄でも歌うように優しく包み込むように告げてきた。
ずっと欲しかった母親の愛情を得られたようで、ちょっと擽ったくて胸がじわっと温かくなるのを感じながら、その言葉に頷いた。
後片付けは夫人に任せ、梅田先生を見送りながら洗濯物を干しに庭に向かう。
我が子を見守る父親のような優しい表情を浮かべて朝顔に水をやる直人を横目に、幸せを噛みしめながら洗濯物を手早く干していく。
九時半前には出掛ける準備が整ったので、タクシーを呼んで夫人に出発の報告をする。
「では、いってきます」
「ライオンさんとゾウさんと、なかよしになってくるね」
「まぁ、仲良しになってお家に招待しても大丈夫なように、夕飯はたくさん作っておかなくちゃいけないわね」
クスクス笑う夫人に会釈して、門の前に向かって歩き始めた。
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