先生、教えて。

オトバタケ

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 地面に寝転がっていたのは、まだ大人になりきれていない線の細い体の高校生くらいの青年だった。
 毛布のように包まっているスプリングコートの裾からは、酔っ払ってズボンを脱いだのか素肌の足が伸びている。
 花冷えのするこんな夜に、そんな格好で眠っていては凍死してしまうのではないかと不安になる。

「おい、大丈夫か?」

 このままにはしておけないと思って声を掛けると、ゆっくり瞼が開き、髪色と同じ漆黒の瞳が現れて俺を見上げた。

「このまま死ぬんだ。放っておいてくれ」

 黒曜石のように美しいその瞳に釘付けになってしまっていた俺を、威嚇するように睨み付け、冷たく言い放つ青年。
 彼の姿をよく見ると、スプリングコートしか纏っていない。
 コートの裾から伸びる長い足には、血液と共に白い液体が付いているのが見てとれた。
 彼の全てのものを拒絶するような空気から察するに、男に凌辱されたのだろう。
 見ず知らずの青年なのに、彼の受けた傷を思うと酷く胸が痛んだ。

「簡単に死ぬなんて言うな」
「お前みたいに順風満帆に生きてきた奴には、死んで解放されたいってのが分かんねぇんだよ」
「死んだつもりで全てを捨てて生きることだって可能だろ」
「なんだよお前、ヒーロー気取りなわけ? じゃあヒーロー様が俺を抱いてくれたら生き続けてやる」

 自棄になっているのだろうか、抱かれる状態ではない傷だらけの体のくせにそんなことを言う彼に、また胸が苦しくなる。

「そんな体を抱けるわけないだろ」
「そうだよな、こんな汚い体なんて抱けねぇよな」

 自嘲する彼の顔が痛ましくて、そんな顔をして欲しくないと思った途端に体が勝手に動きだし、彼の唇に己の唇をそっと当てていた。
 男にキスをしたのは初めてだった。
 関係を持った女達とは儀式のようにキスを交わしていたが、塗りたくられた口紅に吐き気を覚えたことはあっても、何かを感じることはなかった。
 それなのに、彼の外気で冷えて乾燥してガサガサになっている唇に触れた刹那、父と母のしていた幸せそうなキスの映像が脳裏を過った。

「君は汚くはないぞ」
「え……」

 なんだか優しい気持ちで心が満たされていき、自然と笑みを浮かんでくるのを感じながら告げると、彼は困惑した様子で自らの唇に指で触れた。
 大人びた雰囲気の彼の年相応の仕草が可愛らしくて、思わず吹き出してしまう。

「なんだよ」
「抱いてくれなどとせがむくせに、キスでそんな初な反応をするのが可笑しくてな」
「うるせぇ」

 羞恥で顔を真っ赤に染めながらも、負けるものかと俺を睨み付けてくる青年。
 男に辱しめられても純白の光を放ち続けている彼から、目が離せなくなる。

「なぁ」

 俺の腕を掴んで自分の方に引き寄せた彼が、そっと唇を合わせてきた。
 彼の唇が触れる度に、両親が幸せそうに寄り添う姿が脳内のギャラリーに飾られていく。
 マーキングでもするように何度も何度も唇を押し当ててくる彼が満足するまで、それを微笑しく受け入れていた。

「うわっ、何するっ……」
「怪我を治療しなければならないだろう」

 もう何度目か分からないキスをしてきた彼の体を、横抱きで抱き上げる。
 百八十センチ近くはありそうな彼だが、想像した以上に軽くて驚く。
 この細い体を無理矢理開かされた彼の辛さや怒りを思うと、また胸が苦しくなった。
 汚されてもなお誇り高き獣のような彼は、女のような扱いが不満らしく俺の胸板に拳を叩きつけてくる。
 野良猫のパンチのような可愛らしい抵抗に吹き出しそうになるが、また彼のご機嫌を損ねかねないと我慢して、ここから二十分ほど行った先にある姫子さんの診療所を目指して歩き始める。

「お前、格好いいのな。やっぱ抱いてくれよ」
「俺に男を抱く趣味はない。だが、君が真っ当に生きるようになったら抱いてやってもいい」
「マジ? 約束だからな」

 俺の髪を掴んだ彼が、口付けをせがんでくる。
 彼とキスを交わす度に、苛立っていた気分が薄らいでいく。
 男を抱きたいなどと思ったことはないが、彼なら抵抗なく抱けそうだ。
 だが、男に凌辱されたばかりで混乱している頭が平静を取り戻したら、彼も俺に抱かれたいなどとは思わないだろう。
 今の彼は、恐怖を偶々助けに入った俺で上塗りしたいだけなのだ。

「お前が抱いてくれるまで誰とも関係を持たないから。一度死んだつもりで新しい人生を歩いていくから。だから、今度会う時は絶対に抱いてくれな。約束だぞ……」

 キスの合間に、彼が必死で訴えてくる。
 彼も落ち着きを取り戻せば、なんて馬鹿な約束をしたのだと苦笑するに違いないが、今の彼を安心させる為に了承するようなキスを落とす。

 診療所まで半分の距離を歩いた頃、疲れが出たのか彼は眠ってしまった。
 無垢な天使のような寝顔に微笑しながら、他のパーツと同様に形の整った唇をそっと包む。
 彼の唇が俺の中のやるせなさや虚しさを吸いとってくれるようで、優しく穏やかな気持ちになっていく。
 彼ならば、この傷を自らの力で癒せるだろう。
 彼の黒曜石のような瞳の放つ、強く真っ直ぐな光を思い浮かべ、この苦しみを乗り越えられるだろうと確信する。

 硝子細工を扱うように大切に診療所まで運んだ彼を入口にそっと寝かせ、チャイムを押して物陰に隠れる。
 姫子さんが彼を見つけて診療所内に運び入れたのを確認し、そこから立ち去る。
 薬でも使われたのか、彼の意識は混濁していた。
 男に凌辱されたショックで、違う男に傷を上塗りして忘れさせて欲しいなどと頼んだと知れば、誇り高き獣の彼は傷付くだろう。
 俺のことは夢だったと思えるように、俺の形跡は残さなかったのだ。

 彼の甘さを覚えている唇がヒクヒクと痙攣する。
 父と母があんなに幸せそうにキスを交わしていた気持ちが、少しだけ分かった気がした。
 彼の感触を思い出しながら唇を指でなぞり、じわじわと胸が温かくなるのを感じながら家路についた。
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