先生、教えて。

オトバタケ

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 あの夜から一年が過ぎた頃、父が死んだ。
 二十年以上の歳月を掛けて研究した母の脳を甦らせる装置を完成させることが出来ぬまま、父は旅立っていった。
 父は、母と共に埋葬されることを願っていた。
 だが俺は父だけを埋葬し、母の脳を甦らせる装置の研究を続けた。
 研究者として、二十年以上の時間を費やしてきた研究を成功させたいという思いがあった。
 それ以上に、心から愛して欲しかったのに最期まで願いを叶えてくれなかった父を、母と二人で安らかな眠りにつかせたくないという醜い思いがあった。

 母を甦らせて心から愛して欲しい、父からは得られなかったそれが欲しいという一心で、俺は今まで以上に研究に没頭した。
 しかし、思ったような成果は出ずに苛立ちばかりが募っていった。
 そんな時に気晴らしに出た街で、彼と再会した。

 悲痛な空気を纏っていた彼は、明るく希望に満ちた空気に包まれ、障害のある人達の暮らす施設で彼らと共に笑いあっていた。
 やはり彼は、自らの力で傷を癒して痛みに打ち勝ったのだ。
 物陰から施設の人達の世話を焼く彼の姿を眺めていると、苛立った気分が薄らいでいった。
 彼が手伝いに訪れる施設に資金援助を始め、研究に行き詰まると彼をこっそり覗きにいき、気分をリフレッシュする日々が続いた。

 そして一年前、とうとう母の脳を甦らせる装置を完成させた。
 だが、装置を起動させるには俺の記憶が必要だった。
 母の脳に俺の記憶を移行して、機能の停止した脳を甦らせるのだ。
 脳を甦らせるのに、どれだけの記憶が必要なのか実際に実行してみるまで分からなかった。
 下手をすれば全ての記憶を移行してしまい、折角母が甦っても母の存在を忘れてしまうこともあり得る。
 それに、彼を忘れてしまうことに恐怖を覚えた。
 大切な記憶を失うのは怖いが、母に心から愛されるという長年の願いも叶えたい。
 研究者として、研究の成果を確認したいという思いもある。

 熟考した結果、記憶移行をすることに決めた。
 移行作業には姫子さんと克己にも立ち会ってもらうことにした。

「本当に大切な記憶は、ちゃんと残るはずよ」

 準備を整え終えてもまだ躊躇っていた俺に、姫子さんが優しく微笑み掛けてくれる。
 数年前まで共に暮らしていた姫子さんと克己は、父と俺がどれだけ母の脳を甦らせることに執念を燃やしていたか知っている。
 最悪の結果を招いた時の後処理を頼んでも、快くとはいかないが、渋々納得して頷いてくれた。

 人生の全てを掛けて研究した記憶移行は成功して母は甦ったが、俺は母の脳機能が停止してからの記憶を失い三歳児に戻った。
 止まっていた時間を取り戻すように、母は俺を愛してくれ、俺も母に甘えた。
 そんな幸せな時間も一年が経ち、母が足を骨折したことで運命の歯車が動き始めた。
 母の怪我は、ただの骨折ではなかった。
 長い間、特殊なカプセルで眠らされていた体が、崩壊を始めた合図だったのだ。

 この一年、再び俺を愛することが出来て母は満足だった。
 二度目の死を受け入れ、父の元に旅立つことを楽しみに思えるほど穏やかに最期を待っていた。
 ただ、残していく俺だけが気掛かりだった。
 母は息を引き取る前に、俺に記憶を戻すつもりだった。
 だが、成功するかは分からない。
 うまくいかずに俺が三歳児のままだったのならば、自分の変わりに俺の傍にいて護ってくれる者が必要だと考えた。
 そこで思い浮かんだのが、俺の記憶の中にあった彼だった。
 俺が彼に惹かれているのを、その気持ちは恋だと気付いていた母は、俺の世話役に彼を頼んだ。
 彼には彼を指定して頼んだことを伏せたのは、彼が俺に気付いて、あの夜の傷を抉ってしまうのを避けたかったからだ。

 先生として現れた彼に会った時、既視感に襲われた。
 彼との記憶ははっきりとは残っていなかったが、度々夢の中に彼が現れていたのだ。
 すぐに三歳の俺も彼に惹かれた。
 彼に二度目の恋をしたのだ。

 あの夜出逢った俺と三歳の俺が同一人物だと分かっていない様子の彼は、先生として俺を指導し温かく見守ってくれた。
 彼を伴侶として求めていた俺は、彼の妖艶な姿を目撃し、三歳児に戻って抑えられていた性欲が復活して本能のままに繋がってしまった。
 三歳の俺は大好きな彼と繋がれて嬉しいだけだったが、先生として接しなければならないのに一線を越えてしまって、彼は相当悩み苦しんだだろう。
 そんな彼も、クローゼットに掛かっていたあの夜に俺が着ていたスーツを見つけて俺があの時の男だと気付いたようで、その後は俺を受け入れてくれるようになった。

 あの時の言葉は、凌辱されて混乱して出たものではなく、彼の本心だったのだ。
 彼は、あの時から俺を求めてくれていた。
 愛する人が自分を愛してくれる幸せ。ずっと愛する人の傍にいたいという思い。
 父が母に執着する気持ちがやっと分かり、今度こそ父の傍に母を返してやろうと思った。
 母の亡骸を見ても悲しみより、ほっとした穏やかな気持ちの方が勝っていたのは、彼が傍にいたからだ。
 母は唯一の人である父の元に旅立った。
 俺も唯一の人である彼と、新たな人生を共に歩いていこうと思っていたのに、彼は忽然と姿を消した。

 二人の愛する子供である朝顔を眺めながら思いを馳せていると、いつの間にか陽が傾いていた。
 彼が姿を消してから探偵を雇い、自らの足でも彼を探し回った。
 彼は、消えたあの夜に勤めていた施設を辞めていた。
 時折下ろされる預金の引き出し先に向かい彼を探すが、彼がいた足跡は見つかるも、既に立ち去った後ばかりだった。
 彼に会った人の話では、彼はいつも寂しげな表情を浮かべて、世間から隠れるように俯いていたという。

 君は、何をそんなに恐れているんだ?
 君の居場所は、ちゃんとあるんだ。
 もう逃げないでくれ。
 俺の隣に帰ってきてくれ。
 干してあった彼の服を抱き締め、後生だからと呟く。

 洗濯物を取り込み、彼から任されていたサラダを作って夕飯にする。
 彼の作った料理ならいくらでも食べられたのに、少量のハムサラダとパンも全て食べきることが出来ない。
 毎日のように現れる姫子さんと克己が、やつれて精気のなくなった俺を見て、栄養があるから食べろと置いていく食料も、三分の二は腐らせて廃棄してしまっている。

 君がいないと、俺は死んでしまう。
 君がいないと、生きる屍も同然だ。
 君に、先生に逢いたい――。
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