仁義と血縁、その先に小雨〜黒龍の息子と白龍の娘、因縁を乗り越え平和を掴むまで〜

桐生刻

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本編

第5話 裏切りの火蓋

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 三江の街を覆う大気は、限界まで張り詰められたピアノ線のように鋭く、触れれば指先が切れてしまいそうなほどの緊張感を孕んでいた。
 白龍と黒龍という二大勢力のみならず、この街の裏路地で息を潜める有象無象の組織までもが、正体不明の悪意によって神経を削り取られ、互いの喉笛に爪を立て合う寸前の狂気じみた緊張感に支配されているのだ。国清署長が吐き捨てた懸念は、最悪の形で現実を侵食し始めていた。『真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》』という名の姿なき幽霊は、あまりにも巧妙に、そして残酷に街の均衡を蝕んでいた。
 それは単なる暴力の連鎖ではなく、「真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》」と名乗る影が仕掛けた、あまりにも巧妙で悪辣な遊戯だったからだ。

 ある夜、白龍組の縄張りにあるバーで突如として発生した乱闘騒ぎは、店内の調度品を粉々に破壊するだけでは飽き足らず、現場に残された凶器――血に塗れたバタフライナイフからは、まるで嘲笑うかのように黒龍組構成員の指紋が検出された。無論、それは何者かによって周到に用意された偽装工作に過ぎないのだが、殺気立った連中の理性を焼き切るには十分すぎる火種となる。
 また別の湿った夜には、黒龍組の若衆が根城にしている雀荘が不自然な魔力の暴走によって炎に包まれ、焼け焦げた瓦礫の下からは、白龍組が用いる術式特有の痕跡が発見されるという始末であった。
 テレビのニュース速報が告げる不穏な電子音は、もはや固定電話のベルが鳴り響くよりも遥かに頻繁に、不吉なニュース速報が街の空気を震わせ、市民たちは「次は我が身か」と怯えながら、鎧戸を閉ざして夜の襲来を拒絶するしかなかった。
 かつては夜通しネオンが瞬いていた繁華街も今やゴーストタウンの様相を呈し、人々は日没と共に自宅の鍵を二重三重にかけ、外の世界から遮断された密室で息を殺すことを余儀なくされている。
 そんな重苦しい閉塞感が支配する白龍組の本部事務所において、組長の刃は窓の外に広がる鉛色の空を忌々しげに見上げ、噛み殺したような深い溜息を吐いた。彼の眉間に刻まれた皺の深さは、ここ数日で急激に濃くなったように見える。
 組員たちが血で血を洗う抗争の渦に巻き込まれるのは、この渡世に身を置く以上、ある意味で避けられない宿命かもしれない。だが、彼らが背中に守っている妻や子供たち――何の罪もない家族までもが、見えざる敵の悪意に晒されることだけは、断じて許容できるものではなかった。

 白龍組本家、その奥の間にて、組長の刃は窓の外に広がる鉛色の空を見上げ、噛み締めた奥歯が軋むほどの苦渋を滲ませていた。組織の長として、この泥沼のような状況を打破しなければならないという焦燥と、一人の父親として、愛する家族を死地へ送り込みたくはないという葛藤が、彼の胸中で激しくせめぎ合っていたのだ。
「剛、龍平。入れ」
 昼下がりの柔らかな光が差し込む執務室に、刃の低い声で呼び出された二人の男が入室してきた。
「失礼します」と低い声を響かせたのは、一見すると堅気の銀行員か公務員にしか見えない七三分けの男、三宅龍平である。その隣には、岩石を削り出して作ったかのような巨躯を縮こまらせ、気まずそうに視線を泳がせる熊谷剛の姿があった。
「刃さん、何か急用でしょうか? 改まって呼び出されるなんて、よほどのこととお見受けしますが」
 龍平は手慣れた様子で応接セットのソファに腰を下ろしながら、探るような視線を刃に向けた。
 彼は組内でも指折りの頭脳派であり、通信や索敵といった魔術を巧みに操って情報を手繰り寄せることを得意としている。剛の直情的な武力とは対照的に、常に冷静な分析で組を支え、小雨にとっても良き相談相手として慕われる存在だ。
「ああ、他でもない。最近の街の状況について、腹を割って話しておきたくてな」
 刃はデスク越しに二人の顔を交互に見据え、その眼光にはいつもの威厳と共に、隠しきれない苦渋の色が滲んでいた。
「組長、組員たちへの通達の件でしょうか」
 龍平が穏やかながらも芯の通った声で尋ねる。刃はゆっくりと頷き、二人の顔を交互に見据えた。その瞳には、いつもの威厳に加え、どこか悲痛な色が宿っていた。
「そうだ。……状況は、俺たちが想定していた最悪のシナリオをなぞるように悪化している。全面戦争の火蓋が切られるのは、もはや時間の問題だろう」
 刃は言葉を切り、机の上に置かれた家族写真を一瞥してから、覚悟を決めたように続けた。
「事態は悪化の一途を辿っている。お前たちも肌で感じているだろうが、いつ全面戦争の火蓋が切られてもおかしくない瀬戸際だ。……もし万が一、最悪の事態になった場合、お前たちには何よりも家族の安全を最優先に考えてほしい」
 その言葉が意味するところを理解した瞬間、剛は弾かれたように身を乗り出し、太い眉を逆立てて食ってかかった。
「刃さん! 何を水臭いことを言ってるんですか。俺たちは白龍の代紋を背負った組員ですよ。組のために、親父のために命を張るのは当たり前でしょうが! 娘のことが心配なのは確かですが、それとこれとは話が別です!」
「馬鹿野郎!」
 刃の怒声が雷鳴のように執務室の空気を震わせ、剛は驚いて言葉を飲み込んだ。普段は温厚な刃がここまで声を荒げることは稀であり、その鬼気迫る表情には、単なる怒りを通り越した悲痛な叫びのようなものが宿っていた。
「守るべき者がいる人間は強い。それは事実だ、剛。だがな、その守るべき者を失ってしまったら、俺たちは何のために戦っているんだ? 野良犬のようにただ噛みつき合うだけの獣か? 違うだろう! ……剛、お前にはもうすぐ小学生になる娘がいる。龍平、お前だって妻と、まだ手のかかる小さな子供が二人もいるじゃないか」
 刃の声は次第に熱を帯び、そして懇願するような響きへと変わっていった。それは組織の長としての命令というよりも、同じ人の親としての慟哭に近い。
「俺にだって、小雨というかけがえのない娘がいる。だからこそ痛いほど分かるんだ。守りたいものが脅かされる恐怖が、どれほど男の心を蝕むかを。……いざという時は、組の看板なぞ捨てても構わない。家族を連れて安全な場所へ逃げろ。これは組長としての命令だ」
 二人は言葉を失い、ただ呆然と刃を見つめることしかできなかった。
 極道の世界において「逃げる」ことは最大の恥辱であり、絶縁に値する重罪だ。だが、目の前の男は、自らの誇りを泥に塗られることを承知で、部下の家族の命を守ろうとしている。その深すぎる情愛に、剛は目頭を熱くさせて鼻をすすり、龍平は静かに瞼を閉じて込み上げる感情を噛み殺した。

 一方、街の反対側にある黒龍組の屋敷でも、形は違えど、息子を想う父親の不器用な愛が密かに動いていた。
 組長の黒龍誠は、執事であり腹心でもある月島蓮司を使い、別居中である勇の母親――かつての妻に接触を図らせていた。誠という男は、冷徹な実利主義者として恐れられているが、その鋼鉄の仮面の裏には、自らが汚した血塗られた道に息子を引きずり込むことへの強烈な罪悪感と、屈折した愛情が澱のように沈殿していたのだ。
 三江の街を離れ、隣町の静かな住宅街で一人暮らしをしている彼女への連絡手段は、街角にぽつんと佇む公衆電話ボックスの緑色の電話機だけである。蓮司はこの世界の通信手段が限られていることを誰よりも熟知しており、盗聴のリスクを避けるために、あえて雑踏に紛れた電話を選んでいた。
 受話器越しに聞こえる彼女の声は、数年前と変わらず闊達で、どこか風のように自由な響きを帯びていた。蓮司が誠の意向として、「勇を海外へ留学させ、この街の争いから遠ざけたい」という提案を伝えると、電話線の向こうで彼女が一瞬息を呑む気配がした。
「……誠さんが、そんな殊勝なご心配をされるなんてね。明日は槍でも降るんじゃないかしら」
 彼女は揶揄うように笑ったが、すぐに真面目なトーンへと戻り、静かだが芯の通った声で言った。
「少し驚いたわ、蓮司くん。あの人が、勇のことをそこまで案じているなんてね。……でも、お断りするわ」
「奥様、しかし……この街は今、かつてないほど危険な状態になりつつあります。勇様の身を案じるのであれば、今のうちに」
「ええ、分かっているわ。でもね、あの子が決めたことだもの」
 彼女の言葉は迷いなく、清々しいほどだった。
「あの子は、自分の意志で『父親のそばにいる』と決めたのよ。それがどんなに危険な道でも、あるいは愚かな選択に見えたとしても、母親である私が無理やり連れ戻したり、遠くへ追いやったりしては駄目なの。あの子の人生はあの子のものだわ。私ができるのは、あの子が傷ついて帰ってきた時に、温かいスープを用意してあげることくらいよ。……見守る姿勢を崩すつもりはないわ」
 蓮司は受話器を握りしめたまま、かつて仕えた女主人の強さに改めて敬服の念を抱いた。
 彼女は決して冷たい母親などではない。不定期にかかってくる電話では、勇の様子をしつこいほどに尋ね、最近小雨との逢瀬で連絡が疎かになっている勇に対して、「女ができたら母親のことなんて忘れてしまうのね」と寂しそうに愚痴をこぼすような、可愛らしい一面も持っているのだから。
「……承知いたしました。その言葉、誠様にもやんわりとお伝えしておきます」
「ええ、頼んだわよ。あの子のこと、よろしくお願いしますね」
 電話が切れると、ツーツーという無機質な電子音だけが電話ボックスの中に残された。蓮司は受話器を置き、ガラス越しに見える灰色の空を見上げた。
 白龍の刃も、黒龍の誠も、そして勇の母も。誰もがそれぞれのやり方で、愛する子供たちの未来を守ろうと必死に足掻いている。
 しかし、その切実な親心すらも、この街全体を覆い尽くそうとしている巨大な暗雲の前では、風に揺れる灯火のようにあまりにも儚く、頼りないものに思えてならなかった。ガラスに映る自分の顔が、いつになく疲弊していることに気づき、蓮司は自嘲気味に口元を歪めると、コートの襟を立てて雑踏の中へと消えていった。

 川面を渡る風に、霙混じりの気配がしはじめた冬の夜である。頭上にかかる古い鉄橋を貨物列車が通過していく轟音が、二人の間に落ちた沈黙を掻き消そうとするように響き渡った。
 勇は自動販売機の取り出し口から温かい缶コーヒーを二本取り出すと、隣に立つ少女の細い指先へ、その一本を押し付けるように手渡した。缶の熱が、冷え切った彼女の皮膚へと伝播していく。
「ありがとう」
 小雨は短く礼を言い、無意識のうちに耳元の髪を撫でた。
 そこに留められた銀色のヘアピン――あの日彼から贈られた小さな鮫が、街灯の乏しい明かりを吸い込んで鋭く光る。彼女はあえて勇の顔を見ようとはせず、視線を黒々と淀んだ川の流れに固定したまま、プルタブに指をかけた。プシュッという炭酸が抜けるような音が、どこか溜息にも似て聞こえる。
「街の様子、ひどくなってるな」
 勇が口火を切った声は、努めて平静を装っていたが、その言葉の端々には隠しきれない焦燥が滲んでいた。自身もまた当事者の一人であるという事実が、喉の奥に小骨のように刺さっている。
 小雨は缶を口元へ運ぶ動作を一瞬止め、まつ毛を伏せた。
「……そうですね」という返答は、あまりにも平坦で、感情の波が削ぎ落とされていたが、それこそが彼女が必死に内面の動揺を抑え込んでいる証左であった。
「でも、心配しないでください。私が何とかしますから」
「何とかするって……一人で抱え込むなよ。俺も一緒に考えたいんだ」
 勇は一歩、彼女の方へ踏み出した。
 彼にとって、目の前の少女が背負おうとしている重荷は、本来ならば彼自身が背負うべき罪科の一部でもある。彼女をそこまで追い詰めている元凶の一端が、自分の父親であるという事実は、勇の胸を万力で締め上げるような痛みをもたらしていた。
「俺たちは……」
 言いかけた言葉は、鋭い拒絶によって遮断された。
「私に指図しないで!」
 小雨の声が裏返り、冷たい夜気に亀裂を入れる。彼女は弾かれたように顔を背け、頑なに勇と視線を合わせようとしなかった。その横顔は怒りに染まっているというよりは、泣き出す寸前の子供のように強張っている。
「これは私の問題です。あなたには関係ないでしょう」
「関係なくない。俺だって、君が苦しんでいるのを見ているのは辛いんだ」
「関係ないと言ってるのが分からないんですか! あなたは……あなたはただの学生で、私の世界の人間じゃない。これ以上、知ったような口を利かないでください」
 言葉のナイフは、放った小雨自身の掌をも切り裂いていた。
 彼女は勇を傷つけたいわけではなかった。ただ、彼をこの血生臭い泥沼から遠ざけておきたい、その一心だけが、不器用すぎる棘となって溢れ出したのだ。もし彼が巻き込まれれば、命を落とすかもしれない。それだけは耐えられないという恐怖が、理性を焼き切っていた。
 勇は深く息を吸い込み、やがて困ったように、しかし限りなく優しい笑みを浮かべて言った。
「……ごめん。少し、踏み込みすぎたな」
 その謝罪の言葉が、逆に小雨の胸を抉った。責められるよりも、許されることの方が遥かに残酷な場合がある。彼女は唇を噛み締め、足元の小石を爪先で蹴った。
(違うの……そんな顔をしないで。私が悪いのよ。でも、謝れない。今謝ってしまったら、またあなたに甘えてしまう)
 勇は謝罪しながらも、胸中ではどす黒い罪悪感と闘っていた。彼女がこれほどまでに拒絶するのは、自分を「無関係な一般人」だと信じているからだ。
 もし彼女が、自分の血管に流れるのが、彼女の組織を脅かす黒龍の血だと知ったら――その瞬間、この温かい缶コーヒーの熱さえも氷点下まで冷え込み、二人の関係は修復不可能なまでに粉砕されるだろう。
「そろそろ帰ろうか。体が冷える」
 勇の声は、変わらず穏やかだった。それが、小雨には何よりも痛かった。

 数キロ離れた白龍組の本部事務所では、別の種類の冷たさが空間を支配していた。
 蛍光灯の白すぎる明かりの下、組長の刃は革張りの椅子に深く沈み込み、指を組んで報告を聞いていた。目の前に立つ三宅龍平の表情は硬く、いつもの飄々とした雰囲気は鳴りを潜めている。
「刃さん、小雨様の行動確認の結果について、ご報告があります」
 龍平は一度言葉を切り、刃の反応を窺うように喉を鳴らした。
「続けてくれ」
「ここ数日、小雨様は毎日同じ時刻に、例の川辺の方角へ向かわれています。組を抜けたチンピラを使い、遠巻きに監視させておりましたが……どうやら、誰かと落ち合っている様子で」
「……男か?」
 刃の声は低く、地を這うような重圧感を帯びていた。龍平は無言で頷く。
 刃の中で、点在していた不可解な事象の断片が一気に連結し、一つの輪郭を描き出した。
 帰宅時間の遅れ、食卓での上の空、そして、かつて妻の遺品以外には興味を示さなかった娘の髪に飾られた、あの銀色の鮫のヘアピン。あれは明らかに、男からの贈り物だ。
「相手の素性は割れているのか」
「いえ、夜間の密会であり、遠距離からの確認のみでしたので。……ただ、制服姿のようだったと」
 刃は瞼を閉じ、こめかみを指で揉んだ。親としての安堵はない。むしろ、この一触即発の時期に、どこの馬の骨とも知れぬ男と密会を重ねているという危うさに、胃袋が焼け焦げるような焦燥を覚えた。
「……分かった。明日からは、そのチンピラではなく、俺が確認する。お前は通常業務に戻れ」
「しかし、刃さん。組長自らが動くなど、あまりに危険です。現在、黒龍の動きも活発化しており……」
「龍平」
 刃は目を開き、静かに、だが有無を言わせぬ眼光で部下を射抜いた。
「娘のことだ。他人の目や耳を通した情報など当てにならん。俺自身の目で確かめる必要がある。……それに、もし相手が小雨をたぶらかしているような下種であれば、その場で始末をつける」
 その言葉には、組長としての打算よりも、娘を守ろうとする父親の激情が色濃く滲んでいた。龍平はその気迫に押され、「……承知いたしました。くれぐれも、御身お大事に」と頭を下げるしかなかった。

 翌晩、三江の街は湿った霧に包まれていた。
 黒塗りのセダンが、エンジン音を極限まで絞り、アスファルトの上を滑るように走っていた。ハンドルを握る刃の目は、フロントガラス越しに見える人影に釘付けになっていた。
 街灯の光が届かない裏通りの角を、小雨が一人で歩いている。彼女は時折後ろを振り返り、誰もいないことを確認しては、また早足で川辺へと向かっていく。その慣れた足取りを見ているだけで、刃の胸は苦い泥を飲まされたように重くなる。娘にはもう、親の知らない「顔」があるのだ。
 車を路地に停め、刃は闇に溶け込むようにして車外へ出た。気配を消す術は、長年の極道生活で骨の髄まで染み付いている。
 土手の下、いつもの場所には既に先客がいた。
 小雨が駆け寄っていく先、頼りない月明かりの下に立っていたのは、背の高い学生服の少年だった。
 刃はガードレールの陰に身を潜め、双眼鏡も使わず、肉眼でその光景を凝視した。距離があるため会話の内容までは聞こえないが、二人の距離感、互いに見つめ合う視線の温度は、雄弁に真実を物語っていた。
(……ただの逢瀬、か?)
 刃は目を細めた。少年の横顔が、月光に照らされて白く浮かび上がる。どこかで見たことがあるような、ないような――だが、それ以上に刃の神経を逆撫でしたのは、少年の纏う雰囲気だった。今の若者にしては珍しく背筋が伸び、その立ち姿には揺るぎない芯が通っている。単なる不良やチンピラではない、何らかの「教育」を受けた者の所作に近い。
(妙だな……)
 刃の直感が警鐘を鳴らした。小雨が心を許すほどの相手だ。それ自体は喜ばしいことかもしれないが、このタイミングで、しかも素性の見えぬ相手。そこには何か、致命的な落とし穴が口を開けて待っている気がしてならない。
 その時、少年が何かを言ったのか、小雨が顔を俯かせ、肩を小さく震わせた。少年は困ったように頭を掻き、やがて優しく手を差し伸べようとして――ためらい、その手を下ろした。
「……手を出さないのは賢明だが、さて、どこの家の倅だ」
 刃は低い声で独りごちた。ポケットの中の煙草に手が伸びかけたが、居所を悟られるリスクを考え、舌打ちと共にその手を戻した。風が向きを変え、川の臭いと共に、遠くからサイレンの音が運ばれてくる。夜の闇の中で、親と子、男と女、それぞれの想いが交錯し、縺れ合おうとしていた。
 湿った夜気が車体の冷たい金属を撫で、フロントガラスには白い靄が薄く張り付いていた。刃はエンジンを切り、静寂が支配する車内で革手袋の感触を確かめるようにハンドルを握りしめると、助手席に放り出してあった双眼鏡を荒々しく掴み取った。
 硝子のレンズ越しに覗く世界は、肉眼で見る景色よりも鮮明で、それゆえに残酷なまでに真実を映し出す。川原の草むらが風に波打ち、その先にある古びたガードレールの下に、二つの人影が寄り添うように立っているのが見えた。
 娘だ。小雨がいる。
 刃はピント調整のリングを指先で慎重に回し、レンズの中の風景を凝縮させた。そこには、組長代行としての凛とした仮面を脱ぎ捨て、年相応の柔らかい表情を浮かべる娘の姿があった。頬を赤らめ、何かを恥じらうように俯き、それでも相手の言葉に耳を傾けているその横顔は、亡き妻がふとした瞬間に見せた無防備な愛らしさと瓜二つで、刃の胸を締め付けるような郷愁と安堵が同時に押し寄せた。
「……なんだ、いい顔をしてるじゃないか」
 相手の男がどこの誰であれ、娘にあのような穏やかな微笑みをもたらしてくれるのならば、父親として文句を言う筋合いなどないのかもしれない。この血生臭い抗争の予感に怯える日々の中で、彼女に束の間の平安を与えてくれる存在がいること自体が、むしろ奇跡に近い救いなのだから。
 刃の口元から、警戒心という名の棘が抜け落ちかけ、ふと息をつこうとしたその刹那だった。
 視界の端、小雨の向かいに立つ少年の顔が、街灯の不確かな明かりの下で一瞬だけ鮮明に浮かび上がった。まだあどけなさの残る輪郭、しかし不思議なほど意志の強さを感じさせる瞳と、整然と着こなされた学生服の襟元。
 その特徴は、三宅龍平が命懸けで収集してきた調査書の中に添付されていた、ある一枚の写真と完全に合致していた。
 レンズを持つ指先が凍りついたように硬直し、呼吸が喉の奥で塞き止められる。
(……嘘だろ?)
 刃は双眼鏡をさらに強く顔に押し当て、食い入るように少年の顔貌を確認した。間違いない。黒龍組組長・黒龍誠の息子、黒龍勇だ。あの忌々しい男の血を引く餓鬼が、あろうことか自分の愛する娘の目前に立ち、親しげに言葉を交わしている。
 安らかな父親の情愛は、瞬時にして内臓を焼き尽くすような激越な怒へと変じた。
(誠の息子だと……!? 小雨が、あの男の息子と……!)
 全身の血液が逆流するような屈辱感が、刃の理性を白く塗り潰していく。
 これは単なる火遊びではない。許されざる背信であり、親子の絆を泥足で踏みにじる行為に他ならなかった。誠の息子が小雨に近づいた目的は何だ? 父親譲りの狡猾さで小雨をたぶらかし、人質にでも取るつもりか、それとも白龍の内情を探るための卑劣な工作なのか。

「……ふざけた真似を」
 刃の喉から獣のような唸り声が漏れた時、混乱と激昂で視界が赤く染まりかけたその時、龍平がウインドガラスを叩いた。刃はさっきまで目にした光景に怒りが覚えたままで、ウインドガラスを下ろした
「何だッ!」
「組長! 大変です!!」
 吐き捨てるような怒号に対し、スピーカーの向こうから飛び込んできたのは、普段の冷静沈着な龍平とは別人のような、悲鳴にも似た切迫した叫びだった。
 普段冷静な龍平の、悲鳴にも似た声だった。その歪んだ顔から、普段の余裕が見当たらない。
「第3倉庫およびフロント企業の貿易会社が、何者かの魔術攻撃を受けました! 大規模な爆発です! 現場からは……黒龍組の特徴的な魔力残滓が検出されました!」
「何……だと……?」
 刃は呆然と呟き、再び視線を河川敷へと戻した。そこにはまだ、勇と小雨が親密そうに寄り添っている姿がある。
「被害状況は! 従業員は無事か!」
「まだ詳細は不明ですが、夜勤の人間が数名……。それに、現場に残された魔力の痕跡が、黒龍組が使う特有の術式と酷似しています! 手口からして、黒龍組の仕業で間違いありません! 組長! もう言い逃れはできません!!ここまで派手にやられては、宣戦布告です、」
 龍平の声が、熱を帯びた憎悪と共に鼓膜を叩く、刃の中で燻っていた疑念を確信という名の凶器へと変えた。黒龍組の手口、誠のやり方だ。表向きは不可侵条約をちらつかせながら、裏ではこうして容赦なく相手の急所をえぐり取っていく。
 これは偶然ではない。黒龍組は、息子の勇を使って小雨を籠絡し、骨抜きにした上で、組織の中枢を破壊しに来たのだ。あの少年の純朴そうな笑顔もすべて、父親譲りの狡猾な演技だったのか。
「……誠……貴様ッ!! 我が子まで道具に使って、そこまでして俺を潰したいか!」
 刃は拳を握りつぶさんばかりに力を込め、夜の闇に向かって低く唸った。娘の純潔な想いを踏みにじり、土足で心に入り込んできた卑劣な親子への憎悪が、理性のリミッターを焼き切っていく。
 フロント企業への攻撃。それも、これまでの小競り合いとは次元の異なる、明確な破壊工作。
「龍平、現場の指揮はお前に任せる。……戦争だ。黒龍を、一匹残らず根絶やしにする……。救助を最優先しろ。報復の準備は俺が戻ってからだ」
 脳内でパズルのピースが最悪の形で噛み合った。
 誠が裏で軍隊のような破壊工作を指示しているその最中に、その息子である勇は、ここで小雨を足止めしている――まさか、これも陽動作戦の一つだと言うのか?
 父親が放火の指示を出し、息子が敵の大将の娘を籠絡して目を逸らさせる。刃は呼吸を荒げながら、再び川辺の方角へと視線を這わせた。
 川辺の二人は、まだ何も知らない。
 車内の空気は、もはや酸素ではなく純粋な殺意で満たされていた。フロントガラスの向こう、河川敷の闇の中に浮かぶ少年の背中が、もはや一人の人間ではなく、排除すべき敵性存在のシルエットへと変貌していく。
 刃はゆっくりとドアノブに手を掛けた。金属の冷たさが掌に突き刺さる。もう、父親としての迷いも、娘の幸福を願う甘い幻想も、すべては爆炎の中に消え失せた。残ったのは、牙を剥いた白き龍の憤怒のみである。
 そこにはまだ、小雨と勇がいる。
 彼らの頭上で、運命の断頭台の刃が、今まさに振り下ろされようとしていることになど気づきもせず、ただ幼い恋の残り香に浸っていた。
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