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本編
第6話 真実の欠片と、父子の亀裂
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夜の三江を切り裂いたのは、物理的な熱量を超えた魔力の激震であった。爆音は鼓膜を直接叩くというより、もはや肌を灼くような圧迫感となって街全体を震わせ、瞬く間に平和な夜景を地獄の入り口へと塗り替えていった。
真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》によって仕掛けられた大規模な魔術爆発は、白龍組のフロント企業が入居する雑居ビルの三階部分を一息に吹き飛ばしていた。砕け散ったガラス片が凶器となってアスファルトに降り注ぎ、赤黒い炎が窓枠から生き物のように這い出して夜空を焦がしている。
「逃げろッ! まだ何かが落ちてくるぞ!」
「おい、誰か救急車を……いや、組の人間を呼べ!」
街路は逃げ惑う人々の悲鳴と怒号で埋め尽くされ、傷ついた体を抱えて路地裏へ転がり込む者、携帯電話がない焦燥感に駆られて公衆電話へと殺到する者たちの姿が、炎の明滅に照らされて亡霊のように浮かび上がっていた。サイレンの音が不協和音となって重なり合い、街の神経をやすりで削るように苛んでいく。
その喧騒の中心から数ブロック離れた白龍組の本部事務所では、組長の刃が執務机を拳で殴りつけていた。鈍い音が室内の重苦しい空気を揺らし、高価な茶器が音を立てて跳ねる。
「誠……ッ、貴様ァ……!」
喉の奥から絞り出された声は、人間の言語というよりは負傷した獣の咆哮に近かった。彼の全身からは殺気が湯気のように立ち昇り、額に浮き出た血管が今にも弾け飛びそうに脈打っている。
直前に三宅龍平が持ち込んだ報告は、刃の中に残っていたわずかな理性を完全に消し炭にするに十分すぎるものだった。爆発現場に残されていた魔力の残滓が、黒龍組が伝統的に使用している火炎系の術式と酷似していること。
そして何より、つい先ほどまで自分の娘である小雨が、川辺で黒龍組の跡取り息子、勇と密会していたという事実。
この二つが刃の脳内で最悪のショートを起こしていた。勇が小雨を引き止めていたのは、この爆破テロを成功させるための時間稼ぎだったのか。あの純朴そうな少年の笑顔も、すべては敵を欺くための仮面だったというのか。自分の娘が、敵の倅に弄ばれ、その隙に組のシマが火の海に沈められたという屈辱。
「ナメやがって……! 親子揃って、俺たちを愚弄するのもいい加減にしろッ!」
刃は壁に掛けられた刀を掴み取ると、鞘ごと腰に差し込んだ。その目には狂気に似た光が宿り、もはや部下の制止など耳に入る状態ではない。
「行くぞ! 黒龍の事務所へ乗り込む! 落とし前をつけさせてやる!」
組員たちが一斉に「オウッ!」と呼応し、夜の街へとなだれ込んでいく。彼らの殺気立った背中は、燃え盛る炎よりも熱く、そして危険だった。
一方、黒龍組の事務所でも、異様な緊張感が張り詰めていた。
組長の誠は、窓の外で赤く染まる空を見つめながら、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けていた。指先が微かに震えているのは、恐怖からではない。得体の知れない苛立ちと、予期せぬ事態への困惑がそうさせているのだ。
「組長、白龍の連中がこちらへ向かっているとの情報です。数は三十、いや五十はいるかと」
部下の報告に、誠は舌打ちをして椅子から立ち上がった。
「向こうから来るなら好都合だ。だが……妙だな」
自分が指示したわけでもない爆破事件。現場に残されたという黒龍組特有の魔術痕跡。あまりにも出来すぎている。誰かが俺たちを嵌めようとしているのか。だが、今の状況で「俺は知らん」としらを切ったところで、頭に血が上った刃が納得するはずもない。
「来るなら来い。全面戦争上等だ」
誠が啖呵を切ったのと同時に、事務所の重厚な扉が外からの衝撃で蹴破られた。砕けた木片が舞う中、鬼の形相をした刃が先頭切って踏み込んでくる。
「誠ェッ! 出てこいコラァ!」
刃の怒声がロビーのシャンデリアを揺らす。黒龍組の組員たちが即座に反応し、銃やドスを構えて立ちはだかるが、刃はそれを気迫だけで押し退けるように歩を進めた。
「刃、てめぇ……人の家に土足で上がり込んで、何の真似だ」
誠は階段の上から冷ややかに見下ろした。その態度は冷静さを装っていたが、こめかみには青筋が浮いている。
「何の真似だと? よくも白々しい口を! 俺のシマを火の海にしやがって、それだけじゃねぇ、貴様の倅を使って小雨を……俺の娘をたぶらかしやがったな!」
刃が階段を駆け上がり、誠の胸倉を掴み上げた。高級なスーツの襟が悲鳴を上げ、二人の顔が鼻先が触れ合うほどの距離で対峙する。
「何の証拠があって言ってる。現場の痕跡? そんなもんは幾らでも偽造できるだろうが。俺がやると決めたら、もっと派手に、確実にお前の首を狙うわ」
誠は刃の手首を掴み返し、腕力でねじ伏せようとする。互いの力が拮抗し、骨がきしむ音が周囲に響いた。
「それに、小雨ちゃんと勇のことだと? ガキの火遊びにいちいち目くじら立ててんじゃねぇよ。お前の娘が勝手に惚れただけだろうが」
「貴様ッ! 小雨を侮辱するか!」
「侮辱だと? 事実だろう。お前こそ、最近の街の混乱、全部てめぇの組の暴走じゃねぇのか? 被害者面してんじゃねぇぞ!」
売り言葉に買い言葉。理性的な対話など成立するはずもなかった。互いに引くに引けない立場と、長年積み重なった因縁が、言葉を凶器へと変えて相手の心臓を突き刺していく。
二人の背後では、双方の組員たちが今にも飛び掛からんばかりに睨み合い、怒号が飛び交っていた。「ヤんのかコラ!」「一歩も引くんじゃねぇぞ!」という叫び声が、事務所内を火薬庫のような危険な空間へと変貌させていく。
その頃、白龍組の本宅では、別の種類の悲劇が静かに、しかし確実に進行していた。
小雨はリビングのソファに座り込み、膝の上で手を固く握りしめていた。窓の外からは遠くサイレンの音が聞こえるが、今の彼女の耳には、目の前に立つ弟の言葉しか届いていなかった。
大樹はキッチンカウンターに寄りかかり、姉の顔を直視できずに視線を床に落としていた。この14歳の少年の手には、飲みかけの牛乳パックが握られているが、その指先は白く変色するほど力が込められている。
「……お姉ちゃん、嘘だよね?」
大樹の声は震えていた。それは姉を疑う恐怖と、信じたいという願望がないまぜになった、悲痛な響きだった。
「僕、聞いちゃったんだ。お父さんと龍平さんが話してるのを。……お姉ちゃんが毎日会ってる男の人、黒龍組の跡取りなんだって? 名前は勇、16歳。身長も格好も、龍平さんが言ってた通りだった……」
小雨の心臓が早鐘を打つ。否定したかった。違います、彼はただの学生で、勇さんは関係ないのと叫びたかった。だが、喉元まで出かかった言葉は、音にならずに空気中へ消えた。
勇の制服。彼のまとっていた雰囲気。そして時折見せた、裏社会の事情に通じているかのような素振り。それら全ての断片が、大樹の言葉という接着剤によって一つの残酷な真実に結合していく。大樹が、家族を何よりも大切にするこの弟が、姉を傷つけるために嘘をつくはずがない。
「黒龍組って……お姉ちゃんをいじめた人の仲間なんでしょう? そんな人の息子と……どうして?」
大樹が顔を上げ、涙に濡れた瞳で姉を見つめた。その純粋な問いかけが、鋭利なナイフとなって小雨の胸を抉る。
(勇さんが……誠さんの息子……?)
小雨の視界が揺らいだ。脳裏に蘇るのは、かつて自分を陵辱した男、黒龍誠の顔。あの夜の痛み、屈辱、吐き気。その男の血を引く息子に、自分は心を許し、あまつさえ恋心さえ抱いていたのか。彼が向けてくれたあの優しい笑顔の裏には、父親と同じ獣の血が流れていたというのか。
「……違う、知らなかったの。私は……」
小雨は唇を噛み締め、溢れそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。髪に挿した銀色の鮫のヘアピンが、急に重く、冷たく感じられた。それはもはや愛の証ではなく、自分を愚弄する呪いのアイテムのように思えた。
同じ夜、街の反対側でも、一人の少年の世界が音を立てて崩れ落ちようとしていた。
勇は月島蓮司と共に街はずれの廃工場跡地に立っていた。錆びついた鉄骨が墓標のように突き出し、風が虚ろな音を立てて吹き抜ける場所だ。
彼の前には、見知らぬ男が立っていた。黒いコートを着込んだその男は、レイラの手下であり、淀んだ目つきで勇を見据えていた。
「坊ちゃん、いい加減、夢から覚める時間ですよ」
男は懐から分厚い封筒を取り出すと、無造作に勇の足元へ放り投げた。バサリ、と封筒が開き、中から数枚の書類と写真が散らばる。
「お前の親父さんが、昔何をやったか。そして、その息子であるお前が惚れている女が、どんな目に遭わされたか。……とくとご覧あれ」
勇は不審に思いながらも、地面に散らばった一枚の写真に目を吸い寄せられた。そして、時が止まった。
そこに写っていたのは、薄暗い部屋の中で布団に押し倒されている少女の姿だった。恐怖に歪んだ顔、涙で濡れた頬。そして、その上に覆いかぶさる巨大な男の背中には、見紛うことなき黒龍の刺青が刻まれていた。
父だ。そして、その下にいる少女は――小雨だ。
「う……そだ……」
勇の喉から、掠れた音が漏れた。男は嘲笑いながら言葉を続ける。
「これはお前の親父、誠がやったことだよ。白龍の娘を拘束し、一晩中犯し続けた。小雨ちゃんの祖父母、つまり白龍刃の両親を殺したのも、お前の親父が実行犯だ」
勇は震える手で別の写真を拾い上げた。そこには、事後の小雨の姿が写されていた。白い肌に残る無数の赤い痣。首筋にくっきりと刻まれた指の跡。手首の拘束痕。虚ろな目の元に乾いた涙痕がはっきりと見える。
勇の記憶がフラッシュバックする。河川敷で初めて再会したあの日、小雨の袖口から覗いた、あの不自然な変色。紫から黄色へと変わりかけていた、あの痛々しい痣。
(あれは……親父がつけた傷だったのか……?)
勇の脳天を、巨大な金槌で殴られたような衝撃が貫いた。自分が「守りたい」と誓った少女を、地獄の底へ突き落とした張本人が、自分の父親だった。そして自分は、その父親の血を引く身で、何も知らずに彼女に近づき、「正義」だの「共存」だのと綺麗事を並べていたのか。
「オェッ……」
勇は耐えきれず、その場に膝をついて胃の中身を吐き出した。酸っぱい液体が喉を焼くが、心の痛みには及ばない。地面に散らばる写真の中で、小雨の虚ろな瞳が、勇を静かに断罪しているように見えた。
「おやおや、これは……」
男は鼻を隠しながら、嘲笑うような顔で勇を見ている。
顔を上げた少年の瞳からは、光が消え失せ、代わりに深い絶望の闇が広がっていた。
遠くで鳴り響くサイレンの音が、まるで彼ら二人の終わってしまった恋を弔う鎮魂歌のように、いつまでも夜の街に木霊していた。
真実は時に、肉体を切り刻む刃物よりも鋭利で、魂の最も柔らかい部分を無慈悲に抉り取る凶器となる。
廃工場での一幕から数時間が経過し、夜の帳はいよいよ濃密な黒さを増して三江の街を覆い尽くしていた。
空には鉛色の雲が垂れ込め、時折遠雷が地を這うように低い唸り声を上げているが、勇の耳にはそれすらも届いていないかのように、彼の意識はただ一点、父という名の巨大な影に囚われたままであった。
小雨の笑顔、恥じらうような仕草、そして写真の中に焼き付けられていた、恐怖と屈辱に歪んだ彼女の絶望的な表情。その二つのイメージが脳裏で激しく明滅し、勇の心臓を万力で締め上げるような痛みを齎していた。自分が今まで信じてきた世界、父の背中に見ていた強さや威厳といったものが、音を立てて崩れ去っていく幻聴が聞こえるようだ。
黒龍組の本部事務所へと続く長い廊下を歩く勇の足取りは、まるで泥沼の中を進むように重く、しかしその瞳には決して揺らぐことのない決意の炎が宿っていた。
廊下ですれ違う組員たちが「若」と敬礼を向けてくるが、今の勇にとってその呼び名は、自身を呪縛する鎖の響きにしか聞こえなかった。
「……親父」
重厚なマホガニーの扉の前に立ち、勇は深呼吸を一つすると、ノックもせずに扉を押し開けた。
執務室の中には、数人の幹部と蓮司、そして机に向かって指示を出している誠の姿があった。
部屋の中には紫煙が層を成して漂い、ピリピリとした殺気が充満している。白龍組との小競り合いを回避したばかりだとしても、この街の緊張の糸が緩んだわけではないのだ。
「……勇か」
誠は書類から視線を上げず、低い声で息子の名を呼んだ。その声には、いつもの威圧感と共に、どこか微かな疲れの色が混じっているようにも感じられた。
「刃が乗り込んできてな、今忙しい。用件なら後にしろ」
冷淡にあしらおうとする父の態度に、勇は一歩も引くことなく、机の前へと進み出た。その足音は静寂を裂くように鋭く響き渡り、周囲の幹部たちが息を呑む気配が伝わってくる。
「小雨さんの祖父母を殺したのは、あなたですか?」
その問いは短く、しかし部屋の中の空気を一瞬にして凍りつかせた。
幹部たちの視線が泳ぎ、蓮司の眉がわずかに跳ね上がる。誰もが知っていながら、決して口にしてはならないタブーが、今まさに組長の息子の口から放たれたのだ。
誠の手が止まった。ペンの先が紙の上で静止し、インクが小さく滲む。彼はゆっくりと顔を上げ、蛇のような鋭い視線を勇に向けたが、その瞳の深淵には、一瞬だけ――本当に瞬きするよりも短い間だけ――動揺と、そして押し隠せない罪悪感のような色が走ったのを、勇は見逃さなかった。
そばに控える蓮司も、表情の仮面を崩しはしないものの、内心では激しい動揺に見舞われていた。勇にこの決定的な事実を吹き込んだのは誰なのか。白龍の差し金か、それとも組内部に潜む裏切り者か。その思考を一瞬で巡らせながら、彼は主人と息子の対峙を息を殺して見守った。
「……過去の話だ」
誠は冷徹な声で言い捨て、再び書類に視線を落とした。タバコの煙を吐き出すその所作は、まるで不都合な真実を煙に巻こうとしているかのようだ。
「この稼業にいれば、手の一つや二つ汚れるのは当たり前だ。裏社会ではよくあることだろう」
「よくあること? ……小雨さんを、陵辱したこともですか?」
勇の声が震えた。それは恐怖からではない。怒りと悲しみ、そして失望が綯い交ぜになった、魂の咆哮だった。
「一人の少女の尊厳を踏みにじり、心と体に一生消えない傷を負わせることが……あなたの言う『よくあること』なのかッ!」
誠は再び筆を止め、沈黙した。部屋の中の空気が軋む音が聞こえるほどの緊張感が支配する。誠は息子の燃えるような瞳を正面から見据えようとしたが、その視線はわずかに宙を彷徨い、そして苦々しげに顔を背けた。
肯定も否定もしない。その沈黙こそが、何よりも雄弁な自白だった。
勇の中で、何かが決定的に砕け散った。それは父への尊敬か、それとも家族という幻想か。父の大きな背中に憧れ、いつかあんな風に強く、仲間を守れる男になりたいと願っていた幼き日の自分が、炎の中で灰になっていくようだった。
(父さんは……俺の父さんは、悪魔だったのか。何度も小雨さんとその家族を傷つけ、彼女から何もかもを奪っておきながら、平然と生きてきたのか)
自分の血管に流れる血が、汚らわしい汚泥のように感じられ、吐き気がこみ上げてくる。この男の息子であるという事実が、もはや耐えがたい罪過として勇の全身を責め立ててきた。
もう、以前のように父を呼ぶことはできない。
「……あなたとは、もう一緒にいられない」
勇の唇から漏れた言葉は、静かだが、鋼のように硬い響きを持っていた。
「あなたの言う『仁義』が、弱者を踏みにじり、欲望のために他者を犠牲にすることだというなら……そんなものは俺の『正義』とは違う」
勇は拳を握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みで涙を堪えた。
「俺は……俺の信じる道を行く。あなたの影には、もう二度と入らない」
言い放つと同時に、勇は踵を返し、出口へと向かった。その背中は以前よりも小さく、孤独に見えたが、同時に何か重い荷物を下ろしたような、悲壮なまでの覚悟を漂わせていた。
「……待て」とは、誰も言わなかった。誠は書類を持ったままの手を空中で止めているだけで、去っていく息子を呼び止めることも、怒鳴りつけることもせず、ただその背中が扉の向こうへと消えていくのを見送っていた。
彼の横顔に浮かんでいたのは、裏切り者を断罪する組長の顔ではなく、自分とは違う道を歩み始めた息子を前に、言葉を失う一人の父親の顔だったのかもしれない。あるいは、若き日の自分が捨て去った良心という亡霊を、息子の姿に重ねていたのだろうか。
扉が閉まり、重苦しい静寂が再び部屋を支配した時、蓮司が静かに一歩前に進み出た。
「……誠様」
「追わなくていい」
誠は短く遮ると、新しいタバコを取り出し、火をつけた。紫煙の向こうで目を細めた彼は、どこか自嘲気味に口角を歪めていた。
「……あいつも大人になったということだ。俺のようにはならんさ」
その言葉に含まれた感情の正体を、蓮司だけが正確に理解していた。それは安堵であり、同時に深い絶望でもあった。
息子が修羅の道から外れたことを喜ぶ親心と、自らが行く地獄へは連れて行けないという諦念。
「ご心配には及びません。私が、影から護衛をつけさせます」
蓮司は恭しく頭を下げ、完璧な執事の礼をとった。
「ただ……今は少々、調べなければならないことがございまして。少しの間、お暇を頂戴してもよろしいでしょうか。坊ちゃんの耳に誰が毒を吹き込んだのか、その出処を明らかにする必要がありますゆえ」
誠は無言で頷き、手で払うような仕草を見せた。
「好きにしろ。……頼んだぞ、蓮司」
「御意に」
蓮司は一礼すると、音もなく執務室を後にした。廊下に出た瞬間、その表情から温かみが消え失せ、氷の刃のような鋭利な素顔が露わになった。勇が去った方向を見つめる瞳には、教え子を導けなかった悔恨と、彼を傷つけた者への静かなる殺意が宿っていた。
夜気はますます冷たく、事務所の外へと飛び出した勇の頬を容赦なく叩いた。彼はあてどもなく歩き出し、やがて夜の闇の中へとその姿を溶け込ませていった。行く当てなどない。
帰る場所もない。ただあるのは、胸の中で燃え盛る「償い」と「愛」の残り火だけだった。
背後で閉ざされた扉の向こうに、父と過ごした日々を置き去りにして、勇は一人、修羅の街を彷徨い始めた。その足跡を、誰かが静かに見守っていることにも気づかずに。
三江の街を打つ雨脚は強まる一方で、アスファルトに叩きつけられる飛沫が白く煙るほどだった。
勇は黒龍組の厚い樫の木の扉を背にし、夜の底へと放り出されたかのように覚束ない足取りで歩き始めたが、彼には目的地など存在しなかった。
冷え切った雨が容赦なく全身を濡らし、学生服の繊維が水を吸って鉛のように重く肩にのしかかるが、その物理的な重さなど、いま彼の魂を引き摺り下ろそうとしている絶望の引力に比べれば羽毛のように軽かった。
父である誠が犯した罪――小雨の尊厳を蹂躙し、彼女の家族を惨殺したという、決して拭い去ることのできない血の歴史――が、勇の足首に絡みつき、一歩進むごとに心臓を鷲掴みにして締め上げているようだった。
彼は行き交う車のヘッドライトに照らされるたび、まるで自分が犯罪者として炙り出されているかのような錯覚に陥り、反射的に顔を背けて路地裏の暗闇へと逃げ込んだ。
かつては誇り高い父の背中を追いかけ、この街で胸を張って生きてきたはずの場所が、今や四方八方から糾弾の視線を浴びせてくる敵地のように感じられる。
「……どうすればいい? 俺は、これから……」
掠れた声は雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。小雨に会いたい、彼女の声を聴きたいという熱烈な衝動が胸の奥で疼くが、同時に、殺人者と陵辱者の息子である自分が彼女の前に立つことなど、許されるはずのない冒涜だという冷たい理性がその衝動を押し留める。
彼女の笑顔を思い出すだけで、その裏側にあったであろう凄惨な記憶と痛みが脳裏にフラッシュバックし、勇は胃の腑が裏返るような嘔吐感に襲われて、濡れた煉瓦塀に手をついて激しく咳き込んだ。
遠くでパトカーのサイレンが唸り声を上げ、街の混乱を告げている。白龍と黒龍の抗争の火蓋が切られ、この街はかつてない緊張状態にあるのだ。
自分がここにいるべきではない、何か行動を起こさねばならないという焦燥だけが空回りし、勇の思考は泥沼の中で身動きが取れなくなっていた。
ふと、街灯の薄暗い光の中に、公衆電話の緑色のボックスが亡霊のように浮かび上がった。
勇は何かにすがりつくように、震える足を引きずってボックスの中へと転がり込んだ。雨を遮る空間に入った途端、外界の喧騒が少しだけ遠のき、代わりに自分自身の荒い呼吸音が反響して耳朶を打つ。
彼は凍えた指先でポケットを探り、小銭を取り出そうとしたが、指の感覚が麻痺していて上手く摘めない。チャリン、チャリンと硬貨が床にこぼれ落ちる音が、彼の情けなさを嘲笑うかのように響いた。
ようやく一枚の十円玉を拾い上げ、スロットに押し込んだ勇は、受話器を耳に当てた。プーッ、プーッという無機質な電子音が鳴り響く中、彼の指は蓮司への連絡用番号を押そうとして、空中で凍りついた。
(何を話せばいい? 助けてくれとでも言うのか? 親父を否定して飛び出したくせに、結局は誰かに頼らなければ生きられないのか?)
受話器を握る手に力が入りすぎて、プラスチックがミシミシと悲鳴を上げる。ガタガタと震えが止まらず、視界が涙と雨で滲んでいく。自分の無力さ、愚かさ、そして逃げ場所のない現実が、容赦なく彼を打ちのめしていた。
「……くそっ、あぁ……ッ!」
勇は呻き声を漏らし、受話器を乱暴にフックへと叩きつけた。硬貨が返却口に戻ってくる音を聞きながら、彼はその場に蹲り、両膝に顔を埋めて慟哭した。電話ボックスのガラス越しに、歪んだ世界が泣いているように見えた。
その頃、白龍組の本宅にある小雨の部屋では、別の電話が鳴り響いていた。
ジリリリリン、ジリリリリン――。
古風な黒電話のベルの音が、張り詰めた沈黙を切り裂き、ベッドの上で膝を抱えて座っていた小雨を弾かれたように跳ね起きさせた。
彼女はこの数時間、時計の針が刻む音だけを聞きながら、勇からの連絡を、あるいは最悪の知らせを、祈るような気持ちで待ち続けていたのだ。
「もしもし!」
小雨は受話器をひったくり、相手の名乗りも待たずに叫んだ。勇であってほしい、いや、勇でなければならないという悲痛な願いが、その声には込められていた。
だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、低く、沈痛な響きを帯びた大人の男の声だった。『……夜分遅くに申し訳ありません、白龍の小雨様でいらっしゃいますか』
小雨の背筋に冷たいものが走る。聞き覚えのある声ではないが、その丁寧すぎる口調と、隠しきれない切迫感が、ただの用件ではないことを告げていた。
「はい、小雨ですが……どなたですか?」
『……私は、黒龍組の月島蓮司と申します。勇様に代わって、お仕えしている者です』
息を呑む音が、電話線を伝って聞こえた気がした。小雨は受話器を強く握りしめ、乾いた喉を鳴らして尋ねた。
「勇さんの……使いの方ですか? 勇さんは今、どこに……?」
『それが……ご報告せねばならぬことがございます。勇様は先ほど、組を……いえ、父親である誠様と決別し、屋敷を出て行かれました』
「えっ……?」
小雨は言葉を失い、その場に崩れ落ちそうになった。決別。家出。その単語が意味する重さが、瞬時には呑み込めなかった。
『勇様は……知ってしまわれたのです。ご自身の父親が、過去に小雨様やご家族に対して行った、許しがたい所業の全てを。……誰かの悪意ある手引きによって、残酷な真実を突きつけられました』
蓮司の声には、主家を守れなかった悔恨と、傷ついた若主人への慈愛が滲んでいた。
『彼は、ご自身の血の穢れに耐えきれず、小雨様に合わせる顔がないと……激しい自己嫌悪と贖罪の念に苛まれ、雨の中へ飛び出して行かれました。私どもも手分けして捜索しておりますが、現在の混乱した街の状況では、彼一人を見つけることは困難を極めます。それに、白龍の皆様に見つかれば、今の彼は……』
「……分かりました」
小雨は蓮司の言葉を遮り、静かだが芯の通った声で言った。
彼女の中で、迷いや混乱という霧が一瞬にして晴れ渡り、代わりに熱い使命感が炎のように燃え上がっていた。
勇が知ってしまった。あの優しい彼が、最も知りたくなかった残酷な事実を背負わされ、今この瞬間も、たった一人で冷たい雨に打たれているのだ。
自分への罪悪感に押し潰されそうになりながら、それでも親を否定するほどの正義感に引き裂かれている彼の痛みを思うと、小雨の胸は張り裂けそうだった。
「私が探します。勇さんは……私に罪悪感を抱いているのなら、私が彼を見つけて、許さなければなりません。……いいえ、許すとかそういうことじゃなくて、彼を一人にしちゃいけない」
それは理屈ではなかった。敵対組織の跡取りだとか、親の仇の息子だとか、そんな柵は今の彼女にとってはどうでもよかった。ただ、傷ついた一人の愛する人を救いたい、その一心だけが彼女を突き動かしていた。
『小雨様……感謝いたします。どうか、あの方を……』
「必ず見つけます。失礼します」
小雨は受話器を置くと、ハサミで長い髪を切り落とす。これは過去への決別だ。そして、クローゼットから厚手のコートを引っ張り出し、パジャマの上に羽織った。足元はスニーカーを突っ掛け、懐中電灯と小さな救急セットをポケットにねじ込む。
部屋を出ようとした時、ふと鏡に映った自分の顔が目に入った。不安に怯える少女の顔ではない。そこには、愛する者を守るために戦場へ赴く、戦士のような決意を宿した女の顔があった。彼女は無言で頷くと、窓を開け、夜の闇へと身を翻した。
組員たちに見つかれば止められる。だから、彼女はあえて危険な雨樋を伝って、二階から庭へと降り立った。
三江の街を見下ろす廃ビルの屋上は、地上よりもさらに強い風雨に晒されていたが、そこに佇む女にとっては、それが心地よいシャワーのように感じられるようだった。
レイラはコンクリートの縁に座り込み、防水加工された軍用端末の画面を指先で弾いていた。青白い光が彼女の端整な顔を照らし出し、口元に浮かんだ加虐的な笑みを不気味に強調している。
彼女の耳に装着されたイヤーピースからは、傍受した警察無線の怒号や、街中で発生している小競り合いの報告が絶え間なく流れ込んでいた。
『マルサン、マルサン、白龍の連中が暴徒化している! 応援を求む!』
『こちら黒龍、第4地区にて接触あり! 魔法攻撃を確認、応戦する!』
「あは、賑やかになってきたじゃない。素晴らしいオーケストラだわ」
レイラは街並みへ目を向け、混乱した市民の様子を眺めて満足げに鼻を鳴らした。
「何が起きてるの?」「爆発音聞いたんだけど」「ヤクザが戦争始めたらしい」――恐怖と疑心暗鬼がウィルスのように拡散し、街の秩序を内側から食い荒らしている。
「あの坊やも、今頃泣きべそかいて絶望してる頃かしら?
お父様が極悪人だと知って、恋した相手があのお父様に汚された女だと知って……ふふ、想像しただけでゾクゾクしちゃう」
彼女は立ち上がり、フェンスのない屋上の縁ギリギリにつま先をかけた。
眼下に広がる三江の街は、所々で上がる黒煙とパトランプの赤色灯によって、まるで血管が脈打つ生き物のように蠢いて見えた。自分の一手によって、強固に見えた平和の均衡がいとも簡単に崩れ去る様を見るのは、何にも代えがたい愉悦だった。
「順調、順調。これで役者は揃ったし、舞台も整った。あとはお互いに血で血を洗って、最後の一滴まで絞り出し合えばいいのよ」
雨に濡れた長い髪をかき上げ、レイラは夜空に向かって高らかに笑った。その哄笑は雷鳴に混じり、呪詛のように街へと降り注いでいった。
「さあ、第2幕の始まりよ。もっと踊りなさい、愚かな人形たち」
闇の中で光る彼女の瞳は、獲物を狙う捕食者のそれであり、三江の街の誰もが、まだ彼女という本当の脅威に気づいていなかった。
真理歩兵《ヴェリタス・ファランクス》によって仕掛けられた大規模な魔術爆発は、白龍組のフロント企業が入居する雑居ビルの三階部分を一息に吹き飛ばしていた。砕け散ったガラス片が凶器となってアスファルトに降り注ぎ、赤黒い炎が窓枠から生き物のように這い出して夜空を焦がしている。
「逃げろッ! まだ何かが落ちてくるぞ!」
「おい、誰か救急車を……いや、組の人間を呼べ!」
街路は逃げ惑う人々の悲鳴と怒号で埋め尽くされ、傷ついた体を抱えて路地裏へ転がり込む者、携帯電話がない焦燥感に駆られて公衆電話へと殺到する者たちの姿が、炎の明滅に照らされて亡霊のように浮かび上がっていた。サイレンの音が不協和音となって重なり合い、街の神経をやすりで削るように苛んでいく。
その喧騒の中心から数ブロック離れた白龍組の本部事務所では、組長の刃が執務机を拳で殴りつけていた。鈍い音が室内の重苦しい空気を揺らし、高価な茶器が音を立てて跳ねる。
「誠……ッ、貴様ァ……!」
喉の奥から絞り出された声は、人間の言語というよりは負傷した獣の咆哮に近かった。彼の全身からは殺気が湯気のように立ち昇り、額に浮き出た血管が今にも弾け飛びそうに脈打っている。
直前に三宅龍平が持ち込んだ報告は、刃の中に残っていたわずかな理性を完全に消し炭にするに十分すぎるものだった。爆発現場に残されていた魔力の残滓が、黒龍組が伝統的に使用している火炎系の術式と酷似していること。
そして何より、つい先ほどまで自分の娘である小雨が、川辺で黒龍組の跡取り息子、勇と密会していたという事実。
この二つが刃の脳内で最悪のショートを起こしていた。勇が小雨を引き止めていたのは、この爆破テロを成功させるための時間稼ぎだったのか。あの純朴そうな少年の笑顔も、すべては敵を欺くための仮面だったというのか。自分の娘が、敵の倅に弄ばれ、その隙に組のシマが火の海に沈められたという屈辱。
「ナメやがって……! 親子揃って、俺たちを愚弄するのもいい加減にしろッ!」
刃は壁に掛けられた刀を掴み取ると、鞘ごと腰に差し込んだ。その目には狂気に似た光が宿り、もはや部下の制止など耳に入る状態ではない。
「行くぞ! 黒龍の事務所へ乗り込む! 落とし前をつけさせてやる!」
組員たちが一斉に「オウッ!」と呼応し、夜の街へとなだれ込んでいく。彼らの殺気立った背中は、燃え盛る炎よりも熱く、そして危険だった。
一方、黒龍組の事務所でも、異様な緊張感が張り詰めていた。
組長の誠は、窓の外で赤く染まる空を見つめながら、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けていた。指先が微かに震えているのは、恐怖からではない。得体の知れない苛立ちと、予期せぬ事態への困惑がそうさせているのだ。
「組長、白龍の連中がこちらへ向かっているとの情報です。数は三十、いや五十はいるかと」
部下の報告に、誠は舌打ちをして椅子から立ち上がった。
「向こうから来るなら好都合だ。だが……妙だな」
自分が指示したわけでもない爆破事件。現場に残されたという黒龍組特有の魔術痕跡。あまりにも出来すぎている。誰かが俺たちを嵌めようとしているのか。だが、今の状況で「俺は知らん」としらを切ったところで、頭に血が上った刃が納得するはずもない。
「来るなら来い。全面戦争上等だ」
誠が啖呵を切ったのと同時に、事務所の重厚な扉が外からの衝撃で蹴破られた。砕けた木片が舞う中、鬼の形相をした刃が先頭切って踏み込んでくる。
「誠ェッ! 出てこいコラァ!」
刃の怒声がロビーのシャンデリアを揺らす。黒龍組の組員たちが即座に反応し、銃やドスを構えて立ちはだかるが、刃はそれを気迫だけで押し退けるように歩を進めた。
「刃、てめぇ……人の家に土足で上がり込んで、何の真似だ」
誠は階段の上から冷ややかに見下ろした。その態度は冷静さを装っていたが、こめかみには青筋が浮いている。
「何の真似だと? よくも白々しい口を! 俺のシマを火の海にしやがって、それだけじゃねぇ、貴様の倅を使って小雨を……俺の娘をたぶらかしやがったな!」
刃が階段を駆け上がり、誠の胸倉を掴み上げた。高級なスーツの襟が悲鳴を上げ、二人の顔が鼻先が触れ合うほどの距離で対峙する。
「何の証拠があって言ってる。現場の痕跡? そんなもんは幾らでも偽造できるだろうが。俺がやると決めたら、もっと派手に、確実にお前の首を狙うわ」
誠は刃の手首を掴み返し、腕力でねじ伏せようとする。互いの力が拮抗し、骨がきしむ音が周囲に響いた。
「それに、小雨ちゃんと勇のことだと? ガキの火遊びにいちいち目くじら立ててんじゃねぇよ。お前の娘が勝手に惚れただけだろうが」
「貴様ッ! 小雨を侮辱するか!」
「侮辱だと? 事実だろう。お前こそ、最近の街の混乱、全部てめぇの組の暴走じゃねぇのか? 被害者面してんじゃねぇぞ!」
売り言葉に買い言葉。理性的な対話など成立するはずもなかった。互いに引くに引けない立場と、長年積み重なった因縁が、言葉を凶器へと変えて相手の心臓を突き刺していく。
二人の背後では、双方の組員たちが今にも飛び掛からんばかりに睨み合い、怒号が飛び交っていた。「ヤんのかコラ!」「一歩も引くんじゃねぇぞ!」という叫び声が、事務所内を火薬庫のような危険な空間へと変貌させていく。
その頃、白龍組の本宅では、別の種類の悲劇が静かに、しかし確実に進行していた。
小雨はリビングのソファに座り込み、膝の上で手を固く握りしめていた。窓の外からは遠くサイレンの音が聞こえるが、今の彼女の耳には、目の前に立つ弟の言葉しか届いていなかった。
大樹はキッチンカウンターに寄りかかり、姉の顔を直視できずに視線を床に落としていた。この14歳の少年の手には、飲みかけの牛乳パックが握られているが、その指先は白く変色するほど力が込められている。
「……お姉ちゃん、嘘だよね?」
大樹の声は震えていた。それは姉を疑う恐怖と、信じたいという願望がないまぜになった、悲痛な響きだった。
「僕、聞いちゃったんだ。お父さんと龍平さんが話してるのを。……お姉ちゃんが毎日会ってる男の人、黒龍組の跡取りなんだって? 名前は勇、16歳。身長も格好も、龍平さんが言ってた通りだった……」
小雨の心臓が早鐘を打つ。否定したかった。違います、彼はただの学生で、勇さんは関係ないのと叫びたかった。だが、喉元まで出かかった言葉は、音にならずに空気中へ消えた。
勇の制服。彼のまとっていた雰囲気。そして時折見せた、裏社会の事情に通じているかのような素振り。それら全ての断片が、大樹の言葉という接着剤によって一つの残酷な真実に結合していく。大樹が、家族を何よりも大切にするこの弟が、姉を傷つけるために嘘をつくはずがない。
「黒龍組って……お姉ちゃんをいじめた人の仲間なんでしょう? そんな人の息子と……どうして?」
大樹が顔を上げ、涙に濡れた瞳で姉を見つめた。その純粋な問いかけが、鋭利なナイフとなって小雨の胸を抉る。
(勇さんが……誠さんの息子……?)
小雨の視界が揺らいだ。脳裏に蘇るのは、かつて自分を陵辱した男、黒龍誠の顔。あの夜の痛み、屈辱、吐き気。その男の血を引く息子に、自分は心を許し、あまつさえ恋心さえ抱いていたのか。彼が向けてくれたあの優しい笑顔の裏には、父親と同じ獣の血が流れていたというのか。
「……違う、知らなかったの。私は……」
小雨は唇を噛み締め、溢れそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。髪に挿した銀色の鮫のヘアピンが、急に重く、冷たく感じられた。それはもはや愛の証ではなく、自分を愚弄する呪いのアイテムのように思えた。
同じ夜、街の反対側でも、一人の少年の世界が音を立てて崩れ落ちようとしていた。
勇は月島蓮司と共に街はずれの廃工場跡地に立っていた。錆びついた鉄骨が墓標のように突き出し、風が虚ろな音を立てて吹き抜ける場所だ。
彼の前には、見知らぬ男が立っていた。黒いコートを着込んだその男は、レイラの手下であり、淀んだ目つきで勇を見据えていた。
「坊ちゃん、いい加減、夢から覚める時間ですよ」
男は懐から分厚い封筒を取り出すと、無造作に勇の足元へ放り投げた。バサリ、と封筒が開き、中から数枚の書類と写真が散らばる。
「お前の親父さんが、昔何をやったか。そして、その息子であるお前が惚れている女が、どんな目に遭わされたか。……とくとご覧あれ」
勇は不審に思いながらも、地面に散らばった一枚の写真に目を吸い寄せられた。そして、時が止まった。
そこに写っていたのは、薄暗い部屋の中で布団に押し倒されている少女の姿だった。恐怖に歪んだ顔、涙で濡れた頬。そして、その上に覆いかぶさる巨大な男の背中には、見紛うことなき黒龍の刺青が刻まれていた。
父だ。そして、その下にいる少女は――小雨だ。
「う……そだ……」
勇の喉から、掠れた音が漏れた。男は嘲笑いながら言葉を続ける。
「これはお前の親父、誠がやったことだよ。白龍の娘を拘束し、一晩中犯し続けた。小雨ちゃんの祖父母、つまり白龍刃の両親を殺したのも、お前の親父が実行犯だ」
勇は震える手で別の写真を拾い上げた。そこには、事後の小雨の姿が写されていた。白い肌に残る無数の赤い痣。首筋にくっきりと刻まれた指の跡。手首の拘束痕。虚ろな目の元に乾いた涙痕がはっきりと見える。
勇の記憶がフラッシュバックする。河川敷で初めて再会したあの日、小雨の袖口から覗いた、あの不自然な変色。紫から黄色へと変わりかけていた、あの痛々しい痣。
(あれは……親父がつけた傷だったのか……?)
勇の脳天を、巨大な金槌で殴られたような衝撃が貫いた。自分が「守りたい」と誓った少女を、地獄の底へ突き落とした張本人が、自分の父親だった。そして自分は、その父親の血を引く身で、何も知らずに彼女に近づき、「正義」だの「共存」だのと綺麗事を並べていたのか。
「オェッ……」
勇は耐えきれず、その場に膝をついて胃の中身を吐き出した。酸っぱい液体が喉を焼くが、心の痛みには及ばない。地面に散らばる写真の中で、小雨の虚ろな瞳が、勇を静かに断罪しているように見えた。
「おやおや、これは……」
男は鼻を隠しながら、嘲笑うような顔で勇を見ている。
顔を上げた少年の瞳からは、光が消え失せ、代わりに深い絶望の闇が広がっていた。
遠くで鳴り響くサイレンの音が、まるで彼ら二人の終わってしまった恋を弔う鎮魂歌のように、いつまでも夜の街に木霊していた。
真実は時に、肉体を切り刻む刃物よりも鋭利で、魂の最も柔らかい部分を無慈悲に抉り取る凶器となる。
廃工場での一幕から数時間が経過し、夜の帳はいよいよ濃密な黒さを増して三江の街を覆い尽くしていた。
空には鉛色の雲が垂れ込め、時折遠雷が地を這うように低い唸り声を上げているが、勇の耳にはそれすらも届いていないかのように、彼の意識はただ一点、父という名の巨大な影に囚われたままであった。
小雨の笑顔、恥じらうような仕草、そして写真の中に焼き付けられていた、恐怖と屈辱に歪んだ彼女の絶望的な表情。その二つのイメージが脳裏で激しく明滅し、勇の心臓を万力で締め上げるような痛みを齎していた。自分が今まで信じてきた世界、父の背中に見ていた強さや威厳といったものが、音を立てて崩れ去っていく幻聴が聞こえるようだ。
黒龍組の本部事務所へと続く長い廊下を歩く勇の足取りは、まるで泥沼の中を進むように重く、しかしその瞳には決して揺らぐことのない決意の炎が宿っていた。
廊下ですれ違う組員たちが「若」と敬礼を向けてくるが、今の勇にとってその呼び名は、自身を呪縛する鎖の響きにしか聞こえなかった。
「……親父」
重厚なマホガニーの扉の前に立ち、勇は深呼吸を一つすると、ノックもせずに扉を押し開けた。
執務室の中には、数人の幹部と蓮司、そして机に向かって指示を出している誠の姿があった。
部屋の中には紫煙が層を成して漂い、ピリピリとした殺気が充満している。白龍組との小競り合いを回避したばかりだとしても、この街の緊張の糸が緩んだわけではないのだ。
「……勇か」
誠は書類から視線を上げず、低い声で息子の名を呼んだ。その声には、いつもの威圧感と共に、どこか微かな疲れの色が混じっているようにも感じられた。
「刃が乗り込んできてな、今忙しい。用件なら後にしろ」
冷淡にあしらおうとする父の態度に、勇は一歩も引くことなく、机の前へと進み出た。その足音は静寂を裂くように鋭く響き渡り、周囲の幹部たちが息を呑む気配が伝わってくる。
「小雨さんの祖父母を殺したのは、あなたですか?」
その問いは短く、しかし部屋の中の空気を一瞬にして凍りつかせた。
幹部たちの視線が泳ぎ、蓮司の眉がわずかに跳ね上がる。誰もが知っていながら、決して口にしてはならないタブーが、今まさに組長の息子の口から放たれたのだ。
誠の手が止まった。ペンの先が紙の上で静止し、インクが小さく滲む。彼はゆっくりと顔を上げ、蛇のような鋭い視線を勇に向けたが、その瞳の深淵には、一瞬だけ――本当に瞬きするよりも短い間だけ――動揺と、そして押し隠せない罪悪感のような色が走ったのを、勇は見逃さなかった。
そばに控える蓮司も、表情の仮面を崩しはしないものの、内心では激しい動揺に見舞われていた。勇にこの決定的な事実を吹き込んだのは誰なのか。白龍の差し金か、それとも組内部に潜む裏切り者か。その思考を一瞬で巡らせながら、彼は主人と息子の対峙を息を殺して見守った。
「……過去の話だ」
誠は冷徹な声で言い捨て、再び書類に視線を落とした。タバコの煙を吐き出すその所作は、まるで不都合な真実を煙に巻こうとしているかのようだ。
「この稼業にいれば、手の一つや二つ汚れるのは当たり前だ。裏社会ではよくあることだろう」
「よくあること? ……小雨さんを、陵辱したこともですか?」
勇の声が震えた。それは恐怖からではない。怒りと悲しみ、そして失望が綯い交ぜになった、魂の咆哮だった。
「一人の少女の尊厳を踏みにじり、心と体に一生消えない傷を負わせることが……あなたの言う『よくあること』なのかッ!」
誠は再び筆を止め、沈黙した。部屋の中の空気が軋む音が聞こえるほどの緊張感が支配する。誠は息子の燃えるような瞳を正面から見据えようとしたが、その視線はわずかに宙を彷徨い、そして苦々しげに顔を背けた。
肯定も否定もしない。その沈黙こそが、何よりも雄弁な自白だった。
勇の中で、何かが決定的に砕け散った。それは父への尊敬か、それとも家族という幻想か。父の大きな背中に憧れ、いつかあんな風に強く、仲間を守れる男になりたいと願っていた幼き日の自分が、炎の中で灰になっていくようだった。
(父さんは……俺の父さんは、悪魔だったのか。何度も小雨さんとその家族を傷つけ、彼女から何もかもを奪っておきながら、平然と生きてきたのか)
自分の血管に流れる血が、汚らわしい汚泥のように感じられ、吐き気がこみ上げてくる。この男の息子であるという事実が、もはや耐えがたい罪過として勇の全身を責め立ててきた。
もう、以前のように父を呼ぶことはできない。
「……あなたとは、もう一緒にいられない」
勇の唇から漏れた言葉は、静かだが、鋼のように硬い響きを持っていた。
「あなたの言う『仁義』が、弱者を踏みにじり、欲望のために他者を犠牲にすることだというなら……そんなものは俺の『正義』とは違う」
勇は拳を握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みで涙を堪えた。
「俺は……俺の信じる道を行く。あなたの影には、もう二度と入らない」
言い放つと同時に、勇は踵を返し、出口へと向かった。その背中は以前よりも小さく、孤独に見えたが、同時に何か重い荷物を下ろしたような、悲壮なまでの覚悟を漂わせていた。
「……待て」とは、誰も言わなかった。誠は書類を持ったままの手を空中で止めているだけで、去っていく息子を呼び止めることも、怒鳴りつけることもせず、ただその背中が扉の向こうへと消えていくのを見送っていた。
彼の横顔に浮かんでいたのは、裏切り者を断罪する組長の顔ではなく、自分とは違う道を歩み始めた息子を前に、言葉を失う一人の父親の顔だったのかもしれない。あるいは、若き日の自分が捨て去った良心という亡霊を、息子の姿に重ねていたのだろうか。
扉が閉まり、重苦しい静寂が再び部屋を支配した時、蓮司が静かに一歩前に進み出た。
「……誠様」
「追わなくていい」
誠は短く遮ると、新しいタバコを取り出し、火をつけた。紫煙の向こうで目を細めた彼は、どこか自嘲気味に口角を歪めていた。
「……あいつも大人になったということだ。俺のようにはならんさ」
その言葉に含まれた感情の正体を、蓮司だけが正確に理解していた。それは安堵であり、同時に深い絶望でもあった。
息子が修羅の道から外れたことを喜ぶ親心と、自らが行く地獄へは連れて行けないという諦念。
「ご心配には及びません。私が、影から護衛をつけさせます」
蓮司は恭しく頭を下げ、完璧な執事の礼をとった。
「ただ……今は少々、調べなければならないことがございまして。少しの間、お暇を頂戴してもよろしいでしょうか。坊ちゃんの耳に誰が毒を吹き込んだのか、その出処を明らかにする必要がありますゆえ」
誠は無言で頷き、手で払うような仕草を見せた。
「好きにしろ。……頼んだぞ、蓮司」
「御意に」
蓮司は一礼すると、音もなく執務室を後にした。廊下に出た瞬間、その表情から温かみが消え失せ、氷の刃のような鋭利な素顔が露わになった。勇が去った方向を見つめる瞳には、教え子を導けなかった悔恨と、彼を傷つけた者への静かなる殺意が宿っていた。
夜気はますます冷たく、事務所の外へと飛び出した勇の頬を容赦なく叩いた。彼はあてどもなく歩き出し、やがて夜の闇の中へとその姿を溶け込ませていった。行く当てなどない。
帰る場所もない。ただあるのは、胸の中で燃え盛る「償い」と「愛」の残り火だけだった。
背後で閉ざされた扉の向こうに、父と過ごした日々を置き去りにして、勇は一人、修羅の街を彷徨い始めた。その足跡を、誰かが静かに見守っていることにも気づかずに。
三江の街を打つ雨脚は強まる一方で、アスファルトに叩きつけられる飛沫が白く煙るほどだった。
勇は黒龍組の厚い樫の木の扉を背にし、夜の底へと放り出されたかのように覚束ない足取りで歩き始めたが、彼には目的地など存在しなかった。
冷え切った雨が容赦なく全身を濡らし、学生服の繊維が水を吸って鉛のように重く肩にのしかかるが、その物理的な重さなど、いま彼の魂を引き摺り下ろそうとしている絶望の引力に比べれば羽毛のように軽かった。
父である誠が犯した罪――小雨の尊厳を蹂躙し、彼女の家族を惨殺したという、決して拭い去ることのできない血の歴史――が、勇の足首に絡みつき、一歩進むごとに心臓を鷲掴みにして締め上げているようだった。
彼は行き交う車のヘッドライトに照らされるたび、まるで自分が犯罪者として炙り出されているかのような錯覚に陥り、反射的に顔を背けて路地裏の暗闇へと逃げ込んだ。
かつては誇り高い父の背中を追いかけ、この街で胸を張って生きてきたはずの場所が、今や四方八方から糾弾の視線を浴びせてくる敵地のように感じられる。
「……どうすればいい? 俺は、これから……」
掠れた声は雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。小雨に会いたい、彼女の声を聴きたいという熱烈な衝動が胸の奥で疼くが、同時に、殺人者と陵辱者の息子である自分が彼女の前に立つことなど、許されるはずのない冒涜だという冷たい理性がその衝動を押し留める。
彼女の笑顔を思い出すだけで、その裏側にあったであろう凄惨な記憶と痛みが脳裏にフラッシュバックし、勇は胃の腑が裏返るような嘔吐感に襲われて、濡れた煉瓦塀に手をついて激しく咳き込んだ。
遠くでパトカーのサイレンが唸り声を上げ、街の混乱を告げている。白龍と黒龍の抗争の火蓋が切られ、この街はかつてない緊張状態にあるのだ。
自分がここにいるべきではない、何か行動を起こさねばならないという焦燥だけが空回りし、勇の思考は泥沼の中で身動きが取れなくなっていた。
ふと、街灯の薄暗い光の中に、公衆電話の緑色のボックスが亡霊のように浮かび上がった。
勇は何かにすがりつくように、震える足を引きずってボックスの中へと転がり込んだ。雨を遮る空間に入った途端、外界の喧騒が少しだけ遠のき、代わりに自分自身の荒い呼吸音が反響して耳朶を打つ。
彼は凍えた指先でポケットを探り、小銭を取り出そうとしたが、指の感覚が麻痺していて上手く摘めない。チャリン、チャリンと硬貨が床にこぼれ落ちる音が、彼の情けなさを嘲笑うかのように響いた。
ようやく一枚の十円玉を拾い上げ、スロットに押し込んだ勇は、受話器を耳に当てた。プーッ、プーッという無機質な電子音が鳴り響く中、彼の指は蓮司への連絡用番号を押そうとして、空中で凍りついた。
(何を話せばいい? 助けてくれとでも言うのか? 親父を否定して飛び出したくせに、結局は誰かに頼らなければ生きられないのか?)
受話器を握る手に力が入りすぎて、プラスチックがミシミシと悲鳴を上げる。ガタガタと震えが止まらず、視界が涙と雨で滲んでいく。自分の無力さ、愚かさ、そして逃げ場所のない現実が、容赦なく彼を打ちのめしていた。
「……くそっ、あぁ……ッ!」
勇は呻き声を漏らし、受話器を乱暴にフックへと叩きつけた。硬貨が返却口に戻ってくる音を聞きながら、彼はその場に蹲り、両膝に顔を埋めて慟哭した。電話ボックスのガラス越しに、歪んだ世界が泣いているように見えた。
その頃、白龍組の本宅にある小雨の部屋では、別の電話が鳴り響いていた。
ジリリリリン、ジリリリリン――。
古風な黒電話のベルの音が、張り詰めた沈黙を切り裂き、ベッドの上で膝を抱えて座っていた小雨を弾かれたように跳ね起きさせた。
彼女はこの数時間、時計の針が刻む音だけを聞きながら、勇からの連絡を、あるいは最悪の知らせを、祈るような気持ちで待ち続けていたのだ。
「もしもし!」
小雨は受話器をひったくり、相手の名乗りも待たずに叫んだ。勇であってほしい、いや、勇でなければならないという悲痛な願いが、その声には込められていた。
だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、低く、沈痛な響きを帯びた大人の男の声だった。『……夜分遅くに申し訳ありません、白龍の小雨様でいらっしゃいますか』
小雨の背筋に冷たいものが走る。聞き覚えのある声ではないが、その丁寧すぎる口調と、隠しきれない切迫感が、ただの用件ではないことを告げていた。
「はい、小雨ですが……どなたですか?」
『……私は、黒龍組の月島蓮司と申します。勇様に代わって、お仕えしている者です』
息を呑む音が、電話線を伝って聞こえた気がした。小雨は受話器を強く握りしめ、乾いた喉を鳴らして尋ねた。
「勇さんの……使いの方ですか? 勇さんは今、どこに……?」
『それが……ご報告せねばならぬことがございます。勇様は先ほど、組を……いえ、父親である誠様と決別し、屋敷を出て行かれました』
「えっ……?」
小雨は言葉を失い、その場に崩れ落ちそうになった。決別。家出。その単語が意味する重さが、瞬時には呑み込めなかった。
『勇様は……知ってしまわれたのです。ご自身の父親が、過去に小雨様やご家族に対して行った、許しがたい所業の全てを。……誰かの悪意ある手引きによって、残酷な真実を突きつけられました』
蓮司の声には、主家を守れなかった悔恨と、傷ついた若主人への慈愛が滲んでいた。
『彼は、ご自身の血の穢れに耐えきれず、小雨様に合わせる顔がないと……激しい自己嫌悪と贖罪の念に苛まれ、雨の中へ飛び出して行かれました。私どもも手分けして捜索しておりますが、現在の混乱した街の状況では、彼一人を見つけることは困難を極めます。それに、白龍の皆様に見つかれば、今の彼は……』
「……分かりました」
小雨は蓮司の言葉を遮り、静かだが芯の通った声で言った。
彼女の中で、迷いや混乱という霧が一瞬にして晴れ渡り、代わりに熱い使命感が炎のように燃え上がっていた。
勇が知ってしまった。あの優しい彼が、最も知りたくなかった残酷な事実を背負わされ、今この瞬間も、たった一人で冷たい雨に打たれているのだ。
自分への罪悪感に押し潰されそうになりながら、それでも親を否定するほどの正義感に引き裂かれている彼の痛みを思うと、小雨の胸は張り裂けそうだった。
「私が探します。勇さんは……私に罪悪感を抱いているのなら、私が彼を見つけて、許さなければなりません。……いいえ、許すとかそういうことじゃなくて、彼を一人にしちゃいけない」
それは理屈ではなかった。敵対組織の跡取りだとか、親の仇の息子だとか、そんな柵は今の彼女にとってはどうでもよかった。ただ、傷ついた一人の愛する人を救いたい、その一心だけが彼女を突き動かしていた。
『小雨様……感謝いたします。どうか、あの方を……』
「必ず見つけます。失礼します」
小雨は受話器を置くと、ハサミで長い髪を切り落とす。これは過去への決別だ。そして、クローゼットから厚手のコートを引っ張り出し、パジャマの上に羽織った。足元はスニーカーを突っ掛け、懐中電灯と小さな救急セットをポケットにねじ込む。
部屋を出ようとした時、ふと鏡に映った自分の顔が目に入った。不安に怯える少女の顔ではない。そこには、愛する者を守るために戦場へ赴く、戦士のような決意を宿した女の顔があった。彼女は無言で頷くと、窓を開け、夜の闇へと身を翻した。
組員たちに見つかれば止められる。だから、彼女はあえて危険な雨樋を伝って、二階から庭へと降り立った。
三江の街を見下ろす廃ビルの屋上は、地上よりもさらに強い風雨に晒されていたが、そこに佇む女にとっては、それが心地よいシャワーのように感じられるようだった。
レイラはコンクリートの縁に座り込み、防水加工された軍用端末の画面を指先で弾いていた。青白い光が彼女の端整な顔を照らし出し、口元に浮かんだ加虐的な笑みを不気味に強調している。
彼女の耳に装着されたイヤーピースからは、傍受した警察無線の怒号や、街中で発生している小競り合いの報告が絶え間なく流れ込んでいた。
『マルサン、マルサン、白龍の連中が暴徒化している! 応援を求む!』
『こちら黒龍、第4地区にて接触あり! 魔法攻撃を確認、応戦する!』
「あは、賑やかになってきたじゃない。素晴らしいオーケストラだわ」
レイラは街並みへ目を向け、混乱した市民の様子を眺めて満足げに鼻を鳴らした。
「何が起きてるの?」「爆発音聞いたんだけど」「ヤクザが戦争始めたらしい」――恐怖と疑心暗鬼がウィルスのように拡散し、街の秩序を内側から食い荒らしている。
「あの坊やも、今頃泣きべそかいて絶望してる頃かしら?
お父様が極悪人だと知って、恋した相手があのお父様に汚された女だと知って……ふふ、想像しただけでゾクゾクしちゃう」
彼女は立ち上がり、フェンスのない屋上の縁ギリギリにつま先をかけた。
眼下に広がる三江の街は、所々で上がる黒煙とパトランプの赤色灯によって、まるで血管が脈打つ生き物のように蠢いて見えた。自分の一手によって、強固に見えた平和の均衡がいとも簡単に崩れ去る様を見るのは、何にも代えがたい愉悦だった。
「順調、順調。これで役者は揃ったし、舞台も整った。あとはお互いに血で血を洗って、最後の一滴まで絞り出し合えばいいのよ」
雨に濡れた長い髪をかき上げ、レイラは夜空に向かって高らかに笑った。その哄笑は雷鳴に混じり、呪詛のように街へと降り注いでいった。
「さあ、第2幕の始まりよ。もっと踊りなさい、愚かな人形たち」
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守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
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