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エピローグ
エピローグ2:堅気の空、それぞれの場所
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三江の街が夕焼に染まり、巨大なクレーンの影が長く伸びていく頃、熊谷剛はヘルメットを脱ぎ、額に滲んだ汗を太い腕でぬぐった。
かつては抗争の血で染まったこの街も、今では建設重機が唸りを上げ、破壊された建物の跡地には真新しい鉄骨が組み上がりつつある。「三江興業」の作業着を纏った男たちは、かつての敵味方の垣根を越え、ひとつの目的のために汗を流していた。
剛はその喧騒の中、ふと視線を現場事務所の方へと向けた。事務所から出てきたのは、少しゆったりとした衣服に身を包んだ白龍小雨だった。
まだ17歳という若さだが、その佇まいには以前よりも深みを増した慈愛が満ちている。彼女がふと腹部に手をやった瞬間、風が布地を押し当て、ほんの僅かだが確かな膨らみが剛の視界に入った。
「おお、お疲れ様です、剛さん」
近くにいた龍平が声をかけてきたが、剛は直立不動のまま、その膨らみから目を離せなかった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。それは敵を前にした時の高揚感とは全く質の違う、腹の底から湧き上がるような熱い震えだった。
あのお嬢が、あの小さな体で、新しい命を宿している。俺たちが命懸けで守ってきたものが、こうして形になろうとしているのだ。
「……剛?」
「……いや、なんでもない。上がるぞ」
剛は短く答え、逃げるように背を向けた。強面の表情筋が勝手に緩んでしまいそうなのを必死に堪え、彼は夕暮れの街へと歩き出した。
自宅へと続く道すがら、剛は自分の掌を見つめた。分厚く、タコだらけで、無数の古傷が刻まれた手。人を殴り、骨を砕いてきたこの手は今、瓦礫を片付け、新しい街を作るための道具を握っている。血の匂いは消え、代わりにコンクリートと土の匂いが染み付いていた。
「ただいま」
引き戸を開けると、台所から出汁の香りがふわりと漂ってきた。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
割烹着姿の妻が、いつものように穏やかな笑顔で出迎えてくれる。その背後から、パタパタという軽快な足音が近づいてきた。
「お父さん!お帰りなさい!」
もうすぐ小学校に上がる娘の桜が、満面の笑みで廊下を駆けてくる。その姿を見ると、現場での疲れも、過去の重荷も、すべてが霧散していくようだった。
剛は膝をついて視線の高さを合わせ、泥汚れを気にして少し躊躇いながらも、差し出された小さな手を受け止めた。
「おう、桜。……いい子にしてたか」
「うん!今日ね、幼稚園でお絵描きしたの!先生に上手って褒められたんだよ!」
「そうか。……うむ、偉いぞ」
剛の言葉は相変わらず短く不器用だが、目尻の皺がその心情を雄弁に物語っていた。
夕食の食卓には、湯気を立てる炊き込みご飯と味噌汁、そして焼き魚が並んでいた。質素だが、剛にとってはどんな高級料亭の料理よりも贅沢な献立だ。
「それでね、まーくんが滑り台から落ちそうになって、わたしが助けてあげたの!」
「ほう。……怪我はなかったか」
「うん、大丈夫!わたしね、お父さんみたいに強くて優しい人になるの!」
桜は箸を動かしながら、今日あった出来事を無邪気に話し続ける。剛はその小さな口が動くのを眺めながら、時折「うん」「そうか」と相槌を打つだけだ。
しかし、妻はそんな夫の茶碗にご飯をよそいながら、静かに微笑んでいる。夫が言葉数少なくても、その沈黙の中にどれだけの愛情が含まれているかを知っているからだ。
「あなた、お酒、一本つける?」
「……ああ、頼む」
妻が燗をつけた酒を運んでくる。剛は猪口に注がれた酒をゆっくりと煽った。
かつては明日の命も知れぬ緊張感の中で酒を飲んでいたが、今はこうして家族の寝息が聞こえる家で、安らかな眠りにつくことができる。
「桜、好き嫌いしないで人参も食べなさい」
「えー、だって苦いもん」
「駄目よ。お父さんを見てごらんなさい、なんでも食べるからあんなに大きくて強いのよ」
「うー……分かった、食べる」
妻の言葉に、桜が渋々人参を口に運ぶ。その微笑ましい攻防を見ながら、剛は心の中で温かい何かが満ちていくのを感じていた。
これが「日常」というものか。刃の親父や先代たちが命を賭して守ろうとし、勇と小雨が掴み取った平穏とは、こういうことだったのか。
夜が更け、家の中が静寂に包まれる頃、剛は風呂上がりの火照った体を冷ましながら、娘の寝室を覗いた。
豆電球の薄明かりの中、桜は布団を蹴飛ばして大の字になって眠っている。
その無防備な寝顔は、傷一つなく、影一つない。剛は音を立てないように忍び足で枕元に近づき、乱れた掛け布団をそっと肩まで引き上げた。
かつて、自分は小雨や大樹を守る「盾」として生きてきた。彼らのためなら、この身が砕け散ろうとも構わないと思っていた。それは忠義という名の、鋼のような覚悟だった。
だが、今目の前にあるこの小さな命を守りたいという感情は、それとは少し違う。もっと柔らかく、しかし鋼よりも強く、心の奥底に根を張るような感覚だ。
(小雨様……お嬢。あんたのお腹の子も、こんなふうに笑って眠る日が来るんだな)
剛は桜の頬にかかった髪を、太い指先で慎重に払った。その指は、かつて引き金を引いた指だ。だが今は、娘の夢を守るために存在している。
「……んぅ……お父さん……」
桜が寝言を漏らし、無意識に剛の手を求めて指を握り返してきた。その温もりが、剛の硬い掌を伝って心臓へと届く。
剛はその場に片膝をつき、しばらくの間、動かなかった。暗闇の中で光る娘の寝顔だけが、彼の世界のすべてだった。
「お休みなさい、桜」
剛は誰にも聞こえないほどの低い声で呟き、そのまま静かに部屋の襖を閉めた。廊下には、明日の労働に備えて洗濯され、綺麗に畳まれた作業着が置かれている。彼はそれを一瞥すると、満足げな吐息とともに寝室へと足を向けた。
三江の街に夜の帳が下り、オフィス街の窓明かりが一つ、また一つと消えていく時間帯だった。
三江興業の事務所を出た三宅龍平は、ネクタイを少し緩めながら、ビジネス街の冷たい風に当たった。
仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ姿は、どこからどう見ても中堅企業のやり手営業マンか、実直な事務方の課長といった風情だ。
かつて懐にチャカを忍ばせ、裏路地で情報を売り買いしていた男の面影は、表面的には綺麗さっぱり拭い去られている。
ガチャリ、と玄関の鍵を開ける音が響いた瞬間、家の中からは既に戦場のような賑やかさが漏れ出してきていた。テレビから流れる幼児向け番組の極彩色の音、何かを叩く音、そして子供の高い叫び声。
「ただいまー」
「パパ!!!」
靴を脱ぐ隙さえ与えられなかった。ドタドタという激しい足音と共に、三歳になる長男が廊下の向こうから弾丸のように飛んできたのだ。
「うおっと!」
龍平は鞄を放り出し、低い姿勢で待ち構え、突っ込んでくる小さな塊を全身で受け止めた。高級なスラックスがシワになることなど、今の彼にはどうでもいいことだった。
「お帰りなさい、あなた。ごめんなさいね、手が離せなくて」
リビングから妻の声がする。龍平は長男を高い高いしながらリビングへと入った。そこには、生後数ヶ月の次男を抱きかかえながら、哺乳瓶の温度を確かめている妻の姿があった。
部屋の中は玩具が散乱し、洗濯物がソファの一角を占領している。だが、その雑多な光景こそが、龍平にとっては黄金の宮殿よりも輝いて見えた。
「おう、いいこいいこ。……よし、パパそのまますぐ着替えてくるからな。お風呂入ろうか、な?」
「うん!おふろ!あひるさん!」
長男を床に下ろすと、龍平はすぐに寝室でスウェットに着替え、ネクタイという首輪から解放された。
リビングに戻ると、妻が次男をあやしながら苦笑いを浮かべた。
「今月ね、またオムツの消費が早くて。特売日に買いだめしておいたほうがいいかしら」
「おう、必要なもんは遠慮なく買え。俺が稼いでくるのはそのためだ」
「頼もしいこと。あ、そういえば冷蔵庫のビール、一本だけならいいわよ」
「気が利くなぁ、おい」
プシュッ、と缶を開ける音がリビングに響く。龍平は長男が積み木を崩すのを眺めながら、冷たい液体を喉に流し込んだ。
かつて、龍平は小雨や大樹を可愛がっていた。まだ幼かったあの子たちが、過酷な運命の中で必死に生きる姿を見て、守ってやりたいと心底思ったものだ。
だが、それはどこか「組の子供」に対する義務感や、あるいは「自分には決して手に入らない未来」への羨望が混じっていたかもしれない。
今、自分の目の前には、自分自身の血を分けた子供たちがいる。
(あのお嬢も、もうじき母親か……)
ふと、現場で耳にした小雨の妊娠の噂を思い出した。
あの小さな体で組織の重圧に耐え、勇と共に戦い抜いた少女が、今度は命を育む側に回る。そして、泣き虫だった大樹も今では三江を背負って立つ男になりつつある。
「パパ!みて!くるま!」
長男がプラスチックの車を龍平の膝に押し付けてきた。
「おお、すごいな。これ、誰が作ったんだ?」
「ぼく!」
「天才だな、お前は」
龍平は本気でそう言い、息子の頭をくしゃくしゃに撫で回した。息子はキャッキャと声を上げて逃げ回るが、すぐにまた戻ってくる。その無邪気な笑顔を見ていると、目尻が下がって戻らなくなる。
「もう、あなたったら。そんなに甘やかしてたら、お父さん(剛)みたいに怖くなれないわよ」
妻が呆れたように、しかし温かい目で見ている。
「いいんだよ。剛の旦那みたいに強くなくたっていい。……ただ、笑っててくれりゃあな」
龍平は次男のぷにぷにした頬を指先でつついた。赤ん坊は何かを感じたのか、キャアと小さな声を上げて手足をバタつかせた。
かつて血と暴力が支配したこの街で、こうして家族が安心して夕飯を囲める。銃声に怯えることなく、明日の命を心配することなく、ただ「オムツの値段」や「子供の玩具」について悩める日々。
これこそが、勇さんとお嬢が、俺たちが血を流して勝ち取った「戦果」なんだろう。
リビングの壁には、新婚旅行の写真と、子供が生まれた日の写真が飾られている。龍平はその写真を肴に、最後の一口を飲み干した。
「さて、次はお風呂タイムだ。隊長、突撃準備はいいか?」
「アイアイサー!」
長男が敬礼の真似事をする。龍平は豪快に笑い、息子を再び抱き上げると、湯気の立つ浴室へと向かっていった。その背中は、かつて修羅場をくぐり抜けた男のものとは到底思えないほど、無防備で、幸せに満ち溢れていた。
朝霧がまだ三江の街を覆う早朝、黒龍邸の厨房には、すでに微かな湯気と小気味よい包丁の音が響いていた。
月島蓮司の一日は、誰よりも早く始まり、誰よりも静かに進行する。
六〇代を迎えてなお、その背筋には一本の鋼が通ったような歪みのなさがあった。白髪の混じった髪は一筋の乱れもなく撫で付けられ、仕立ての良い三つ揃えのスーツは、家事を行うには不似合いなほど優雅だが、彼の動きを妨げることは一切ない。
「……ふむ、今日の野菜は随分と色が良い」
独り言を言いながら、手際よく大根の皮を剥き、味噌汁の鍋に火を入れる。
かつて、血と情報の駆け引きに身を投じていた指先は、今や家族の健康を守るための繊細な手つきへと変わっていた。
廊下の掃除、新聞のアイロンがけ、靴磨き。それら全てが、まるで計算され尽くした舞踏のように流れるような動作で完遂されていく。
二階から、パタパタという小さな足音が聞こえてきた。
「れんじー!おなかすいたー!」
三歳になる凪が、眠気まなこのまま階段を降りてくる。蓮司は作業の手を止め、膝をついて小さな主人の視線に合わせた。
「おはようございます、凪お嬢様。朝食は間もなくでございますよ」
「だっこ」
「かしこまりました」
蓮司は慣れた手つきで凪を抱き上げる。その腕には、老いを感じさせない確かな力が宿っていた。
かつて銃を握りしめたその腕の中に、今は温かく柔らかな命がある。その重みを感じるたび、蓮司の胸中には静かな充足感が満ちていくのだった。
「蓮司、すまない。また凪が」
続いて降りてきた勇が、苦笑しながら頭を掻いた。22歳になり、精悍さを増したその顔立ちには、かつての少年の面影と、父親としての責任感が同居している。
「いえ、これも私の喜びでございますから。それより、陽坊ちゃんがまだ起きてこられないようですが」
「ああ、昨日本を読みすぎて夜更かししたみたいだ。起こしてくるよ」
「では、その間にトーストを焼いておきましょう」
日常の喧騒が、穏やかな光と共に屋敷を満たしていく。それは、彼らが命懸けで守り抜いた「平和」の音に他ならなかった。
昼下がり、屋敷が静寂に包まれる時間帯、蓮司は使用人室の黒電話の前に立っていた。
受話器を取り、ダイヤルを回す。ジー、コロコロ……という懐かしい音が鼓膜を叩く。
「……ああ、私だ。変わりはないか?」
電話の相手は、別に暮らす妻だ。蓮司が黒龍家に住み込んで仕えている間、彼女は自宅を守り、独立した娘の家族を支えている。
『ええ、大丈夫ですよ。そうそう、真奈ちゃんがね、今度ランドセルを買ってもらうんだけれど、赤がいいって聞かなくて』
受話器の向こうから聞こえる妻の弾んだ声に、蓮司の厳格な口元が僅かに緩んだ。
「真奈がか。……あの子は昔から、一度言い出したら聞かないところがあるからな」
6歳になる孫娘、真奈。活発で、どこか芯の強いところがあるあの子の顔を思い浮かべる。
『あの子、誰に似たのかしらねぇ。困ったものよ』
「ふっ……どうだろうな」
もしかすると、自分が仕えるこの屋敷の主たちに似てしまったのかもしれない、と蓮司は内心で苦笑した。
自分の血を分けた孫たちが、平和な時代の中で健やかに育っている。その事実が、彼にとっては何よりの報酬だった。
『今度のお休み、帰ってこられる? 真奈も、健ちゃんも、じいじに会いたいって言ってるわよ』
「ああ……勇様たちの予定を確認してからになるが、出来るだけ戻るようにする。健はまだ幼いが、抱いてやりたいからな」
短い会話の中には、長年連れ添った夫婦だけが共有できる安らぎがあった。黒龍家への絶対的な忠誠と、自身の家族への深い愛情。
その二つは蓮司の中で矛盾することなく、むしろ互いを支え合う柱として存在している。
「それじゃあ、またかける」
受話器を置くと、蓮司は一つ深く息を吐き、表情を執事のものへと戻した。
夕刻、リビングでは家族団欒の時間が流れていた。
ソファには小雨が座り、膝の上では凪が絵本を広げている。その隣で、5歳の陽が勇に積み木で作った城を得意げに見せていた。
「パパ見て!すごいでしょ!」
「おお、これは立派な城だな。陽は建築家になれるんじゃないか?」
「ほんと!? じゃあね、もっと大きいの作る!」
勇の賞賛に目を輝かせ、陽は再び積み木へと向き直る。小雨はその様子を愛おしそうに見つめ、凪の髪を優しく撫でていた。
蓮司は、その光景を少し離れたダイニングの隅から静かに見守っていた。
温かいランプの光が、彼らの笑顔を柔らかく照らし出している。
かつてこの場所には、張り詰めた緊張と、いつ襲撃があるか分からない恐怖が漂っていた。誠が眉間に皺を寄せ、煙草の煙を燻らせていたあの頃。
(誠様……ご覧になられていますか)
蓮司は心の中で、亡き主に語りかけた。
(あのような修羅場を潜り抜けた若者たちが、こうして当たり前の幸せを噛み締めております。彼らが築き上げたこの平穏こそが、貴方が守りたかったものの正体なのでしょう)
勇がふと顔を上げ、蓮司の視線に気づいた。
「蓮司? どうした、そんなところに立って」
「いえ……少し、昔のことを思い出しておりました」
蓮司は恭しく一礼し、穏やかな微笑みを湛えた。
「お茶を入れ直して参ります。本日は、香りの良いハーブティーがございますので」
「ありがとう、蓮司。お前が入れるお茶が一番美味いんだ」
勇の無邪気な言葉に、小雨も「ええ、本当に」と同意して微笑む。
踵を返し、厨房へと向かう蓮司の足取りは軽い。
この屋敷に満ちる笑い声を背に受けながら、彼は思う。自分の人生の黄昏時は、きっとこの温かな光の中で、彼らの成長を見守りながら過ぎていくのだろうと。
窓の外には、三江の街の夜景が広がっている。かつての不穏な赤色ではなく、家々の窓から漏れる無数の生活の灯りが、星空のように地上を埋め尽くしていた。
それは紛れもなく、彼らが勝ち取った未来の輝きだった。
大学の講義棟の時計台が午後四時を告げる鐘を鳴らすと、校門からは開放感に満ちた学生たちの波が一斉に押し寄せた。
携帯電話のないこの時代、待ち合わせには忍耐と信頼が必要だ。
白龍大樹は、レンガ造りの校門の石柱に片手をつき、通り過ぎる女子学生たちの視線を時折浴びながらも、その目はただ一点、向かいにある女子大学の通学路だけを凝視していた。
濃紺のブレザーに身を包んだ19歳の大樹は、かつての中学生時代の頼りなさを完全に払拭していた。背は伸び、肩幅も広がり、何よりその立ち姿には、若き実業家としての片鱗が見え隠れしている。
「……遅いな。補講か?」
腕時計に目を落とし、大樹がそわそわとネクタイを直し始めたその時だった。
「大樹!」
群衆を掻き分けるようにして、一人の少女が小走りで駆けてきた。
紗枝だ。膝丈のフレアスカートを風に揺らし、胸に抱えた教科書が重そうだが、その顔には太陽のような満面の笑みが浮かんでいる。
彼女が纏う空気は、どこか姉の小雨を彷彿とさせる凛とした透明感があるが、小雨のような影のある美しさとは違い、日向のような屈託のない明るさが前面に出ている。
「紗枝! お疲れ、待った?」
大樹の顔が、一瞬にして蕩けるように緩んだ。
「ううん、今終わったところ。ごめんね、ゼミの先生の話が長くて」
「いいよ、紗枝の顔を見たら待ち時間なんて吹っ飛んだ」
「もう、大樹ったらまたそんなこと言って」
紗枝は照れくさそうに頬を染め、大樹の腕に自然と自分の腕を絡ませた。
二人は中学時代からの同級生だ。姉の小雨が勇と結ばれ、幸せそうに微笑むあの結婚式の日、大樹は誓ったのだ。「俺も絶対に、姉ちゃんに負けないくらい素敵な人を守れる男になる」と。
それからの大樹の変貌ぶりは凄まじかった。組の仕事を手伝いながら猛勉強し、さらには学校行事の委員長なども務め上げ、今では誰もが一目置く存在となっていた。
そんな彼の不器用だが真っ直ぐな優しさに、誰よりも早く気づいていたのが紗枝だった。中学卒業の日に交わした告白から三年余り。二人の絆は、このアナログな時代において、毎日の逢瀬という確かな積み重ねによって盤石なものとなっていた。
「じゃあ、行こうか。今日はとっておきの場所に連れて行くから」
大樹が路肩に止めてあった小さな中古のセダンを指差す。免許を取り立ての彼が、アルバイト代を貯めてようやく手に入れた愛車だ。
「とっておきの場所? どこどこ?」
助手席に滑り込んだ紗枝が、期待に目を輝かせる。
「着いてからのお楽しみだ」
大樹は少し気取った手つきでキーを回し、エンジンを始動させた。車は夕暮れの国道を滑るように走り出した。
三十分ほど走っただろうか。車が到着したのは、街外れの河川敷だった。そこは、かつて勇と小雨が幾多の試練を乗り越えながら、静かな時間を共有した思い出の場所だ。
「着いたよ。……ここはね、姉ちゃんと勇さんのデートの聖地なんだ」
車を降り、川面を染めるオレンジ色の夕日を眺めながら、大樹は少し誇らしげに言った。
「へえ……ここが、あの伝説の!」
紗枝が感嘆の声を上げる。
「剛さんと龍平さんに聞き出したんだ。『若も男なら、あそこで勝負してこい』って言われてさ」
「ふふっ、あのお二人が言いそう。でも、本当に素敵な場所ね。水面がキラキラしてて……小雨さんも、ここで勇さんと愛を語り合ったのね」
紗枝の瞳には、小雨への純粋な憧憬が宿っている。
彼女にとって白龍小雨という女性は、恋人の姉という関係を超えた、ある種のミューズのような存在だった。
川風が二人の髪を優しく撫でていく。大樹は深呼吸をし、ポケットの中の小さな箱の硬い感触を指先で確かめた。心臓の音が、川のせせらぎよりも大きく聞こえる気がする。
「紗枝」
「ん?」
紗枝が振り返る。夕日が彼女の輪郭を黄金色に縁取っていた。
「俺、知ってるんだ。俺は勇さんみたいに強くないし、喧嘩だってそんなに強くない。姉ちゃんみたいに何でも完璧にできるわけじゃない」
大樹は言葉を選びながら、一歩、紗枝に近づいた。
「でも、紗枝への気持ちだけは……誰にも負けないつもりだ。姉ちゃんたちが掴んだあの幸せを、俺も紗枝と一緒に掴みたい。……いや、絶対に掴む」
大樹は震える手でポケットから箱を取り出し、パカッと蓋を開けた。中には、給料三ヶ月分をはたいて買った銀色の指輪が、夕日を反射して慎ましく輝いている。
「今すぐじゃなくていい。まだ学生だし、将来のこととか不安もあると思う。でも、俺の気持ちを知っておいてほしくて……」
喉が渇く。言葉に詰まる。かっこよく決めるはずの台詞が、緊張でしどろもどろになる。
「俺と一緒に……その、歩んでくれませんか?」
「はいっ!」
大樹の言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
「えっ?」
「はい!私は大樹くんのお嫁さんになります! ううん、ならせてください!絶対に!」
紗枝は食い気味に叫ぶと、大粒の涙を瞳に溜めながら、何度も何度も力強く頷いた。
大樹は目を丸くし、それから安堵と喜びに顔をくしゃくしゃにした。
「よ、よかったぁ……っ」
「もう、当たり前じゃない! 私、ずっと待ってたんだから!」
大樹は震える手で指輪を取り出し、紗枝の左手の薬指にそっと通した。サイズはぴったりだった。
「絶対に、紗枝を守る。一生、幸せにするから」
「うん……信じてる。大樹くんなら、大丈夫」
二人は夕日の中で強く抱きしめ合った。
まだ幼さの残るシルエットが、一つの大きな影となって河川敷に伸びていく。
その様子を、堤防の上の小高い植え込みの陰から見守る二つの人影があった。
「……ふふっ。あの子ったら、ガチガチじゃない。見てるこっちが緊張しちゃったわ」
クスクスと肩を揺らして笑うのは、今は髪を短く切り揃え、落ち着いた生成りのワンピースを着た小雨だ。その目元は、笑いながらも涙で濡れている。
隣に立つ黒龍勇は、愛妻の肩に優しく手を回し、ポケットからハンカチを取り出して彼女の目元を拭った。
「全くだ。あいつ、俺の真似をしてここを選んだくせに、台詞は噛み噛みだったな」
勇の声は呆れているようでいて、その実、弟分の成長を喜ぶ慈愛に満ちていた。
「でも……よかった。あの大樹が、自分の力で幸せを見つけて……」
小雨はハンカチを握りしめ、鼻をすすった。
かつて、親を亡くし、姉弟二人だけで嵐のような日々を生き抜いてきた。自分が守らなければ壊れてしまうほど脆かった弟が、今、一人の女性を守ると誓っている。
「もう、私が守らなくても大丈夫ね。……あの子はもう、立派な男の子だわ」
「ああ。それに、あの紗枝というお嬢さん、お前に似て芯が強そうだ。大樹にはお似合いだよ」
勇は小雨の背中をポンポンと叩き、満足げに河川敷を見下ろした。
夕闇が迫る中、新しいカップルの楽しげな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「帰ろうか、小雨。……家で子供たちが、腹を空かせて俺たちの帰りを待ってるぞ」
「ええ、そうね。……帰りましょう、勇さん」
二人は繋いだ手を離すことなく、幸せの絶頂にある若い二人を背にして、ゆっくりと歩き出した。
三江の空に一番星が輝き始める。それはまるで、世代を超えて受け継がれていく愛の物語を、静かに祝福しているかのようだった。
かつては抗争の血で染まったこの街も、今では建設重機が唸りを上げ、破壊された建物の跡地には真新しい鉄骨が組み上がりつつある。「三江興業」の作業着を纏った男たちは、かつての敵味方の垣根を越え、ひとつの目的のために汗を流していた。
剛はその喧騒の中、ふと視線を現場事務所の方へと向けた。事務所から出てきたのは、少しゆったりとした衣服に身を包んだ白龍小雨だった。
まだ17歳という若さだが、その佇まいには以前よりも深みを増した慈愛が満ちている。彼女がふと腹部に手をやった瞬間、風が布地を押し当て、ほんの僅かだが確かな膨らみが剛の視界に入った。
「おお、お疲れ様です、剛さん」
近くにいた龍平が声をかけてきたが、剛は直立不動のまま、その膨らみから目を離せなかった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。それは敵を前にした時の高揚感とは全く質の違う、腹の底から湧き上がるような熱い震えだった。
あのお嬢が、あの小さな体で、新しい命を宿している。俺たちが命懸けで守ってきたものが、こうして形になろうとしているのだ。
「……剛?」
「……いや、なんでもない。上がるぞ」
剛は短く答え、逃げるように背を向けた。強面の表情筋が勝手に緩んでしまいそうなのを必死に堪え、彼は夕暮れの街へと歩き出した。
自宅へと続く道すがら、剛は自分の掌を見つめた。分厚く、タコだらけで、無数の古傷が刻まれた手。人を殴り、骨を砕いてきたこの手は今、瓦礫を片付け、新しい街を作るための道具を握っている。血の匂いは消え、代わりにコンクリートと土の匂いが染み付いていた。
「ただいま」
引き戸を開けると、台所から出汁の香りがふわりと漂ってきた。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
割烹着姿の妻が、いつものように穏やかな笑顔で出迎えてくれる。その背後から、パタパタという軽快な足音が近づいてきた。
「お父さん!お帰りなさい!」
もうすぐ小学校に上がる娘の桜が、満面の笑みで廊下を駆けてくる。その姿を見ると、現場での疲れも、過去の重荷も、すべてが霧散していくようだった。
剛は膝をついて視線の高さを合わせ、泥汚れを気にして少し躊躇いながらも、差し出された小さな手を受け止めた。
「おう、桜。……いい子にしてたか」
「うん!今日ね、幼稚園でお絵描きしたの!先生に上手って褒められたんだよ!」
「そうか。……うむ、偉いぞ」
剛の言葉は相変わらず短く不器用だが、目尻の皺がその心情を雄弁に物語っていた。
夕食の食卓には、湯気を立てる炊き込みご飯と味噌汁、そして焼き魚が並んでいた。質素だが、剛にとってはどんな高級料亭の料理よりも贅沢な献立だ。
「それでね、まーくんが滑り台から落ちそうになって、わたしが助けてあげたの!」
「ほう。……怪我はなかったか」
「うん、大丈夫!わたしね、お父さんみたいに強くて優しい人になるの!」
桜は箸を動かしながら、今日あった出来事を無邪気に話し続ける。剛はその小さな口が動くのを眺めながら、時折「うん」「そうか」と相槌を打つだけだ。
しかし、妻はそんな夫の茶碗にご飯をよそいながら、静かに微笑んでいる。夫が言葉数少なくても、その沈黙の中にどれだけの愛情が含まれているかを知っているからだ。
「あなた、お酒、一本つける?」
「……ああ、頼む」
妻が燗をつけた酒を運んでくる。剛は猪口に注がれた酒をゆっくりと煽った。
かつては明日の命も知れぬ緊張感の中で酒を飲んでいたが、今はこうして家族の寝息が聞こえる家で、安らかな眠りにつくことができる。
「桜、好き嫌いしないで人参も食べなさい」
「えー、だって苦いもん」
「駄目よ。お父さんを見てごらんなさい、なんでも食べるからあんなに大きくて強いのよ」
「うー……分かった、食べる」
妻の言葉に、桜が渋々人参を口に運ぶ。その微笑ましい攻防を見ながら、剛は心の中で温かい何かが満ちていくのを感じていた。
これが「日常」というものか。刃の親父や先代たちが命を賭して守ろうとし、勇と小雨が掴み取った平穏とは、こういうことだったのか。
夜が更け、家の中が静寂に包まれる頃、剛は風呂上がりの火照った体を冷ましながら、娘の寝室を覗いた。
豆電球の薄明かりの中、桜は布団を蹴飛ばして大の字になって眠っている。
その無防備な寝顔は、傷一つなく、影一つない。剛は音を立てないように忍び足で枕元に近づき、乱れた掛け布団をそっと肩まで引き上げた。
かつて、自分は小雨や大樹を守る「盾」として生きてきた。彼らのためなら、この身が砕け散ろうとも構わないと思っていた。それは忠義という名の、鋼のような覚悟だった。
だが、今目の前にあるこの小さな命を守りたいという感情は、それとは少し違う。もっと柔らかく、しかし鋼よりも強く、心の奥底に根を張るような感覚だ。
(小雨様……お嬢。あんたのお腹の子も、こんなふうに笑って眠る日が来るんだな)
剛は桜の頬にかかった髪を、太い指先で慎重に払った。その指は、かつて引き金を引いた指だ。だが今は、娘の夢を守るために存在している。
「……んぅ……お父さん……」
桜が寝言を漏らし、無意識に剛の手を求めて指を握り返してきた。その温もりが、剛の硬い掌を伝って心臓へと届く。
剛はその場に片膝をつき、しばらくの間、動かなかった。暗闇の中で光る娘の寝顔だけが、彼の世界のすべてだった。
「お休みなさい、桜」
剛は誰にも聞こえないほどの低い声で呟き、そのまま静かに部屋の襖を閉めた。廊下には、明日の労働に備えて洗濯され、綺麗に畳まれた作業着が置かれている。彼はそれを一瞥すると、満足げな吐息とともに寝室へと足を向けた。
三江の街に夜の帳が下り、オフィス街の窓明かりが一つ、また一つと消えていく時間帯だった。
三江興業の事務所を出た三宅龍平は、ネクタイを少し緩めながら、ビジネス街の冷たい風に当たった。
仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ姿は、どこからどう見ても中堅企業のやり手営業マンか、実直な事務方の課長といった風情だ。
かつて懐にチャカを忍ばせ、裏路地で情報を売り買いしていた男の面影は、表面的には綺麗さっぱり拭い去られている。
ガチャリ、と玄関の鍵を開ける音が響いた瞬間、家の中からは既に戦場のような賑やかさが漏れ出してきていた。テレビから流れる幼児向け番組の極彩色の音、何かを叩く音、そして子供の高い叫び声。
「ただいまー」
「パパ!!!」
靴を脱ぐ隙さえ与えられなかった。ドタドタという激しい足音と共に、三歳になる長男が廊下の向こうから弾丸のように飛んできたのだ。
「うおっと!」
龍平は鞄を放り出し、低い姿勢で待ち構え、突っ込んでくる小さな塊を全身で受け止めた。高級なスラックスがシワになることなど、今の彼にはどうでもいいことだった。
「お帰りなさい、あなた。ごめんなさいね、手が離せなくて」
リビングから妻の声がする。龍平は長男を高い高いしながらリビングへと入った。そこには、生後数ヶ月の次男を抱きかかえながら、哺乳瓶の温度を確かめている妻の姿があった。
部屋の中は玩具が散乱し、洗濯物がソファの一角を占領している。だが、その雑多な光景こそが、龍平にとっては黄金の宮殿よりも輝いて見えた。
「おう、いいこいいこ。……よし、パパそのまますぐ着替えてくるからな。お風呂入ろうか、な?」
「うん!おふろ!あひるさん!」
長男を床に下ろすと、龍平はすぐに寝室でスウェットに着替え、ネクタイという首輪から解放された。
リビングに戻ると、妻が次男をあやしながら苦笑いを浮かべた。
「今月ね、またオムツの消費が早くて。特売日に買いだめしておいたほうがいいかしら」
「おう、必要なもんは遠慮なく買え。俺が稼いでくるのはそのためだ」
「頼もしいこと。あ、そういえば冷蔵庫のビール、一本だけならいいわよ」
「気が利くなぁ、おい」
プシュッ、と缶を開ける音がリビングに響く。龍平は長男が積み木を崩すのを眺めながら、冷たい液体を喉に流し込んだ。
かつて、龍平は小雨や大樹を可愛がっていた。まだ幼かったあの子たちが、過酷な運命の中で必死に生きる姿を見て、守ってやりたいと心底思ったものだ。
だが、それはどこか「組の子供」に対する義務感や、あるいは「自分には決して手に入らない未来」への羨望が混じっていたかもしれない。
今、自分の目の前には、自分自身の血を分けた子供たちがいる。
(あのお嬢も、もうじき母親か……)
ふと、現場で耳にした小雨の妊娠の噂を思い出した。
あの小さな体で組織の重圧に耐え、勇と共に戦い抜いた少女が、今度は命を育む側に回る。そして、泣き虫だった大樹も今では三江を背負って立つ男になりつつある。
「パパ!みて!くるま!」
長男がプラスチックの車を龍平の膝に押し付けてきた。
「おお、すごいな。これ、誰が作ったんだ?」
「ぼく!」
「天才だな、お前は」
龍平は本気でそう言い、息子の頭をくしゃくしゃに撫で回した。息子はキャッキャと声を上げて逃げ回るが、すぐにまた戻ってくる。その無邪気な笑顔を見ていると、目尻が下がって戻らなくなる。
「もう、あなたったら。そんなに甘やかしてたら、お父さん(剛)みたいに怖くなれないわよ」
妻が呆れたように、しかし温かい目で見ている。
「いいんだよ。剛の旦那みたいに強くなくたっていい。……ただ、笑っててくれりゃあな」
龍平は次男のぷにぷにした頬を指先でつついた。赤ん坊は何かを感じたのか、キャアと小さな声を上げて手足をバタつかせた。
かつて血と暴力が支配したこの街で、こうして家族が安心して夕飯を囲める。銃声に怯えることなく、明日の命を心配することなく、ただ「オムツの値段」や「子供の玩具」について悩める日々。
これこそが、勇さんとお嬢が、俺たちが血を流して勝ち取った「戦果」なんだろう。
リビングの壁には、新婚旅行の写真と、子供が生まれた日の写真が飾られている。龍平はその写真を肴に、最後の一口を飲み干した。
「さて、次はお風呂タイムだ。隊長、突撃準備はいいか?」
「アイアイサー!」
長男が敬礼の真似事をする。龍平は豪快に笑い、息子を再び抱き上げると、湯気の立つ浴室へと向かっていった。その背中は、かつて修羅場をくぐり抜けた男のものとは到底思えないほど、無防備で、幸せに満ち溢れていた。
朝霧がまだ三江の街を覆う早朝、黒龍邸の厨房には、すでに微かな湯気と小気味よい包丁の音が響いていた。
月島蓮司の一日は、誰よりも早く始まり、誰よりも静かに進行する。
六〇代を迎えてなお、その背筋には一本の鋼が通ったような歪みのなさがあった。白髪の混じった髪は一筋の乱れもなく撫で付けられ、仕立ての良い三つ揃えのスーツは、家事を行うには不似合いなほど優雅だが、彼の動きを妨げることは一切ない。
「……ふむ、今日の野菜は随分と色が良い」
独り言を言いながら、手際よく大根の皮を剥き、味噌汁の鍋に火を入れる。
かつて、血と情報の駆け引きに身を投じていた指先は、今や家族の健康を守るための繊細な手つきへと変わっていた。
廊下の掃除、新聞のアイロンがけ、靴磨き。それら全てが、まるで計算され尽くした舞踏のように流れるような動作で完遂されていく。
二階から、パタパタという小さな足音が聞こえてきた。
「れんじー!おなかすいたー!」
三歳になる凪が、眠気まなこのまま階段を降りてくる。蓮司は作業の手を止め、膝をついて小さな主人の視線に合わせた。
「おはようございます、凪お嬢様。朝食は間もなくでございますよ」
「だっこ」
「かしこまりました」
蓮司は慣れた手つきで凪を抱き上げる。その腕には、老いを感じさせない確かな力が宿っていた。
かつて銃を握りしめたその腕の中に、今は温かく柔らかな命がある。その重みを感じるたび、蓮司の胸中には静かな充足感が満ちていくのだった。
「蓮司、すまない。また凪が」
続いて降りてきた勇が、苦笑しながら頭を掻いた。22歳になり、精悍さを増したその顔立ちには、かつての少年の面影と、父親としての責任感が同居している。
「いえ、これも私の喜びでございますから。それより、陽坊ちゃんがまだ起きてこられないようですが」
「ああ、昨日本を読みすぎて夜更かししたみたいだ。起こしてくるよ」
「では、その間にトーストを焼いておきましょう」
日常の喧騒が、穏やかな光と共に屋敷を満たしていく。それは、彼らが命懸けで守り抜いた「平和」の音に他ならなかった。
昼下がり、屋敷が静寂に包まれる時間帯、蓮司は使用人室の黒電話の前に立っていた。
受話器を取り、ダイヤルを回す。ジー、コロコロ……という懐かしい音が鼓膜を叩く。
「……ああ、私だ。変わりはないか?」
電話の相手は、別に暮らす妻だ。蓮司が黒龍家に住み込んで仕えている間、彼女は自宅を守り、独立した娘の家族を支えている。
『ええ、大丈夫ですよ。そうそう、真奈ちゃんがね、今度ランドセルを買ってもらうんだけれど、赤がいいって聞かなくて』
受話器の向こうから聞こえる妻の弾んだ声に、蓮司の厳格な口元が僅かに緩んだ。
「真奈がか。……あの子は昔から、一度言い出したら聞かないところがあるからな」
6歳になる孫娘、真奈。活発で、どこか芯の強いところがあるあの子の顔を思い浮かべる。
『あの子、誰に似たのかしらねぇ。困ったものよ』
「ふっ……どうだろうな」
もしかすると、自分が仕えるこの屋敷の主たちに似てしまったのかもしれない、と蓮司は内心で苦笑した。
自分の血を分けた孫たちが、平和な時代の中で健やかに育っている。その事実が、彼にとっては何よりの報酬だった。
『今度のお休み、帰ってこられる? 真奈も、健ちゃんも、じいじに会いたいって言ってるわよ』
「ああ……勇様たちの予定を確認してからになるが、出来るだけ戻るようにする。健はまだ幼いが、抱いてやりたいからな」
短い会話の中には、長年連れ添った夫婦だけが共有できる安らぎがあった。黒龍家への絶対的な忠誠と、自身の家族への深い愛情。
その二つは蓮司の中で矛盾することなく、むしろ互いを支え合う柱として存在している。
「それじゃあ、またかける」
受話器を置くと、蓮司は一つ深く息を吐き、表情を執事のものへと戻した。
夕刻、リビングでは家族団欒の時間が流れていた。
ソファには小雨が座り、膝の上では凪が絵本を広げている。その隣で、5歳の陽が勇に積み木で作った城を得意げに見せていた。
「パパ見て!すごいでしょ!」
「おお、これは立派な城だな。陽は建築家になれるんじゃないか?」
「ほんと!? じゃあね、もっと大きいの作る!」
勇の賞賛に目を輝かせ、陽は再び積み木へと向き直る。小雨はその様子を愛おしそうに見つめ、凪の髪を優しく撫でていた。
蓮司は、その光景を少し離れたダイニングの隅から静かに見守っていた。
温かいランプの光が、彼らの笑顔を柔らかく照らし出している。
かつてこの場所には、張り詰めた緊張と、いつ襲撃があるか分からない恐怖が漂っていた。誠が眉間に皺を寄せ、煙草の煙を燻らせていたあの頃。
(誠様……ご覧になられていますか)
蓮司は心の中で、亡き主に語りかけた。
(あのような修羅場を潜り抜けた若者たちが、こうして当たり前の幸せを噛み締めております。彼らが築き上げたこの平穏こそが、貴方が守りたかったものの正体なのでしょう)
勇がふと顔を上げ、蓮司の視線に気づいた。
「蓮司? どうした、そんなところに立って」
「いえ……少し、昔のことを思い出しておりました」
蓮司は恭しく一礼し、穏やかな微笑みを湛えた。
「お茶を入れ直して参ります。本日は、香りの良いハーブティーがございますので」
「ありがとう、蓮司。お前が入れるお茶が一番美味いんだ」
勇の無邪気な言葉に、小雨も「ええ、本当に」と同意して微笑む。
踵を返し、厨房へと向かう蓮司の足取りは軽い。
この屋敷に満ちる笑い声を背に受けながら、彼は思う。自分の人生の黄昏時は、きっとこの温かな光の中で、彼らの成長を見守りながら過ぎていくのだろうと。
窓の外には、三江の街の夜景が広がっている。かつての不穏な赤色ではなく、家々の窓から漏れる無数の生活の灯りが、星空のように地上を埋め尽くしていた。
それは紛れもなく、彼らが勝ち取った未来の輝きだった。
大学の講義棟の時計台が午後四時を告げる鐘を鳴らすと、校門からは開放感に満ちた学生たちの波が一斉に押し寄せた。
携帯電話のないこの時代、待ち合わせには忍耐と信頼が必要だ。
白龍大樹は、レンガ造りの校門の石柱に片手をつき、通り過ぎる女子学生たちの視線を時折浴びながらも、その目はただ一点、向かいにある女子大学の通学路だけを凝視していた。
濃紺のブレザーに身を包んだ19歳の大樹は、かつての中学生時代の頼りなさを完全に払拭していた。背は伸び、肩幅も広がり、何よりその立ち姿には、若き実業家としての片鱗が見え隠れしている。
「……遅いな。補講か?」
腕時計に目を落とし、大樹がそわそわとネクタイを直し始めたその時だった。
「大樹!」
群衆を掻き分けるようにして、一人の少女が小走りで駆けてきた。
紗枝だ。膝丈のフレアスカートを風に揺らし、胸に抱えた教科書が重そうだが、その顔には太陽のような満面の笑みが浮かんでいる。
彼女が纏う空気は、どこか姉の小雨を彷彿とさせる凛とした透明感があるが、小雨のような影のある美しさとは違い、日向のような屈託のない明るさが前面に出ている。
「紗枝! お疲れ、待った?」
大樹の顔が、一瞬にして蕩けるように緩んだ。
「ううん、今終わったところ。ごめんね、ゼミの先生の話が長くて」
「いいよ、紗枝の顔を見たら待ち時間なんて吹っ飛んだ」
「もう、大樹ったらまたそんなこと言って」
紗枝は照れくさそうに頬を染め、大樹の腕に自然と自分の腕を絡ませた。
二人は中学時代からの同級生だ。姉の小雨が勇と結ばれ、幸せそうに微笑むあの結婚式の日、大樹は誓ったのだ。「俺も絶対に、姉ちゃんに負けないくらい素敵な人を守れる男になる」と。
それからの大樹の変貌ぶりは凄まじかった。組の仕事を手伝いながら猛勉強し、さらには学校行事の委員長なども務め上げ、今では誰もが一目置く存在となっていた。
そんな彼の不器用だが真っ直ぐな優しさに、誰よりも早く気づいていたのが紗枝だった。中学卒業の日に交わした告白から三年余り。二人の絆は、このアナログな時代において、毎日の逢瀬という確かな積み重ねによって盤石なものとなっていた。
「じゃあ、行こうか。今日はとっておきの場所に連れて行くから」
大樹が路肩に止めてあった小さな中古のセダンを指差す。免許を取り立ての彼が、アルバイト代を貯めてようやく手に入れた愛車だ。
「とっておきの場所? どこどこ?」
助手席に滑り込んだ紗枝が、期待に目を輝かせる。
「着いてからのお楽しみだ」
大樹は少し気取った手つきでキーを回し、エンジンを始動させた。車は夕暮れの国道を滑るように走り出した。
三十分ほど走っただろうか。車が到着したのは、街外れの河川敷だった。そこは、かつて勇と小雨が幾多の試練を乗り越えながら、静かな時間を共有した思い出の場所だ。
「着いたよ。……ここはね、姉ちゃんと勇さんのデートの聖地なんだ」
車を降り、川面を染めるオレンジ色の夕日を眺めながら、大樹は少し誇らしげに言った。
「へえ……ここが、あの伝説の!」
紗枝が感嘆の声を上げる。
「剛さんと龍平さんに聞き出したんだ。『若も男なら、あそこで勝負してこい』って言われてさ」
「ふふっ、あのお二人が言いそう。でも、本当に素敵な場所ね。水面がキラキラしてて……小雨さんも、ここで勇さんと愛を語り合ったのね」
紗枝の瞳には、小雨への純粋な憧憬が宿っている。
彼女にとって白龍小雨という女性は、恋人の姉という関係を超えた、ある種のミューズのような存在だった。
川風が二人の髪を優しく撫でていく。大樹は深呼吸をし、ポケットの中の小さな箱の硬い感触を指先で確かめた。心臓の音が、川のせせらぎよりも大きく聞こえる気がする。
「紗枝」
「ん?」
紗枝が振り返る。夕日が彼女の輪郭を黄金色に縁取っていた。
「俺、知ってるんだ。俺は勇さんみたいに強くないし、喧嘩だってそんなに強くない。姉ちゃんみたいに何でも完璧にできるわけじゃない」
大樹は言葉を選びながら、一歩、紗枝に近づいた。
「でも、紗枝への気持ちだけは……誰にも負けないつもりだ。姉ちゃんたちが掴んだあの幸せを、俺も紗枝と一緒に掴みたい。……いや、絶対に掴む」
大樹は震える手でポケットから箱を取り出し、パカッと蓋を開けた。中には、給料三ヶ月分をはたいて買った銀色の指輪が、夕日を反射して慎ましく輝いている。
「今すぐじゃなくていい。まだ学生だし、将来のこととか不安もあると思う。でも、俺の気持ちを知っておいてほしくて……」
喉が渇く。言葉に詰まる。かっこよく決めるはずの台詞が、緊張でしどろもどろになる。
「俺と一緒に……その、歩んでくれませんか?」
「はいっ!」
大樹の言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
「えっ?」
「はい!私は大樹くんのお嫁さんになります! ううん、ならせてください!絶対に!」
紗枝は食い気味に叫ぶと、大粒の涙を瞳に溜めながら、何度も何度も力強く頷いた。
大樹は目を丸くし、それから安堵と喜びに顔をくしゃくしゃにした。
「よ、よかったぁ……っ」
「もう、当たり前じゃない! 私、ずっと待ってたんだから!」
大樹は震える手で指輪を取り出し、紗枝の左手の薬指にそっと通した。サイズはぴったりだった。
「絶対に、紗枝を守る。一生、幸せにするから」
「うん……信じてる。大樹くんなら、大丈夫」
二人は夕日の中で強く抱きしめ合った。
まだ幼さの残るシルエットが、一つの大きな影となって河川敷に伸びていく。
その様子を、堤防の上の小高い植え込みの陰から見守る二つの人影があった。
「……ふふっ。あの子ったら、ガチガチじゃない。見てるこっちが緊張しちゃったわ」
クスクスと肩を揺らして笑うのは、今は髪を短く切り揃え、落ち着いた生成りのワンピースを着た小雨だ。その目元は、笑いながらも涙で濡れている。
隣に立つ黒龍勇は、愛妻の肩に優しく手を回し、ポケットからハンカチを取り出して彼女の目元を拭った。
「全くだ。あいつ、俺の真似をしてここを選んだくせに、台詞は噛み噛みだったな」
勇の声は呆れているようでいて、その実、弟分の成長を喜ぶ慈愛に満ちていた。
「でも……よかった。あの大樹が、自分の力で幸せを見つけて……」
小雨はハンカチを握りしめ、鼻をすすった。
かつて、親を亡くし、姉弟二人だけで嵐のような日々を生き抜いてきた。自分が守らなければ壊れてしまうほど脆かった弟が、今、一人の女性を守ると誓っている。
「もう、私が守らなくても大丈夫ね。……あの子はもう、立派な男の子だわ」
「ああ。それに、あの紗枝というお嬢さん、お前に似て芯が強そうだ。大樹にはお似合いだよ」
勇は小雨の背中をポンポンと叩き、満足げに河川敷を見下ろした。
夕闇が迫る中、新しいカップルの楽しげな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「帰ろうか、小雨。……家で子供たちが、腹を空かせて俺たちの帰りを待ってるぞ」
「ええ、そうね。……帰りましょう、勇さん」
二人は繋いだ手を離すことなく、幸せの絶頂にある若い二人を背にして、ゆっくりと歩き出した。
三江の空に一番星が輝き始める。それはまるで、世代を超えて受け継がれていく愛の物語を、静かに祝福しているかのようだった。
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